舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

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22_湊 八センチの話

 手が上がった。

 

 肩の高さ。指はそろっている。手のひらはこちらを向いている。

 

 制止の手だ。

 

 現場で、これをやられたことが何度かある。本番中、袖から出ようとしたときに、進行の人が同じ形の手を出す。意味は決まっている。

 

 ――来るな。ここは私の持ち場だ。

 

 僕は、足を止めた。

 

 止めてから、自分がもう一歩出ていたことに気づいた。

 

 体育館の後ろから壇上まで、四十メートル近くある。八百人の頭の向こうだ。その距離で、あの人は僕を見つけた。

 

 僕は壁に背中を戻した。

 

 背中がついたとき、自分の心臓の音が、耳の裏で鳴っているのがわかった。

 

 答えるまでに、十九秒かかった。

 

 数えていたわけではない。体が勝手に数える。現場で沈黙が生まれると、秒数が自動でカウントされる。癖だ。

 

 十九秒は、長い。

 

 テレビなら、三秒で事故と判定される。舞台でも、五秒空けば客がざわつく。だが、この十九秒は、ざわつかなかった。

 

 八百人が、待った。

 

 僕は、その理由を考えていた。考えないと、立っていられなかったからだ。

 

 ――ああ。

 

 最初の三十秒で二回噛んだ人が、いま黙っている。

 

 それを知っている人間が、この体育館に八百人いる。だから、待つ。あの三分は、無駄になっていなかった。

 

 噛んだことが、この十九秒の担保になっている。

 

 僕がフェーダーに触らなかったのは、そのためではない。そこまで読んでいたら、僕は天才だ。僕は天才ではない。

 

 ただ、触らなかった。それだけだ。

 

 結果は、十日遅れて回収された。

 

 演台の上で、九条アリサがマイクに口を近づけた。

 

「谷山さんの質問に、お答えします」

 

 声は、震えていなかった。

 

 僕は、その一点に驚いた。

 

 さっきまで、あの人は喉が動いていた。言葉が出ない人の動き方だった。

 

 二十秒か、三十秒。そのあいだに、何かが決まったらしい。

 

「まず、事実をお話しします」

 

 彼女は、指を折らなかった。数えるしぐさをしなかった。ただ、順番に言った。

 

「候補者紹介放送の当日、放送室のマイクスタンドの高さは、八センチ上げられていました。上げたのは、宗像湊くんです」

 

 体育館が、ざわついた。

 

 ――言った。

 

 僕は、壁に手をついた。

 

「原稿台は、撤去されていました。撤去したのも、宗像くんです」

 

「わたしが用意した原稿はA4で二枚ありました。一枚目は全部使いませんでした。二枚目も、最後の五行しか使いませんでした。捨てるよう言ったのは、宗像くんです」

 

 ざわめきが大きくなった。

 

 誰かが「うわ」と言った。教師の誰かが「静かに」と言った。あの人は、待たなかった。

 

 ざわめきの上に、そのまま続けた。

 

「本番で、わたしは最初の三十秒で二回噛みました。声が震えました」

 

「そのとき、音響卓のフェーダーは動かされていません。宗像くんが、触らなかったからです」

 

 そこで、彼女は一度、言葉を切った。

 

「以上が、宗像くんがやったことです。全部、本当です」

 

 静かになった。

 

 八百人が静かになる音を、僕はこの日、二度目に聞いた。

 

 一度目は、質問が投げられたときだ。

 

 二度目は、いまだった。

 

 同じ静かさに聞こえて、中身が違った。

 

 演台の九条アリサは、まっすぐ立っていた。

 

 背筋が伸びている。あの、崩れないための立ち方だ。でも、今日のそれは、少し違って見えた。

 

「そのうえで、申し上げます」

 

 彼女は言った。

 

「宗像くんがやったことを、ひとつだけにまとめるなら、こうなります」

 

 僕は、壁から手を離した。

 

「わたしが隠したかったことを、言わせたことです」

 

 ――

 

 あの日のことを、僕は思い出していた。

 

 空き教室。窓の外で野球部のノックの音。原稿を握りしめて、指で歪んだところを伸ばしていた人。

 

 三分待った。あの人は、それを、こう説明することにしたらしい。

 

「わたしが最初に用意した原稿には、部費の推移と、意見箱の設置と、行事予算の内訳が書いてありました。三週間かけて調べたものです」

 

「あれを読んでいれば、たぶん、噛みませんでした」

 

