舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
八時十五分に教室へ行くと、模造紙がまだ床に広がっていた。
その上を、三人が靴で踏んでいた。踏んでいる自覚はないらしい。
こうなる予感はあった。前日にあれだけ時間があって、それでも終わらない現場は、たいてい人手が足りないのではなく、決める人がいない。八時十五分に教室へ行くと、模造紙がまだ床に広がっていて、その上を三人が靴で踏んでいた。
僕は何も言わずに、模造紙の四隅を持ち上げて、机の上に移した。踏まれた跡は消えない。だが、これ以上は増えない。
現場でいちばん効くのは、注意ではなく移動だ。人は言われても直さないが、物の位置が変わると、勝手に別の動きをする。
「宗像くん、おはよ。……ごめん、間に合ってない」
「間に合ってる」
「嘘つき」
「開場は九時半だ。一時間十五分ある。展示は十五分で終わる」
日野は模造紙を見て、それから僕を見た。
「十五分?」
「壁に貼るだけなら十五分。悩む時間を入れなければ」
「悩まないと決まらないでしょ」
「決めるのは僕がやる。君は貼る係をやってくれ」
日野は少し笑って、「出た、監督」と言った。
この呼び方は、二学期の途中から誰かが言い出した。定着してしまった。悪くはない。ただ、監督は本来、現場でいちばん座っている人のことだ。僕は座っていない。
実際、展示は十四分で終わった。
余った一分で、僕は入口の動線を直した。机を三十センチだけ内側に寄せる。それだけで、入ってきた人が最初に見る面が変わる。
開場から三十分で、クラスに人が入り始めた。
思ったより多かった。
理由は、たぶん、廊下の掲示だ。
九月に貼ったビラは、まだ生きていた。二百枚刷って、百枚貼って、百枚を余らせたやつだ。四隅だけをテープで留めて、床から百四十二センチの高さに揃えた。
人は、自分の目の高さより少し下を見る。だから百四十二センチにした。
いま、その高さの前で、実際に人が足を止めている。
止まっている時間は、平均で二秒くらいだった。二秒は短い。だが、通り過ぎる〇秒とは、質が違う。
二秒あれば、教室番号は読める。
僕はそれを、廊下の端から数えていた。三十人見て、十一人が止まった。
悪くない数字だ。
悪くないと思ったところで、自分がまた数えていることに気づいた。
祭りを楽しんでいる人間は、通行人を数えない。
十一時ごろ、隣のクラスから人が来た。
展示の照明が暗い、という相談だった。教室の蛍光灯を二本外して雰囲気を出したら、今度は何も見えなくなったらしい。
行ってみると、想像どおりだった。全体を暗くして、卓上ライトを一つだけ置いている。
「これ、どうすればいい?」
「外した二本のうち、一本を戻す。ただし、いちばん奥のを」
「奥?」
「入口の明るさは、そのままでいい。奥が暗いと、人は奥まで入らない」
実際、戻したら人が奥まで歩くようになった。
礼を言われた。僕は「はい」とだけ言って、教室を出た。
こういう仕事が、いちばん楽だ。答えが決まっていて、五分で終わって、誰の人生にも関係がない。
昼前に、校内を一周した。
用事はなかった。用事はないが、見ておくと、あとで役に立つ。
中庭に、仮設のステージが組んであった。
高さは四十センチ。パネルを組んだだけのやつだ。屋根はない。うしろにパイプで櫓を組んで、そこに小さいスピーカーが二本ぶら下がっている。
僕は、その二本を見て、少し嫌な気持ちになった。
位置が高すぎる。それに、外向きに開きすぎている。あれだと音が客席の上を通過する。前の三列にしか届かない。
卓を探した。ステージの下手に、折りたたみの机が一つ。その上に、六チャンネルのミキサーが置いてあった。
電源は入っていた。人はいなかった。
