舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
人は、教室の中でも芝居をしている。
朝のホームルームが始まる前の十分間。征嶺学園一年A組は、二十いくつの小さな舞台が同時に回っている劇場みたいなものだ。誰かの前で見せる顔と、席に戻ってひとりになったときの顔は、たいてい別物だ。その二枚のあいだにどれだけ距離があるかを見れば、そいつがいま何を抱えているか、だいたいわかる。
僕、宗像湊の悪い癖だ。人の顔の裏側ばかり見てしまう。
子どものころ、僕はカメラの前に立つ側の人間だった。朝の連続ドラマで、主人公の弟をやった。洗剤のCMで、白いシャツを抱えて笑った。雑誌の表紙になったこともある。「天才子役」と見出しがついていた。書いた記者は、僕の顔なんて一秒も見ていなかったと思う。あれは僕を撮った写真ではなく、「天才子役」という単語に貼るための絵だった。
辞めたのは、中学に上がった年だ。
理由をひとことで説明するのは難しい。声が変わった。身長が伸びた。子ども特有の、輪郭のあいまいさが消えた。オーディションで落ちる回数が、受かる回数を追い越した。そういう、よくある話の集合体だ。
決定的だったのは、待合室でのことだった。
僕の前に、七つか八つくらいの子が座っていた。台本を膝に置いて、足をぶらぶらさせていた。その子が呼ばれて、部屋に入って、扉が閉まる。しばらくして、中から大人たちの笑い声が聞こえた。壁越しでもわかる種類の、本物の笑い声だった。
僕は、自分がもうあの笑い声を取れないことを、その瞬間に理解した。
悔しくはなかった。ほっとした、というのが正直なところだ。それが、いちばんこたえた。
いまは、立つ人間をどう見せるかを考える側にいる。実家がイベントや映像を作る会社をやっていて、小さいころから現場に出入りしていた。だから機材の名前を知っているし、照明を三十度動かすだけで人の顔がどれだけ変わるかも知っている。カメラの前を降りたあと、僕が拾ったのはそういう知識だった。
その職業病みたいなものが、こうして何でもない教室でも作動してしまう。誰かが背伸びをして笑うたびに、頭の中で勝手にカメラが回る。困ったものだ。
僕の席は、窓際から二列目のいちばん前だ。黒板がよく見える。教師の癖もよく見える。そして振り返れば、僕のうしろの席には久世政近がいる。
「湊、おはよう。今日はやけに早いな」
政近は机に頬杖をついて、半分寝たような顔で言った。ネクタイがゆるい。前髪も直していない。やる気という単語を辞書から破り取ったような男だが、僕はこいつの成績が学年でどのあたりにいるか知っている。本人が絶対に言わないだけだ。
「早いんじゃない。お前が毎朝ぎりぎりなだけだ」
「人聞きの悪い。ちゃんと予鈴前には着いてるだろ」
「予鈴前に着くのを『ちゃんと』とは言わない」
「じゃあ何と言うんだ」
「ぎりぎりと言う」
「厳しいな」と笑って、政近はあくびをした。あくびの途中で、政近の斜め前の席の女子に「うるさい」と小声で怒られて、素直に口を閉じていた。
その席は、日野という女子だ。委員長をやっている。三日前、クラスの掲示物のレイアウトで困っていたので、僕が余白の取り方を口出しした。それ以来、たまに相談されるようになった。
「宗像くん。あとで文化祭のクラス企画のやつ、また見てくれない?」
「いいよ。放課後でいい?」
「助かる。あんた、なんでそういうの詳しいの」
「実家がそういう会社なんだ」
「へえ。じゃあ将来安泰じゃん」
僕は曖昧に笑った。安泰かどうかは知らない。ただ、この学校で僕は「そういうのが得意なやつ」という位置に、いつのまにか収まっていた。楽な位置だ。誰の期待も、そんなに大きくない。
僕と政近のつきあいは長い。小学校の途中で知り合って、中学でまた同じになって、高校でも同じクラスになった。腐れ縁というやつだ。
ただ、腐れ縁にしては、僕たちはお互いのいちばん柔らかいところに、めったに触れない。触れないことが、この関係のルールみたいになっている。
僕が子役を辞めた理由を、政近は聞かない。
政近が「久世」という名字で通していること。本当はもっと大きな家の子だということ。その家に、妹をひとり置いてきたこと。
