舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
二日目の朝、僕は八時前に学校に着いた。
早く来た理由は、特にない。前の日に体育館の床に座り込んで図面を眺めていた人間が、その翌朝ゆっくり寝ていられるわけがない、というだけだ。
頼まれ方には、二種類ある。「助けてくれ」と言われる場合と、「どうすればいい」と言われる場合だ。
前者は、相手がもう諦めている。後者は、まだやる気がある。
丸山毅は、後者だった。
二日目の朝、八時二十分。僕が体育館の入口で図面を広げていると、うしろから足音が来た。走ってきたらしく、息が上がっていた。
「宗像!」
「近い」
「あの、さ」毅は膝に手をついた。「昨日の、どうすればよかった?」
僕は図面から顔を上げた。
この男は、昨日のあいだに一度も僕に聞かなかった。終演直後も、片づけのあいだも、帰り道も。一晩置いてから聞きに来た。
一晩置ける人間は、伸びる。
「聞きたいか」
「聞きたい」
「きついこと言うぞ」
「言われたほうが、まだましだって昨日言った」
覚えていた。
僕は図面を床に置いて、その横にしゃがんだ。毅も同じようにしゃがんだ。
「昨日の二十分で、まずかったのは三つだ」
「三つもあんの」
「三つで済んだ、と考えたほうがいい」
僕は指を折った。
「一つ。低いところが空いてた。ベースがいないんだから当然だ。だけど、聞いてる側は『ベースがいない』とは思わない。『なんか落ち着かない』と思う」
「……そう聞こえてた?」
「聞こえてた。二つ目。屋外だから、音が残らない。壁がないと、出た端から消える。だから薄く聞こえる」
「それ、どうしようもなくない?」
「今日は体育館だ。壁がある」
毅の顔が、少しだけ動いた。
「三つ目。スピーカーの角度が悪くて、前三列にしか届いてなかった。四列目から後ろは、生の音だけ聞いてた」
「生の音って」
「アンプから直接出てる音だ。歌は届いてない」
毅は、しばらく黙っていた。それから、小さい声で言った。
「……じゃあ、後ろの人は、俺の歌ぜんぜん聞こえてなかったってこと?」
「そうだ」
「うわ」
毅は両手で顔をこすった。
こういうとき、僕は慰めない。慰めると、事実の輪郭がぼやける。ぼやけた事実は、次に使えない。
「で」毅は顔を上げた。「今日は?」
「今日は、直せる」
「どうやって。人は増えないぞ」
「増やさない」
僕は図面をめくった。
体育館の平面だ。討論会の下見のときに描いたやつを、そのまま使った。
「二人でやれる形に、全部変える」
やることは、四つあった。
一つ。曲を減らす。
「四曲やる予定だっただろ。二曲にしろ」
「三十分あるんだぞ」
「三十分で四曲やると、一曲あたりが薄くなる。二曲にして、あいだに喋れ」
「喋る?」
「喋る。曲の説明でも、昨日の失敗の話でもいい。喋っているあいだ、客はこちらを見る。音がなくても、見ているなら、それは持っている時間だ」
毅は「喋るのは得意」と言った。知っている。
二つ。客席を前に詰める。
「椅子を並べるな。床に座らせろ」
「体育館、椅子出す予定だけど」
「実行委員に言って、前の十列ぶんだけ椅子をどけてもらえ。そこに座布団を置く。人は、座れる場所があるほうに集まる」
「なんで前に詰めるんだ」
「二十六メートルあるからだ。後ろまで届かせようとすると、無理をする。届く範囲を先に決めて、そこを埋めるほうが早い」
三つ。照明を落とす。
「全体を暗くする。ステージだけに当てる」
「暗いと、盛り上がんなくない?」
「逆だ」と僕は言った。「明るいと、人は周りを見る。暗いと、明るいところしか見えない。見るものが一つしかない部屋では、人は音を聞く」
四つ。低音を作る。
「ベースはいない。だから、卓で作る」
