舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

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20_湊 使わない札

 討論会の前夜、僕は放送室にいた。

 

 何もするなと言われている。だから、何もしないために来た。

 

 変な言い方だが、そういうことになる。

 

 現場を離れる前には、自分の痕跡を回収する。ケーブルの這わせ方、テープの残り、卓の設定。次に入る人間が、前の人間の癖に足を取られないようにする。それが引き際の作法だ。

 

 委員会に出した図面は、二枚とも受理されていた。

 

 可搬のスタンドを両袖に一本ずつ。壇上の両端が落ちるのを直すための提案だ。どちらの候補にも同じだけ効く。

 

 受理の紙には「提案者・宗像湊」と印字されていた。

 

 僕はその紙を三回読んだ。

 

 名前が残っている。それだけのことが、いまはやけに重かった。

 

 三十七問の想定問答は、まだ鞄の底にある。

 

 捨てるべきだと思う。思うのに、手が動かない。

 

 現場では、いらないケーブルを持ち歩くやつがいちばん邪魔になる。そういう先輩を何人も見てきた。自分がそれになっているのは、あまり気分がよくない。

 

 僕は音響卓のフェーダーを、全部ゼロに戻した。

 

 マイクスタンドの高さも、初期位置に戻した。

 

 八センチ下げた。

 

 下げた瞬間に、少し嫌な感じがした。あの八センチは、僕がこの選挙にした唯一の物理的な介入で、それを自分の手で消しているのだから、当然と言えば当然だ。

 

「まだいたの」

 

 振り返ると、周防有希が立っていた。

 

 制服のままだった。鞄も持っている。廊下の明かりを背負っているので、顔が影になっていた。

 

「なんでここに」

 

「綾乃に、あなたが校舎に残ってるって聞いたの」

 

「監視されてる」

 

「されてるわね」

 

 彼女は中に入って、ドアを閉めた。

 

 閉める必要のないドアだった。

 

「明日、討論会でしょう」

 

「そうだね」

 

「なのに、うちのライバル陣営の演出担当は、機材を片づけてる」

 

「演出担当じゃない。推薦人だ」

 

「そう聞いてる」有希は言った。「九条さんに、何もするなって言われたんですって?」

 

 僕は答えなかった。答えないことが、答えになった。

 

 有希は、椅子を引いて座った。座り方が、学園の周防有希のそれではなかった。背もたれに寄りかかって、足を投げ出していた。

 

「谷山さんの質問、知ってるわ」

 

 僕は、フェーダーから手を離した。

 

「登録一覧、生徒会にも回るのよ。広報だから見られるの」

 

「そうか」

 

「驚かないのね」

 

「聞いてたから。本人に」

 

 有希が動きを止めた。

 

「……谷山さん、あなたに先に言ったの?」

 

「言った」

 

「なんで」

 

「不意打ちは父のやり方だから、だそうだ」

 

 有希は、二秒くらい黙った。それから、両手で顔を覆って、机に突っ伏した。

 

「……もう、あの人、本当に」

 

「どうした」

 

「まっすぐすぎて腹が立つ」

 

 顔を上げたときには、目が笑っていた。

 

「わたし、二年前もそう思ったの。討論会でこっちの弱点を突く前に、『ここを突きます』って予告してきたのよ、あの人」

 

「予告したのか」

 

「したの。信じられる?」

 

「信じられる」

 

 あの人ならやる。

 

「読んだとき、正直、笑っちゃった」

 

 有希は天井を見た。

 

「あんなの、卑怯じゃないもの。まっすぐすぎて、こっちが恥ずかしくなる」

 

「うん」

 

「でもね、宗像くん」

 

 彼女は、顔をこちらに戻した。

 

「あの質問、わたしが乗ったら、たぶん終わるわ」

 

 部屋が静かになった。

 

 換気の音だけがしていた。

 

「わたしは、相互質疑の二十分を持ってる。谷山さんの十五分より前にね」

 

「うん」

 

「その二十分で、わたしが同じことを先に聞いたら、どうなると思う?」

 

 考えるまでもなかった。

 

 沙也加の質問は、外から来る一発だ。ぶつかっても、九条アリサはまだ自分の陣地に立っている。

 

 だが同じ問いを、対立候補が壇上から先に投げたら、それは選挙の争点になる。争点になったものは、その日のうちに全校の話題になる。

 

「終わるね」

 

「終わるでしょう」

 

「なんで、それを僕に言う」

 

 有希は、少し笑った。

 

 作った笑い方ではなかった。三回目だ。

 

