舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
討論会の要項を、僕はもう九回読んでいる。九回読んでも、四行目は同じことしか言わない。
――候補者および副会長候補以外の第三者は、壇上・フロアを問わず、発言できない。
この一文は、僕を守っている。守っている、という言い方は正しくない。
この一文があるかぎり、僕は何を言われても答えられない。答えられないというのは、殴られる側に固定されるということだ。
守られているのではなく、縛られている。
放送室のフェーダーで言えば、いちばん下で止められている状態だ。
九条アリサが僕のところに来たのは、金曜の放課後だった。
僕はいつもの空き教室で、討論会の想定問答を作っていた。政近が中身を書いて、僕がそれを並べ替える。分担はもう固まっている。
ドアが開いて、彼女が入ってきた。
制服の襟が、少しだけ曲がっていた。この人にしては珍しい。
「宗像くん」
「どうも」
「聞きたいことがあるの」
僕はペンを置いた。
置いてから、この人が何を聞きに来たのか、見当がついてしまった。
「あの三分」
「うん」
「どこまでが、あなたなの」
やはりそれだった。
答え方は、三つあった。
ひとつ、はぐらかす。「たいしたことはしてない」。楽だ。そして嘘だ。
ふたつ、範囲を狭めて言う。「形だけだ」。これも嘘ではないが、量を隠している。
みっつ、全部言う。
僕は、三つ目を選んだ。
この人に量を隠すと、あとで倍になって返ってくる。三日間見ていたから、それはわかる。
「マイクスタンドを八センチ上げた」
「……ええ」
「顎の位置にマイクがあると、人はうつむく。うつむくと喉が締まる」
「聞いたわ」
「原稿台を外した。紙を見る人の声は、紙に向かって喋る声になる」
彼女は黙っていた。
「原稿の一枚目を全部捨てさせた。二枚目は最後の五行だけ残した」
「……」
「あなたが本当のことを言うまで、三分待った。待つのは仕事のうちだ」
僕は、まだ続けた。
「体育館の実測をした。ステージの高さ、照明の角度、前列三列の視野角」
「討論会の話ね」
「そう。会場の後ろ三分の一は最初から捨てる計算にしてある」
「捨てる?」
「全員に届かせようとすると、誰にも届かない」
彼女は、その一言を、しばらく噛んでいるようだった。
「宗像くんは、いつもそうやって考えてるの」
「そうだね」
「わたしのことも、そうやって計算してた?」
これは、答えを間違えると終わる質問だった。だから、正直に答えた。
「した」
彼女の眉が動いた。
「あなたが何を言えば届くかを、考えた。それは計算だ」
「……そう」
「でも、何を言うかは、一度も決めてない」
僕は、言いたくないものを、最後に置いた。
「本番で、あなたが最初の三十秒で二回噛んだとき、僕はフェーダーに触らなかった」
彼女の目が、わずかに動いた。
「音量をいじると、震えが『事故』になる。触らなければ、震えは『本気』になる。波形は同じだ。扱い方で意味が変わる」
空き教室が、静かになった。
窓の外で、誰かが吹奏楽の音階を上下させていた。
「言葉は、全部あなたのものだ」と僕は言った。「僕がやったのは、それだけだ」
九条アリサは、しばらく動かなかった。それから、小さく言った。
「……それだけ、で、全部じゃない」
「うん」
「否定しないのね」
「否定できない」
彼女は、机の縁に指を置いた。爪の色が白くなるほど、押していた。
「わたし、あの日、たしかに自分の言葉を喋ったわ」
「うん」
「でも、その言葉を喋れる状態に、わたしを置いたのは、あなた」
正確だった。
この人は、いつも正確だ。正確すぎて、自分を切る。
「宗像くん。ひとつ、お願いがあるの」
「どうぞ」
「討論会、あなたは何もしないで」
僕は、すぐには答えなかった。
「照明も、音も、席の配置も、全部。委員会に任せて」
