舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
十月に入って、九条アリサは寝ていない。
断定するのはよくないが、断定できる根拠はある。
まず、朝の到着が早くなった。俺より早い日が三日続いた。俺が早くなったわけじゃない。あいつが異常なだけだ。
次に、ノートの端の字が荒れている。この女は本来、罫線から一ミリもはみ出さない書き方をする。それが最近、行の終わりで下がる。
あとは、目の下だ。隠しているつもりらしいが、隠せていない。
「九条」
「なに」
「寝ろ」
「寝てるわ」
「何時間」
「……足りてるわ」
「時間を聞いたんだが」
アリサは答えなかった。ペンを持ち直して、原稿の続きを書き始めた。
これで何枚目だ。数えるのはやめた。数えると口を出したくなる。
俺は自分の机の中を触った。封筒がある。三週間ぶんの数字だ。まだ渡していない。渡すタイミングを間違えると、この女は「与えられた」と受け取る。受け取ったものは、あいつの中で自分のものにならない。
面倒くさい人間だと思う。
俺が言えた義理じゃないのが、いちばん腹が立つ。その日の昼休みだった。
俺が購買から戻ると、教室の空気が固かった。
窓際の席に、谷山沙也加が立っていた。アリサの机の横だ。
まわりの連中が、聞いていないふりをしながら全力で聞いていた。日野が心配そうにこっちを見た。
「――ですから、それはわたしの立場では申し上げられません」
沙也加の声だった。
「なら、なぜここに来たの」
アリサの声。氷点下より下だった。
「立場を外して話しに来ました」
沙也加は、鞄から出した腕章を、机の上に置いた。
選挙管理委員会の腕章だった。
「いまのわたしは、補助員ではありません。ただの転入生です」
こういうことを本当にやる人間がいるのか、と思った。
俺は、なんとなく足を止めた。入るタイミングを完全に逃した。
「九条さん。二年前の話をします」
「聞いていないわ」
「聞かなくて結構です。わたしが言いたいだけですから」
沙也加は、まっすぐ立っていた。
「二年前、わたしは中等部の生徒会長選で周防有希さんに負けました。得票率は三割です」
「知ってるわ」
「あのとき、周防さんの隣には、いつも同じ人がいました」
背中が冷たくなった。
沙也加が、こちらを振り返った。
いつからいたのか。この人は最初から知っていた。俺が教室のドアのところで突っ立っていることを。
「久世政近くん」
「……なんだ」
「二年前、あなたは周防有希さんの隣にいましたね」
「幼馴染だからな」
「はい。幼馴染だからでしょう」
沙也加は、それ以上そこを掘らなかった。
掘らなかったことが、逆に怖かった。この人は、確認できないことは口にしない。口にしないだけで、覚えている。
「今回、あなたは九条さんの副会長候補です」
「そうだ」
「それは、あなたが選んだことですか」
「俺が選んだ」
「周防さんから、誘われませんでしたか」
――ここで嘘をつくのは簡単だ、誘われていないと言えばこの話は三秒で終わる、終わるが、この女は事実で歩く人間だから、いつか旧校舎の三階のことを誰かが目撃していたと知るかもしれないし、そうなったとき俺の一言は嘘として記録に残るわけで、そのときアリサが受ける傷は、いま正直に言った場合の傷より確実に深くなる。
息を吸った。
「誘われた」
教室が、静かになった。
アリサの肩が、動いた。それを見て、俺は自分の判断の正しさに、まったく自信が持てなくなった。
「断ったんですね」
「断った」
「なぜですか」
「言う必要があるか?」
「ありません」沙也加はうなずいた。「わたしはただ、事実を並べているだけです」
彼女はアリサに向き直った。
「九条さん。わたしはあなたを責めるつもりはありません。責める権利もありません」
「なら、なんなの」
「確認したいだけです」
沙也加は、少しだけ声を落とした。
