舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

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幕間_アーリャ 二人ぶんの空欄

 立候補届の推薦人の欄は、二つある。

 

 九条アリサの手元にある紙は、二つとも空いていた。

 

 四日、空いている。

 

 彼女は数えるのが好きだった。正確には、数えると落ち着いた。数えられるものは、終わりがある。終わりがあるものは、こわくない。

 

 だから、その夜も数えた。

 

 一。同じクラスで、一度でも話したことがある人。十四人いた。

 

 二。そのうち、名前と顔が一致する人。十四人だった。当然だ。話したのだから。

 

 三。そのうち、こちらから何かを頼んだことがある人。

 

 ゼロだった。

 

 アリサはペンを置いて、紙の端を折った。折り目をつけて、伸ばして、また折った。同じところに二度折り目をつけると、紙は弱くなる。弱くなったところから、いつか切れる。

 

 わかっていて、三度目を折った。

 

 四日前、掲示板の前で、彼女は自分に言った。

 

 二人くらい、なんとかなる。

 

 あのときは本当にそう思っていた。頼むという作業を、まだ具体的に想像していなかったからだ。

 

 想像していないことは、たいてい簡単に見える。

 

 いま、彼女は具体的に想像していた。

 

 放課後の教室で、誰かの席の横に立つ。名前を呼ぶ。相手が顔を上げる。用件を言う。相手が「え」と言う。

 

 そこから先が、どうしても続かない。続かない理由は、はっきりしていた。

 

 相手は、断らないからだ。

 

 この学校の人間は、そういうところが親切だった。頼まれれば、たいてい書く。名前を書くだけなら、断る理由がない。断る理由がないから、断らない。

 

 断れない相手に頼むのは、頼んだことになるのだろうか。

 

 アリサには、ならないように思えた。それは、頼むという形をした、集金だ。

 

 ――と、ここまで日本語で考えて、彼女は同じことをもう一度、別の言葉で考えた。

 

 言い換えると、輪郭が変わることがある。日本語で角ばっていたものが、丸くなることがある。逆もある。

 

 今回は、逆だった。

 

 ――『こわいだけでしょう』

 

 声には出さなかった。心の中でも、その言葉はロシア語だった。

 

 日本語で考えているときの自分は、いつも理屈が通っている。通っているから、疑わなくていい。ロシア語で考えると、理屈の下に置いてきたものが、先に出てくる。

 

 断れない相手に頼むのが嫌なのではない。

 

 断られたときに、自分がどうなるかを知らないのが、こわいのだ。

 

 彼女は目を閉じた。その日、教室で起きたことを、順番に思い出した。

 

 一。昼休みに、後ろのほうで自分の名前が出た。何を言われたかは聞こえなかった。聞こえない声のほうが、よく届くことがある。

 

 二。五時限目の前に、誰かが委員長に何かを聞いていた。推薦人の欄は後から足せるのか、というような話だった。

 

 誰が聞いたのかは、覚えていない。覚えていないことにした、というほうが正しかった。

 

 あのとき、彼女はペンをしまう手を止めた。止めてから、なぜ止めたのかを自分で説明できなかった。説明できないものは、記録しないことにしている。

 

 三。放課後、鞄の紐に引っかけて、紙を落とした。

 

 隣の席の男が拾った。

 

 彼女は、一瞬、受け取らなかった。

 

 あれは、意地ではない。手が遅れただけだ。人が自分のために動くとき、彼女の手はいつも半拍遅れる。半拍のあいだに、こう考えるからだ。

 

 これは、わたしのために起きたことなのか。それとも、たまたま足元に落ちただけなのか。

 

 たまたまだった。

 

 本人がそう言った。落ちてただけだ、と。

 

 だからそれでいい。それでいいはずだった。

 

 彼女は、掲示板の前でのことも思い出した。

 

 宗像湊という一年生が、記入例の紙を熱心に読んでいた。あの人はいつも何かを読んでいる。読んで、書き写している。

 

 聞きたいことがあるなら、答えるよ、と言われた。

 

 彼女は「ないわ」と答えた。

 

 速かったと思う。速すぎた。

 

 聞きたいことは、あった。

 

 推薦人の欄に他人の名前を書くとき、その人には先に言うべきなのか。書いてから見せるのは、失礼にあたるのか。断られたあとで、同じ相手ともとどおりに話せるものなのか。

 

 三つとも、誰にも聞いたことがない。

 

 聞けば、たぶん、あの人は答えた。あの人は、答えるのが仕事のような顔をしている。

 

 だが、聞くというのは、頼むの一歩手前だ。一歩手前まで行った人間は、たいてい、そのまま一歩進んでしまう。

 