「……理由は」
「勝ったときに、誰の勝ちかわからなくなるのが嫌なの」
彼女は僕を見ていた。
目が赤いわけでも、声が震えているわけでもなかった。
あの人は、泣く前にこういう顔をする。三日間見ていたから、それもわかる。
「わかった」と僕は言った。
「……いいの?」
「よくない。でも、わかった」
彼女は少しだけ驚いた顔をして、それから、頭を下げた。
下げ方が下手だった。慣れていない人の、下げ方だった。
出ていったあと、僕は自分の想定問答の束を見た。
三十七問あった。三日かけて作った。
全部、使わないことになる。
積んだ準備の九割は無駄になる。それは知っている。知っているが、今回は九割ではない。十割だ。
僕はそれを、鞄の底に入れた。
捨てはしなかった。
十分後、政近が空き教室に入ってきた。
僕が机の上を片づけているのを見て、足を止めた。
「なんだそれ」
「想定問答。三十七問」
「片づけるのか」
「使わないことになった」
僕は経緯を話した。短く話した。長く話すと、恨み言になる。
政近は、話の途中から黙っていた。聞き終わって、椅子を引いて、逆向きに座った。
「あいつ、そう言ったのか」
「言った」
「……で、お前は了承したのか」
「した」
「なんでだよ」
声が、少し大きかった。
珍しい。こいつが大きい声を出すのは、年に二回くらいだ。
「あいつ一人にやらせて勝てるなら、最初から誰もいらねえだろ」
「そうだね」
「そうだねって、お前」
「政近」
僕は、椅子に座り直した。
「あの人は、勝ちたいんじゃない。自分で勝ちたいんだ」
「同じだろ」
「全然違う」
説明は、短いものを選んだ。
「お前だって、二人目の推薦人を自分で取れって言っただろ」
政近が黙った。
左肩が、ゆっくり下りた。
「……ずるいな。それ、俺の言葉じゃねえか」
「借りた。返さない」
「返せよ」
こいつは机に突っ伏した。しばらくそのままだった。
突っ伏したまま、くぐもった声で言った。
「湊。俺は、お前を機能で数えてない」
唐突だった。
唐突なわりに、こいつがそれを言うのに何日かかったかは、たぶん想像がつく。
「知ってる」
「知ってるならいい」
「政近」
「なんだ」
「僕も、お前を友達だと思ってる」
「気持ち悪いこと言うな」
「そっちが先に言った」
顔を上げたこいつは、耳が赤かった。
僕はそれを見なかったことにして、鞄の口を閉めた。
谷山沙也加が来たのは、その三十分後だった。
昇降口で、僕を待っていた。待っていたことを隠しもしなかった。
「宗像くん。少しいいですか」
「いいよ」
外はもう暗かった。校門までの並木の下を、二人で歩いた。
沙也加は、前置きをしなかった。谷山という人はいつもそうだ。
「討論会で、九条さんに質問します」
「フロアからの質問は事前登録制だろ」
「登録しました。第一登録者です」
早い。掲示が出た週のうちに出したことになる。
「内容を聞いてもいい?」
「そのために来ました」
沙也加は足を止めた。
並木の下は暗くて、表情がよく見えなかった。声だけがはっきりしていた。
「候補者紹介放送について伺います。あの三分間の構成、演出、原稿の取捨選択に、あなた以外の人間はどの程度関与しましたか。――そう聞きます」
僕は、息を止めた。
止めたのが自分でわかった。それが、いちばん嫌だった。
「……なぜ、僕に先に言う」
「不意打ちは、父のやり方だからです」
沙也加は、それだけ言った。
説明が足りていない。足りていないが、この人が本気であることだけは伝わった。
「谷山さん」
「はい」
「その質問は、僕に聞くべきだ」
「聞けません」
「なぜ」
「要項の四行目です」
やはりそこか。
「候補者および副会長候補以外の第三者は、発言できない」沙也加は言った。「あなたは答えられません。だから、聞けません」
「なら、質問自体が成立してないだろ」
「成立します」
彼女は首を横に振った。