「あなたは、あの二人の間に入ったという自覚がありますか」
アリサは、答えなかった。
沙也加は待った。急かさなかった。それがいちばん残酷なやり方だと、たぶん本人は気づいていない。
「……わたしは」
アリサが口を開いた。
「わたしは、頼んでいないわ」
「はい」
「久世くんが、勝手に来たの」
「そうでしょうね」沙也加はうなずいた。「わたしもそう思います」
「なら」
「では、断りましたか」
言葉が、止まった。
「断らなかったのは、あなたの選択です」沙也加は言った。「わたしは、それを責めていません。断らないのは当然です。わたしでも断りません」
「……なら、何が言いたいのよ」
「自覚があるかどうかを、聞いています」
沙也加は、同じ質問を三回目に戻してきた。
角度を変えず、声も上げず、まっすぐ戻してくる。
俺は、二年前にこいつを潰したときのことを思い出していた。
こういう人間だから、俺は「実行できないことを言え」なんて指示を出したんだ。正面から議論したら、有希でも危なかったからだ。
思い出したくない種類の、自分の有能さだった。
答えられなかったんだと思う。
俺は口を開いた。開いてしまった。
「間に入ったのは俺だ」
沙也加がこちらを見た。
「勝手に俺が決めた。九条は関係ない」
言った瞬間に、失敗したのがわかった。
言い方が悪かったんじゃない。庇い方が悪かった。
俺はいま、この女を「関係ない人」にした。
アリサが立ち上がった。
椅子の脚が、床を引っかいて鳴った。
「関係ないわけ、ないでしょう」
声が、教室の端まで届いた。そのあと、彼女は自分の声の大きさに驚いたような顔をして、口を閉じた。
沙也加は、しばらく二人を見ていた。それから、腕章を取って、鞄にしまった。
「失礼しました。授業に戻ります」
彼女は、自分の席へ歩いていった。
途中で一度だけ足を止めて、こちらを見ずに言った。
「わたしは、あなたたちが嫌いなわけではありません」
誰も返事をしなかった。
「ただ、選挙は、いちばん自分の足で立っている人が勝つべきだと思っています。それだけです」
午後の授業は、何も頭に入らなかった。
黒板には英語の関係代名詞が並んでいた。関係代名詞は何も言わなかった。えらい。今日はこいつだけが味方だ。
放課後、俺はアリサを追いかけた。
昇降口の外、体育館へ続く通路の途中で追いついた。
「九条」
「ついてこないで」
「話がある」
「わたしにはないの」
彼女は速く歩いていた。あの速さだ。頭の中で自分と喧嘩しているときの速さ。
だから追いつくべきじゃなかった。わかっている。わかっているのに、俺の足は勝手に前に出た。
「谷山の言ったことは、半分は的外れだ」
「半分は当たってるってことでしょう」
足が止まった。
振り返った彼女の顔は、怒っていなかった。怒っていない顔のほうが、こたえた。
「久世くん。わたし、ずっと考えてたことがあるの」
「……なんだ」
「あなたと周防さんは、たぶん、組んだら誰にも負けなかった」
「それは」
「事実でしょう」
事実だった。
俺は言葉に詰まった。
「あなたは、それを捨てた。わたしのために」
「捨ててない」
「捨てたわ」
アリサは、通路の手すりに手を置いた。夕方の風が、銀色の髪を横に流した。
「わたし、あの放送の日から、ずっと考えてる。あの三分が上手くいったのは、宗像くんが作ってくれたからでしょう」
「違う」
「違わない。マイクの高さも、原稿を捨てさせたのも、全部あの人。わたしがやったのは、震えながら喋っただけ」
「九条」
「そして、副会長候補はあなた。二年前に周防さんを勝たせた人」
彼女は、そこで初めてこちらを見た。
「――わたし、何をしたのかしら」
その言い方は、質問じゃなかった。
答えを求めていない人間の言い方だった。
「あなたたち二人が組めば、この学校で誰も勝てない。それを、わたしが分解した」
「分解してない」
