舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
十月二十四日、六限。
体育館に、全校生徒が入った。
床に座らせるかたちだ。前から一年、二年、三年。教師は壁際に並ぶ。窓は閉めてある。人が八百人も入ると、十月でも暑い。
壇上には、椅子が四つ。
向かって右に、周防有希と君嶋綾乃。
左に、九条アリサと俺。
中央に司会。選挙管理委員会の三年の先輩だ。その斜め後ろに、記録係として谷山沙也加が座っていた。
両袖に、スタンドライトが一本ずつ立っていた。
昨日の夕方には無かったものだ。委員会が湊の提案を通したらしい。おかげで、壇の端に座る俺の手元まで、ちゃんと明るい。
俺は客席を見た。
いちばん後ろの、通路の脇。壁にもたれて、宗像湊が立っていた。
目は合わなかった。あいつは、こっちを見ていなかった。
三日前、俺はアリサに封筒を渡した。
三週間ぶんの数字だ。予算の内訳、部費の推移、備品の更新周期。
「なぜ、いま?」
「いま必要だからだ」
「もっと早く渡せたでしょう」
「渡せた」
「なぜ渡さなかったの」
俺は正直に言った。
「早く渡すと、お前が『もらったもの』だと思うからだ」
アリサは封筒を開けて、中を確認して、それから言った。
「……いまでも、もらったものだわ」
「そうだな」
「でも、使う」
「そうしろ」
あいつは三日で全部を頭に入れた。
この女の異常なところは、そこだ。三週間かけて集めた数字を、三日で自分のものにする。
開始の十分前、体育館の裏で、俺はアリサと二人になった。
搬入口のところだ。生徒が通らない。コンクリートの匂いがする。
あいつは壁に背中をつけて、目を閉じていた。
「緊張してるか」
「してるわ」
「珍しく素直だな」
「隠す余裕がないの」
俺は少し笑った。笑ったら、自分の喉もかなり乾いていることに気づいた。
「九条」
「なに」
「ひとつだけ言っておく」
あいつが目を開けた。
「今日、俺は壇の上にいるが、たぶん何もできない」
「知ってるわ。要項は読んだもの」
「読んだのか」
「九回読んだ」
湊と同じ回数だった。この二人は本当に似ている。似ているのに、そのことを二人とも認めない。
「だから、期待してないわ」
「そうか」
「……いえ」
あいつは、言い直した。
「期待は、してる」
「どっちだ」
「助けてもらう期待は、してない」
搬入口の向こうで、生徒の靴音がしていた。八百人が体育館に入っていく音だ。
「見ててもらう期待は、してる」
俺は、口を閉じたままでいた。
できなかった、と言うほうが近い。
二日前、あいつは俺に「戻ってもいい」と言った。その返事を、俺はまだしていない。
いまするべきじゃない。それはわかっている。わかっているが、俺は永遠にタイミングを言い訳にする。
「九条」
「なに」
「戻らない」
あいつが、こっちを向いた。
「あの日の返事だ。遅くなった」
二秒くらい、何も言わなかった。それから、前を向いて、目を閉じ直した。
「……遅すぎるわ」
「悪い」
「でも、聞いたから」
あいつの耳が、少し赤かった。それだけ確認して、俺は先に体育館へ入った。
司会が開会を告げた。
最初は、各候補の主張。五分ずつ。抽選で、九条アリサが先だった。
あいつは、演台に立った。
原稿を持っていなかった。
俺は少しだけ、息を止めた。
持っていないのは、覚えたからだ。あいつはやると言ったらやる。だが、八百人の前で紙を持たないのは、単なる度胸の問題じゃない。逃げ場を自分で消す行為だ。
「一年A組、九条アリサです」
声が、体育館の後ろまで届いた。
返しのスピーカーが無いから、自分の声は聞こえていないはずだ。それでも、張っていなかった。この一週間、あいつが何をしていたか、俺は知っている。
誰もいない教室で、後ろの壁に向かって喋る練習をしていた。壁までの距離を体に入れていたんだ。
誰にも教わっていない。自分で気づいた。
「わたしは、みなさんに『一緒にやりましょう』とは言いません」
最初の一文で、客席の温度が動いた。
