舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
討論会の翌日、宗像湊は有名人になっていた。
「なあ久世、宗像って結局なんなの?」
「知らん」
「同じクラスだろ」
「同じクラスだからって知ってるとは限らんだろ」
丸山毅は納得していない顔をした。納得していないまま、次の話題に移った。こいつのそういうところは長所だと思う。
実際、廊下で三回、湊が呼び止められているのを見た。
当人は、いつもの顔をしていた。困ってはいたが、逃げてはいなかった。
三年前のこいつなら逃げていた。三年前を知らないやつには、その差はわからない。
朝の生徒会室では、統也先輩が上機嫌だった。
「昨日のあれは、よかったな」
「どっちがですか」
「両方だ」
沙也加は、そういう答え方をする。
「久世。お前、壇の上で一回立ちかけただろ」
「……見てましたか」
「見てた。座ったのも見てた」
統也先輩は、湯呑みを置いた。
「あそこで座れるやつは、そう多くない」
「褒めてます?」
「褒めてる」
茅咲先輩が横から口を出した。
「あたしは立っちゃうけどね」
「更科が立つと物理的に何か壊れるから黙ってろ」
「ひどい!」
マリヤ先輩が、いつものようにお茶を配りながら言った。
「アーリャ、昨日、すごかったわね」
「……ええ、まあ」
「まさちかくんも、えらかったわよ」
「俺は何もしてません」
「何もしないのは、けっこう難しいのよ」
この人は、時々こういうことを言う。
いい加減な顔で、まっすぐな球を投げてくる。
昼休み、湊が俺の机の前に立った。
「政近」
「あ?」
「二年前の話、いつ言うんだ」
俺は、パンを口に運ぶ手を止めた。
「……なんの話だ」
「谷山さんに、だよ」
こいつは、こういうときだけ容赦がない。
「お前が有希の側で何をしたか、あの人は知らない」
俺は、パンを置いた。
「……お前、なんで知ってる」
誰にも言っていない。有希と綾乃と、俺だけのはずだった。
「言われてない」湊はあっさり言った。「二年前の演説、途中で作りが変わった。三回目からだ」
「……見てたのか」
「中等部の選挙なんて、普通は見ない。でも、あのころ僕はお前の家のことを知ってた」
こいつは、俺の机の横の椅子を引いて、逆向きに座った。
「具体的な話が減って、大きな話が増えた。数字がひとつになった。あれは書き手が変わった動き方だ」
「……」
「で、その週にお前は三日連続で寝不足だった」
俺は天井を見た。教室の天井には、雨漏りの染みしかなかった。
「気持ち悪いな、お前」
「職業病だ」
「その職業病、いつか本当に刺されるぞ」
「二回目だぞ、それ」
「知らなくていいだろ」
「知らなくていいなら、なんでお前、あの人の顔をまともに見てないんだ」
パンを置いた。
食欲が消えた。
――いや、こいつはいつもこうだ、中学のときもそうだった、俺が担任に呼び出された理由を隠していたときも、こいつは理由を聞かないかわりに「その顔で三日過ごすつもりか」とだけ言ってきて、結局俺はその晩に全部喋る羽目になったわけで、つまりこの男は人の秘密を暴かない代わりに、秘密を持ったままの姿勢の悪さだけを正確に指摘してくる、いちばんたちの悪いタイプだ。
「湊」
「うん」
「お前、いつか刺されるぞ」
「気をつける」
放課後、俺は谷山沙也加を呼び止めた。
昇降口だった。彼女は選挙管理委員会の書類を抱えていた。
「久世くん。何か」
「話がある」
「はい」
沙也加は、その場で立ち止まった。歩きながら聞く、ということをしない人だった。
場所を移そうかと思ったが、やめた。移動する時間があると、俺はたぶん逃げる。
「二年前の中等部の選挙の話だ」
沙也加の目が、わずかに動いた。
「あんた、途中で有希の演説の方向が変わったと思わなかったか」
書類を抱えた腕が、止まった。
「……なぜ、それを」
「変えたのは、俺だ」
昇降口を、下校する生徒が通り過ぎていった。
誰も俺たちを見ていなかった。世界というのは、たいてい、こういうときに無関心だ。
「三回目の演説から、中身を減らして、大きさを増やした。数字を一つに絞った。『わたしたち』を増やした」
「……」
「全部、俺が書いた」
沙也加は、しばらく黙っていた。それから、聞いた。
「なぜですか」
「あんたに勝てなかったからだ」
自分の声が、思ったより平坦なのに驚いた。
「あのままやり合ったら、有希でも危なかった。あんたは調べてくる。調べたことしか言わない。中身で殴り合ったら、勝率は五割を切る」
「……」
「だから、殴り合わないことにした。中身の勝負を降りた」
言いながら、二年前の自分を思い出していた。あのころの俺は、これを仕事だと思ってたんだ。
俺は、あれを仕事だと思っていた。誰かを勝たせるという作業は、あの家でやらされていたことと地続きだった。うまくやれた自分に、少しだけ満足していた。
いま説明すると、こんなに気分が悪い。
「あんたは、負けた理由がわからなかったはずだ」
「わかりませんでした」
「わからないように作った」
沙也加は、書類を抱え直した。
「……ひとつ、確認させてください」
「なんだ」
