舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
十月三日の校内は、二種類の紙で埋まっていた。
片方は選挙のポスターだ。周防有希の顔が、計算された高さで並んでいる。もう片方は秋嶺祭の看板と貼り紙で、こっちは高さも角度もばらばらだった。同じ壁の上で、片方は整列して、片方は散らかっている。
どっちが学校らしいかって言われたら、散らかってるほうだろ。
朝のホームルームで、担任が式次第を配った。
紙の頭に「秋嶺祭」と印刷してある。生徒は誰もそう呼ばない。みんな「文化祭」と言う。正式名称というのは、たいてい紙の上にしかいない。
式次第によると、二日間で三十七の企画が動くらしい。展示が二十二、模擬店が九、ステージものが六。
ステージは二つある。一日目は中庭の仮設。二日目は体育館。
軽音楽部の名前は、両方に入っていた。中庭が初日の十五時から二十分。体育館が二日目の十四時から三十分。
二枠取っている。去年までは四人いたからだろう。
俺はその二行を見て、何も思わなかった。
あとで、思うことになる。
六限は前日準備に潰れた。
うちのクラスは展示だ。段ボールと模造紙と、両面テープが足りなくなる。誰かが「テープ買ってくる」と言って出ていって、二十分たっても帰ってこない。そういう二十分が、この日は校内のあちこちで同時に発生している。
俺は椅子を運ぶ係になった。運ぶだけの係は気楽でいい。頭を使わなくていい仕事は、この学校では貴重だ。
四往復目で、廊下の端に丸山毅が立っていた。
立っている、というより、壁にくっついていた。
「久世」
「なんだ」
「相談がある」
「聞かない」
「まだ何も言ってねえだろ!」
「言われる前に断るのが、いちばん安全だ」
毅は俺の前に回り込んだ。回り込み方が真剣だった。この男が真剣な顔をするのは、だいたい年に二回くらいだ。
「バンドが、死んだ」
言い方が悪すぎた。
話を聞くと、こうだった。
軽音部は秋嶺祭でステージ枠を二つ持っている。初日の中庭が二十分、二日目の体育館が三十分。一年から三年まで、順番に出る。うちの学年からは毅たちのバンドが一組。
その四人のうち、二人が先週抜けた。
「なんでだ」
「三年の先輩が二人いたんだよ。ボーカルとベース」毅は指を二本立てた。「で、先週、面談があったらしくて」
「面談」
「進路の。……で、やめるって」
俺は少し黙った。
十月の三年生は、そういう時期だ。夏まで引っぱっていたものを、順番に切っていく。切らないと間に合わないからだ。
あの二人が悪いわけじゃない。悪いわけじゃないから、毅は怒れないでいる。怒れないものは、行き場がない。
「何日前だ」
「先週の水曜」
「もう十日たってんじゃねえか」
「その、まあ、なんとかなるかと思って」
なんとかなると思う期間が十日ある人間ってのは、たいてい、なんとかしていない。
毅のうしろから、清宮光瑠が出てきた。
こいつは、いつのまにかそこにいる。足音がしないタイプじゃない。ただ、こちらが気づく前から立っている。
「久世くん。ごめん、こいつが」
「謝るなよ」と毅が言った。
光瑠は謝りはしたが、引き下がりはしなかった。俺の顔を見ていた。
この男は、いちばん困っているときに何も言わない。言わないことが、いちばん困っているという合図になる。付き合いは半年だが、それはもうわかった。
「二人でやるのか」と俺は聞いた。
「やる」毅が即答した。「ギターとドラムだけでも、音は出るし」
「出るな」
「だろ?」
「出るけど、届かない」
毅の顔が止まった。
俺は音楽の人間じゃない。ピアノを少し触っていた時期があるだけで、バンドのことは何も知らない。
知らないが、これは知っている。
人が二人しかいない舞台で、二人ぶんの音を四人ぶんに聞かせるには、演奏じゃないところに手を入れるしかない。それは演奏の話じゃなくて、設計の話だ。
