舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
手が上がった。
肩の高さ。指はそろっている。手のひらはこちらを向いている。
制止の手だ。
現場で、これをやられたことが何度かある。本番中、袖から出ようとしたときに、進行の人が同じ形の手を出す。意味は決まっている。
――来るな。ここは私の持ち場だ。
僕は、足を止めた。
止めてから、自分がもう一歩出ていたことに気づいた。
体育館の後ろから壇上まで、四十メートル近くある。八百人の頭の向こうだ。その距離で、あの人は僕を見つけた。
僕は壁に背中を戻した。
背中がついたとき、自分の心臓の音が、耳の裏で鳴っているのがわかった。
答えるまでに、十九秒かかった。
数えていたわけではない。体が勝手に数える。現場で沈黙が生まれると、秒数が自動でカウントされる。癖だ。
十九秒は、長い。
テレビなら、三秒で事故と判定される。舞台でも、五秒空けば客がざわつく。だが、この十九秒は、ざわつかなかった。
八百人が、待った。
僕は、その理由を考えていた。考えないと、立っていられなかったからだ。
――ああ。
最初の三十秒で二回噛んだ人が、いま黙っている。
それを知っている人間が、この体育館に八百人いる。だから、待つ。あの三分は、無駄になっていなかった。
噛んだことが、この十九秒の担保になっている。
僕がフェーダーに触らなかったのは、そのためではない。そこまで読んでいたら、僕は天才だ。僕は天才ではない。
ただ、触らなかった。それだけだ。
結果は、十日遅れて回収された。
演台の上で、九条アリサがマイクに口を近づけた。
「谷山さんの質問に、お答えします」
声は、震えていなかった。
僕は、その一点に驚いた。
さっきまで、あの人は喉が動いていた。言葉が出ない人の動き方だった。
二十秒か、三十秒。そのあいだに、何かが決まったらしい。
「まず、事実をお話しします」
彼女は、指を折らなかった。数えるしぐさをしなかった。ただ、順番に言った。
「候補者紹介放送の当日、放送室のマイクスタンドの高さは、八センチ上げられていました。上げたのは、宗像湊くんです」
体育館が、ざわついた。
――言った。
僕は、壁に手をついた。
「原稿台は、撤去されていました。撤去したのも、宗像くんです」
「わたしが用意した原稿はA4で二枚ありました。一枚目は全部使いませんでした。二枚目も、最後の五行しか使いませんでした。捨てるよう言ったのは、宗像くんです」
ざわめきが大きくなった。
誰かが「うわ」と言った。教師の誰かが「静かに」と言った。あの人は、待たなかった。
ざわめきの上に、そのまま続けた。
「本番で、わたしは最初の三十秒で二回噛みました。声が震えました」
「そのとき、音響卓のフェーダーは動かされていません。宗像くんが、触らなかったからです」
そこで、彼女は一度、言葉を切った。
「以上が、宗像くんがやったことです。全部、本当です」
静かになった。
八百人が静かになる音を、僕はこの日、二度目に聞いた。
一度目は、質問が投げられたときだ。
二度目は、いまだった。
同じ静かさに聞こえて、中身が違った。
演台の九条アリサは、まっすぐ立っていた。
背筋が伸びている。あの、崩れないための立ち方だ。でも、今日のそれは、少し違って見えた。
「そのうえで、申し上げます」
彼女は言った。
「宗像くんがやったことを、ひとつだけにまとめるなら、こうなります」
僕は、壁から手を離した。
「わたしが隠したかったことを、言わせたことです」
――
あの日のことを、僕は思い出していた。
空き教室。窓の外で野球部のノックの音。原稿を握りしめて、指で歪んだところを伸ばしていた人。
三分待った。あの人は、それを、こう説明することにしたらしい。
「わたしが最初に用意した原稿には、部費の推移と、意見箱の設置と、行事予算の内訳が書いてありました。三週間かけて調べたものです」
「あれを読んでいれば、たぶん、噛みませんでした」
「そのかわり、わたしがなぜ立候補したかは、誰にも伝わりませんでした」
彼女は、客席を見た。
前から後ろまで、ゆっくり。
「宗像くんは、それを捨てさせました。かわりに、わたしがいちばん言いたくないことを言わせました」
「わたしはこの学校で、誰にも必要とされていない気がしていた、という話です」
「あれは、わたしが自分で言いました。言わされたのではありません。言える場所に、置かれただけです」
誰も喋らなかった。
