舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
候補者紹介の放送から三日で、教室の空気が変わった。
劇的にではない。ほんの少しだ。
九条アリサが席に着くと、クラスの誰かが「おはよう」と言うようになった。彼女は相変わらず短く返すだけだが、返す速さが、以前より半拍だけ速くなった。
二日目には、日野が「九条さん、あの放送よかったよ」と声をかけていた。アリサは「そう」とだけ言って、そのあと三十秒くらい、自分の返事について考え込んでいた。「そう」以外の返し方を検索していたんだと思う。見つからなかったらしい。
三日目には、廊下で下級生……はいないから、同学年の別クラスのやつに「九条さんですよね」と話しかけられていた。あいつは硬直していた。
本人は気づいていないと思う。
俺は気づいた。三日間も窓際を見ていた男なので。
その日の放課後、俺たちは生徒会室に呼ばれた。
現生徒会長の剣崎統也先輩は、机の上に選挙日程を広げて、腕を組んでいた。長身で、顔が整っていて、声が低い。絵に描いたような生徒会長だ。
その隣で、副会長の更科茅咲先輩が、椅子を後ろ向きにまたいで座っていた。こっちは絵に描いたような不良の座り方をしている。この二人が並んでいると、どういう組み合わせなのか毎回わからなくなる。
「久世。お前、九条の副会長候補で確定でいいんだな」統也先輩が言った。
「はい」
「届は受理されてる。推薦人は久世政近と宗像湊。……宗像って、A組の?」
「そうです」
「推薦人が副会長候補を兼ねるのは、規約上は問題ない。前例も二回ある」統也先輩は書類をめくった。「ただ、外から見れば身内で固めたように映るからな。そこは覚悟しとけ」
「……はい」
「一年で会長候補と副会長候補を両方出すのは、うちだと久しぶりだ。しかも両方一年」
「うるさい代になりそうだね」茅咲先輩が笑った。「あたしは好きだよ、そういうの」
「更科。お前が言うと不穏だ」
「なんでよ」
「去年、お前が『面白そう』って言った企画で、体育館の窓が二枚割れた」
「あれは事故」
「事故を起こす企画を面白いと言うな」
書記のマリヤ先輩が、お茶を配りながらのんびり言った。
「まさちかくん、がんばってね。応援してる」
「ありがとうございます。……妹さんの相手ですけど」
「あら、そうね。じゃあ、どっちも応援する」
「それは応援と言わないのでは」
「言うわよ。だって、どっちが勝っても、わたしは嬉しいもの」
いい加減な人だ。
いい加減だが、この人がいると部屋の温度が二度上がる。統也先輩がぴりぴりして、茅咲先輩がそれを茶化して、その両方をマリヤ先輩が薄めている。この生徒会は、このバランスで持っている。
俺の隣で、アリサが少し不機嫌そうにしていた。
姉が俺に近いと、こいつはいつもこうなる。理由は、俺にはよくわからない。考えないことにした。
「アーリャも、お茶飲む?」
「いらない」
「あら、つれない」
「……もらう」
「どっちなの」
「もらうって言ったでしょう」
姉妹のやりとりを見ていると、この二人が同じ家で育ったことが、少しだけ信じられるようになる。少しだけだ。
「それと」統也先輩が続けた。「宗像は、正式にはどういう扱いだ」
部屋の隅で機材を触っていた湊が、顔を上げた。
こいつはさっきから、生徒会室のスピーカーの配線を勝手に確認していた。呼ばれてもいないのに来て、勝手に仕事を見つける。昔からそうだ。
「推薦人、では駄目ですか」
「推薦人は届出上の話だ。実務でどう動くかを聞いてる」
湊は少し考えて、言った。
「演出担当、で」
「演出」
「候補者を、いちばん伝わる形で見せる係です。原稿の構成、会場の設計、機材、進行。そのへんを全部」
統也先輩の眉が上がった。
茅咲先輩が「なにそれ、かっこいい」と言った。
