舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
現場を離れる方法には、二種類ある。
置いていく離れ方と、持って帰る離れ方だ。
前者は、自分がいなくても回るようにしてから出る。後者は、自分にしかできない状態のまま出る。
後者のほうが、感謝される。
次に呼ばれるのも、たいてい後者だ。
僕は、前者をやることにした。
土曜日の朝、体育館は空いていた。
バスケ部が午後から使う。午前は誰もいない。鍵は事務室で借りた。借用簿に名前と時刻を書いた。ここでも記録が残る。
僕は、平面図をステージの床に広げた。
三日前まで、この図面には僕の手順が書いてあった。誰がどこに立ち、いつ照明が落ち、誰が何秒で入るか。全部、僕の頭の中とつながっていた。
つながっているうちは、僕がいないと動かない。だから、切り離す作業をする。
――討論会、あなたは何もしないで。
あの人はそう言った。
言われたとき、僕は少し腹が立った。腹が立ったことに、あとで驚いた。
演出は、頼まれてやる仕事だ。断られたら引く。それだけのはずだった。
それだけのはずのことが、それだけで済まなかった。
切り離す作業は、慣れている。子役をやっていたころ、僕は現場を降りる練習ばかりしていた。降りるのが上手い子どもは、次も呼ばれる。呼ばれるために、僕は自分がいなくても撮れる段取りを覚えた。
いま思えば、あれは技術ではなかった。いなくなる準備を、いつもしていただけだ。
その癖は、辞めても抜けなかった。抜けないまま、いまも役に立っている。役に立っているのが、少し気に入らない。
僕は鉛筆を持って、図面の上に線を引き直した。
一本目。マイクスタンドの高さ。
二本目。照明の当たる範囲。
三本目。記録係の立ち位置。
僕の名前は、どこにも書かなかった。
午後、日野が来た。
「呼び出しといて自分は座ってるの、感じ悪いよ」
「立ってると図面が見えない」
「屁理屈」
「屁理屈だけど、有効だ」
日野は図面を覗き込んで、それから顔を上げた。
「これ、なに」
「引き継ぎ書」
「引き継ぎって、誰に」
「君と、あと二人」
日野は数秒黙って、それから「わたし、当日なにするの」と言った。
「進行の補助。時計を持つ」
「時計?」
「そう。壇上の二人は、時間を見られない。見ると、見たことが客席に伝わる」
「なんで伝わるの」
「目線が下がるから。下がると、自信がないように見える」
日野は「うわ」と言った。「そんなの、気にしたことなかった」
「気にしなくていい。気にするのが僕の仕事だった」
だった、と言ってしまった。
言ってから、訂正しなかった。訂正すると、そこに意味が生まれる。
二人目と三人目は、三時に来た。
丸山毅と清宮光瑠だ。政近のクラスの、うるさいほうと静かなほう。
「宗像! 呼ばれた!」
「近い」
「なんだよ、機材いじれるんだろ? 俺、興味あんの」
毅は本当に興味があるらしかった。音響卓の前まで走っていって、フェーダーを一本、勝手に上げた。
スピーカーが、ぼうっと鳴った。
「触るな」
「ごめん」
「謝るのが速いのは、いいことだ」
毅は嬉しそうな顔をした。褒めたつもりはなかった。
光瑠は、僕の斜めうしろに立っていた。何も言わずに、僕の手元を見ていた。
こういう人は、現場で伸びる。
説明されるより先に、手順を目で追う人間は、二回目から自分で動ける。
「丸山くん」
「毅でいい」
「毅。当日、有線マイクを三本立てる。本番前に、一本ずつ音を出して確かめてほしい」
「どうやって」
「喋ればいい。『あー』でいい。スピーカーから出てるか、耳で確認する」
「それだけ?」
「それだけだ。それだけのことを、みんな忘れる」
僕は紙を一枚渡した。手書きの手順書だ。
一、開場三十分前、マイク三本の音出し。
二、二番のマイクは、スタンドを床から百三十八センチに合わせる。
三、壇上に返しのスピーカーはない。喋る人には、自分の声が聞こえない。
四、だから「聞こえてます」と一度言ってあげる。それだけで、声を張らなくなる。
毅が「四番、これ機材の話じゃなくない?」と言った。
「機材の話だよ」と僕は言った。「返しがないぶんを、人の声で埋める」
毅は「へえ」と言って、紙をポケットに入れた。折らずに入れた。折る発想がないらしい。
光瑠には、別の紙を渡した。
「清宮くんは、記録を頼みたい」
「記録」
「誰が何分喋ったか、書き留めてほしい。秒単位でいい」
「なんで必要なの」
「あとで、どちらが多く喋ったかが問題になることがある。そのとき、記録がある側が強い」
光瑠は紙を受け取って、じっと読んだ。それから、静かに聞いた。
「宗像くんは、当日どこにいるの」
僕は、答えを用意していた。用意していたのに、少し遅れた。
「客席の、いちばん後ろ」
「仕事は」
「ない」
光瑠は「そう」とだけ言った。
それ以上聞かなかった。聞かないのは、察したからだ。この人は、たぶん、察したことを言わない側の人間だ。
日曜日は、家で紙を書いた。
午前に三枚、午後に四枚。全部で七枚になった。
進行の順序。照明の合図。マイクの高さ。記録の様式。想定される事故と、その対処。
事故の項目は、二十一個あった。
停電。ハウリング。マイクが落ちる。原稿が飛ぶ。客席が騒ぐ。誰かが倒れる。時間が押す。時間が余る。
時間が余る、というのは、事故だ。
三分の空白は、三十分の失敗より印象に残る。
