舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

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19_湊 引き継ぎ書

 現場を離れる方法には、二種類ある。

 

 置いていく離れ方と、持って帰る離れ方だ。

 

 前者は、自分がいなくても回るようにしてから出る。後者は、自分にしかできない状態のまま出る。

 

 後者のほうが、感謝される。

 

 次に呼ばれるのも、たいてい後者だ。

 

 僕は、前者をやることにした。

 

 土曜日の朝、体育館は空いていた。

 

 バスケ部が午後から使う。午前は誰もいない。鍵は事務室で借りた。借用簿に名前と時刻を書いた。ここでも記録が残る。

 

 僕は、平面図をステージの床に広げた。

 

 三日前まで、この図面には僕の手順が書いてあった。誰がどこに立ち、いつ照明が落ち、誰が何秒で入るか。全部、僕の頭の中とつながっていた。

 

 つながっているうちは、僕がいないと動かない。だから、切り離す作業をする。

 

 ――討論会、あなたは何もしないで。

 

 あの人はそう言った。

 

 言われたとき、僕は少し腹が立った。腹が立ったことに、あとで驚いた。

 

 演出は、頼まれてやる仕事だ。断られたら引く。それだけのはずだった。

 

 それだけのはずのことが、それだけで済まなかった。

 

 切り離す作業は、慣れている。子役をやっていたころ、僕は現場を降りる練習ばかりしていた。降りるのが上手い子どもは、次も呼ばれる。呼ばれるために、僕は自分がいなくても撮れる段取りを覚えた。

 

 いま思えば、あれは技術ではなかった。いなくなる準備を、いつもしていただけだ。

 

 その癖は、辞めても抜けなかった。抜けないまま、いまも役に立っている。役に立っているのが、少し気に入らない。

 

 僕は鉛筆を持って、図面の上に線を引き直した。

 

 一本目。マイクスタンドの高さ。

 

 二本目。照明の当たる範囲。

 

 三本目。記録係の立ち位置。

 

 僕の名前は、どこにも書かなかった。

 

 午後、日野が来た。

 

「呼び出しといて自分は座ってるの、感じ悪いよ」

 

「立ってると図面が見えない」

 

「屁理屈」

 

「屁理屈だけど、有効だ」

 

 日野は図面を覗き込んで、それから顔を上げた。

 

「これ、なに」

 

「引き継ぎ書」

 

「引き継ぎって、誰に」

 

「君と、あと二人」

 

 日野は数秒黙って、それから「わたし、当日なにするの」と言った。

 

「進行の補助。時計を持つ」

 

「時計?」

 

「そう。壇上の二人は、時間を見られない。見ると、見たことが客席に伝わる」

 

「なんで伝わるの」

 

「目線が下がるから。下がると、自信がないように見える」

 

 日野は「うわ」と言った。「そんなの、気にしたことなかった」

 

「気にしなくていい。気にするのが僕の仕事だった」

 

 だった、と言ってしまった。

 

 言ってから、訂正しなかった。訂正すると、そこに意味が生まれる。

 

 二人目と三人目は、三時に来た。

 

 丸山毅と清宮光瑠だ。政近のクラスの、うるさいほうと静かなほう。

 

「宗像! 呼ばれた!」

 

「近い」

 

「なんだよ、機材いじれるんだろ? 俺、興味あんの」

 

 毅は本当に興味があるらしかった。音響卓の前まで走っていって、フェーダーを一本、勝手に上げた。

 

 スピーカーが、ぼうっと鳴った。

 

「触るな」

 

「ごめん」

 

「謝るのが速いのは、いいことだ」

 

 毅は嬉しそうな顔をした。褒めたつもりはなかった。

 

 光瑠は、僕の斜めうしろに立っていた。何も言わずに、僕の手元を見ていた。

 

 こういう人は、現場で伸びる。

 

 説明されるより先に、手順を目で追う人間は、二回目から自分で動ける。

 

「丸山くん」

 

「毅でいい」

 

「毅。当日、有線マイクを三本立てる。本番前に、一本ずつ音を出して確かめてほしい」

 

「どうやって」

 

「喋ればいい。『あー』でいい。スピーカーから出てるか、耳で確認する」

 