「うちの選挙に、そんな役職はないぞ」
「ないので、作りました」
湊はしれっと言った。こういうとき、こいつは強い。
人前に立つのは怖いくせに、人前に立つ人間の後ろに立つときだけ、こいつは異様に度胸がある。
「規約上、候補者以外が選挙活動を手伝うのは禁止されていません。ビラの制作も、会場設営も、過去に前例があります」湊は続けた。「三年前の記録を見ました。当時の候補者は、応援演説者を三人立てています」
「……調べたのか」
「はい」
統也先輩は少し笑って、「まあいい」と言った。
「ただし、選挙管理委員会のルールは守れよ。放送設備の使用申請は毎回出せ」
「もう三枚出してあります」
「……早いな」
「使うかどうかは別として、出しておかないと、使いたくなったときに間に合わないので」
茅咲先輩が「うわ、こいつ有能だ」と言った。
湊は困った顔をした。褒められると困る顔をするのも、昔からだ。
生徒会室を出て、廊下を歩きながら、俺はアリサに言った。
「三人になったな」
「三人?」
「お前と、俺と、湊」
アリサは足を止めた。
「……あなた、こういうの、慣れてるの」
「何が」
「人を集めるの」
俺は答えに詰まった。
慣れている。慣れているが、それは楽しい記憶ではない。
あの家では、人を集めるのは仕事だった。集めた人間は、名前ではなく機能で呼ばれた。この人は数字、この人は顔、この人は口。俺は八歳のときにはもう、その呼び方を覚えていた。
いま、俺の頭の中で、湊が「演出」という機能で並んでいないと言い切れるか。
言い切れなかった。
――いや、これは相当まずいんじゃないか、俺はいま「三人になったな」と言ったわけだが、その三人という数え方の内訳を頭の中で開いてみると、会長候補と副会長候補と演出担当という並びになっていて、それは名前ではなく機能で、つまり俺は八年前に出てきたはずのあの家のやり方を、出てきた先で、いちばん長く付き合っている友達に対して、無自覚に使っている。
それが、少し嫌だった。
嫌だと思えるうちは、まだましなんだと思う。思うことにした。
「昔、少しな」
それだけ言った。
アリサは、それ以上聞かなかった。
聞かないでいてくれるのが、この女のいいところだ。こいつは、他人の壁の高さに敏感だ。自分も壁を持っているから、わかるんだと思う。
昇降口で、湊が「先に帰る」と手を振った。機材の見積もりを取りに行くらしい。実家の倉庫に古いスピーカーがあるとかないとか言っていた。
「あいつ、なんであそこまでやるの」
「さあな」
「聞いたことないの?」
「聞かない約束だ」
「変な友達ね」
「変な友達だ」
残された俺とアリサは、なんとなく並んで歩きだした。
夕方の並木道は、まだ夏の色をしていた。蝉の声が、少しだけ薄くなっている。九月の終わりが近い。
「久世くん」
「なんだ」
「あの放送の日。宗像くんが、わたしの原稿を全部捨てさせたの」
「聞いた」
「三週間かけて調べたのよ。予算の内訳も、部費の推移も、全部」
「知ってる」
「……無駄だったのかしら」
俺は少し考えて、言った。
「無駄になった。今回は」
アリサが、こっちを睨んだ。分かりやすい人だ。
「でも、二回目からは効く」
「え?」
「今回は三分で、しかも音だけだった。だから中身より先に、お前が誰かを伝えるしかなかった」
俺は空を見上げた。電線が三本、空を横に切っていた。
「でも、次は違う」
「次って」
「顔が見える場所で、時間をもらえて、相手と直接やり合う機会が来る。そのときは、三週間ぶんの数字が武器になる」
俺は言った。
「だから捨てるな。取っとけ」
アリサは黙って歩いた。
靴の音が、二人ぶん、少しずれて鳴っていた。
しばらくして、小さな声がした。
「……そういうこと、先に言いなさいよ」
「言うと、お前が安心するだろ」
「安心して何が悪いの」
「悪くない。ただ、安心したお前は、たぶん、あの放送はできてない」
