舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
討論会の前夜、僕は放送室にいた。
何もするなと言われている。だから、何もしないために来た。
変な言い方だが、そういうことになる。
現場を離れる前には、自分の痕跡を回収する。ケーブルの這わせ方、テープの残り、卓の設定。次に入る人間が、前の人間の癖に足を取られないようにする。それが引き際の作法だ。
委員会に出した図面は、二枚とも受理されていた。
可搬のスタンドを両袖に一本ずつ。壇上の両端が落ちるのを直すための提案だ。どちらの候補にも同じだけ効く。
受理の紙には「提案者・宗像湊」と印字されていた。
僕はその紙を三回読んだ。
名前が残っている。それだけのことが、いまはやけに重かった。
三十七問の想定問答は、まだ鞄の底にある。
捨てるべきだと思う。思うのに、手が動かない。
現場では、いらないケーブルを持ち歩くやつがいちばん邪魔になる。そういう先輩を何人も見てきた。自分がそれになっているのは、あまり気分がよくない。
僕は音響卓のフェーダーを、全部ゼロに戻した。
マイクスタンドの高さも、初期位置に戻した。
八センチ下げた。
下げた瞬間に、少し嫌な感じがした。あの八センチは、僕がこの選挙にした唯一の物理的な介入で、それを自分の手で消しているのだから、当然と言えば当然だ。
「まだいたの」
振り返ると、周防有希が立っていた。
制服のままだった。鞄も持っている。廊下の明かりを背負っているので、顔が影になっていた。
「なんでここに」
「綾乃に、あなたが校舎に残ってるって聞いたの」
「監視されてる」
「されてるわね」
彼女は中に入って、ドアを閉めた。
閉める必要のないドアだった。
「明日、討論会でしょう」
「そうだね」
「なのに、うちのライバル陣営の演出担当は、機材を片づけてる」
「演出担当じゃない。推薦人だ」
「そう聞いてる」有希は言った。「九条さんに、何もするなって言われたんですって?」
僕は答えなかった。答えないことが、答えになった。
有希は、椅子を引いて座った。座り方が、学園の周防有希のそれではなかった。背もたれに寄りかかって、足を投げ出していた。
「谷山さんの質問、知ってるわ」
僕は、フェーダーから手を離した。
「登録一覧、生徒会にも回るのよ。広報だから見られるの」
「そうか」
「驚かないのね」
「聞いてたから。本人に」
有希が動きを止めた。
「……谷山さん、あなたに先に言ったの?」
「言った」
「なんで」
「不意打ちは父のやり方だから、だそうだ」
有希は、二秒くらい黙った。それから、両手で顔を覆って、机に突っ伏した。
「……もう、あの人、本当に」
「どうした」
「まっすぐすぎて腹が立つ」
顔を上げたときには、目が笑っていた。
「わたし、二年前もそう思ったの。討論会でこっちの弱点を突く前に、『ここを突きます』って予告してきたのよ、あの人」
「予告したのか」
「したの。信じられる?」
「信じられる」
あの人ならやる。
「読んだとき、正直、笑っちゃった」
有希は天井を見た。
「あんなの、卑怯じゃないもの。まっすぐすぎて、こっちが恥ずかしくなる」
「うん」
「でもね、宗像くん」
彼女は、顔をこちらに戻した。
「あの質問、わたしが乗ったら、たぶん終わるわ」
部屋が静かになった。
換気の音だけがしていた。
「わたしは、相互質疑の二十分を持ってる。谷山さんの十五分より前にね」
「うん」
「その二十分で、わたしが同じことを先に聞いたら、どうなると思う?」
考えるまでもなかった。
沙也加の質問は、外から来る一発だ。ぶつかっても、九条アリサはまだ自分の陣地に立っている。
だが同じ問いを、対立候補が壇上から先に投げたら、それは選挙の争点になる。争点になったものは、その日のうちに全校の話題になる。
「終わるね」
「終わるでしょう」
