舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
副会長候補になって、まず変わったのは、廊下の歩きにくさだった。
名前を書いた紙が一枚受理されただけで、こっちの生活は目に見えて劣化する。すれ違うやつが二度見してくる。知らない上級生に「久世くんだよね」と確認される。購買のパンを選んでいると、後ろで「あの人でしょ」という声がする。
俺は十六年かけて、目立たないことに関しては相当な腕前になったつもりでいた。その積み上げが、九月の下旬に紙一枚で崩れた。
「湊。人は、どのくらいで有名税に慣れると思う?」
「有名税を払ってる自覚があるだけ立派だと思うよ」
「褒めてないだろ、それ」
「褒めてない」
前の席で、宗像湊は振り返りもせずにそう言った。こいつは最近、机の上でずっと図面らしきものを描いている。体育館の平面図に、矢印と数字がびっしり書き込まれている。何に使うのかは聞いていない。聞いたら、たぶん俺の仕事が増える。
窓際の席では、九条アリサが原稿用紙に向かっていた。
一枚目から書き直しはじめて、もう四日目だ。書いては消し、消しては書き、たまに顔をしかめる。この女は、自分の頭の中を紙に移すときだけ、表情の管理を忘れる。見ていて飽きない。
飽きないので見ていたら、目が合った。
「……なに」
「いや」
「気持ち悪いわね」
「そう言われると思った」
アリサは前を向いた。それから、聞こえるか聞こえないかの声で。
――『……見るなら、もう少しばれないように見なさいよ』
ロシア語だった。
俺は黒板を見た。黒板には日直の名前しか書いていなかった。何の助けにもならなかった。
朝のホームルームで、担任が言った。
「話してたやつな。今日から入る」
教室の空気が、はっきり前のめりになった。
ドアが開いて、女子がひとり入ってきた。
背筋が伸びている。制服の着方に一分の隙もない。髪は肩の上でそろえてあって、歩幅が一定だった。歩き方だけで、この人が「見られること」に慣れているのがわかる。
教壇の前に立って、こちらを見渡した。見渡し方も、練習された種類のやつだった。
「谷山沙也加です」
声が通った。
「事情があって、一年半ぶりにこの学園に戻ってきました。中等部の三年まではここにいて、高校からは別の学校にいました。知っている顔もいると思います」
教室のあちこちで、小さなざわめきが起きた。
俺は、椅子の背に体重を預けたまま、そのざわめきの内訳を数えていた。半分は「かわいい」で、三割は「戻ってきた?」で、残りが「あの谷山?」だった。
三つ目が、とびきり厄介なやつだ。
「よろしくお願いします」
沙也加は頭を下げた。角度がきれいだった。上げるときの速度まで一定だった。
俺の前の席で、湊のペンが止まった。
こいつがペンを止めるときは、たいてい、何かを見つけたときだ。
谷山沙也加。
名前は知っている。顔も知っている。
二年前、征嶺学園中等部の生徒会長選挙で、周防有希と最後まで争った人間だ。
言い方が悪いな。最後まで争った、というのは負けた側への礼儀みたいなもので、実際には一方的だった。得票率で言えば、七対三くらいだったはずだ。
あのとき、有希の側で数字を並べていたのは俺だ。
誰も知らない。有希本人と、綾乃と、あとは俺しか知らない。表向き、俺はただの一般生徒として、あの選挙をぼんやり眺めていたことになっている。
やり方は単純だった。
谷山沙也加は、当時から政策で戦うタイプだった。中等部の生徒会に何ができて何ができないかを、本気で調べていた。演説では、実行できることしか言わなかった。
だから俺は、有希に「実行できないことを言え」と指示した。
正確には、実行できるかどうかを判定できない大きさの話をしろ、と言った。中学生の投票は、実現可能性では動かない。動くのは、聞いていて気分がよくなるかどうかだ。
有希は嫌そうな顔をして、そのとおりにやった。
結果は七対三だった。
あのころの俺は、それを仕事だと思っていた。誰かを勝たせるのは、家で毎日やらされていたことの延長でしかなかった。