フェーダーは全部、いちばん下まで下がっていた。
誰かが下げたのではない。最初から誰も上げていないのだ。上げた形跡がない。
僕は、その卓の前にしばらく立っていた。
立っていただけだ。触らなかった。
僕の仕事は、頼まれてからやることだ。頼まれる前に触るのは、演出ではなく、ただの侵入になる。
十四時、模擬店の列がいちばん伸びた。
十四時半、クラスの展示に三十人目が入った。日野が「三十人! 三十人来た!」と騒いだ。
十四時五十分、僕は中庭に行った。
行く理由は、あった。
久世政近が、そこにいたからだ。
あいつは中庭の隅に立って、ステージを見ていた。手ぶらだった。何もしていない人間の立ち方をしていた。
「なんでいるんだ」と僕は聞いた。
「お前こそ」
「見に来た」
「俺も見に来た」
嘘だ、と思った。
この男は、見に来たものを見に来たと言うとき、たいてい別の理由がある。
十五時、丸山毅と清宮光瑠が出てきた。
二人だけだった。
毅はギターを提げて、光瑠はスティックを持っていた。ドラムは先に組んである。
中庭には、五十人くらいいた。多くはないが、模擬店の列がすぐ横にあるので、通りがかりが自然に立ち止まる位置だ。この枠を取ったのは、たぶん賢い判断だった。
毅がマイクの前に立って、「一年の軽音です」と言った。
声が、思ったより通らなかった。
当たり前だ。返しがない。自分の声が戻ってこない場所では、人は必ず声を張る。張れば、上ずる。
毅は上ずっていた。
そこから二十分を、僕は最後まで見た。
音の話をする。
まず、低いところが空いていた。ベースがいないので、当たり前だ。ギターとドラムの間に、大きな穴がある。人間の耳は、その穴を「音が薄い」ではなく「なんとなく不安」として受け取る。理由がわからないまま、落ち着かなくなる。
次に、屋外だった。壁がないので反射がない。反射のない音は、出た端から消える。体育館なら残る響きが、中庭では一切残らない。
三つ目に、スピーカーの位置だ。前の三列にしか届いていない。四列目から後ろは、生の音を聞いている。生のドラムとギターだけが飛んでいて、歌はほとんど届いていない。
毅は歌っていた。歌う役ではなかったのに、歌う人がいないので歌っていた。
三曲目の途中で、うしろから人が抜け始めた。
悪意ではない。列が進んだだけだ。模擬店の順番が来た人から、順に離れていく。
だが、離れる理由が「順番が来たから」なのか「つまらないから」なのかは、ステージの上からは区別がつかない。
毅は、それを見ていた。
見ながら、次の曲に入った。
僕は卓を見た。フェーダーは、まだ全部いちばん下だった。
誰も触っていない。マイクは生きているが、卓を通っていない。ステージ上の小さいアンプの音だけで、二十分やっている。
直せた。
三分あれば直せた。低域を持ち上げて、スピーカーの角度を三十度内側に振って、マイクを一本、卓に立て直せばいい。
僕は、動かなかった。
動かなかった理由は、二つある。
一つ。頼まれていない。
二つ。いま僕が入ると、あの二人は「自分たちが失敗した」という事実を持ち帰れなくなる。
持ち帰れなかった失敗は、次に効かない。
……と、そう考えた。
考えたことは、たぶん正しい。正しいが、正しさで説明できることを、僕は昔からいちばん疑っている。
三曲目の途中で、僕は客席の後ろを見た。
人が抜けたぶん、後ろが空いている。空いた場所に、一人だけ座っている人がいた。
中庭の縁石だ。座るための場所ではない。
女子だった。制服の上に何か羽織っていて、髪が明るい。膝の上に、四角い黒いものを抱えていた。
持ち運びのキーボードだった。ケースに入ったままだ。
僕は、その持ち方を見ていた。
演奏する人は、楽器を縦に立てて持つ。運ぶだけの人は、脇に抱える。