「それだけ?」

 

「それだけだ。それだけのことを、みんな忘れる」

 

 僕は紙を一枚渡した。手書きの手順書だ。

 

 一、開場三十分前、マイク三本の音出し。

 

 二、二番のマイクは、スタンドを床から百三十八センチに合わせる。

 

 三、壇上に返しのスピーカーはない。喋る人には、自分の声が聞こえない。

 

 四、だから「聞こえてます」と一度言ってあげる。それだけで、声を張らなくなる。

 

 毅が「四番、これ機材の話じゃなくない?」と言った。

 

「機材の話だよ」と僕は言った。「返しがないぶんを、人の声で埋める」

 

 毅は「へえ」と言って、紙をポケットに入れた。折らずに入れた。折る発想がないらしい。

 

 光瑠には、別の紙を渡した。

 

「清宮くんは、記録を頼みたい」

 

「記録」

 

「誰が何分喋ったか、書き留めてほしい。秒単位でいい」

 

「なんで必要なの」

 

「あとで、どちらが多く喋ったかが問題になることがある。そのとき、記録がある側が強い」

 

 光瑠は紙を受け取って、じっと読んだ。それから、静かに聞いた。

 

「宗像くんは、当日どこにいるの」

 

 僕は、答えを用意していた。用意していたのに、少し遅れた。

 

「客席の、いちばん後ろ」

 

「仕事は」

 

「ない」

 

 光瑠は「そう」とだけ言った。

 

 それ以上聞かなかった。聞かないのは、察したからだ。この人は、たぶん、察したことを言わない側の人間だ。

 

 日曜日は、家で紙を書いた。

 

 午前に三枚、午後に四枚。全部で七枚になった。

 

 進行の順序。照明の合図。マイクの高さ。記録の様式。想定される事故と、その対処。

 

 事故の項目は、二十一個あった。

 

 停電。ハウリング。マイクが落ちる。原稿が飛ぶ。客席が騒ぐ。誰かが倒れる。時間が押す。時間が余る。

 

 時間が余る、というのは、事故だ。

 

 三分の空白は、三十分の失敗より印象に残る。

 

 停電のところには、二行書いた。非常灯だけは残る。人は緑の光のほうへ顔を向ける。だから、非常灯の下に誰か立たせておけば、客席はそちらを見る。見る先があれば、騒ぎは半分で済む。

 

 これは、三年前の野外イベントで覚えた。あのとき僕は十三歳で、機材車の陰に座って、大人が走るのを見ていた。走っている大人は誰も指示を出していなかった。指示を出したのは、動かなかった一人だった。

 

 僕は二十一個の全部に、対処を一行ずつ書いた。

 

 書いてから、これを誰が読むんだと思った。

 

 誰も読まない。読まないものを七枚書いた人間のことを、世間では暇人と呼ぶ。

 

 呼ばれてもいい。

 

 現場では、読まれなかった紙のぶんだけ、事故が起きなかったことになっている。証明はできない。証明できないものを積む仕事だ、これは。

 

 月曜日、僕は七枚を三つに分けた。

 

 日野に三枚。毅に二枚。光瑠に二枚。

 

 自分の分は、作らなかった。

 

 作ると、当日持っていってしまう。持っていくと、たぶん、使う。

 

 火曜日、体育館の下見に来た人がいた。

 

 谷山沙也加だった。

 

 彼女は入口で足を止めて、僕を見た。それから、僕の手が空なのを見た。

 

「何もお持ちでないんですね」

 

「渡し終わったので」

 

「渡した?」

 

「進行と、照明と、記録を。三人に」

 

 彼女は、少し黙った。

 

 眼鏡の位置を直した。この人が考えるときの癖だ。

 

「それは、関与の縮小と受け取っていいんでしょうか」

 

「好きに受け取ってください」

 

「わたしは、正確に受け取りたいんです」

 

 まっすぐな人だ。まっすぐな人は、はぐらかされるのを嫌う。

 

「僕は当日、客席の後ろにいます」と僕は言った。「立ちません。指示もしません。もう出してあります」

 

「出してある、というのは」

 

「準備は済んでいるということです。済んだものを取り消すことはできない」

 