いま思い出すと、わりと最低なことをした気がする。だから谷山沙也加は、自分を潰した設計図を書いたのが誰なのか、知らない。知らないまま、いま俺の教室に立っている。
――いや待て、これはかなりまずいんじゃないか、あいつがもし一年生の名簿でも眺めて、久世という名字と周防という名字が同じ学年に並んでいることに何も感じなかったとしても、俺が今回はアリサ側の副会長候補として名前を出しているという事実だけは絶対に目に入るわけで、つまりあいつから見た俺は「中等部で有希を勝たせた男」ではなく「今回は有希と戦う男」であって、それはまあ都合がいいと言えば都合がいいんだが、二年前の設計図が俺のものだったといつかばれた場合、あいつは俺を一度に二回殴る権利を持つことになる。
考えるのをやめた。考えると眉間に出る。
一時間目が終わると、沙也加のまわりに人が集まった。
集まった連中に、彼女は丁寧に応対していた。前の学校の話、部活の話、この学園の変わったところ。全部きちんと答えて、全部きちんと切り上げていた。
日野が戻ってきて、俺の斜め前で小声で言った。
「あの子、いい人そうだね」
「そうだな」
「でもなんか、ちょっとこわい」
「なんで」
「んー。……嘘つかなそうだから?」
委員長というのは、時々、恐ろしく正確なことを言う。
沙也加の席は、窓際から二列目のうしろのほうに決まった。アリサの斜め後ろだ。
席まで歩く途中、沙也加はまっすぐ前を見ていた。ただ、アリサの横を通るとき、〇・五秒だけ、視線が落ちた。
落ちて、戻った。
湊が、前の席で小さく息を吐くのが聞こえた。
放課後、俺とアリサは生徒会室に呼ばれた。
書類の受け渡しだけの用事のはずだった。
ドアを開けたら、先客がいた。
谷山沙也加が、統也先輩の前に立っていた。
「――ですので、選挙管理委員会の補助員として、参加させていただきたいと考えています」
「補助員か」統也先輩は腕を組んでいた。「今回は候補者が両方一年でな。中立性の問題がある」
「わたしは候補者ではありません。どちらの陣営にも所属しません」
「所属しない、と言い切れるか」
「言い切れます」沙也加は即答した。「わたしはこの選挙が、正しく行われるかどうかにしか興味がありません」
そこで、彼女がこちらを振り返った。
俺と、アリサと、部屋の隅で勝手にスピーカーの配線を見ている湊を、順番に見た。
最後の一人で、視線が止まった。〇・五秒。教室のときと同じ長さだった。
「久世政近くん。副会長候補ですね」
「そうなるな」
「九条アリサさん。会長候補」
「ええ」
アリサは、いつもの氷点下の顔で受けた。この女は、初対面の相手に対して、警戒と礼儀を同時にやる。器用なんだか不器用なんだかわからない。
「候補者紹介の放送、聴きました」沙也加は言った。「三分のやつです」
「転入前だろ」
「録音が回っていました」
なるほど、と思った。
あの日、放送室の機材は生放送ぶんを保存していない。だが八百人の生徒が全員スマホを持っている。誰かが録っている。当たり前の話だった。
考えればわかる話だった。俺は考えていなかった。
「そう」
「よくできていました」
褒め言葉のはずだった。なのに、部屋の温度が二度下がった。
俺は、その二度がどこから来たのか、すぐにはわからなかった。
わからないまま、背中のあたりだけが正確に反応していた。こういうとき、俺の体は頭より早い。あの家で覚えた反射だ。
「谷山さん」アリサが言った。「何か言いたいことがあるなら、はっきり言って」
「言いました」
「言っていないわ」
沙也加は、ほんの少しだけ首を傾けた。
「では、はっきり言います」
彼女は一歩、こちらへ出た。
「わたしは、周防有希さんに二年前に負けました。得票率で三割です。悔しかったですし、いまも悔しいです。でも、あの人が勝つのは当然だと思っていました」
声に力みがなかった。それが逆に嫌な感じだった。
「あの人は、自分の言葉で喋る人だからです」
部屋が静かになった。
「わたしが戻ってきたのは、あの人ともう一度やるためです。でも、いまの対抗馬を見て、少し気持ちが変わりました」
「……どういう意味かしら」
「九条さん。あなた、生徒会長になって何をしたいんですか」
