舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
俺、久世政近には、ひとつだけ人に言っていない特技がある。
ロシア語がわかる。
読める。聞き取れる。たぶん、日常会話なら困らない程度には話せる。子どものころ、ある人に教わった。その人のことは、あまり思い出したくない。思い出すと、いろんなものがくっついてくる。だから俺は、この特技ごと、記憶の引き出しの奥にしまっている。
使わないでいれば錆びるだろう、と思うだろ。
錆びないんだ、これが。
言葉ってやつは、覚えたときの温度ごと冷凍保存される。俺の場合は八歳の夏で、庭の土のにおいと、蚊取り線香の煙つきだ。だから耳に入るたび、こっちの都合とは無関係に、そこへ引き戻される。
いい迷惑だと思う。
しまっておけばよかった。そう思う瞬間が、最近、一日に何度もある。
全部、隣の席のせいだ。
九条アリサ。銀髪碧眼、成績学年一位、性格は氷点下。俺のネクタイを毎朝品定めしてくる女だ。周りは「孤高のお姫様」なんて呼ぶが、本人は呼ばれていることに気づいていないふりをしている。俺は、そのふりが下手なのを知っている。呼ばれたとき、あいつは必ず一回、まばたきの間隔が長くなる。
問題は、こいつが時々、ロシア語で本音を漏らすことだ。
俺の推測はこうだ。あいつは日本語で生きている。学校でも、たぶん家でも。だからロシア語は、あいつにとって「使わない引き出し」になっている。使わない引き出しの中身は、鍵をかけ忘れる。
そして、この学校でロシア語がわかる人間は、あいつと、あいつの姉と、あとは語学教師くらいのはずだ。
だから、こぼれる。安全だと思っているから。
安全じゃない。すぐ隣に、俺がいる。
その日も、そうだった。
「久世くん。今日は少しはましなネクタイね」
「昨日、二人に怒られたからな。学習した」
「一日で学習できるなら、最初からやりなさいよ」
「人間には準備期間というものがある」
「十六年あったでしょう」
いつもの応酬だ。俺は適当に受け流して、教科書を開く。アリサも前を向く。会話は終わった。
そのはずだった。
彼女の唇が、小さく動いた。息みたいな声で、こぼれるように。
――『……ちゃんと見てるじゃない、毎朝』
ロシア語だった。日本語なら絶対に言わないやつだ。
俺は、顔の筋肉をひとつも動かさないように全力を尽くした。
心臓はうるさかった。頭の中で小さい俺が転げ回っていた。
見てるって、なんだ。俺がネクタイを直したのを、こいつは毎朝チェックしてるってことか。しかも「ちゃんと見てる」の主語は俺じゃなくてお前だろ。お前が俺を見てるってことだろ。それをわざわざ、通じないと思っている言葉で言うな。
だいたい言い方がずるいんだ、日本語のときは「救いようがないわ」だの「十六年あったでしょう」だの容赦がないくせに、ロシア語に切り替わった瞬間だけ語尾が丸くなって、声が半音下がって、しかもそれを俺が全部聞き取れると知らないまま無防備に置いていくんだから、これはもう事故と呼んでいいだろ。
人格が二つあるんじゃないか。
あるとして、俺はそのうち片方としか会話を許されていない。理不尽だ。
俺は木目を見つめた。木目は何も言わなかった。えらい。木目を尊敬している。
視線を感じて横を見ると、前の席の宗像湊が、こっちを見ていた。
こいつは、ロシア語はわからない。でも、俺の顔はわかる。昔から、俺が何かをごまかしているとき、湊だけは気づく。厄介な友達だ。
湊は何も言わず、前に向き直った。何も言わないのが、いちばん怖い。
二限目の途中で、俺は考えるのをやめた。考えると負けだ。この隣席との付き合いは、要するに耐久戦なのだ。
昼休み、食堂に新メニューの貼り紙が出ていた。
「激辛麻婆 挑戦者求む」。完食で食券一枚無料、という子どもだましの餌がついている。
「くだらないな」と俺は言った。
「くだらないね」と湊も言った。
「くだらねえ! 最高だな!」