「なんで、それを僕に言う」
有希は、少し笑った。
作った笑い方ではなかった。三回目だ。
「使わないって言いに来たの」
僕は、しばらく黙っていた。
「……理由を聞いていい?」
「三つある」
指を三本立てた。こういうところは、政近に似ている。
「ひとつ。谷山さんの手を借りて勝つのは、あの人に失礼だから」
「うん」
「ふたつ。九条アリサさんを、いちばん弱いところで倒しても、面白くないから」
「面白い、で決めるのか」
「決めるわ。わたし、面白くないことのために三年も準備してない」
言い方に力があった。有希は、本気でそう思っている。
「みっつめは?」
有希は、指を一本だけ残して、それを見ていた。それから、机の上に手を下ろした。
「そういう勝ち方をすると、おじいさまが喜ぶから」
僕は、何も言えなかった。
「うちの家はね」有希は続けた。「勝てば全部いいの。勝ち方は問われない。問われないっていうのは、褒められないってことでもあるんだけど」
「うん」
「一度でも、あの人が喜ぶ勝ち方をしたら、わたしは二度と別の勝ち方を選べなくなる」
窓の外は暗かった。グラウンドの照明は落ちている。
彼女は、机の木目を指でなぞっていた。
「わたしは、勝ちたいの。本気で勝ちたい」
「うん」
「でも、勝ったあとに残るのが、おじいさまの機嫌だけっていうのは、いやなの」
それは、贅沢だ、と僕は思った。
思ってしまったので、言った。
「贅沢だね」
有希の指が止まった。
「……ひどい人」
「ひどいけど、本当だ。負けたら、勝ち方を選んだことすら誰も知らない」
「知ってる」
「それでも?」
「それでも」
彼女は顔を上げた。
目のあたりが、少しだけ赤かった。
「わたし、七歳のときから、鏡の前で笑い方を練習してるの」
初めて聞く話だった。
「二ミリ上。歯は上を四本まで。それ以上は品がなくなる」
「……そこまで決めてるのか」
「決めてる。決めないと、自然に見えないから」
有希は、自分の頬に指を当てた。
「自然って、練習で作れるのよ。七歳で知った」
僕は、それを聞いていた。
聞きながら、自分の待合室のことを思い出していた。壁越しに聞こえた、本物の笑い声のことを。
「宗像くん」
「うん」
「わたし、それをずっと『武器』だと思ってた」
「うん」
「でも、たまに、これは全部あの家に作られたものなんじゃないかって思うの」
彼女は手を下ろした。
「だから、一回くらい、自分で決めた勝ち方をしてみたい」
部屋が、また静かになった。
僕はフェーダーの列を見ていた。ゼロに揃った十二本が、きれいに並んでいる。
言うかどうか、三秒迷った。
三秒も迷うのなら、答えは出ている。この人は自分の鏡の話をした。こちらが黙っているのは、勘定が合わない。
「周防さん」
「なに」
「僕が子役を辞めた日の話、してもいい?」
有希の顔が、動いた。
驚いた顔だった。作っていない驚き方だった。
「……いいの?」
「よくない。でも、する」
僕は椅子に座り直した。
「オーディションの待合室だった。中学に上がった年だ」
「うん」
「僕の前に、七つか八つくらいの子が座ってた。台本を膝に置いて、足をぶらぶらさせてた」
有希は黙って聞いていた。
「その子が呼ばれて、扉が閉まって、しばらくして、中から大人の笑い声が聞こえた」
「……うん」
「作った笑い声じゃなかった。壁越しでもわかる」
僕は、そこで一度、息を継いだ。
「僕は、自分がもうあの笑い声を取れないって、その瞬間にわかった」
「悔しかった?」
「ほっとした」
有希が、こちらを見た。
「ほっとしたんだ。それが、いちばんこたえた」
彼女は何も言わなかった。
慰めも、質問も、共感の相槌も、何もなかった。
しばらくして、こう言った。
「わたし、その話、一生忘れないと思う」
それだけだった。それが、いちばん正しい受け取り方だった。この人は、こういうときだけ、演技を全部やめる。