「わたしが聞くのは、九条アリサさんに、です。『あなたはどう認識していますか』と聞くだけです。それは候補者本人が答えるべきことです」
完璧だった。
規定に一ミリも触れていない。
僕を名指ししながら、僕を答えられない位置に置いたまま、質問だけが成立する。
照明で言えば、こちらの顔だけを明るくして、マイクを切った状態だ。この人は、そこまで計算していない。
計算していないのに、こうなる。正しさというのは、そういう形をしている。
「谷山さん」
「はい」
「もし、九条アリサが答えられなかったら、どうする」
沙也加は、少し黙った。
「わたしは、その答えを、答えとして受け取ります」
それだけ言って、彼女は歩き出した。
二歩進んで、止まった。
「宗像くん」
「うん」
「わたしは、あなたの仕事が汚いとは思っていません」
街灯が、彼女の横顔を半分だけ照らした。
「照明を当てるのは、仕事です。悪いことではありません」
「……」
「ただ、光を当てられた人が、自分で立っているかどうかは、別の話です」
彼女は行ってしまった。
僕は、並木の下にひとり残された。
翌朝、教室で日野に呼び止められた。
「宗像くん、なんか元気なくない?」
「そうかな」
「そうだよ。いつもの三割減」
三割、と言われた。
委員長の目盛りは、たまに機材より正確だ。
「日野。ちょっと聞いていい?」
「なに」
「誰かの発表を、裏で手伝うのは、ずるいと思う?」
日野は「はあ?」という顔をした。
「なんの話」
「一般論」
「一般論って顔じゃないけど」
彼女は少し考えて、それから、あっさり言った。
「ずるくはないでしょ。だって発表するのは本人じゃん」
「うん」
「あたし、この前あんたに掲示物の見出し削られたけどさ」
「削った」
「あれ、あたしのやつだって、いまでも思ってるよ」
日野は肩をすくめた。
「見出し削っただけで自分の作品になるなら、世の中の消しゴム全部作者だよ」
僕は少し笑った。その日、初めて笑った気がした。
「ありがとう」
「なにが」
「消しゴムの話」
「変な人だなあ」
日野は自分の席に戻っていった。
救われた、とまでは言わない。ただ、目盛りが一つ戻った。その夜、僕は家の倉庫にいた。
実家の会社の機材が置いてある場所だ。父が管理している。子どものころ、僕はここでよく遊んだ。積んだフライトケースの上に座って、大人が機材を出し入れするのを眺めていた。
スピーカーが二本、隅にある。十五年前の型で、いまはもう現場では使わない。
僕は、その前にしゃがんだ。
――討論会、あなたは何もしないで。
九条アリサの言葉のほうは、正直、痛かったが、納得はできる。
あの人が勝ちたい勝ち方を、あの人が決める。それは当然だ。
問題は、谷山沙也加のほうだった。
僕はずっと、自分の恐怖の名前を「人前に立つのが怖い」だと思っていた。
中学のときにそう決めて、それ以来ずっとそう説明してきた。誰にも言っていないから、訂正の機会もなかった。
違った。
名前が、違っていた。
人前に立つのは、たしかに怖い。だがそれは、もう関係ない。僕はとっくに降りている。
いま怖いのは、これだ。
――僕がやったことのせいで、誰かが「自分の力で立っていない人」に見えること。
あの待合室で、僕は自分が笑い声を取れなくなったことに、ほっとした。ほっとしたということは、僕はあのとき、自分の失敗が誰にも迷惑をかけない場所に逃げ込んだということだ。
裏方は安全だ。うまくいっても手柄にならないかわりに、失敗しても機材の都合で済む。
そう思って、三年やってきた。三年やってきて、いま、僕が調整した八センチが、ひとりの人間の言葉の持ち主を疑わせている。
安全な場所なんて、どこにもなかった。
スピーカーの網が、埃をかぶっていた。
僕は指で一度だけ、それを撫でた。
灰色がついた。
立ち上がって、倉庫の電気を消した。
非常灯の緑が、ここでも同じ色をしていた。