「言っても、たぶん、みなさんは来ないからです」
どこかで、笑いが起きた。
「わたしは、この一年、この学校で誰にも何も頼まれませんでした。頼まれない人間が『一緒に』と言っても、意味がありません」
俺は、壇の端で自分の膝を見ていた。見ていないと、顔に出そうだった。
「だから、わたしは引き受けます」
あいつは、そこで数字を出した。
行事予算の配分表。三年ぶんの推移。備品の更新が止まっている部の一覧。
一つずつ、短く。
「これは、調べればわかることです。でも、誰も調べていませんでした」
客席が静かになっていた。
「調べるのは、面倒です。だから、わたしが引き受けます」
「頼まれてから動くのではなく、先に引き受けて、それから頼まれる人間になります」
「以上です」
五分ちょうどだった。
拍手が起きた。一巻目のときより、大きかった。
俺は、拳を膝の上で握っていた。あとで気づいたら、爪の跡がついていた。
次が、周防有希だった。
あいつは演台に立って、一度だけ息を吸った。
そこから五分、完璧だった。完璧だったが――俺には、一箇所だけ、引っかかるところがあった。
あいつは、九条アリサの演説に一度も触れなかった。
直前に、あれだけ客席を動かした演説があったんだ。普通は触る。触って、乗るか、外すかする。それがいちばん効く。
有希は、触らなかった。
自分の話だけをして、降りた。
――なんだ?
相互質疑、二十分。ここからが本番だ。
有希の質問は、鋭かった。
「九条さん。『引き受けます』とおっしゃいましたが、生徒会の年間業務時間をご存じですか」
「把握しています。昨年度で、延べ約千二百時間です」
「それを、どなたが引き受けますか」
「まず、わたしが」
「あなた一人で千二百時間は無理です」
「無理です。だから、配分を可視化します」
「可視化しても、時間は減りません」
「減りません。減らすためではありません」
「では、何のために」
「誰が何を引き受けているかが見えれば、引き受けていない人が、引き受けやすくなります」
有希の眉が、わずかに動いた。
いまのは、良い返しだった。俺の想定問答にはなかった。あいつが自分で作った答えだ。
「九条さん。理想としては理解します」有希は言った。「ただ、可視化された表を見て、人は動きません。動くのは、頼まれたときです」
「はい」
「では、あなたは頼めますか」
沈黙が、〇・五秒あった。
いちばん薄いところを突かれた。
この学校で、九条アリサがもっとも苦手とすることだ。有希はそれを知っている。知っていて、制度の話の形で聞いた。
「……できませんでした」
アリサは、そう答えた。
「今年の九月まで、わたしは誰にも何も頼めませんでした」
客席が、少しざわついた。
「先月、初めて人に頼みました。推薦人になってくださいと」
あいつは、そこで一度、息を継いだ。
「断られるのが、こわかったです。でも、言えました」
「言えたから、できると?」
「できるようになる、と思っています」
有希は、しばらくアリサを見ていた。それから「わかりました」とだけ言って、次の質問に移った。
俺は、その「わかりました」の言い方を聞いていた。あれは、納得した人の言い方じゃない。
感心した人の言い方だった。
やり取りは、ずっと制度の話だった。
人の話が、一度も出なかった。
有希は、九条アリサの人格にも、経歴にも、周りの人間にも、一度も触れなかった。
二十分、まるごとだ。
俺は、壇の端でそれを聞きながら、だんだん背中が寒くなってきた。
――こいつ、避けてる。
わざとだ。意図的に、そこを踏まないようにしている。この学園で、それに気づいたのは俺だけだったと思う。
八年、同じ家にいたからだ。あいつが何かを避けるときの喋り方を、俺は知っている。話題が近づくと、語尾が〇・二秒だけ長くなる。
二十分で、三回それが出た。
三回とも、九条アリサの「言葉の出どころ」に近づいたところだった。
なぜだ。
あそこを突けば、こっちは終わる。あいつがそれに気づいていないはずがない。
気づいていて、使っていない。