僕がそれを全部知っていることも、教室では口にしない。
そのかわり、こういうくだらない話をする。
「なあ湊。人間、どのくらいサボると人生が破綻すると思う?」
「破綻したやつがそれを言うと説得力があるな」
「まだ破綻してない。研究段階だ」
「研究には仮説と検証がいる。お前のは検証だけだ」
「仮説はある。『意外となんとかなる』だ」
「それは仮説じゃなくて願望だ」
「手厳しいな。朝から」
僕は笑った。政近と話していると、僕は自分の職業病を少し休ませることができる。こいつの笑い方には裏側がない。正確に言えば、裏側は僕がとっくに見たあとなので、いまさら覗く必要がない。
そのとき、うしろのドアが小さく鳴った。
窓際の席に、ひとりの女子が座る。
九条アリサ。
銀色の髪を朝日が透かして、白く光った。目は青い。肌の色も、鼻筋の通り方も、この国の教室にはあまり馴染まない。父親がロシアの人だと聞いたことがある。学年の成績は、ずっと一位。運動もできる。姿勢がいい。要するに、非の打ちどころがない。
クラスの何人かが「おはよう」と声をかける。アリサは短く返す。丁寧だが、それ以上は続かない。誰も彼女の半径一メートルより内側には入れない。入れてもらえない。だから、みんないつのまにか「孤高のお姫様」なんて呼ぶようになった。呼ばれている当人は、その呼び名を知っている。知らないふりが、少しだけ下手だ。
僕はそこにも、二枚の顔の距離を見る。ただ、彼女の場合はその距離がやたらと遠くて、遠くて、見ているとこっちが少し寒くなる。
興味深いのは、あの壁の作り方だ。
人を締め出す壁には、二種類ある。「入ってくるな」と書いてある壁と、「入られたら崩れる」という壁だ。前者は攻撃で、後者は防御だ。前者は近づくと威嚇されるが、後者は近づくと逃げられる。
九条アリサのそれは、明らかに後者だった。仕事柄、そういう立ち方をする人を、僕は何人か知っている。舞台袖で、出番の前に誰とも喋らない人。喋ると崩れるからだ。
アリサは鞄から教科書を出しながら、隣の政近をちらりと見た。
「久世くん。またネクタイ」
「これは俺なりの自己表現だ」
「だらしないだけでしょう」
「厳しいな。今朝二人目だ」
「二人目ということは、一人目にも直されたのね。それで直っていないのだから、救いようがないわ」
「正論はやめろ。朝に弱いんだ」
答えはなかった。彼女は前を向いた。会話は終わった。ように見えた。
彼女の唇が、ほんの少しだけ動いた。声というより、息だった。日本語ではなかった。たぶんロシア語。僕には意味はわからない。短い、二語か三語。ため息の尻尾みたいに、こぼれて消えた。
僕が見ていたのは、彼女の口元じゃない。政近の横顔だ。
政近の右の眉が、二ミリ上がった。それから、何事もなかったように下りた。頬杖をついたまま、視線は机の木目に落ちている。呼吸のリズムが、半拍だけ乱れた。ほんの一瞬、こいつは「聞こえなかったふり」をするために、全身を使った。
あれは、無反応じゃない。無反応を作った顔だ。
二つは似ているが、別物だ。前者は何も起きていない。後者は、起きたものを踏みつぶしている。踏みつぶすには力がいる。力を使えば、どこかに出る。政近の場合は、眉と、呼吸だった。
僕は、言葉はわからない。でも顔ならわかる。物心つく前から、それで飯を食おうとしてきた。
――こいつ、いまの、わかったな。わかって、わからないふりをしたな。
面白い、と思ってしまった。これも悪い癖だ。
予鈴が鳴る少し前、廊下側のドアの前が、ざわりとした。
女子がひとり、教室を覗き込んでいる。制服の着方がきれいで、髪の流れ方まで計算されているみたいだった。誰かが「周防さんだ」とささやく。
周防有希。
名乗られる前に、僕は思い出していた。
入学してから何度か遠目に見て、そのたびに「似ている子だな」で処理していた。処理していたというより、確認するのを避けていた。確認すると、こちらから声をかけるかどうかを決めなければならなくなる。
この距離で見て、もう言い訳がきかなくなった。
八年前、あの屋敷のカーテンの裏で膝を抱えていた子だ。背が伸びて、髪が長くなって、笑い方が別人になっている。骨格だけが同じだった。