「じゃあ、なんて言うの」
俺は、言葉を探した。
探して、見つからなかった。
いや、正確には、見つかった言葉が全部だめだった。
「お前のためじゃない」――嘘だ。
「俺が勝手にやった」――さっきそれで失敗した。
「有希は納得してる」――納得してる、と言えるのは、旧校舎の三階のあの顔を見た俺だけで、それを説明するには兄妹だと言うしかない。
言えない。言えないことが多すぎる。
この八年で、俺は言えないことを増やしすぎたんだ。増やしたぶんだけ、いま、この女の前で何も言えない。
沈黙が長すぎた。
アリサは、その沈黙を、自分なりに解釈したらしい。
「……ねえ、久世くん」
「なんだ」
「戻ってもいいのよ」
風が止まった。
「周防さんのところに。まだ間に合うでしょう。届は出し直せる」
「何を言ってる」
「わたし、一人でも出られるわ」
言い切ってから、彼女は少しだけ笑った。
見たくない種類の笑い方だった。
「効率は、悪いけど」
俺は、何か言おうとした。
何も出なかった。
喉が詰まるという表現があるが、あれは比喩じゃないんだと初めて知った。実際に、物理的に、通らなくなるものらしい。
アリサは背を向けて、歩き出した。
三歩めで、小さな声がした。
――『……嘘。行かないで』
ロシア語だった。
いままで、この女がこぼしてきたどのロシア語より、小さかった。
俺は、その場に突っ立っていた。
聞こえない男だからだ。
俺はこの特技を、隠すために使ってきた。
便利だった。何を言われても、聞こえないふりをすれば、こっちは傷つかずに済んだ。悶えるだけで済んだ。
でも、いまのは違う。
いま聞こえたものに、俺は返事をしなければならない。
返事をするには、聞こえたと認めなければならない。
認めたら、この八年、俺があいつに何を隠してきたかを、全部説明することになる。
俺は、動けなかった。
銀色の背中が、通路の角を曲がって消えた。
風が戻ってきた。十月の風は、九月のそれより、はっきり冷たかった。
どのくらい突っ立っていたのか、わからない。
肩を叩かれて、やっと振り返った。
湊だった。図面の筒を小脇に抱えている。体育館の帰りらしい。
「聞いた」
「何を」
「昼のこと。日野が教えてくれた」
委員長の情報網は、この学校で群を抜いて速い。
湊はしばらく、俺の顔を見ていた。それから、通路の手すりに寄りかかった。
「政近」
「あ?」
「お前、いま、九条さんに何を言った?」
「何も」
「何も、か」
「何も言えなかった」
湊は空を見た。夕方の雲が、赤くなりかけていた。
「言えなかったのと、言わなかったのは、違うぞ」
「同じだろ」
「違う。受け取る側からは、同じに見えるけどな」
こいつは、時々、本当に嫌なことを言う。
「谷山さん、何を聞いてきた?」
「有希に誘われたか、断ったか、なぜか」
「答えたのか」
「誘われた、断った、まで」
「なぜ、は?」
「言う必要があるかと聞き返した」
湊は「そうか」と言って、少し黙った。
「政近。それ、いちばんまずい返し方だ」
「なんでだよ」
「『言う必要はない』は、隠していますって宣言だからだ」
俺は、手すりを蹴った。硬かった。足の指が痛かった。手すりは何も言わなかった。えらい。今日は関係代名詞と手すりだけが味方だ。
「じゃあ、どう言えばよかったんだ」
「知らないよ」湊はあっさり言った。「僕はお前じゃない」
「役に立たないな」
「役に立つ台詞を渡したら、それはお前の言葉じゃなくなる」
こいつは、いつもそこだけは譲らない。
昔からだ。中学のときも、俺が親のことで揉めていたとき、こいつは一度も「こう言えばいい」を言わなかった。
黙って隣に座って、くだらない話をして、帰った。それで助かった、と言うと、こいつは嫌がる。
「湊」
「うん」
「腹減った」
「……お前、それ、九条さんにも言っただろ」
「言った」
「二回目は効かないぞ」
効かなかった。実際、まったく効かなかった。