彼女は、そこで初めて、谷山沙也加のほうを見た。
「谷山さん。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
沙也加が、マイクを持ち直した。
「どうぞ」
「わたしがあの日、隠したまま、きれいな三分を読んでいたら」
九条アリサは言った。
「それは、わたしの言葉でしたか」
――刺さった。
僕には、それがわかった。
沙也加は、答えなかった。
答えられなかったのではない。答えを探していた。この人は、答えを探すときに黙る人だ。
やがて、口を開いた。
「……いいえ」
正直な人だった。
どこまでも、正直な人だった。
「確認させてください」沙也加は続けた。「震えを、直さなかった。それも、演出でしょうか」
「はい」
九条アリサは、即答した。
「残したのは、宗像くんです」
そして。
「震えたのは、わたしです」
どこかで、息を呑む音がした。
壇上の左端で、久世政近が動いた。
膝の上の拳が、ゆっくり開いた。
あいつは、そのあと、天井を見た。
天井を見るのは、あいつが感情を処理するときの手順だ。木目を数えるという、意味のわからない儀式がある。体育館の天井は鉄骨で、数えるものは何もない。
それでも見ていた。
しばらく見て、それから、正面に戻した。
顔は、いつもの眠そうな顔だった。
左肩が、上がっていた。
僕は、天井の照明を見上げた。
六台の固定灯。角度は変えられない。中央だけが明るくて、両端が落ちる。
僕が委員会に出した提案どおりの二本のスタンドが、両袖から壇の端を照らしている。その光の中で、あの人が立っている。
僕が置いた光だ。
立っているのは、僕じゃない。
――そんなことは、最初からわかっていたはずだ。わかっていたはずのことが、いま初めて、体に入った。
僕はずっと、光を当てた人間の影がどこに落ちるかを気にしてきた。
落ちる場所は、僕が決めるものだと思っていた。
違った。
立っている人が、自分の足の置き場所を決める。影はそのあとについてくる。
順番が、逆だった。
谷山沙也加が、マイクを下げた。
「質問を終わります」
それだけ言って、彼女は座った。
座る前に、一度だけ、こちらを見た。
体育館のいちばん後ろにいる僕を、まっすぐ見た。その目に、責める色はなかった。
あの人は、確認しに来ただけだ。確認が済んだから、終わった。
拍手が起きたのは、司会が次の質問者を呼ぼうとした、その直前だった。
最初は、まばらだった。前のほうの数人。それが、後ろに伝播した。
僕の周りの三年生が、手を叩き始めた。
「なんかすごかった」と誰かが言った。
「うん」ともう一人が答えた。
一巻目の「なんかよかったね」から、一段だけ上がった評価だった。
たった一段だ。でも、選挙は、その一段の積み上げで決まる。
残りのフロア質問は、四人だった。
どれも普通の質問だった。制服の規定、購買の混雑、部室棟の掃除当番。
九条アリサは、全部、短く答えた。
二問目からは、少し余裕があった。三問目では、一度だけ笑いを取った。本人は取るつもりがなかったと思う。
周防有希も、全部きれいに答えた。この人は、最初から最後まで完璧だった。
完璧なまま、一度も、あの札を切らなかった。
閉会が告げられて、八百人が動き出した。
床に座っていた生徒が立ち上がる音が、体育館いっぱいに広がった。
僕は、壁にもたれたまま、動かなかった。
壇上を見ていた。
九条アリサが、椅子から立ち上がって、久世政近に何か言っていた。政近は、いつもの眠そうな顔をしていた。していたが、あれは今日いちばん力を入れて作った顔だ。
それから、僕は思い出した。
――明日、わたしを見てて。
しまった、と思った。
肝心なところで、僕は壇上の反対側を見ていた。
慌てて、右のほうを見た。
周防有希は、椅子の横に立っていた。
綾乃が鞄を渡している。受け取って、肩にかけた。そして、こちらを見た。
四十メートル先で、目が合った。あの人は、笑わなかった。
作った笑顔も、素の笑顔も、どちらも出さなかった。ただ、右手を、腰のあたりで、少しだけ上げた。
手を振る、というほどの動きではなかった。
指が二本、動いただけだ。
周りの誰も気づかない。気づいたのは、綾乃と僕だけだった。
僕は、返せなかった。
返そうとして、手が動かなかった。あの人は、それを待たずに歩き出した。
袖に消える直前、一度だけ振り返った。
口が動いた。声は届かない。八百人が喋っている体育館だ。
でも、読めた。
――みてた?