「久世くーん。おはよう」
その子は政近に向かって、いかにも親しげに手を振った。教室の視線が半分、政近に集まる。政近は「おう」と気のない返事をして、また机に沈んだ。周防さんは満足そうに笑って、去っていった。
残された教室で、女子二人が「仲いいの?」「幼馴染らしいよ」と囁き合っていた。窓際の席で、九条アリサがシャープペンをノートに置いた。置いた音が、少し大きかった。
僕はその一連を、頭の中で一本のカットとして並べた。手を振る、返す、去る、ペンを置く。四つ目だけが、台本になかった。
そして、周防有希の笑い方を、少しだけ長く思い返した。
人前で作る笑顔として、あれはかなり上等な部類だった。上等すぎて、逆に気になった。あそこまできれいに笑える子は、たいてい、笑わないときの顔を人に見せない練習も積んでいる。
僕は、その練習の量を想像して、少し気の毒になった。
予鈴が鳴って、担任が入ってきた。ホームルームは、連絡事項をいくつか読み上げるだけで終わった。最後のひとつだけ、教室の空気を少し変えた。
「今学期、生徒会長の選挙がある。立候補を考えてる人は、そのうち掲示が出るから見ておくように」
誰かが「もう?」と言った。誰かが「どうせ周防さんでしょ」と言った。周防、という名前に、教室の何人かがうなずいた。さっき手を振っていったあの子だ。人気があるらしい。
僕は、政近を見た。
政近は、窓際を見ていた。アリサの、まっすぐな背中を。ほんの数秒。それから、僕の視線に気づいて、いつもの眠そうな顔に戻った。
「なんだよ」
「いや」と僕は言った。「なんでもない」
昼休み、購買のパンを分けながら、政近が言った。
「湊。お前、最近こっちの学校の生徒会、興味あるのか」
「ないよ。なんで」
「さっき、俺のこと変な目で見てただろ」
「お前が変な顔をしてたからだ」
政近は肩をすくめた。ごまかすときのこいつの癖だ。左肩だけが上がる。昔からそうだ。中学のとき、こいつが職員室に呼ばれた理由を隠したときも、この肩だった。
「周防さん。あの子と仲いいのか」
知っていて聞いた。ずるい聞き方だと自分でも思う。
「腐れ縁だよ。お前と俺みたいなもんだ」
嘘ではない。でも全部でもない。僕はそれを知っている。知っているから、追わない。ルールだから。
「あの子、選挙に出るのか」
「たぶんな」政近は空を仰いだ。「勝つよ。あいつは、勝つ」
その言い方には、誇らしさと、少しだけ、うしろめたさが混ざっていた。僕はまた職業病で、その配合をつい読んでしまう。誇らしさが七、うしろめたさが三。三のほうが、あとで効いてくるやつだ。
「お前は、出ないのか」
「なんで俺が」
「候補者の隣に立つ役ってのが、あるらしいよ。副会長候補」
「知ってる」政近は残りのパンを口に押し込んだ。「知ってて、出ない」
僕はそれ以上聞かなかった。ルールだ。
でも、頭の中では、勝手に段取りが組まれはじめていた。
あの窓際の女子は、あの選挙に出る。ひとりで。半径一メートルの壁を張ったまま。そして政近は、それを窓際から見ている。見ているだけで済ませられるかどうか、こいつはまだ自分でも決めかねている。
放っておくと、面倒なことになる。二人とも、不器用な方向に。
そして僕は、それを放っておけない。人が舞台に上がろうとしているのを見ると、照明の位置を考えてしまう性分なのだ。降りたはずの人間なのに、いまだに。
あの待合室で、僕は「ほっとした」。あれ以来、僕は自分が何かを本気で欲しがることを、ずっと避けている。
でも、他人が欲しがっているのを見るのは、まだ好きだ。
我ながら、都合のいい話だと思う。
「政近」
「あ?」
「なんでもない。パン、もう一個食う?」
「食う」
「即答するな」
「腹が減ってるからな」
窓の外で、まだ夏を引きずった薄い雲が流れていた。校庭で、誰かがボールを蹴る音がした。
僕はまだ、この選挙に自分がどれだけ深く関わることになるか、わかっていなかった。わかっていたら、もう少し早く動いていたと思う。
あるいは、もう少し遅く動いて、全部を見なかったことにしていたかもしれない。
どちらだったかは、いまでもよくわからない。