うしろから声がした。丸山毅。同じクラスの騒がしいやつだ。その隣に、いつも困り顔をしている清宮光瑠がいる。この二人は軽音部で、毅がギターで光瑠がドラムらしい。
「久世、行こうぜ。男は挑戦するもんだろ」
「男を持ち出すやつは、だいたい負ける」
「なんだそりゃ」
毅は結局ひとりで注文して、三口で悶絶していた。光瑠が黙って水を注いでいた。この二人の関係は、ずっとこれなんだろうと思う。
なのに、俺たちの前に並んでいたアリサが、券売機の前で足を止めた。
嫌な予感がした。
「……ひとつ」
「九条。やめとけ。あれ、色がおかしいぞ」
「あなたに指図される筋合いはないわ」
「筋合いの問題じゃない。命の問題だ」
「大げさね」
「大げさじゃない。あそこで悶絶してるのを見ろ」
毅が机に突っ伏していた。光瑠が背中をさすっていた。
「あの人は、たぶん耐性がないだけよ」
「お前に耐性があるという根拠は?」
「……ないけど」
「ないのか」
「試したことがないもの」
この女、時々びっくりするほど筋が通っていない。通っていないのに、言い切るから通っているように聞こえる。危険な才能だ。
結果は、見なくてもわかる話だった。
アリサは三口で無言になった。四口で箸が止まった。五口で目に涙をため、それでも意地でスプーンを置かなかった。プライドの塊みたいな女だ。
湊が小声で「あれ、たぶんもう味覚がないよ」と言った。
「わかってる」
「止めないの?」
「止めたら、あいつは残りを全部食う」
「なんで」
「止められたからだ」
湊は「面倒くさい人だなあ」と笑った。笑いながら、自分のトレーの水を横に寄せていた。こいつも大概だ。
こういうとき、俺はどうすればいいのか、なぜか体が先に動く。
俺は自分のトレーの牛乳と、レジ横で買った氷入りのカップを、彼女の前に置いた。
「意地を張るのは自由だけど、味覚を失うと明日のテストに響くぞ」
アリサは俺を睨んだ。目が潤んでいて、迫力が半分になっていた。
「……別に、助けなんて頼んでない」
「知ってる」
「頼んでないのに、置かないで」
「置いただけだ。飲めとは言ってない」
彼女は三秒黙って、それから牛乳に手を伸ばした。ごくごく飲んで、小さく息をついた。肩から力が抜けるのがわかった。
そのあとで、ほんの小さく、ロシア語で言った。
――『……こういうところが、ずるい』
俺は聞こえないふりの達人なので、涼しい顔で自分の麻婆を食べた。
辛かった。目的の九割は、顔の赤さを辛さのせいにするためだった。残りの一割は、単純に注文を間違えたからだ。
五分後、アリサは完食した。
器を置いて、水を三杯飲んで、それから、勝ち誇った顔でこっちを見た。目は真っ赤で、鼻先に汗をかいていて、勝ち誇るには全体的に無理のある状態だった。
「……食べたわ」
「見てた」
「あなたは?」
「俺は普通のを頼んだ」
「逃げたのね」
「戦略的撤退だ」
「言い訳」
言い訳だった。反論の余地がなかった。
毅が「九条さんすげえ!」と騒いで、光瑠が「無理しないほうが」と心配していた。アリサは毅の称賛には一切反応せず、光瑠の心配だけに「平気よ」と答えた。人の選び方に一貫性がある。うるさいやつを無視する能力は、この学校では武器になる。
午後の授業のあいだ、あいつは三回、水筒に手を伸ばした。四回目で、水筒が空になったらしく、小さく舌打ちをした。
俺は自分の水筒を、机の端に寄せた。
寄せただけだ。何も言わなかった。
十分後、それは半分に減っていた。
礼はなかった。
かわりに、六限目の途中で、こう聞こえた。
――『……いつも、言わないでやるのね』
俺は黒板を見た。黒板には二次関数が書いてあった。二次関数は何も言わなかった。えらい。今日は木目と黒板に助けられている。
放課後、俺は書類を届けに生徒会室へ行かされた。頼まれると断れない。俺の悪いところだ。
途中の廊下で、周防有希とすれ違った。
あいつは同級生の女子三人と歩いていて、その中心で笑っていた。三人のうち二人は、あいつのことを親友だと思っている。もう一人は、そう思いたがっている。