「作れるの?」
「全部は無理だ。ドラムのキックの下と、ギターの低いところを持ち上げる。それで、穴の半分は埋まる」
「半分か」
「半分だ」僕は言った。「残りの半分は、埋めない」
「なんで」
「埋まってないほうが、二人でやってることが伝わるからだ」
毅は、そこで少し黙った。
それから「わかった」と言って、立ち上がった。
「一個聞いていい?」
「どうぞ」
「なんで昨日、やってくれなかったんだ」
僕は、図面を丸めた。
丸めながら、正直に言った。
「頼まれてなかった」
「それだけ?」
「それだけだ」
嘘だった。
半分は嘘だ。昨日入れば、この男は今朝走ってこなかった。走ってこない人間に渡した仕込みは、次の現場で必ず崩れる。
それは言わなかった。言うと、恩着せになる。
午前中は、設営に使った。
実行委員は「前十列の椅子を外す」を、意外なほどあっさり通してくれた。理由を聞いたら、椅子を出す作業のほうが面倒だからだそうだ。
現場では、こちらの都合と相手の面倒が一致したときに、話がいちばん速く進む。
照明は、天井のバトンに固定の六台。角度は変えられない。だから、点ける数を減らした。六台のうち、二台だけ。あとは落とす。
窓には暗幕が張れる。実行委員が持っていた。去年の演劇部が使ったやつらしい。
卓は、六チャンネルのミキサーを中庭から運んだ。体育館の常設は十二チャンネルあったが、そちらは司会用に押さえられている。
六チャンネルで足りる。ギター、ドラムのキック、スネア、オーバーヘッド、ボーカル。五本だ。
一本、余った。
余った一本は、そのままにしておいた。現場では、余りは必ず使う日が来る。
昼を食べる時間がなかったので、購買のパンを立ったまま食べた。
食べながら、自分がやっていることを整理した。整理する癖は、たぶん一生抜けない。
今日やった四つは、どれも演奏を良くしていない。曲を減らしても、照明を落としても、客席を詰めても、あの二人の腕は昨日と同じままだ。
変えたのは、聞こえ方だけだ。
演出は、中身を変えずに、伝わり方だけを変える仕事だ。だから、本質的にずるい。うまくいったときほど、演者本人の手柄になる。
それでいい、と僕は思っている。
思っているが、その「それでいい」を何度も自分に言い聞かせている時点で、たぶん、完全にはそう思っていない。
十三時四十分、僕は卓の前に座った。
客席は、思ったより埋まっていた。床に座っている人が、四十人くらい。うしろに立ち見が二十人。昨日より多い。
理由はわかっている。二日目の午後は、みんな見るものがなくなる。
毅と光瑠が出てきた。
二人だった。
昨日と同じ、二人だ。
毅がマイクの前に立った。僕は卓のフェーダーを、〇から少しずつ上げた。
「一年の軽音です」
声が、体育館の後ろまで届いた。
毅の目が、一瞬だけこちらを向いた。
僕は、何もしなかった。うなずきもしなかった。うなずくと、それが合図になる。合図をもらった演者は、次からこちらを見る。
そのとき、袖から人が出てきた。
髪の明るい女子だった。昨日、中庭の縁石に座っていた人だ。
キーボードを、ケースから出して持っていた。
彼女はステージの端まで歩いて、床に置いてあったスタンドに、それを載せた。載せてから、毅のほうを見た。
毅が「え」と言った。マイクに乗った。客席が笑った。
女子は何も言わずに、椅子に座った。
僕は、卓の余っていた一本を、キーボードに回した。
三十秒で結線した。手が勝手に動いた。
こういうときのために、余りは取ってある。
二曲やった。
一曲目の途中で、低いところが埋まった。僕が作った半分と、彼女が弾いた半分で、ちょうどよかった。
客席の後ろに、銀色が見えた。
九条アリサだった。立ち見の列の、いちばん端。腕を組んで、まっすぐステージを見ていた。