「そのかわり、わたしがなぜ立候補したかは、誰にも伝わりませんでした」

 

 彼女は、客席を見た。

 

 前から後ろまで、ゆっくり。

 

「宗像くんは、それを捨てさせました。かわりに、わたしがいちばん言いたくないことを言わせました」

 

「わたしはこの学校で、誰にも必要とされていない気がしていた、という話です」

 

「あれは、わたしが自分で言いました。言わされたのではありません。言える場所に、置かれただけです」

 

 誰も喋らなかった。

 

 彼女は、そこで初めて、谷山沙也加のほうを見た。

 

「谷山さん。ひとつ、伺ってもよろしいですか」

 

 沙也加が、マイクを持ち直した。

 

「どうぞ」

 

「わたしがあの日、隠したまま、きれいな三分を読んでいたら」

 

 九条アリサは言った。

 

「それは、わたしの言葉でしたか」

 

 ――刺さった。

 

 僕には、それがわかった。

 

 沙也加は、答えなかった。

 

 答えられなかったのではない。答えを探していた。この人は、答えを探すときに黙る人だ。

 

 やがて、口を開いた。

 

「……いいえ」

 

 正直な人だった。

 

 どこまでも、正直な人だった。

 

「確認させてください」沙也加は続けた。「震えを、直さなかった。それも、演出でしょうか」

 

「はい」

 

 九条アリサは、即答した。

 

「残したのは、宗像くんです」

 

 そして。

 

「震えたのは、わたしです」

 

 どこかで、息を呑む音がした。

 

 壇上の左端で、久世政近が動いた。

 

 膝の上の拳が、ゆっくり開いた。

 

 あいつは、そのあと、天井を見た。

 

 天井を見るのは、あいつが感情を処理するときの手順だ。木目を数えるという、意味のわからない儀式がある。体育館の天井は鉄骨で、数えるものは何もない。

 

 それでも見ていた。

 

 しばらく見て、それから、正面に戻した。

 

 顔は、いつもの眠そうな顔だった。

 

 左肩が、上がっていた。

 

 僕は、天井の照明を見上げた。

 

 六台の固定灯。角度は変えられない。中央だけが明るくて、両端が落ちる。

 

 僕が委員会に出した提案どおりの二本のスタンドが、両袖から壇の端を照らしている。その光の中で、あの人が立っている。

 

 僕が置いた光だ。

 

 立っているのは、僕じゃない。

 

 ――そんなことは、最初からわかっていたはずだ。わかっていたはずのことが、いま初めて、体に入った。

 

 僕はずっと、光を当てた人間の影がどこに落ちるかを気にしてきた。

 

 落ちる場所は、僕が決めるものだと思っていた。

 

 違った。

 

 立っている人が、自分の足の置き場所を決める。影はそのあとについてくる。

 

 順番が、逆だった。

 

 谷山沙也加が、マイクを下げた。

 

「質問を終わります」

 

 それだけ言って、彼女は座った。

 

 座る前に、一度だけ、こちらを見た。

 

 体育館のいちばん後ろにいる僕を、まっすぐ見た。その目に、責める色はなかった。

 

 あの人は、確認しに来ただけだ。確認が済んだから、終わった。

 

 拍手が起きたのは、司会が次の質問者を呼ぼうとした、その直前だった。

 

 最初は、まばらだった。前のほうの数人。それが、後ろに伝播した。

 

 僕の周りの三年生が、手を叩き始めた。

 

 「なんかすごかった」と誰かが言った。

 

 「うん」ともう一人が答えた。

 

 一巻目の「なんかよかったね」から、一段だけ上がった評価だった。

 

 たった一段だ。でも、選挙は、その一段の積み上げで決まる。

 

 残りのフロア質問は、四人だった。

 

 どれも普通の質問だった。制服の規定、購買の混雑、部室棟の掃除当番。

 

 九条アリサは、全部、短く答えた。

 

 二問目からは、少し余裕があった。三問目では、一度だけ笑いを取った。本人は取るつもりがなかったと思う。

 

 周防有希も、全部きれいに答えた。この人は、最初から最後まで完璧だった。

 

 完璧なまま、一度も、あの札を切らなかった。

 

 閉会が告げられて、八百人が動き出した。

 

 床に座っていた生徒が立ち上がる音が、体育館いっぱいに広がった。

 

 僕は、壁にもたれたまま、動かなかった。

 

 壇上を見ていた。

 