「使わないって言いに来たの」

 

 僕は、しばらく黙っていた。

 

「……理由を聞いていい?」

 

「三つある」

 

 指を三本立てた。こういうところは、政近に似ている。

 

「ひとつ。谷山さんの手を借りて勝つのは、あの人に失礼だから」

 

「うん」

 

「ふたつ。九条アリサさんを、いちばん弱いところで倒しても、面白くないから」

 

「面白い、で決めるのか」

 

「決めるわ。わたし、面白くないことのために三年も準備してない」

 

 言い方に力があった。有希は、本気でそう思っている。

 

「みっつめは?」

 

 有希は、指を一本だけ残して、それを見ていた。それから、机の上に手を下ろした。

 

「そういう勝ち方をすると、おじいさまが喜ぶから」

 

 僕は、何も言えなかった。

 

「うちの家はね」有希は続けた。「勝てば全部いいの。勝ち方は問われない。問われないっていうのは、褒められないってことでもあるんだけど」

 

「うん」

 

「一度でも、あの人が喜ぶ勝ち方をしたら、わたしは二度と別の勝ち方を選べなくなる」

 

 窓の外は暗かった。グラウンドの照明は落ちている。

 

 彼女は、机の木目を指でなぞっていた。

 

「わたしは、勝ちたいの。本気で勝ちたい」

 

「うん」

 

「でも、勝ったあとに残るのが、おじいさまの機嫌だけっていうのは、いやなの」

 

 それは、贅沢だ、と僕は思った。

 

 思ってしまったので、言った。

 

「贅沢だね」

 

 有希の指が止まった。

 

「……ひどい人」

 

「ひどいけど、本当だ。負けたら、勝ち方を選んだことすら誰も知らない」

 

「知ってる」

 

「それでも?」

 

「それでも」

 

 彼女は顔を上げた。

 

 目のあたりが、少しだけ赤かった。

 

「わたし、七歳のときから、鏡の前で笑い方を練習してるの」

 

 初めて聞く話だった。

 

「二ミリ上。歯は上を四本まで。それ以上は品がなくなる」

 

「……そこまで決めてるのか」

 

「決めてる。決めないと、自然に見えないから」

 

 有希は、自分の頬に指を当てた。

 

「自然って、練習で作れるのよ。七歳で知った」

 

 僕は、それを聞いていた。

 

 聞きながら、自分の待合室のことを思い出していた。壁越しに聞こえた、本物の笑い声のことを。

 

「宗像くん」

 

「うん」

 

「わたし、それをずっと『武器』だと思ってた」

 

「うん」

 

「でも、たまに、これは全部あの家に作られたものなんじゃないかって思うの」

 

 彼女は手を下ろした。

 

「だから、一回くらい、自分で決めた勝ち方をしてみたい」

 

 部屋が、また静かになった。

 

 僕はフェーダーの列を見ていた。ゼロに揃った十二本が、きれいに並んでいる。

 

 言うかどうか、三秒迷った。

 

 三秒も迷うのなら、答えは出ている。この人は自分の鏡の話をした。こちらが黙っているのは、勘定が合わない。

 

「周防さん」

 

「なに」

 

「僕が子役を辞めた日の話、してもいい?」

 

 有希の顔が、動いた。

 

 驚いた顔だった。作っていない驚き方だった。

 

「……いいの?」

 

「よくない。でも、する」

 

 僕は椅子に座り直した。

 

「オーディションの待合室だった。中学に上がった年だ」

 

「うん」

 

「僕の前に、七つか八つくらいの子が座ってた。台本を膝に置いて、足をぶらぶらさせてた」

 

 有希は黙って聞いていた。

 

「その子が呼ばれて、扉が閉まって、しばらくして、中から大人の笑い声が聞こえた」

 

「……うん」

 

「作った笑い声じゃなかった。壁越しでもわかる」

 

 僕は、そこで一度、息を継いだ。

 

「僕は、自分がもうあの笑い声を取れないって、その瞬間にわかった」

 

「悔しかった?」

 

「ほっとした」

 

 有希が、こちらを見た。

 

「ほっとしたんだ。それが、いちばんこたえた」

 

 彼女は何も言わなかった。

 

 慰めも、質問も、共感の相槌も、何もなかった。

 

 しばらくして、こう言った。

 

「わたし、その話、一生忘れないと思う」

 

 それだけだった。それが、いちばん正しい受け取り方だった。この人は、こういうときだけ、演技を全部やめる。

 

「有希さん」

 