この人は祭りに参加していない。昨日も見ていない。今日、なぜここにいるのかは知らない。
知らないが、たぶん、久世政近がここにいるからだ。
僕はそれ以上考えないことにして、卓に戻った。
彼女は、目立つ弾き方をしなかった。
和音を、長く伸ばして置いているだけだった。ギターとドラムの隙間に、板を渡すみたいな弾き方だ。
うまい、と思った。
うまいというより、聞いている。人の音を聞いてから出す人は、練習量では説明がつかない。
曲間で、毅が喋った。
昨日の中庭で三曲目に人が抜けた話をした。「後ろまで声が届いてなかったらしいです」と言って、笑いを取った。
客席が、少し温かくなった。
自分の失敗を先に置ける人間は、強い。
二曲目が終わった。
拍手があった。昨日の二十人より、はっきり多かった。
僕はフェーダーを下げた。上げれば大きく、下げれば小さく。単純な機械だ。単純だから、正直でもある。
照明が戻って、体育館が明るくなった。
明るくなった瞬間に、僕は上手の袖を見た。
久世政近が、そこにいた。
いつからいたのかは、知らない。あいつはピアノの横に立っていた。埃よけの布が、昨日より大きくずれていた。鍵盤が、半分見えていた。
あいつの右手が、少しだけ上がった。
上がって、途中で止まった。
止まって、下りた。
それだけだった。
僕は、それを見ていた。見ていたことは、言わないことにした。
照明が戻ったあと、実行委員の三年が寄ってきた。
「さっきの、音よかったね。誰がやったの」
「一年の軽音です」
「いや、卓」
「……そこは、聞かないほうがいいです」
三年は「なにそれ」と笑って、行ってしまった。
僕は実行委員でも軽音部でもない。名簿のどこにも名前がない。名前がない人間が卓に座っていたことを、あとから掘られると面倒になる。
面倒になるのは僕ではなく、通してくれた実行委員のほうだ。
だから言わなかった。
撤収は、二十分で終わった。
毅がケーブルを丸めようとしたので、巻き方を教えた。八の字にして結束する。丸く巻くと癖がついて、次に使うときに真っ直ぐ伸びない。
「なんでそんなん知ってんの」
「十歳のとき、三回巻き直させられた」
「怖」
女子は、キーボードをケースにしまっていた。
僕は、その横に立った。
「ありがとう」
「別に」
「助かった」
「あたし、勝手に出ただけだし」
「勝手に出た人が、いちばん助かる」
彼女は、少しだけこちらを見た。
「変な人だね」
「よく言われる」
「誰に」
「全員に」
彼女は「ふうん」と言って、ケースを閉じた。
閉じてから、思い出したように言った。
「あの音、あんたが作ったやつ?」
「どの音」
「低いとこ。昨日なかったやつ」
「作った」
「へえ」
それだけだった。
それだけだったが、彼女はケースを持ち上げるとき、昨日より少し高い位置で持っていた。
毅が戻ってきた。
汗をかいていて、まだ息が上がっていた。
「宗像。あのさ」
「うん」
「続けよう、これ」
「これ、って」
「バンド。三人でも二人でも。とりあえず、続ける」
僕は「そうか」と言った。
それ以上は、続けなかった。
言うと、僕がやったことになる。
やったのは、この男が一晩置いて走ってきたところからだ。
体育館を出ると、外が赤かった。
二日間が終わって、校内から人が減っていく。片づけの音が、あちこちで鳴っている。
僕は昇降口で足を止めた。
非常灯の緑が、今日も同じ色で点いていた。
僕は、鞄の中のメモ帳を思い出した。
昨日、床に座って書いた二行がある。一行目は「二人でやれる形に、全部組み替える」。二行目は「頼まれたら」で、丸で囲ってある。
今日、二行目は守られた。
守られたのに、僕は昨日のうちに図面をもらいに行っている。
順番が逆だ。
逆だったことは、たぶん、誰にも言わない。