舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

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21_政近 指名

 十月二十四日、六限。

 

 体育館に、全校生徒が入った。

 

 床に座らせるかたちだ。前から一年、二年、三年。教師は壁際に並ぶ。窓は閉めてある。人が八百人も入ると、十月でも暑い。

 

 壇上には、椅子が四つ。

 

 向かって右に、周防有希と君嶋綾乃。

 

 左に、九条アリサと俺。

 

 中央に司会。選挙管理委員会の三年の先輩だ。その斜め後ろに、記録係として谷山沙也加が座っていた。

 

 両袖に、スタンドライトが一本ずつ立っていた。

 

 昨日の夕方には無かったものだ。委員会が湊の提案を通したらしい。おかげで、壇の端に座る俺の手元まで、ちゃんと明るい。

 

 俺は客席を見た。

 

 いちばん後ろの、通路の脇。壁にもたれて、宗像湊が立っていた。

 

 目は合わなかった。あいつは、こっちを見ていなかった。

 

 三日前、俺はアリサに封筒を渡した。

 

 三週間ぶんの数字だ。予算の内訳、部費の推移、備品の更新周期。

 

「なぜ、いま?」

 

「いま必要だからだ」

 

「もっと早く渡せたでしょう」

 

「渡せた」

 

「なぜ渡さなかったの」

 

 俺は正直に言った。

 

「早く渡すと、お前が『もらったもの』だと思うからだ」

 

 アリサは封筒を開けて、中を確認して、それから言った。

 

「……いまでも、もらったものだわ」

 

「そうだな」

 

「でも、使う」

 

「そうしろ」

 

 あいつは三日で全部を頭に入れた。

 

 この女の異常なところは、そこだ。三週間かけて集めた数字を、三日で自分のものにする。

 

 開始の十分前、体育館の裏で、俺はアリサと二人になった。

 

 搬入口のところだ。生徒が通らない。コンクリートの匂いがする。

 

 あいつは壁に背中をつけて、目を閉じていた。

 

「緊張してるか」

 

「してるわ」

 

「珍しく素直だな」

 

「隠す余裕がないの」

 

 俺は少し笑った。笑ったら、自分の喉もかなり乾いていることに気づいた。

 

「九条」

 

「なに」

 

「ひとつだけ言っておく」

 

 あいつが目を開けた。

 

「今日、俺は壇の上にいるが、たぶん何もできない」

 

「知ってるわ。要項は読んだもの」

 

「読んだのか」

 

「九回読んだ」

 

 湊と同じ回数だった。この二人は本当に似ている。似ているのに、そのことを二人とも認めない。

 

「だから、期待してないわ」

 

「そうか」

 

「……いえ」

 

 あいつは、言い直した。

 

「期待は、してる」

 

「どっちだ」

 

「助けてもらう期待は、してない」

 

 搬入口の向こうで、生徒の靴音がしていた。八百人が体育館に入っていく音だ。

 

「見ててもらう期待は、してる」

 

 俺は、口を閉じたままでいた。

 

 できなかった、と言うほうが近い。

 

 二日前、あいつは俺に「戻ってもいい」と言った。その返事を、俺はまだしていない。

 

 いまするべきじゃない。それはわかっている。わかっているが、俺は永遠にタイミングを言い訳にする。

 

「九条」

 

「なに」

 

「戻らない」

 

 あいつが、こっちを向いた。

 

「あの日の返事だ。遅くなった」

 

 二秒くらい、何も言わなかった。それから、前を向いて、目を閉じ直した。

 

「……遅すぎるわ」

 

「悪い」

 

「でも、聞いたから」

 

 あいつの耳が、少し赤かった。それだけ確認して、俺は先に体育館へ入った。

 

 司会が開会を告げた。

 

 最初は、各候補の主張。五分ずつ。抽選で、九条アリサが先だった。

 

 あいつは、演台に立った。

 

 原稿を持っていなかった。

 

 俺は少しだけ、息を止めた。

 

 持っていないのは、覚えたからだ。あいつはやると言ったらやる。だが、八百人の前で紙を持たないのは、単なる度胸の問題じゃない。逃げ場を自分で消す行為だ。

 

「一年A組、九条アリサです」

 

 声が、体育館の後ろまで届いた。

 

 返しのスピーカーが無いから、自分の声は聞こえていないはずだ。それでも、張っていなかった。この一週間、あいつが何をしていたか、俺は知っている。

 

 誰もいない教室で、後ろの壁に向かって喋る練習をしていた。壁までの距離を体に入れていたんだ。

 

 誰にも教わっていない。自分で気づいた。

 

「わたしは、みなさんに『一緒にやりましょう』とは言いません」

 