停電のところには、二行書いた。非常灯だけは残る。人は緑の光のほうへ顔を向ける。だから、非常灯の下に誰か立たせておけば、客席はそちらを見る。見る先があれば、騒ぎは半分で済む。
これは、三年前の野外イベントで覚えた。あのとき僕は十三歳で、機材車の陰に座って、大人が走るのを見ていた。走っている大人は誰も指示を出していなかった。指示を出したのは、動かなかった一人だった。
僕は二十一個の全部に、対処を一行ずつ書いた。
書いてから、これを誰が読むんだと思った。
誰も読まない。読まないものを七枚書いた人間のことを、世間では暇人と呼ぶ。
呼ばれてもいい。
現場では、読まれなかった紙のぶんだけ、事故が起きなかったことになっている。証明はできない。証明できないものを積む仕事だ、これは。
月曜日、僕は七枚を三つに分けた。
日野に三枚。毅に二枚。光瑠に二枚。
自分の分は、作らなかった。
作ると、当日持っていってしまう。持っていくと、たぶん、使う。
火曜日、体育館の下見に来た人がいた。
谷山沙也加だった。
彼女は入口で足を止めて、僕を見た。それから、僕の手が空なのを見た。
「何もお持ちでないんですね」
「渡し終わったので」
「渡した?」
「進行と、照明と、記録を。三人に」
彼女は、少し黙った。
眼鏡の位置を直した。この人が考えるときの癖だ。
「それは、関与の縮小と受け取っていいんでしょうか」
「好きに受け取ってください」
「わたしは、正確に受け取りたいんです」
まっすぐな人だ。まっすぐな人は、はぐらかされるのを嫌う。
「僕は当日、客席の後ろにいます」と僕は言った。「立ちません。指示もしません。もう出してあります」
「出してある、というのは」
「準備は済んでいるということです。済んだものを取り消すことはできない」
沙也加は、その一言のところで、目を細めた。
「……ずるい言い方ですね」
「事実です」
「事実であることと、ずるくないことは、両立します」
完敗だった。この人は、いつも一手先の言葉を持っている。
彼女は、体育館を端から端まで見た。ステージを見て、照明のバトンを見て、客席の後ろを見た。
最後に、いちばん後ろの通路を見た。
僕が立つ予定の場所だ。
「宗像くん」
「はい」
「あなたは、そこから何ができますか」
僕は答えなかった。答えなかったのは、意地ではない。その場では、本当に何も思いつかなかった。
彼女が帰ったあと、僕は客席の後ろまで歩いてみた。
いちばん後ろの通路に立って、ステージを見た。距離は二十六メートル。この距離では、壇上の人間の表情はほとんど見えない。残るのは、立ち方と、手の位置と、肩の高さだけだ。
肩の高さは、よく見えた。
人は緊張すると肩が上がる。上がったことに、本人は気づかない。二十六メートル離れていても、それはわかる。
わかったところで、僕にできることは何もない。
声も届かない。手も届かない。合図も送れない。送れば、それが関与になる。
僕は、その場所にしばらく立っていた。立っているうちに、一つだけ思いついた。
思いついたが、その日は書き留めなかった。書き留めると、道具になる。道具にすると、たぶん、使ってしまう。
火曜の夜、政近から電話があった。
「お前、何やってんだ」
「紙を配ってた」
「聞いた。毅が自慢してきた。『俺、音響なんだぜ』って三回言われた」
「三回は少ないほうだ」
政近は電話の向こうで少し笑って、それから黙った。黙り方に、聞きたいことを持っている人の間があった。僕は待った。待つのは仕事のうちだ。
「なあ。お前、当日ほんとに何もしないのか」
「しない」
「それでいいのか」
「よくはない」
言ってしまってから、少し驚いた。この男の前だと、僕はときどき、用意していない言葉を出す。
「けど、いいことにする」と僕は言った。「あの人が決めたことだ。決めた人の決定を、外から薄めるのは、いちばんやってはいけない」
政近は「ふうん」と言った。それから「お前、たまに大人みたいなこと言うよな」と言った。
「たまにか」
「たまにだ。ふだんは紙のことしか言ってない」
「紙のことしか言わないやつが、七枚書いたんだ。褒めろ」
「えらいえらい」
雑な褒め方だった。雑だが、少し軽くなった。
電話を切ってから、僕は自分が笑っていることに気づいた。気づいて、消した。消す必要はなかったのに、消した。
水曜日の放課後、廊下で九条アリサとすれ違った。
彼女は資料の束を抱えていた。角が揃っていなかった。急いでいる人の持ち方だ。
「宗像くん」
「はい」
「体育館の準備、ありがとう」
「終わってます」
「知ってるわ。丸山くんが、紙を見せてくれたから」
毅は、たぶん、自慢したんだと思う。
「四番のところ」彼女は言った。「『聞こえてます』と言ってあげる、というやつ」
「はい」
「あれ、誰に言うの」
「壇上の人に」
「壇上の人は、二人いるわ」
僕は、少し止まった。止まってから、正直に言った。
「両方です」
彼女は、少しのあいだ、僕を見ていた。それから「そう」と言って、歩いていった。
怒っている顔ではなかった。納得した顔でもなかった。その中間の顔を、僕は名前で呼べない。
夜、机の上に、書き損じの紙が三枚残っていた。
七枚を作る過程で出たものだ。
捨てようとして、やめた。
二つに折って、鞄の底に入れた。三十七問の束の、隣になった。
鞄の底に、使わない紙が二種類ある。
どちらも、明日には要らないものだ。
要らないものを持って現場に行くのが、どうしてこんなに落ち着くのか、僕にはまだ説明ができない。