「放送で話したわ」
「話しましたね」沙也加はうなずいた。「『誰にも必要とされていない気がしていた。だから、いちばん必要とされる場所に立ちたい』」
一言一句、合っていた。
こいつ、覚えてやがる。
「あれは、本当にあなたの言葉ですか」
アリサの肩が、わずかに動いた。
動いたのを、俺は見た。沙也加も見た。
「……当たり前でしょう」
「そうですか」沙也加は微笑んだ。「なら、いいんです」
いいわけがない、という顔だった。
彼女は統也先輩に向き直って、深く一礼した。
「補助員の件、ご検討ください。失礼します」
出ていくとき、沙也加は部屋の隅を一度だけ見た。
スピーカーの配線をいじっている、宗像湊のほうを。
ドアが閉まった。
しばらく、誰も喋らなかった。
部屋の隅で、湊が配線から手を離した。
「政近」
「あ?」
「いまの人、『よかった』って言わなかった」
「……は?」
「『よくできていました』って言ったんだ」
俺は、二度下がった室温の出どころを、そこでやっと理解した。
よかった、は感想だ。よくできていた、は評価だ。評価というのは、作った人間がいる前提でしか出てこない。
「気づいてたのか」
「言葉を選ぶ人の言葉は、選んだところだけ浮いて聞こえる」湊は言った。「あの人、たぶん一回も口を滑らせてない」
こいつがこういう言い方をするとき、褒めているのか警戒しているのか、俺にはいつも判別がつかない。
今日は、両方だった気がする。
最初に大きな声を出したのは、茅咲先輩だった。ずっと窓枠に腰かけて、りんごを丸ごとかじっていた人だ。
「なんか、すごい子が来たね」
「更科。感想が軽い」
「だって、感想以外に言うことある?」
「ある」統也先輩は書類を置いた。「久世。九条。あの子は、たぶんうちの選挙をきれいにしたいだけだ。悪意はない」
「わかってます」
「わかってるならいい。……ただ、悪意がないやつのほうが、止まらん」
その通りだと思った。
悪意でやっているやつは、どこかで自分に飽きる。正義でやっているやつは、飽きないんだよ。
書記のマリヤ先輩が、湯呑みを配りながら口を挟んだ。
「あの子、いい目をしてたわね」
「いい目ですか」
「うん。まっすぐ」
「まっすぐな目に、うちは撃たれるところなんですが」
「あら、大変」
大変と言いながら、この人はにこにこしていた。相変わらず、こちらの言葉が全部素通りする。
帰り道、アリサは無言だった。
並木道の街灯が、順番に点いていく時間だった。夏の色はもうほとんど抜けている。九月が終わる。
彼女は三歩先を歩いていた。歩幅が、いつもより大きい。
「九条」
「……なに」
「歩くの速い」
「そう」
速度は変わらなかった。
俺は追いつくのをやめて、そのまま三歩後ろを歩いた。
この女が速く歩くときは、頭の中で誰かと喧嘩をしているときだ。相手はたいてい、自分自身だ。
だから、いま声をかけても無駄だ。無駄なのはわかっている。わかっているのに、俺の口は勝手に動いた。
「あの放送、お前の言葉だぞ」
足音が止まった。
彼女は振り返らなかった。銀色の後頭部と、まっすぐな背中だけが見えていた。
「……知ってるわ」
「そうか」
「知ってる。……わかってる」
声が、少しだけ湿っていた。
「でも、書いたのは、わたしじゃない」
俺は、何も言えなかった。
正確には、言えることが二つあって、両方だめだった。
ひとつ、「言葉を選んだのはお前だ」。これは正しいが、慰めになる。この女は慰めを受け取ると自分を嫌いになる。
ふたつ、「湊が作ったのは形だけだ」。これも正しいが、湊を言い訳に使うことになる。それは、あいつに失礼だ。
だから俺は、何の役にも立たないことを言った。
「腹減ったな」
「……は?」
「なんか食って帰るか」
アリサが、やっと振り返った。
変な顔をしていた。怒っているのと、呆れているのと、少し助かったのが、全部同じ顔の上に乗っていた。
「あなた、本当に、そういうところよ」
「どういうところだ」
「言わない」
彼女はまた前を向いて、今度は普通の速さで歩き出した。
俺は、三歩の距離を二歩に詰めた。
街灯が、また一本点いた。