あいつは俺に気づいて、「あ、久世くん」と手を振った。
「おう」
「生徒会室? ちょうどよかった、これも持ってって」
書類の束を渡された。増えた。
「なんで俺が」
「通りかかったから」
「理不尽だな」
「世の中そういうものよ」
女子三人が笑った。有希も笑った。
完璧な笑い方だった。目の細め方の角度が、三日前に見たときと〇・一ミリも違わない。
俺はそれを見て、いつも少しだけ、息が浅くなる。
この笑い方を、あいつは家では絶対にしない。家では、もっと乱暴に笑う。腹を抱えて、口を開けて、変な声を出して笑う。俺はそっちの笑い方しか知らない期間が八年あって、そのあと八年、こっちの笑い方しか見ていない。
ちょうど半分だ。折り返し地点を、俺は玄関で過ぎた。
どちらが本物か、という質問は意味がない。
両方本物で、片方は仕事なんだと思う。
問題は、仕事のほうが年々うまくなっていることだ。
ドアを開けると、いきなり抱きつかれた。
「まさちかくん! 来てくれたんだ、うれしい!」
九条マリヤ。アリサの姉で、生徒会書記。同じ銀髪でも、妹とは真逆の、春みたいな人だ。距離感が壊れている。いま現在、俺の腕は彼女に抱え込まれていて、非常によろしくない体勢だった。
「マリヤ先輩。近い。近いです」
「またまた。まさちかくん、照れちゃって。かわいい」
「照れてません。物理的に近いんです」
「物理的に近いと、どうなるの?」
「……人としての尊厳が削れます」
「あらら。大変」
大変と言いながら、腕は放されなかった。
この人には、何を言っても素通りする。壁がないわけじゃない。壁のほうが向こうから避けていくんだと思う。そんな人間がいていいのか。
妹とは真逆だ。真逆すぎて、同じ家で育ったのが信じられない。
背後で、氷点下の声がした。
「……お姉ちゃん。彼、困ってる」
いつのまにかアリサが立っていた。腕を組んで、こっちを見ている。妙に不機嫌そうだった。理由は、俺にはよくわからなかった。わからないことにしておいた。
「あら、アーリャも来たの。じゃあ三人でお茶しましょ」
「しません」と俺とアリサの声がそろった。
そろったことに、二人して気まずくなった。アリサが先に目をそらした。俺も、少し遅れてそらした。
マリヤ先輩は、その一部始終を、にこにこしながら見ていた。この人は、見えている。見えていて、何も言わない。そういう人だ。
「まさちかくん。今学期、選挙があるでしょ。あなた、どっちにつくの?」
俺は答えなかった。答えられなかった、が正しい。
「どっち」というのは、周防有希か、それ以外か、という意味だ。
有希は、俺の妹だ。
誰も知らない。教室で手を振ってくるあいつと俺が兄妹だと、この学校で知っているのは、数えるほどしかいない。両親が離婚したとき、俺は父方に、有希は母方に引き取られた。俺は久世になり、有希は周防のまま残った。
残った、というのは、優しい言い方だ。
置いてきた、というのが正確なところだ。
「まだ、決めてません」
「そう」マリヤ先輩はやっと腕を放した。「決めるときは、頭より先に足が動くほうを選ぶといいわ」
「……なんですか、それ」
「わたしのお父さんが言ってたの。頭は嘘をつくけど、足はつかないんだって」
わけのわからない格言だった。わけのわからないまま、その日の夜、なぜか二回思い出した。
帰り道、湊にその話をしたら、こう言われた。
「お前、もう決めてるだろ。顔に書いてある」
「書いてない」
「左肩、上がってるぞ」
俺は肩を下ろした。
「……お前、それ、いつから見てるんだ」
「小五くらいから」
「気持ち悪いな」
「職業病だよ」
湊は笑って、コンビニに寄っていくと言って別れた。
ひとりになった夕暮れの道は、やけに長く感じた。
選挙まで、まだ時間はある。
俺は当分、聞こえないふりを続けるつもりだった。窓際のあの背中を、見ないふりも、続けるつもりだった。
どちらも、あまり長くは、もたなかった。