僕は、うなずいた。
大きくうなずいた。うなずきすぎて、たぶん間抜けだった。
周防有希は、それを見て、初めて笑った。
二ミリでも、四本でもない笑い方だった。
袖に消えた。
体育館の照明が、半分落とされた。
人がいなくなっても、非常口の緑は消えない。
搬入口の外で、九条アリサに会った。
鞄を持って、ひとりで立っていた。政近は先生に呼ばれて職員室に行ったらしい。
「宗像くん」
「お疲れさま」
「……見てた?」
今日、二人目だった。
同じ言葉を、二人から聞くことになるとは思わなかった。
「見てた」
「そう」
彼女は、少し黙った。
「勝手に名前を出したわ。ごめんなさい」
「いいよ」
「よくないでしょう。あなた、あれで学校中に名前が知られたのよ」
「知ってる」
実際、体育館を出るまでに、三回「宗像って人?」という声を聞いた。
三年前の僕なら、三日は寝込んだ。
「怒ってないの?」
「怒ってない」
「なんで」
僕は、少し考えた。
「あなたが、僕の名前を出したときに、隠さなかったから」
「……どういう意味」
「隠されるほうが、よっぽど嫌だった」
彼女は、僕の顔をしばらく見ていた。それから、視線を落とした。
「わたし、十九秒、考えたの」
「知ってる。数えてた」
「数えるの?」
「癖なんだ」
「変な人ね」
彼女は鞄の紐を持ち直した。
「その十九秒で、二つ考えたわ。ひとつは、あなたの名前を出さずに済ませる方法」
「あった?」
「あったわ。『わたし一人でやりました』と言えばよかった」
「言えばよかったのに」
「嘘は、下手なの」
この人らしい理由だった。
「もうひとつは?」
「あなたが、一歩出たのが見えたこと」
僕は、返事に詰まった。
「四十メートル先で、よく見えたね」
「見えたわ」彼女は言った。「だから、止めたの」
「なんで止めた」
「あなたが喋ったら、あなたが悪者になるでしょう」
それだけ残して、彼女は歩き出した。
三歩めで、振り返らずに、こう言った。
「宗像くん。次からは、ちゃんと仕事して」
「……いいのか」
「いいわ。今日で、わかったから」
「何が」
「あなたが用意したものを使っても、喋るのはわたしだって」
彼女は行ってしまった。
僕は、鞄の底に手を入れた。
三十七問の想定問答が、まだそこにあった。
一問も使わなかった。
九割どころか、十割が無駄になった。
僕は、それを鞄から出して、二つに折った。
折ってから、捨てなかった。
どこかに置いておこうと思った。
いつか、誰かが同じ場所で詰まったときに、その人が自分で立つまで待てるように。
待つのは、仕事のうちだ。