「有希さん」
名前で呼んだのは、初めてだった。
呼んでから気づいた。金曜の罰ゲームは、僕は参加していない。
「……いま、なんて」
「間違えた。周防さん」
「間違えたって言うのは、間違えたときに言うことでしょう」
「間違えた」
「二回言った」
有希は少し笑って、それから真顔に戻った。
「宗像くん。これ、貸しの返済じゃないから」
「わかってる」
「わかってない顔してる」
「顔は動かしてない」
「動かしてないところが動いてる」
金曜に統也先輩が言われたのと同じ台詞だった。この兄妹は、本当に同じ道具を持っている。
「返さないわよ、貸し」有希は言った。「だって、返したら」
彼女はそこで止まった。止まったのは、僕の台詞を思い出したからだと思う。
――返してもらったら、僕、君に用がなくなるだろ。
放送室で、僕が変な言い方をしたやつだ。
有希は、言い直さなかった。言い直さないことで、意味が残った。
彼女は立ち上がって、鞄を持った。
「もうひとつだけ、言いに来た」
「まだあるのか」
「あなた、また降りようとしてるでしょう」
僕は、返事をしなかった。
「九条さんに何もするなって言われて、素直に引いたのは、優しさじゃないわよね」
答えなかった。
「あなた、正しい理由で引けるときが、たぶんいちばん楽なんだと思う」
卓の上の埃が、指の下でざらついた。
僕は、この人に会うと、いつもこうなる。
周防有希は、演技をする人だ。演技をする人は、演技をする人を見抜く。同業者だからだ。
だから、この人の前でだけ、僕は隠せない。
「……そうかもしれない」
「認めるのね」
「認めないと、話が進まない」
「進めたいの?」
僕は、質問の意味を測りかねた。
測っているうちに、有希はドアのところまで歩いていた。
「宗像くん」
「うん」
「明日、わたしを見てて」
振り返らずに、そう言った。
「壇上の九条さんじゃなくて。わたしを」
「……なんで」
「わたしが、自分で決めた勝ち方をするところを、誰かに見ててほしいから」
声が、少しだけ揺れた。
「見ててくれる人がいないと、それはただの独り言になっちゃうでしょう」
ドアが開いて、廊下の明かりが入ってきた。
「じゃあ、明日。……正々堂々ね」
ドアが閉まった。ドアが、もう一度開いた。
君嶋綾乃が、顔だけ出した。
「宗像さま」
「うん」
「明日、有希様は、おそらく苦しい戦い方をなさいます」
「そうだね」
「使える札を使わないというのは、そういうことです」
綾乃の声には、抑揚がなかった。抑揚がないぶん、内容が濃かった。
「止めないの?」
「わたくしの職務は、有希様をお守りすることです」綾乃は言った。「お決めになったことを止めるのは、守ることに入りません」
「厳しい職務だね」
「はい」
彼女は少しだけ間を置いた。
「宗像さま。ひとつ、申し上げます」
「どうぞ」
「有希様が、ご自分で決めた勝ち方をなさるのは、わたくしが知るかぎり、初めてです」
僕は、返事ができなかった。
「では、失礼いたします」
ドアが閉まった。
足音が二つ、遠ざかっていった。
僕は、しばらく卓の前に座っていた。それから、マイクスタンドに手を伸ばした。
初期位置に戻したまま、そこにあった。
僕は、それを八センチ上げなかった。上げなかったことを、初めて、自分の意思でやった気がした。
これまで僕がやってきたのは、全部「引く」だった。降りる、退く、譲る、任せる。言い方は違うが、動きは同じだ。
今日のは、少しだけ違う。
僕は明日、何もしない。何もしないことを、選んでやる。
――明日、わたしを見てて。
あの人は、自分がずいぶん重いことを言ったと思っていない。思っていないから、余計に効く。
僕は放送室の電気を消した。
非常口の緑が、今日も同じ色をしていた。
いつも同じ色をしているというのは、便利なことだと思っていた。
今日は、少しだけ、頼りなく見えた。