――と、ここまで考えて、俺は自分がやっていることに気づいた。
俺はいま、こいつらの問題を頼まれてもいないのに頭の中で組み立て直しているわけだが、これは二週間前に掲示板の前で紙を拾って日野に質問して数え始めたときとまったく同じ動きで、しかもあのときの一件は結局その後に副会長候補という形で回収されているので、つまり俺の頭は目の前に壊れたものを置かれると勝手に手順を作りにいく仕様になっていて、その仕様はあの家で八年かけて入れられたもので、捨ててきたはずのものが、いちばん捨てたい形で残っている。
「久世」
「なんだ」
「なんか、いい案ないか」
「ない」
「即答だな」
「即答できるくらい、俺には関係がない」
毅は「ちぇっ」と言って、光瑠を引っぱっていった。
引っぱられながら、光瑠が一度だけ振り返った。何も言わなかった。
言われるより、こたえた。
放課後、体育館に椅子を運びに行った。
ステージの上に、幕が下りていた。明日の朝に上げるらしい。幕の前で、実行委員の三年が図面を広げて指を差している。
その端に、宗像湊がいた。
こいつは実行委員でもないし、軽音部でもないし、そもそも呼ばれていない。なのに図面を覗き込んで、何か言っている。三年が「へえ」という顔をしていた。
「お前、なんでいるんだ」
「照明の吊り位置を聞かれた」
「聞かれてないだろ」
「聞かれる前に答えた」
「それは押し売りだぞ」
「押し売りだ」湊は認めた。「でも、明日の朝に困るのは向こうだから」
こういうところが、この男の性格の悪さなんだよ。悪いというか、めんどくさい。めんどくさいのに、たいてい合ってる。
俺は椅子を置いて、湊の隣に立った。
ステージの上手の袖に、黒い塊が見えた。
ピアノだった。
アップライトだ。使っていないやつを、どかす場所がなくて袖に寄せてあるらしい。埃よけの布が半分ずれて、鍵盤の端が出ていた。
俺は、そこから目を離した。
離してから、離したことに気づいた。気づいたことが、いちばん嫌だった。
「政近」
「なんだ」
「軽音、二人になったって?」
「もう知ってんのか」
「日野から聞いた。あの人の情報網は、この学校で群を抜いて速い」
俺は、湊の横顔を見た。
こいつはステージを見ていた。幕を見て、吊りバトンを見て、それから客席の後ろまで視線を走らせた。仕事の顔だ。
「なんとかなるか」
「なる」
「即答だな」
「考える必要が、どこにもない」
こいつはいつもこれだ。
考えてある、と言うとき、こいつはもう三手先まで見ている。そのくせ、頼まれるまで動かない。
「頼まれてないだろ」
「頼まれてない」
「じゃあ動かないんじゃないのか」
「動かない」湊は言った。「明日の一日目を見てから決める」
「見てどうする」
「駄目なところが、はっきりする」
それは、だいぶ冷たい言い方だった。
冷たいが、たぶん正しい。手を入れる場所は、失敗しないと見えない。それは俺も知っている。
教室に戻ると、まだ数人残っていた。
その中に、九条アリサがいた。
全員が段ボールを切っている中で、この女だけが机に紙を広げている。しかも段ボールの切り屑が飛んでくる位置に座っている。動く気がないらしい。
「お前、準備は」
「終わったわ」
「早いな」
「わたしの担当は受付の名簿よ。作れば終わり」
効率がいい。効率がいいが、それだと祭りに参加した実感は一秒も残らない。
俺は隣の椅子に座った。座ってから、机の上の紙を見た。
部費の推移だった。六年ぶんの。
「祭りの前日にやることか、それ」
「二日、学校が止まるでしょう。止まっているあいだに進めるの」
「止まってるのは学校で、お前じゃないのか」
彼女はペンを止めて、こちらを見た。
「……どういう意味」
「二日くらい、止まってもいい」
「止まったら、間に合わないわ」
「間に合わないのは、たぶん、止まったせいじゃない」
言ってから、言いすぎたかと思った。
彼女は何も返さなかった。返さずに、紙の端に指をかけて、折り目をつけた。