 最初の一文で、客席の温度が動いた。

 

「言っても、たぶん、みなさんは来ないからです」

 

 どこかで、笑いが起きた。

 

「わたしは、この一年、この学校で誰にも何も頼まれませんでした。頼まれない人間が『一緒に』と言っても、意味がありません」

 

 俺は、壇の端で自分の膝を見ていた。見ていないと、顔に出そうだった。

 

「だから、わたしは引き受けます」

 

 あいつは、そこで数字を出した。

 

 行事予算の配分表。三年ぶんの推移。備品の更新が止まっている部の一覧。

 

 一つずつ、短く。

 

「これは、調べればわかることです。でも、誰も調べていませんでした」

 

 客席が静かになっていた。

 

「調べるのは、面倒です。だから、わたしが引き受けます」

 

「頼まれてから動くのではなく、先に引き受けて、それから頼まれる人間になります」

 

「以上です」

 

 五分ちょうどだった。

 

 拍手が起きた。一巻目のときより、大きかった。

 

 俺は、拳を膝の上で握っていた。あとで気づいたら、爪の跡がついていた。

 

 次が、周防有希だった。

 

 あいつは演台に立って、一度だけ息を吸った。

 

 そこから五分、完璧だった。完璧だったが――俺には、一箇所だけ、引っかかるところがあった。

 

 あいつは、九条アリサの演説に一度も触れなかった。

 

 直前に、あれだけ客席を動かした演説があったんだ。普通は触る。触って、乗るか、外すかする。それがいちばん効く。

 

 有希は、触らなかった。

 

 自分の話だけをして、降りた。

 

 ――なんだ?

 

 相互質疑、二十分。ここからが本番だ。

 

 有希の質問は、鋭かった。

 

「九条さん。『引き受けます』とおっしゃいましたが、生徒会の年間業務時間をご存じですか」

 

「把握しています。昨年度で、延べ約千二百時間です」

 

「それを、どなたが引き受けますか」

 

「まず、わたしが」

 

「あなた一人で千二百時間は無理です」

 

「無理です。だから、配分を可視化します」

 

「可視化しても、時間は減りません」

 

「減りません。減らすためではありません」

 

「では、何のために」

 

「誰が何を引き受けているかが見えれば、引き受けていない人が、引き受けやすくなります」

 

 有希の眉が、わずかに動いた。

 

 いまのは、良い返しだった。俺の想定問答にはなかった。あいつが自分で作った答えだ。

 

「九条さん。理想としては理解します」有希は言った。「ただ、可視化された表を見て、人は動きません。動くのは、頼まれたときです」

 

「はい」

 

「では、あなたは頼めますか」

 

 沈黙が、〇・五秒あった。

 

 いちばん薄いところを突かれた。

 

 この学校で、九条アリサがもっとも苦手とすることだ。有希はそれを知っている。知っていて、制度の話の形で聞いた。

 

「……できませんでした」

 

 アリサは、そう答えた。

 

「今年の九月まで、わたしは誰にも何も頼めませんでした」

 

 客席が、少しざわついた。

 

「先月、初めて人に頼みました。推薦人になってくださいと」

 

 あいつは、そこで一度、息を継いだ。

 

「断られるのが、こわかったです。でも、言えました」

 

「言えたから、できると?」

 

「できるようになる、と思っています」

 

 有希は、しばらくアリサを見ていた。それから「わかりました」とだけ言って、次の質問に移った。

 

 俺は、その「わかりました」の言い方を聞いていた。あれは、納得した人の言い方じゃない。

 

 感心した人の言い方だった。

 

 やり取りは、ずっと制度の話だった。

 

 人の話が、一度も出なかった。

 

 有希は、九条アリサの人格にも、経歴にも、周りの人間にも、一度も触れなかった。

 

 二十分、まるごとだ。

 

 俺は、壇の端でそれを聞きながら、だんだん背中が寒くなってきた。

 

 ――こいつ、避けてる。

 

 わざとだ。意図的に、そこを踏まないようにしている。この学園で、それに気づいたのは俺だけだったと思う。

 

 八年、同じ家にいたからだ。あいつが何かを避けるときの喋り方を、俺は知っている。話題が近づくと、語尾が〇・二秒だけ長くなる。

 

 二十分で、三回それが出た。

 

 三回とも、九条アリサの「言葉の出どころ」に近づいたところだった。

 

 なぜだ。

 

 あそこを突けば、こっちは終わる。あいつがそれに気づいていないはずがない。

 

 気づいていて、使っていない。

 

