ニエはおやつにはいりますか? 〜食糧少女、鬼の家族になる〜 作:松幸春嗣
アンジェリカが目覚めた時、世界は一変していた。
見知らぬ部屋、薄く上品な天蓋の帷。
背中に感じる柔らかな布の感触。
微かに薫る花の香り。
陽光は厚いカーテンで遮られ、薄暗い部屋をいくつかの灯りが照らしている。
誰の気配も感じない。
恐る恐る身を起こし、アンジェリカは寝台を離れた。
小さくも整頓された部屋だ。
壁沿いにはクローゼットに鏡台、そして装飾の少ない姿見が置かれている。
アンジェリカはごくりと唾を飲んだ。
「鏡……」
震える手を伸ばし、姿見に掛けられた布を捲る。
そこに映るであろうものが恐ろしく、反射的に固く目を瞑った。
時計の針が幾度も時を打つ。
秒針を追い越して早鐘を打つ胸を押さえ、アンジェリカはゆっくりと瞼を開く。
腰まで伸びた銀糸の髪、血の気の薄い白い肌。
縦にばかり伸びた薄い身体に、華奢な四肢。
気味が悪いと疎まれ続けた菫色の瞳。
鏡の中には、これまでと何も変わらない、アンジェリカ・ド・ラ・ヴィオレット=クリスタリーゼの姿が映り込んでいた。
「ああ……!」
もはや立っていることも叶わず、アンジェリカは膝から頽れる。
そこで思い出した。
少し前までこの足は千切れ、失われていたことを。
「そんな」
姿見に縋るように腕を伸ばす。
触れた鏡面は冷たく平らで生々しく、目の前の光景が現実のものだと物語っていた。
口元を押さえて吐き気を堪える。
くぐもった呻きはこれまでと何も変わらない。
それなのに、聞こえる声も喉の震えも、まるで自身のものではないようだ。
アンジェリカは震える己が両手を見下ろした。
傷一つない肌。
命を落とす前と、全く同じ己の手。
人と同じ形をしながら、すっかりと中身の入れ替わってしまった己が身体。
溢れた涙が掌を濡らす。
なぜ。
なぜ、こんなことになったのだろうか。
浅ましい。
悍ましい。
鬼となってまで生きながらえるなどと。
この命にはもう何の価値もないというのに。
無実の罪を着せられ、捨てられた。
最後の最後で裏切られてしまった。
これまでの何もかもが無駄であったと知っているのに、骸擬きの身体だけが残っている。
アンジェリカは堪らず顔を覆う。
現実を受け止めることができないほどに、その心は壊れ切っていたのだ。
「わたくしは……なぜ、いきているの」
「生きたいと願われたからでは?」
割り込んできた声に、アンジェリカの肩が揺れる。
気付かなかった。
牙の谷にある建物など鬼の根城以外にあるはずもない。ここは鬼の棲家であるのだろう。
ならば、声をかけてくる者の正体などしれている。
「震えていますね。寒いですか?」
怯えて目を瞑るアンジェリカの耳に、衣擦れの音が届いた。
足音はしない。
毛足の長い絨毯のせいだ。
衣擦れの音は真後ろで止まった。
肩に触れる感触があり、アンジェリカは身を強張らせる。
しかし、それは人の手ではなく、柔らかな布の感触であった。
凍えていた身体を包むように、温かな布がアンジェリカの肩を覆う。
「これも借り物ですけど、アンジェリカ様に貸してあげます。内緒ですよ」
耳元で囁く声はひどく甘い。
まるで、花の蜜のような声だ。
なるほど、鬼とはただ人の肉を喰らうだけでなく、心までを冒すバケモノなのだと、アンジェリカは妙に納得してしまった。
恐る恐る目を開ける。
アンジェリカと共に鏡に映る鬼は、想像よりも愛らしい少女の形をしていた。
少女は使用人のものとおぼしき黒のワンピースにレースのエプロンに身を包んでいる。
褐色の肌に緩く波打つ黒髪。
ただの使用人にしてはどこもかしこも美しく、手荒れ一つない肌。
蜂蜜色の瞳が瞬く。
鏡の中、アンジェリカと少女の目が合った。
「私、知ってます。アンジェリカ様は生きたいと願われていました」
「何を言っているの。わたくしはそんなことを願っていないわ。殺してと頼んだもの」
「でしたら、その前です。このお城に近付いてからずっと聞こえていたので間違いありません」
能天気ささえ感じる少女の言い様に、アンジェリカは身体を震わせた。
無様でみっともなく醜い思いが込み上げてくるのだ。
鬼になってしまったからか。
それとも、元々持っていたものか。
それすら分からず、アンジェリカは生まれてはじめて声を荒げた。
「嘘を吐かないで! あなたにわたくしの何が分かるの!? 何も成せずに罵られ、捨てられ、裏切られて! わたくしが生きたいと願うはずなどないじゃない!」
床を殴りつけて叫ぶ。
まるで悲鳴だ、と。
他人事のように思った。
とめどなく流れる涙が視界を歪ませる。
アンジェリカは子どものように背中を丸め、嗚咽を漏らした。
「わたくしにはもう、生きる意味などないのよ……!」
手が痛い。
この身体のなんと憎らしいことか。
今更、人のように痛むなど。
自分の涙に溺れて呼吸さえままならないアンジェリカの手を、少女が包み込む。
「そうだとしても、アンジェリカ様は願っておられました」
「嘘よ」
「いいえ。『死にたくない』『こんなところで終わりたくない』『誰か助けて』と思っていたでしょう?」