俺は、そこで話を切った。
言わないかわりに、机の上の切り屑を、手のひらで端に寄せた。
寄せただけだ。それ以上のことはしていない。
「久世くん」
「なんだ」
「あなたは、明日どこにいるの」
俺は少し考えて、「わからん」と答えた。
本当にわからなかった。椅子を運ぶ係は今日で終わりで、明日の予定は何も入っていない。
予定が入っていない人間は、たいてい、いちばん忙しくなる。
昇降口で靴を履き替えていると、階段の下に人がいた。
座っていた。
階段の三段目に、女子が一人。制服のスカートの上に、パーカーみたいなものを羽織っている。校則的にどうなんだそれ、と思ったが、明日は祭りだ。今日から緩んでいるらしい。
髪は明るい色だった。前髪の下で、目が半分閉じている。
その膝の上に、鍵盤があった。
持ち運びできるやつだ。電源は入っていない。指も置いていない。ただ、抱えて座っていた。
俺は通り過ぎようとした。
通り過ぎながら、聞いてしまった。
「それ、弾かないのか」
女子が顔を上げた。
目が合ってから、二秒くらい何もなかった。
「……弾くと、うるさいっしょ」
「ここ昇降口だぞ。もううるさい」
「まあね」
それきり、何も言わなかった。
俺も、それ以上言うことがなかった。だから靴を履いた。
履き終わったところで、向こうから声がした。
「あんた、久世でしょ」
「そうだけど」
「谷山が言ってた」
俺は、少し止まった。
谷山沙也加。先週転入してきた女だ。この学校に来て十日で、俺の名前を誰かに話している。
「なんて」
「知らない」女子はあくびをした。「聞いてないから」
「聞かなかったのか」
「うん」
「なんで」
「調べたい人が調べればいいっしょ。あたし、そういうの向いてない」
言い方に、投げやりさがなかった。
投げやりに聞こえるが、そうじゃない。この人は、本当に、聞かなかっただけだ。
俺は、その言い方をどこかで聞いたことがある気がした。
思い出せなかった。思い出せないまま、鞄を持ち直した。
「名前は」
「宮前」
「宮前」
「乃々亜」
彼女は鍵盤を抱え直して、それから、なんでもないことのように言った。
「ね。明日、軽音って何時から?」
「二日目だ」
「そう。ふうん」
興味があるのかないのか、まったくわからない返事だった。
俺は「じゃあ」と言って、外に出た。
出てから、振り返らなかった。振り返る理由がない。
理由がないのに、歩きながら、あの膝の上の鍵盤のことを考えていた。
電源が入っていなかった。持ってきているのに、入れていない。
それは、弾きたくない人の持ち方ではない。
弾く場所がない人の持ち方だ。
家に帰って、机に鞄を置いた。
封筒が一つ入っている。三週間ぶんの数字だ。九条アリサが集めて、俺が「取っとけ」と言わせて、いまは俺が預かっている。
明日と明後日は、祭りだ。
選挙は止まらない。討論会は二十四日で、要項はもう出ている。準備しなければいけないことは、山ほどある。
なのに俺は、机の上でノートを開いて、そこに書いたのはこうだった。
――二人。三十分。体育館。
書いてから、消した。
消しゴムのカスを机の端に集めて、それを指で払った。
天井を見た。この部屋の天井は白いパネルで、木目がない。逃がす先がないと、目は行き場をなくす。
仕方がないので、電気を消した。
布団に入ってから、もう一度だけ考えた。
二人。三十分。体育館。
二十分と三十分。あの数字は、どう並べ替えても足りない。足りないものを足りるように見せるのは、演奏の仕事じゃない。
じゃあ誰の仕事かというと、たぶん、明日あそこに立っている男の仕事だ。
あいつは「頼まれてない」と言った。言い方が、断るときの言い方じゃなかった。
断る人間は理由を言う。あいつは条件を言った。明日の一日目を見てから決める、と。
条件を言うやつは、もう半分やる気だ。
俺はそれを知っていて、今日は言わなかった。