舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

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幕間_有希 鏡の前の練習

 周防邸の廊下は、夜になると音を吸う。

 

 絨毯が厚いせいだ。子どものころ、有希はそれが好きだった。走っても叱られないから。

 

 いまは、あまり好きではない。自分の足音が消えると、この家に自分がいる証拠も一緒に消えてしまう気がする。

 

 この家には、生活の音が少ない。テレビの音がしない。誰かが誰かを呼ぶ声がしない。食器の触れ合う音は、決まった時刻に、決まった長さだけ鳴って、終わる。

 

 有希は、学園の食堂の騒がしさを思い出した。あそこでは、みんなが同時に喋っている。何を言っているのか誰も聞いていない。あれは無駄だ。無駄で、少しうらやましい。

 

 夕食のあと、有希は祖父の書斎に呼ばれた。

 

 書斎はいつも同じ温度に保たれている。夏でも冬でも同じだ。祖父は机の向こうで、書類から目を上げなかった。

 

「選挙のことだが」

 

「はい」

 

「相手は」

 

「一年の九条アリサさんが出るという噂です。まだ届は出ていません」

 

「九条」祖父は少し考えるようだった。「あの家か。悪くない」

 

 悪くない、というのは、褒め言葉ではない。この家では「相手として不足はない」という程度の意味だ。

 

「勝ちなさい」

 

 それだけだった。

 

 理由も、励ましもない。祖父の言葉には、いつも余白がない。命令と、その実行だけがある。

 

「はい」と有希は答えた。

 

 声はきれいに出た。何百回も練習した声だ。

 

 祖父は初めて顔を上げて、有希を見た。

 

「有希」

 

「はい」

 

「お前の兄は、どうしている」

 

 心臓が、一度、大きく鳴った。

 

 顔には出さなかった。出さない練習も、してある。

 

「存じません。学園では、あまり接点がありませんので」

 

 祖父はしばらく有希を見て、それから、また書類に目を戻した。

 

「そうか」

 

 その二文字に何が入っていたのか、有希にはわからなかった。わからないままのほうが楽だ、とも思った。

 

 書斎を出て、廊下を歩く。絨毯が足音を吸う。

 

 途中、母の部屋の前を通った。

 

 明かりはついていた。ドアは閉まっていた。中から音はしなかった。有希は一度だけ足を止めて、それから、また歩いた。

 

 このごろ、母の部屋の前で足を止める回数が増えている。入らないのに止まる。止まるくらいなら止まらなければいいのに、体が勝手に減速する。

 

 ――頭は嘘をつくけど、足はつかない。

 

 いつだったか、生徒会室で九条マリヤがそんなことを言っていた。

 

 だとしたら、自分の足は、何を言っているのだろう。

 

 部屋に戻ると、綾乃が待っていた。

 

「有希様。お茶をお淹れしますか」

 

「うん。ありがとう」

 

 綾乃の前では、有希は少しだけ姿勢を崩す。

 

 ベッドの端に腰を下ろして、背中を丸めた。制服のリボンをほどく。整えていた髪を、指でぐしゃりと乱す。靴下を片方だけ脱いで、そのまま放り出す。

 

 鏡台に、乱れた顔が映った。

 

 学園にいる周防有希とは、あまり似ていない。

 

 有希は鏡の中の自分に向かって、口角を上げてみた。

 

 ――こう。ここが二ミリ上。目は、細めすぎない。首はまっすぐ。歯は上を四本まで。それ以上は品がなくなる。

 

 完成した笑顔は、よくできていた。よくできすぎていた。

 

 これを最初に覚えたのは、七歳のときだ。パーティーで、母に「もっと自然に」と言われた。自然に、と言われて自然にできる七歳はいない。だから有希は、鏡の前で「自然」を練習した。自然を練習で作れることを、そのとき初めて知った。

 

 以来、ずっとこれで生きている。

 

 『君は、あのころより上手に笑うようになった』

 

 視聴覚室で、あの人はそう言った。

 

 有希は笑顔をやめて、両手で顔を覆った。

 

 宗像湊。八年ぶりに会った、兄の友達。

 

 子どものころ、あの人はテレビに出ていた。母がそれを見て「あの子は将来大成する」と言っていたのを覚えている。大成しなかったらしい、ということも、いまは知っている。

 

 あのころの宗像湊は、大人の輪の中で完璧に振る舞う子どもだった。挨拶が上手で、返事が上手で、褒められ方が上手だった。有希から見ると、兄と同じ種類の生き物に見えた。

 

 違ったのは、あの人が一度だけ、カーテンの裏の有希を見つけたときだ。

 

 あの人は、「なんでこんなところにいるの」と聞かなかった。「みんなのところに戻ろう」とも言わなかった。ただ、「じゃあ僕もここにいる」と言って、隣に座った。それから二十分くらい、二人で黙っていた。

 

 あれが、あの家で有希がいちばん長く息を吸えた二十分だった。

 