 ――いや待て、意味がわからん、あいつは勝ちに来てるはずで、勝つために三年準備してきたはずで、俺が誘いを断ったときですら「手加減したら一生口きかない」と言ったやつが、いちばん効く札を二十分ぶん一度も切らないというのは、何かを守っているとしか思えないわけだが、この状況で守るものがあるとしたら、それは自分の陣営でも祖父の期待でもなくて、たぶん、勝ち方そのものだ。

 

 二十分が終わった。

 

 司会が「続いて、フロアからの質問に移ります」と言った。

 

 俺は、そこで初めて、自分の手が冷たいことに気づいた。

 

 有希が守ったものが何であれ、次が来る。

 

 次を止めるものは、何もない。

 

「第一登録者、二年A組――失礼、一年A組、谷山沙也加さん」

 

 沙也加は、手元の記録用紙を隣の委員に渡した。渡してから、立ち上がった。

 

 自分が質問しているあいだ、自分で記録は取れない。当たり前のことを、この人は当たり前にやる。

 

 マイクを受け取って、客席のほうを向かず、壇上に向き直った。

 

 背筋が伸びていた。

 

「谷山沙也加です。九条アリサさんに伺います」

 

 体育館が、静かになった。

 

 この人の声には、力みがない。力みがないから、よく通る。

 

「候補者紹介放送についてです」

 

 アリサの肩が、動いた。

 

「あの三分間の構成、演出、原稿の取捨選択について伺います」

 

 沙也加は、一度だけ言葉を切った。

 

「あなた以外の人間は、どの程度、関与しましたか」

 

 八百人が、一斉に静かになる音というものがある。

 

 俺は、それをこの日初めて聞いた。

 

 客席の後ろのほうで、誰かが「え?」と言った。それが伝播していく。

 

 「あれ、誰かが作ってたの?」

 

 「一年の宗像って人らしいよ」

 

 「え、じゃああれ、本人の言葉じゃないんだ」

 

 まだ何も答えていない。答えていないのに、もう半分決まっていた。

 

 質問というのは、そういう形をしている。

 

 九条アリサは、演台の前に立っていた。立って、口を開いて――止まった。

 

 俺の位置からは、あいつの横顔しか見えない。

 

 喉が、一度動いた。

 

 言葉が出てこないときの動き方だった。

 

 俺は、椅子から立ち上がりかけて――

 

 止まった。

 

 要項の三行目が、頭の中で光った。

 

 ――副会長候補は、会長候補から指名された場合に限り、補足を行うことができる。

 

 俺は喋れる。

 

 条件がひとつある。

 

 あいつが、俺を指名すれば。

 

 俺は、あいつを見た。あいつも、一瞬だけ、こっちを見た。

 

 目が合った。その〇・五秒で、俺は全部わかってしまった。

 

 ――指名したら、終わる。

 

 「宗像湊がどこまで関与したか」を聞かれた候補者が、副会長候補を指名して答えさせる。

 

 それは、答えではない。実演だ。この人は自分では答えられない、という実演になる。

 

 沙也加は、そこまで計算していない。計算していないのに、こうなっている。

 

 正しさというのは、本当に、そういう形をしている。

 

 俺は、椅子に戻った。

 

 戻るとき、膝が笑っていた。情けない話だ。

 

 助けられない。

 

 助けようとすること自体が、この場では加害になるんだ。

 

 八年間、俺がいちばん避けてきたのは「誰かの結果に責任を持つこと」だった。

 

 いま、俺は責任だけを持っていて、手は一本も使えない。

 

 こんな持ち方があるとは知らなかった。

 

 視界の端で、動くものがあった。

 

 いちばん後ろの通路。

 

 壁にもたれていた男が、背中を離した。

 

 宗像湊が、一歩、前に出た。

 

 ――やめろ。

 

 俺は、声に出さずにそう言った。

 

 出せるわけがない。壇上だ。

 

 やめろ、湊。

 

 お前が喋ったら、減点だけじゃ済まない。この陣営が「外の人間が仕切っていた」ことを、お前自身が証明することになる。

 

 あいつは、それをわかっている。わかっていて、もう一歩、前に出た。

 

 ――ああ、そうか。

 

 こいつ、わかったうえで来てるんだ。

 

 自分が潰れるほうが早いと計算して、来てる。

 

 そういう男だった。昔から、そういう男だった。

 

 俺は、壇上で何もできないまま、二人を見ていた。

 

 演台の九条アリサと、通路の宗像湊を。そのとき、あいつが動いた。

 

 九条アリサが、演台の上で、右手を上げた。

 

 高くはない。肩の高さだ。

 

 誰かを制止するときの手だった。

 

 その手は、まっすぐ、体育館のいちばん後ろに向いていた。

 

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