 沙也加は、その一言のところで、目を細めた。

 

「……ずるい言い方ですね」

 

「事実です」

 

「事実であることと、ずるくないことは、両立します」

 

 完敗だった。この人は、いつも一手先の言葉を持っている。

 

 彼女は、体育館を端から端まで見た。ステージを見て、照明のバトンを見て、客席の後ろを見た。

 

 最後に、いちばん後ろの通路を見た。

 

 僕が立つ予定の場所だ。

 

「宗像くん」

 

「はい」

 

「あなたは、そこから何ができますか」

 

 僕は答えなかった。答えなかったのは、意地ではない。その場では、本当に何も思いつかなかった。

 

 彼女が帰ったあと、僕は客席の後ろまで歩いてみた。

 

 いちばん後ろの通路に立って、ステージを見た。距離は二十六メートル。この距離では、壇上の人間の表情はほとんど見えない。残るのは、立ち方と、手の位置と、肩の高さだけだ。

 

 肩の高さは、よく見えた。

 

 人は緊張すると肩が上がる。上がったことに、本人は気づかない。二十六メートル離れていても、それはわかる。

 

 わかったところで、僕にできることは何もない。

 

 声も届かない。手も届かない。合図も送れない。送れば、それが関与になる。

 

 僕は、その場所にしばらく立っていた。立っているうちに、一つだけ思いついた。

 

 思いついたが、その日は書き留めなかった。書き留めると、道具になる。道具にすると、たぶん、使ってしまう。

 

 火曜の夜、政近から電話があった。

 

「お前、何やってんだ」

 

「紙を配ってた」

 

「聞いた。毅が自慢してきた。『俺、音響なんだぜ』って三回言われた」

 

「三回は少ないほうだ」

 

 政近は電話の向こうで少し笑って、それから黙った。黙り方に、聞きたいことを持っている人の間があった。僕は待った。待つのは仕事のうちだ。

 

「なあ。お前、当日ほんとに何もしないのか」

 

「しない」

 

「それでいいのか」

 

「よくはない」

 

 言ってしまってから、少し驚いた。この男の前だと、僕はときどき、用意していない言葉を出す。

 

「けど、いいことにする」と僕は言った。「あの人が決めたことだ。決めた人の決定を、外から薄めるのは、いちばんやってはいけない」

 

 政近は「ふうん」と言った。それから「お前、たまに大人みたいなこと言うよな」と言った。

 

「たまにか」

 

「たまにだ。ふだんは紙のことしか言ってない」

 

「紙のことしか言わないやつが、七枚書いたんだ。褒めろ」

 

「えらいえらい」

 

 雑な褒め方だった。雑だが、少し軽くなった。

 

 電話を切ってから、僕は自分が笑っていることに気づいた。気づいて、消した。消す必要はなかったのに、消した。

 

 水曜日の放課後、廊下で九条アリサとすれ違った。

 

 彼女は資料の束を抱えていた。角が揃っていなかった。急いでいる人の持ち方だ。

 

「宗像くん」

 

「はい」

 

「体育館の準備、ありがとう」

 

「終わってます」

 

「知ってるわ。丸山くんが、紙を見せてくれたから」

 

 毅は、たぶん、自慢したんだと思う。

 

「四番のところ」彼女は言った。「『聞こえてます』と言ってあげる、というやつ」

 

「はい」

 

「あれ、誰に言うの」

 

「壇上の人に」

 

「壇上の人は、二人いるわ」

 

 僕は、少し止まった。止まってから、正直に言った。

 

「両方です」

 

 彼女は、少しのあいだ、僕を見ていた。それから「そう」と言って、歩いていった。

 

 怒っている顔ではなかった。納得した顔でもなかった。その中間の顔を、僕は名前で呼べない。

 

 夜、机の上に、書き損じの紙が三枚残っていた。

 

 七枚を作る過程で出たものだ。

 

 捨てようとして、やめた。

 

 二つに折って、鞄の底に入れた。三十七問の束の、隣になった。

 

 鞄の底に、使わない紙が二種類ある。

 

 どちらも、明日には要らないものだ。

 

 要らないものを持って現場に行くのが、どうしてこんなに落ち着くのか、僕にはまだ説明ができない。

 

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