 そんなことを覚えているのは、自分だけだと思っていた。なのに、あの人は八年ぶりに会って、笑顔を見ただけで、「上手になった」と言った。

 

 褒め言葉ではなかった。責める言い方でもなかった。

 

 あれは、同業者の目だ。同じことをやっていた人間の、確認の仕方だった。だから、うっかり口が滑った。

 

 ――笑ってれば、中身を見られずにすむでしょう。

 

 言ってしまってから、血の気が引いた。

 

 あれは、誰にも言っていない。兄にも言っていない。綾乃にも言っていない。

 

 言葉にした瞬間、それが本当のことになってしまうから、言わないようにしていた。

 

 なのに、あの人は「聞かなかったことにする」と言った。そのかわり、貸しがひとつだ、と。

 

 ずるい、と有希は思う。

 

 あれは、赦しの一種だ。しかも、こちらに借りを作らせることで、こちらの逃げ場を残している。「なかったこと」にするだけなら、こっちは恥ずかしいまま置き去りにされる。「貸し」という形にしたから、続きができる。

 

 優しさの形をした、うまい仕事だった。

 

「有希様」

 

 綾乃がお茶を置いた。湯気がまっすぐ立った。

 

「宗像さまのことを、考えておいでですか」

 

 思わず顔を上げた。

 

「……なんで」

 

「先ほどから、鏡の前で三度、笑顔をやめておられます」

 

「見てたの」

 

「職務ですので」

 

 笑いがこぼれた。今度は、作っていなかった。

 

「綾乃は、あの人のこと、どう思う?」

 

「危険だと判断しております」

 

「ずいぶんはっきり言うのね」

 

「あの方は、有希様の外側ではなく、内側をご覧になります」綾乃の声は、いつもの平坦さだった。「わたくしの職務上、それは危険に分類されます」

 

「でも、それだけなら、悪い人ではないでしょう」

 

「悪い方かどうかは、危険かどうかとは無関係です」

 

 両手で湯呑みを包んだ。熱かった。熱いのが、少しありがたかった。

 

「綾乃はさ、わたしが笑ってるとき、作ってるってわかってた?」

 

「はい」

 

「……いつから」

 

「最初から存じております」

 

 湯呑みから顔を上げる。

 

「言わなかったの?」

 

「有希様がお決めになった生き方に、わたくしが意見を申し上げる立場にはございません」綾乃は少し間を置いた。「ただ、宗像さまは、わたくしと違って、立場をお持ちではありません」

 

「持ってないと、どうなるの」

 

「言ってしまわれます」

 

 有希は、それを聞いて、しばらく黙っていた。

 

 ――お兄ちゃんは、たぶん、あの子につく。

 

 根拠はない。ないが、わかる。

 

 兄はこの八年、何にも本気を出さないふりをして生きてきた。あれは怠惰ではない。本気を出すと、自分がこの家に戻ってしまうことを知っているからだ。全力で走ると、走った先にこの屋敷の門がある。だから走らない。

 

 でも、あの銀色の子は、兄の逃げ場を壊す。

 

 壊されればいいと有希は思う。壊されてほしい。それが、兄がもう一度立つということなら。

 

 同時に、少しだけ、いやだとも思う。

 

 わたしのためじゃないんだ、と思ってしまう。この二つの気持ちは、何年経っても仲直りしてくれない。

 

 八年前、玄関で「いってらっしゃい」と言ったとき、有希は泣かなかった。泣いたら兄が戻ってきてしまうと思ったからだ。戻ってきたら、兄はこの家に取り込まれる。

 

 だから追い出した。七歳の頭で考えられる、精一杯の作戦だった。

 

 うまくいった。うまくいきすぎた。

 

「綾乃」

 

「はい」

 

「わたし、勝たなきゃいけないの」

 

「存じております」

 

「勝ちたい、じゃないの。勝たなきゃいけないの。……変よね」

 

 綾乃は少し黙って、それから言った。

 

「有希様が笑っておられないとき、わたくしはいつも、そばにおります」

 

 有希は湯呑みに口をつけた。熱くて、少し舌をやけどした。

 

「……綾乃。それ、ずるい言い方」

 

「申し訳ございません」

 

「謝らないでよ」

 

 窓の外は、暗くて何も見えなかった。

 

 この家の窓は、いつもそうだ。夜になると、外ではなく、部屋の中が映る。

 

 鏡と同じだ、と有希は思った。

 

 どこを見ても、自分しかいない。

 

 有希は湯呑みを置いて、ベッドに倒れ込んだ。天井は高い。高すぎて、手の届かないところに影が溜まっている。

 

 目を閉じると、なぜか、放送室のフェーダーの並びが浮かんだ。

 

 ――上げれば大きく、下げれば小さく。

 

 人の声を、聞かせたい大きさに調整する装置。

 

 わたしの声は、いま、どのくらいの大きさで出ているんだろう。

 

 誰かがそれを、勝手に下げているんじゃないだろうか。

 

 考えているうちに、有希は眠った。

 

 その夜は、めずらしく、夢を見なかった。

 

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