彼女は答えなかった。
答えないということは、わかっているということだ。この女は、反論できるときは絶対に反論する。
「……ずるいわ」
「よく言われる」
「誰に」
「妹に」
言ってから、しまった、と思った。
アリサが足を止めた。
「妹、いるの?」
俺は、少し迷った。
迷って、結局、半分だけ言った。
「まあ、そういうのが、いる」
「そういうのって、なに」
「そういうのは、そういうのだ」
「答えになってない」
「なってないな」
彼女はしばらく俺を見て、それから、また歩き出した。
追及しなかった。
この女は、他人の壁の高さに敏感だ。
道が曲がって、西日が正面から当たった。銀色の髪が、燃えるみたいに光った。
そして、彼女はぽつりと言った。
――『……あなたって、本当に、ずるい人ね』
ロシア語だった。
俺は前を向いたまま歩いた。心臓が、うるさかった。
ずるいのはどっちだ、と思った。
俺は聞こえない男なんだぞ。聞こえない男に向かって、そういうことを言うな。言われたら、聞こえないふりをするしかないだろう。
それは、けっこう、しんどいんだ。
次の週の月曜、朝のホームルームで、担任がこう言った。
「来週から、うちのクラスに転入生が入る」
教室がざわついた。二学期の途中の転入は、この学校では珍しい。というより、この学校は途中編入をほとんど受け入れない。
「中等部からの内部進学じゃない。外部から来る。……まあ、なかなかの子らしいぞ」
誰かが「なかなかって何」と笑った。
担任は答えなかった。答えないほうが不穏だった。
俺の隣で、アリサが小さく首をかしげていた。
昼休み、湊が俺の机の前に来て、一枚の紙を置いた。
選挙管理委員会の掲示のコピーだった。
「見た?」
「なんだこれ」
「公開討論会。候補者同士が、壇上で直接やり合うやつ。日程が仮で出てる」
俺は紙を見た。
それから、湊の顔を見た。
こいつは笑っていなかった。仕事の顔をしていた。
「顔が見える場所で、時間をもらえて、相手と直接やり合う機会」
「……お前、聞いてたのか」
「聞いてない。予想しただけだ。この学校の日程は、毎年だいたい同じだから」
湊はメモ帳を開いた。びっしり書き込みがあった。会場図らしきものと、矢印と、数字が並んでいた。
「政近。三週間ぶんの数字、まだ持ってるって?」
「持ってる」
「よかった。じゃあ、それ、全部僕にくれ」
「何に使う」
「武器を、見えるようにする」
湊はメモ帳を閉じた。
「数字ってさ、正しいだけじゃ人に届かないんだ。正しさは、形にして初めて刺さる。だから、形は僕がやる」
「お前、ほんとに何がしたいんだ」
湊は少し黙った。
それから、いつもの調子で言った。
「照明係が、暗い舞台を見るのが嫌なだけだよ」
嘘だ、と俺は思った。
嘘ではないが、全部でもない。こいつは昔から、いちばん大事なところだけは言わない。
俺と同じだ。
「あと、たぶん、そのころには相手がもう一人増えてる」
「転入生か」
「タイミングが良すぎるだろ」
窓の外で、九月の雲が動いていた。
俺は、机の中の封筒を思い出した。三週間ぶんの数字が入っている。捨てなくてよかった、と思った。
それにしても、と思う。
三ヶ月前の俺に、お前は二学期に会長選の副会長候補になって、隣の席の氷点下の女のために資料を抱えて走り回ることになるぞと言ったら、たぶん鼻で笑って寝たはずだ。そのくらい、いまの状況は俺の設計から外れている。設計から外れているのに、なぜか、そんなに嫌じゃない。
その隣の席では、九条アリサが、次の原稿を書いていた。
一枚目から、書き直していた。
ペンの走る音が、やけにはっきり聞こえた。
この音が、これから何ヶ月も続くことになる。
そのときの俺は、それを知らなかった。知らないまま、隣で寝たふりをしていた。
寝たふりをしながら、少し笑っていたと思う。