 名前で呼んだのは、初めてだった。

 

 呼んでから気づいた。金曜の罰ゲームは、僕は参加していない。

 

「……いま、なんて」

 

「間違えた。周防さん」

 

「間違えたって言うのは、間違えたときに言うことでしょう」

 

「間違えた」

 

「二回言った」

 

 有希は少し笑って、それから真顔に戻った。

 

「宗像くん。これ、貸しの返済じゃないから」

 

「わかってる」

 

「わかってない顔してる」

 

「顔は動かしてない」

 

「動かしてないところが動いてる」

 

 金曜に統也先輩が言われたのと同じ台詞だった。この兄妹は、本当に同じ道具を持っている。

 

「返さないわよ、貸し」有希は言った。「だって、返したら」

 

 彼女はそこで止まった。止まったのは、僕の台詞を思い出したからだと思う。

 

 ――返してもらったら、僕、君に用がなくなるだろ。

 

 放送室で、僕が変な言い方をしたやつだ。

 

 有希は、言い直さなかった。言い直さないことで、意味が残った。

 

 彼女は立ち上がって、鞄を持った。

 

「もうひとつだけ、言いに来た」

 

「まだあるのか」

 

「あなた、また降りようとしてるでしょう」

 

 僕は、返事をしなかった。

 

「九条さんに何もするなって言われて、素直に引いたのは、優しさじゃないわよね」

 

 答えなかった。

 

「あなた、正しい理由で引けるときが、たぶんいちばん楽なんだと思う」

 

 卓の上の埃が、指の下でざらついた。

 

 僕は、この人に会うと、いつもこうなる。

 

 周防有希は、演技をする人だ。演技をする人は、演技をする人を見抜く。同業者だからだ。

 

 だから、この人の前でだけ、僕は隠せない。

 

「……そうかもしれない」

 

「認めるのね」

 

「認めないと、話が進まない」

 

「進めたいの?」

 

 僕は、質問の意味を測りかねた。

 

 測っているうちに、有希はドアのところまで歩いていた。

 

「宗像くん」

 

「うん」

 

「明日、わたしを見てて」

 

 振り返らずに、そう言った。

 

「壇上の九条さんじゃなくて。わたしを」

 

「……なんで」

 

「わたしが、自分で決めた勝ち方をするところを、誰かに見ててほしいから」

 

 声が、少しだけ揺れた。

 

「見ててくれる人がいないと、それはただの独り言になっちゃうでしょう」

 

 ドアが開いて、廊下の明かりが入ってきた。

 

「じゃあ、明日。……正々堂々ね」

 

 ドアが閉まった。ドアが、もう一度開いた。

 

 君嶋綾乃が、顔だけ出した。

 

「宗像さま」

 

「うん」

 

「明日、有希様は、おそらく苦しい戦い方をなさいます」

 

「そうだね」

 

「使える札を使わないというのは、そういうことです」

 

 綾乃の声には、抑揚がなかった。抑揚がないぶん、内容が濃かった。

 

「止めないの?」

 

「わたくしの職務は、有希様をお守りすることです」綾乃は言った。「お決めになったことを止めるのは、守ることに入りません」

 

「厳しい職務だね」

 

「はい」

 

 彼女は少しだけ間を置いた。

 

「宗像さま。ひとつ、申し上げます」

 

「どうぞ」

 

「有希様が、ご自分で決めた勝ち方をなさるのは、わたくしが知るかぎり、初めてです」

 

 僕は、返事ができなかった。

 

「では、失礼いたします」

 

 ドアが閉まった。

 

 足音が二つ、遠ざかっていった。

 

 僕は、しばらく卓の前に座っていた。それから、マイクスタンドに手を伸ばした。

 

 初期位置に戻したまま、そこにあった。

 

 僕は、それを八センチ上げなかった。上げなかったことを、初めて、自分の意思でやった気がした。

 

 これまで僕がやってきたのは、全部「引く」だった。降りる、退く、譲る、任せる。言い方は違うが、動きは同じだ。

 

 今日のは、少しだけ違う。

 

 僕は明日、何もしない。何もしないことを、選んでやる。

 

 ――明日、わたしを見てて。

 

 あの人は、自分がずいぶん重いことを言ったと思っていない。思っていないから、余計に効く。

 

 僕は放送室の電気を消した。

 

 非常口の緑が、今日も同じ色をしていた。

 

 いつも同じ色をしているというのは、便利なことだと思っていた。

 

 今日は、少しだけ、頼りなく見えた。

 

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