それは、そうだ。
誰だってそうだろう。
死に瀕して恐れ、惑う。
それは本能。
人として、生物なら当たり前の姿だ。
反論しようとした。
だが、できなかった。
少女に抱きしめられてしまったから。
「『まだ何も為していないのに、死ねない』と」
「…………」
「アンジェリカ様はずっと、『生きたい』と願っておられたでしょう?」
己を抱きしめる少女の腕に縋り、アンジェリカは俯く。
あたたかい。
そう感じてしまう自分が惨めだった。
「どうして、そんなことが分かるの?」
「分かります」
顔を上げ、振り返る。
アンジェリカの瞳を覗き込み、少女が笑った。
「私、人の願いを聞き取るのが得意なんです。基本機能です」
◇
メイド服の少女は醜態を晒したアンジェリカを何も言わずに許してくれた。
彼女はアンジェリカを支え、寝台の縁へと導く。
「人を呼んできますね。アンジェリカ様は座っていてください」
そう言って扉へ向かおうとした彼女は、しかし、数歩も進まずに立ち止まる。
どうしたのかと思い顔を上げれば、彼女のエプロンを掴んで引き止める手があった。
「あっ」
無意識だった。
アンジェリカは赤面し、慌てて手を離す。
「ごめんなさい。どうぞ、行っていらして」
失笑、嘆息、嘲笑。
あらゆる負の反応を予測し、目を瞑ったアンジェリカだったが、そのどれもが外れた。
「アンジェリカ様、一人になるのが嫌ですか? なら、一緒にいてあげます」
軽い調子で問うた少女は、アンジェリカの返答を待つことなく寝台へと腰を下ろす。
驚いてその横顔に見入ってしまった。
アンジェリカの隣に掛け、足をぷらぷらと遊ばせているメイド服の少女。
目が合えば、朗らかな笑顔が返ってくる。
どうにも使用人らしさのない少女だ。
これまで周りにいたことのないタイプの人物を前にして、アンジェリカの鼓動が小さく跳ねた。
「あの、あなた……ええと」
「ハニです」
「ハニさんと仰るのね。あなたによく似合う、とても素敵な名前だわ」
メイド服の少女──ハニが目を瞬き、それは嬉しそうに笑みを深めた。
大輪の向日葵が咲いたような表情はひどく眩しく、陰惨な牙の谷に棲まう者とは決して思えない。
アンジェリカは目を細める。
「失礼なことを聞いていたらごめんなさい。ハニさんは、その、鬼でいらっしゃるの?」
「はい、ハニはニエで鬼です」
「贄……?」
「ニエです。それに、カミラ様のおやつでベント様のごはん、レインの弟子でもあるんですよ」
矢継ぎ早に情報が追加される。
ハニの言っている意味は八割方分からないながら、アンジェリカはにこりと微笑んだ。
「そう、ハニさんはそれが嬉しいのね」
「はい、皆さんのお役に立てるともっと嬉しいです!」
まぶしい。
アンジェリカは唇を噛み、胸を押さえる。
「わたくしも、同じ。同じだったのよ」
ハニの真っ直ぐな輝きを見ていると、遠い日の自分を思い出す。
頭を振って雑念を追いやり、アンジェリカは背筋を伸ばした。
前王妃陛下のもとで培った礼儀作法。それだけが唯一、自身に残されたものだからだ。
顎を引く。
首から背骨に、身体と心に、一本の芯が入っていると意識をして。
前を。
ただ、前を。
前を向いて、何になるというのだ。
そう思ってしまう自分がいることに、アンジェリカ自身が一番衝撃を受けた。
じわりと視界が滲む。
気付いてしまったのだ。
アンジェリカの心そのものであった、一本の芯。敬愛する前王妃陛下から頂いた在り方。
アンジェリカという存在はもう、折れてしまっていた。
「うーん……」
再び泣き出したアンジェリカの横で、ハニの悩む声がする。
泣き喚くばかりの面倒な女の相手をせねばならないのだ。当然だろう。
迷惑をかけてはいけない。
たとえそれが鬼相手であっても。
そう思えど、涙は止まってくれなかった。
「よし、このままじゃ駄目ですね」
案外あっさりと諦めたハニに、アンジェリカは内心安堵する。
捨て置いてもらえれば、そう思ったのだ。
しかし、ハニはさらに続けた。
「私はお役に立てないけど、アンジェリカ様にはたくさんの方がついてますからね。大丈夫です」
「え? あ、ええ?」
突如、アンジェリカの身体が寝台から浮く。
ハニに抱き上げられたのだ。
ハニの胸が腕に当たる。
アンジェリカにはない膨らみだ。
ぽよぽよしている。
人生であまり感じたことのない浮遊感と感触にドギマギしてしまい、アンジェリカは声を上擦らせた。
「な、なに? 何をなさるの?」
「舌を噛むと痛いので、口を閉じるといいと思います」
至近距離でにこりと笑われてしまい、アンジェリカも曖昧な笑みを返す。
「あの、何を」
「発進します!」
「え。い、きゃあああああ!?」
突如、視界が爆発した。
違う。
ハニが爆走を始めたのだ。
アンジェリカを抱いたハニが実に人間離れした速度で廊下を進む。
「いやあああ、だっ!? ひいいい!?」
城に響いた絹を裂くような悲鳴は、途中で何度か途切れた。
石造りの廊下を血で汚す結果とはなったが、舌を噛みちぎるまでいかなかったのは僥倖だったのかもしれない。