 彼女は、そこで止まった。止まったことを、あとで賢明だったと思うか、臆病だったと思うかは、まだ決めていない。その日の放課後、生徒会室にも寄っていた。

 

 会計の仕事は、彼女に向いている。数字は、こちらの機嫌を見ない。合っているか、合っていないかしかない。合っていなければ、原因が必ずどこかにある。探せば見つかる。

 

 人は、そうではない。

 

 合っているように見えて合っていないことがあるし、原因を探しても見つからないことがある。見つからないまま、相手はもういない。だから彼女は、数字の列を見ているときがいちばん静かだった。

 

 部屋には、周防有希もいた。

 

 広報の書類を三種類、同時に進めていた。手を止めずに、入ってきた二年生に挨拶をして、笑って、また手を動かした。

 

 アリサは、その一連を見ていた。あの人は、人に何かを頼むとき、頼んでいるように聞こえない。

 

「これ、お願いできる?」と言う。相手は「いいよ」と言う。二秒で終わる。

 

 二秒だ。

 

 アリサには、その二秒がどうやってできているのかが、わからなかった。

 

 言い方の問題ではない気がした。あの言い方をそのまま真似しても、自分の口から出た瞬間に、別のものになる。

 

 たぶん、順番が違うのだ。

 

 あの人は、頼む前にもう何かを渡している。渡してあるから、頼んでも減らない。

 

 こちらは、何も渡していない。渡していないところから頼むと、その分だけ、自分が減る。

 

 ――それは、負けているということではないか。

 

 日本語でそう考えて、彼女は少し安心した。

 

 負けているのなら、勝てばいい。勝ち方は、調べればわかる。調べればわかることは、こわくない。

 

 部屋のドアが、軽くノックされた。

 

「アーリャちゃん、まだ起きてる?」

 

 姉の声だった。

 

「起きてる」

 

「お茶、いる?」

 

「いらない」

 

「そう。じゃあ置いておくね」

 

 置いていくなら、聞かなくていいのに、と彼女は思った。

 

 思ってから、その言い方が、自分の悪いところそのものだと気づいた。

 

 姉に頼めば、この件は一秒で終わる。

 

 九条マリヤは書記で、三年で、生徒会にいて、頼まれることを一度も断ったことがない。姉が推薦人の欄に名前を書くのに、五秒もかからない。

 

 もう一人も、姉が連れてくる。

 

 姉には、そういうことができる。人に頼むことも、人から頼まれることも、両方できる。片方しかできない人間から見ると、あれは魔法に近い。

 

 だから、頼まない。

 

 姉に頼むと、自分は「マーシャの妹」になる。

 

 この学校に来てから、彼女はその名前で呼ばれることを、ずっと避けてきた。避けてきた理由を、うまく説明できたことは一度もない。

 

 ――『わたしは、わたしで立ちたいの』

 

 言ってみて、少し違うと思った。

 

 立ちたいのではない。

 

 立っていないことを、誰にも見られたくないのだ。それは、たぶん、まったく別のことだった。

 

 彼女は机の上の紙を、もう一度見た。

 

 推薦人(同学年以上、二名)。

 

 枠は小さい。名前を書くだけの幅しかない。

 

 書けば済む。

 

 書けないのは、紙のせいではない。

 

 アリサはペンを取って、枠の上に置いた。置いただけで、何も書かなかった。

 

 ペンの先が、紙から一ミリのところで止まっていた。その一ミリを、彼女はしばらく見ていた。

 

 現場の人間なら、この距離を測っただろう。彼女は測らなかった。かわりに、数えた。

 

 残り、九日。

 

 九日あれば、十四人に一人ずつ話しかけられる。一日一人でも足りる。

 

 計算は合っている。

 

 計算が合っているのに、明日の自分が誰かの席の横に立っている画は、どうしても浮かばなかった。

 

 彼女は紙を閉じて、引き出しに入れた。引き出しを閉めるとき、少しだけ強く押した。

 

 電気を消して、布団に入った。

 

 天井は暗くて、何も見えなかった。何も見えないところで、彼女は最後にもう一度だけ、数えた。

 

 一。頼める人。

 

 二。頼める人。そこで止まった。

 

 名前が出てこなかったのではない。

 

 二つとも、同じ名前が出そうになって、彼女がそれを消したのだ。消した理由は、考えないことにした。

 

 ――『……明日、決める』

 

 決めなかった日の夜は、いつもそう言う。

 

 彼女はそのことを知っていて、それでも言った。言わないと、眠れなかった。

 

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