――いや待て、意味がわからん、あいつは勝ちに来てるはずで、勝つために三年準備してきたはずで、俺が誘いを断ったときですら「手加減したら一生口きかない」と言ったやつが、いちばん効く札を二十分ぶん一度も切らないというのは、何かを守っているとしか思えないわけだが、この状況で守るものがあるとしたら、それは自分の陣営でも祖父の期待でもなくて、たぶん、勝ち方そのものだ。
二十分が終わった。
司会が「続いて、フロアからの質問に移ります」と言った。
俺は、そこで初めて、自分の手が冷たいことに気づいた。
有希が守ったものが何であれ、次が来る。
次を止めるものは、何もない。
「第一登録者、二年A組――失礼、一年A組、谷山沙也加さん」
沙也加は、手元の記録用紙を隣の委員に渡した。渡してから、立ち上がった。
自分が質問しているあいだ、自分で記録は取れない。当たり前のことを、この人は当たり前にやる。
マイクを受け取って、客席のほうを向かず、壇上に向き直った。
背筋が伸びていた。
「谷山沙也加です。九条アリサさんに伺います」
体育館が、静かになった。
この人の声には、力みがない。力みがないから、よく通る。
「候補者紹介放送についてです」
アリサの肩が、動いた。
「あの三分間の構成、演出、原稿の取捨選択について伺います」
沙也加は、一度だけ言葉を切った。
「あなた以外の人間は、どの程度、関与しましたか」
八百人が、一斉に静かになる音というものがある。
俺は、それをこの日初めて聞いた。
客席の後ろのほうで、誰かが「え?」と言った。それが伝播していく。
「あれ、誰かが作ってたの?」
「一年の宗像って人らしいよ」
「え、じゃああれ、本人の言葉じゃないんだ」
まだ何も答えていない。答えていないのに、もう半分決まっていた。
質問というのは、そういう形をしている。
九条アリサは、演台の前に立っていた。立って、口を開いて――止まった。
俺の位置からは、あいつの横顔しか見えない。
喉が、一度動いた。
言葉が出てこないときの動き方だった。
俺は、椅子から立ち上がりかけて――
止まった。
要項の三行目が、頭の中で光った。
――副会長候補は、会長候補から指名された場合に限り、補足を行うことができる。
俺は喋れる。
条件がひとつある。
あいつが、俺を指名すれば。
俺は、あいつを見た。あいつも、一瞬だけ、こっちを見た。
目が合った。その〇・五秒で、俺は全部わかってしまった。
――指名したら、終わる。
「宗像湊がどこまで関与したか」を聞かれた候補者が、副会長候補を指名して答えさせる。
それは、答えではない。実演だ。この人は自分では答えられない、という実演になる。
沙也加は、そこまで計算していない。計算していないのに、こうなっている。
正しさというのは、本当に、そういう形をしている。
俺は、椅子に戻った。
戻るとき、膝が笑っていた。情けない話だ。
助けられない。
助けようとすること自体が、この場では加害になるんだ。
八年間、俺がいちばん避けてきたのは「誰かの結果に責任を持つこと」だった。
いま、俺は責任だけを持っていて、手は一本も使えない。
こんな持ち方があるとは知らなかった。
視界の端で、動くものがあった。
いちばん後ろの通路。
壁にもたれていた男が、背中を離した。
宗像湊が、一歩、前に出た。
――やめろ。
俺は、声に出さずにそう言った。
出せるわけがない。壇上だ。
やめろ、湊。
お前が喋ったら、減点だけじゃ済まない。この陣営が「外の人間が仕切っていた」ことを、お前自身が証明することになる。
あいつは、それをわかっている。わかっていて、もう一歩、前に出た。
――ああ、そうか。
こいつ、わかったうえで来てるんだ。
自分が潰れるほうが早いと計算して、来てる。
そういう男だった。昔から、そういう男だった。
俺は、壇上で何もできないまま、二人を見ていた。
演台の九条アリサと、通路の宗像湊を。そのとき、あいつが動いた。
九条アリサが、演台の上で、右手を上げた。
高くはない。肩の高さだ。
誰かを制止するときの手だった。
その手は、まっすぐ、体育館のいちばん後ろに向いていた。