 九条アリサが、椅子から立ち上がって、久世政近に何か言っていた。政近は、いつもの眠そうな顔をしていた。していたが、あれは今日いちばん力を入れて作った顔だ。

 

 それから、僕は思い出した。

 

 ――明日、わたしを見てて。

 

 しまった、と思った。

 

 肝心なところで、僕は壇上の反対側を見ていた。

 

 慌てて、右のほうを見た。

 

 周防有希は、椅子の横に立っていた。

 

 綾乃が鞄を渡している。受け取って、肩にかけた。そして、こちらを見た。

 

 四十メートル先で、目が合った。あの人は、笑わなかった。

 

 作った笑顔も、素の笑顔も、どちらも出さなかった。ただ、右手を、腰のあたりで、少しだけ上げた。

 

 手を振る、というほどの動きではなかった。

 

 指が二本、動いただけだ。

 

 周りの誰も気づかない。気づいたのは、綾乃と僕だけだった。

 

 僕は、返せなかった。

 

 返そうとして、手が動かなかった。あの人は、それを待たずに歩き出した。

 

 袖に消える直前、一度だけ振り返った。

 

 口が動いた。声は届かない。八百人が喋っている体育館だ。

 

 でも、読めた。

 

 ――みてた?

 

 僕は、うなずいた。

 

 大きくうなずいた。うなずきすぎて、たぶん間抜けだった。

 

 周防有希は、それを見て、初めて笑った。

 

 二ミリでも、四本でもない笑い方だった。

 

 袖に消えた。

 

 体育館の照明が、半分落とされた。

 

 人がいなくなっても、非常口の緑は消えない。

 

 搬入口の外で、九条アリサに会った。

 

 鞄を持って、ひとりで立っていた。政近は先生に呼ばれて職員室に行ったらしい。

 

「宗像くん」

 

「お疲れさま」

 

「……見てた?」

 

 今日、二人目だった。

 

 同じ言葉を、二人から聞くことになるとは思わなかった。

 

「見てた」

 

「そう」

 

 彼女は、少し黙った。

 

「勝手に名前を出したわ。ごめんなさい」

 

「いいよ」

 

「よくないでしょう。あなた、あれで学校中に名前が知られたのよ」

 

「知ってる」

 

 実際、体育館を出るまでに、三回「宗像って人?」という声を聞いた。

 

 三年前の僕なら、三日は寝込んだ。

 

「怒ってないの?」

 

「怒ってない」

 

「なんで」

 

 僕は、少し考えた。

 

「あなたが、僕の名前を出したときに、隠さなかったから」

 

「……どういう意味」

 

「隠されるほうが、よっぽど嫌だった」

 

 彼女は、僕の顔をしばらく見ていた。それから、視線を落とした。

 

「わたし、十九秒、考えたの」

 

「知ってる。数えてた」

 

「数えるの?」

 

「癖なんだ」

 

「変な人ね」

 

 彼女は鞄の紐を持ち直した。

 

「その十九秒で、二つ考えたわ。ひとつは、あなたの名前を出さずに済ませる方法」

 

「あった?」

 

「あったわ。『わたし一人でやりました』と言えばよかった」

 

「言えばよかったのに」

 

「嘘は、下手なの」

 

 この人らしい理由だった。

 

「もうひとつは?」

 

「あなたが、一歩出たのが見えたこと」

 

 僕は、返事に詰まった。

 

「四十メートル先で、よく見えたね」

 

「見えたわ」彼女は言った。「だから、止めたの」

 

「なんで止めた」

 

「あなたが喋ったら、あなたが悪者になるでしょう」

 

 それだけ残して、彼女は歩き出した。

 

 三歩めで、振り返らずに、こう言った。

 

「宗像くん。次からは、ちゃんと仕事して」

 

「……いいのか」

 

「いいわ。今日で、わかったから」

 

「何が」

 

「あなたが用意したものを使っても、喋るのはわたしだって」

 

 彼女は行ってしまった。

 

 僕は、鞄の底に手を入れた。

 

 三十七問の想定問答が、まだそこにあった。

 

 一問も使わなかった。

 

 九割どころか、十割が無駄になった。

 

 僕は、それを鞄から出して、二つに折った。

 

 折ってから、捨てなかった。

 

 どこかに置いておこうと思った。

 

 いつか、誰かが同じ場所で詰まったときに、その人が自分で立つまで待てるように。

 

 待つのは、仕事のうちだ。

 

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