あの人は、膝の上に載せて、両腕で囲っていた。
あれは、置き場所がない人の持ち方だ。
視線は、ステージに向いていた。まっすぐ向いていた。抜けていく人の中で、一人だけ動かなかった。
僕は、その人の名前を知らなかった。
知らないまま、覚えておくことにした。
二十分が終わった。
拍手はあった。二十人くらいの拍手だった。多くはないが、少なくもない。
毅がマイクに向かって「ありがとうございましたー!」と言った。声が裏返った。
裏返ったところで、少しだけ笑いが起きた。
毅も笑った。
あの笑い方を、僕は知っている。
現場で、押さえるはずのカットを押さえられなかったカメラマンが、あの笑い方をする。笑っておかないと、その場に立っていられないからだ。
人が引いたあと、僕は中庭に残った。
毅はギターをケースにしまいながら、まだ喋っていた。喋る量が、いつもの一・五倍あった。
「いやー、外はきついわ。音がさ、飛んでいくのな」
「飛ぶな」
「明日は体育館だし。中なら大丈夫っしょ」
「大丈夫じゃない」
「え」
「体育館は広い。もっと薄くなる」
毅の顔が止まった。
止まってから、笑った。
「……お前、はっきり言うな」
「言わないほうがよかったか」
「いや」毅は首を振った。「言われたほうが、まだましだわ」
その言い方には、力がなかった。
清宮光瑠は、ドラムの前に座ったままだった。
もう終わっている。バラす時間だ。次の団体が待っている。
なのに、この人はスティックを置かなかった。
置かずに、スネアの縁を、指で一度だけ叩いた。
音がしなかった。ミュートされていた。
僕は、そこを見ていた。
片づけないのは、疲れているからじゃない。片づけると、終わったことになるからだ。
久世政近が、僕の隣に来た。
「見てたな」
「見てた」
「動かなかったな」
「動かなかった」
「なんでだ」
僕は、少し考えた。
考えて、いちばん短い言い方にした。
「明日があるからだ」
政近は、それ以上聞かなかった。
聞かないでいてくれる男だ。昔からそうだった。この男は、こちらの理屈が汚いときほど、追及しない。
夕方、片づけの音が校内に散らばっていた。
僕は職員室で、明日の体育館の図面をもらってきた。もらう理由はなかった。実行委員でも軽音部でもない。
「明日の照明の吊り位置、聞かれるかもしれないので」と言ったら、通った。
通ってしまうのが、この学校の緩さだ。緩いところは、たいてい使える。
図面を持って、体育館に行った。
誰もいなかった。幕は上がったままで、明日の設営がそのまま残っていた。
僕は、客席になる床の真ん中に立って、ステージを見た。
二十六メートル。
この距離だと、表情は見えない。見えるのは、立ち方と、手の位置と、肩の高さだけだ。
二人が、この広さに立つ。
中庭でさえ薄かった音が、ここではもっと薄くなる。それは間違いない。
僕は鞄からメモ帳を出して、床に座り込んだ。
書いたのは、曲順でも、機材の型番でもなかった。
――「二人でやれる形に、全部組み替える」
その下に、もう一行足した。
――「頼まれたら」
書いてから、二行目を丸で囲った。
囲ったのは、自分に見せるためだ。
僕は、頼まれる前に動く人間になりたくない。なりたくないと、ずっと言ってきた。
言ってきたのに、いま、頼まれる前に図面をもらってきている。
メモ帳を閉じて、体育館を出た。
外はもう暗かった。十月の夕方は、思ったより早く終わる。
昇降口の非常灯が、緑色に光っていた。
どこの現場でも、同じ色だ。人がいなくなっても、これだけは消えない。
僕はその下でしばらく立っていた。
明日、あの二人はもう一度あそこに立つ。立つと決めているのは、あの二人だ。
僕は、決める側ではない。
決める側ではない人間が、こんなに図面を抱えて帰るのは、たぶん、順番としては変だ。