「周防さんは、それをご存じでしたか」
「知ってた」
「納得して?」
「嫌そうな顔をしてた」俺は言った。「嫌そうな顔をして、やった」
そこで初めて、視線が落ちた。
「なぜ、いま話すんですか」
俺は、答えを用意していなかった。用意していなかったので、出てきたものをそのまま言った。
「昨日、あんたは俺たちに、いちばん痛いところを聞いた」
「はい」
「聞く前に、俺に予告に来ればよかったのに、来なかった」
「久世くんは、質問の相手ではありませんでしたので」
「そうだな。だから、こっちから来た」
言ってから、理屈になっていないことに気づいた。
なっていないが、伝わったらしい。
沙也加は、しばらく何も言わなかった。
顔を上げたとき、目が赤かった。
泣いてはいなかった。泣く手前で止めるのが上手い人だった。
「久世くん」
「なんだ」
「わたしは、二年間、自分の伝え方が下手だから負けたのだと思っていました」
俺は、何も言えなかった。
「それは、半分は本当でした。でも、半分は、そうではなかった」
「……悪かった」
「謝らないでください」
彼女は、きっぱりと言った。
「謝られると、こちらが、あなたを許すかどうかを決めなければならなくなります」
「……決めなくていいのか」
「いまは、決めたくありません」
正直な人だった。どこまでも正直な人だった。
沙也加は一礼して、歩き出した。
三歩めで、止まった。
「久世くん」
「ああ」
「昨日の九条さんの答えは、あなたが書いたものではありませんね」
「書いてない」
「そうだと思いました」
彼女は前を向いた。
「あれは、下手でした。十九秒も黙って、名前を全部出して。……上手い人は、あんなやり方をしません」
それが、この人にとっての最大級の褒め言葉だと気づくのに、俺は三秒かかった。その前に、旧校舎に寄った。
三階の、使われていない教室だ。西日で部屋ごと橙色に沈む、あの部屋。
メッセージは送っていない。それでも、いるだろうと思った。
いた。
窓枠に腰かけて、文庫本を読んでいた。表紙にカバーがかかっている。中身は聞かないことにしている。
「あら、お兄ちゃん」
「用がある」
「わたしはない」
「聞け」
有希は本を閉じて、膝の上に置いた。
「昨日の相互質疑」
「うん」
「二十分、一度も踏まなかったな」
あいつの足が、止まった。
窓枠でぶらぶらさせていたやつが、ぴたりと止まる。昔からわかりやすい。
「……なんの話?」
「語尾が延びてた。三回」
「げ」
「げ、じゃない」
有希は口を尖らせた。それから、あきらめたように息を吐いた。
「バレるんだよなあ、お兄ちゃんには」
「八年一緒にいたからな」
「それ、ずるいと思う」
「お互いさまだ」
あいつは窓の外を見た。グラウンドで、陸上部が走っていた。
「なんで使わなかった」
「使いたくなかったから」
「理由になってない」
「なってなくていいの」
こいつは、こういうときだけ絶対に説明しない。
説明しないのは、説明すると自分の弱いところが見えるからだ。俺と同じ理屈だ。同じ家で育つと、逃げ方まで似る。
だから俺は、それ以上聞かなかった。
かわりに、ひとつだけ言った。
「有希」
「なに」
「勝ちたいなら、使え」
あいつが、こっちを見た。
「次は、使っていい。俺は文句を言わない」
「……お兄ちゃん」
「そのかわり、こっちも本気で潰す」
有希は、しばらく俺を見ていた。
それから、笑った。学校用でも、家用でもない、途中みたいな笑い方だった。
「ほんと、勝手なことばっかり言うよね」
「知ってる」
「知ってるなら直して」
「無理だ」
あいつは窓枠から下りて、俺の横をすり抜けた。
ドアの手前で、一度だけ足を止めた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「わたし、いま、けっこう楽しいよ」
声が、わりと本気だった。
「そうか」
「うん。……でも、たぶん、来週から楽しくなくなる」
俺が理由を聞く前に、あいつは廊下に出ていた。
板が鳴って、階段の下で消えた。その日の夕方、俺はアリサと二人で下校した。
並木の葉が、少し色を変えはじめていた。
「谷山さんと話したんですって?」
「早いな」
「宗像くんが言ってたわ」
あいつ、ぜんぶ喋りやがって。
「二年前のこと、話したの?」
「話した」
「……そう」
アリサは、そこで引いた。
この女は、踏み込んでいい線がわかる。だから俺は、自分から言うことにした。
言わなければ、一生言わない。
「九条」
「なに」
「この前の、戻ってもいいっていう話だが」
足音が止まった。
「返事はもうしたわ。搬入口で聞いた」
「あれは半分だ」
「半分?」
「戻らない、とは言った。なぜ戻らないかは言ってない」
アリサは、こちらを見た。夕方の光が、銀色の髪の輪郭を赤くしていた。
「お前は、俺が有希と組めば無敵だったのに、それを捨てたと思ってるだろ」
「……思ってるわ」
「半分は合ってる」
「半分は」
「無敵だったのは、事実だ」
俺は言った。
「ただ、それは俺が有希を勝たせる機械をやったときの話だ」
風が、落ち葉を転がしていった。
「二年前、俺は有希を勝たせた。勝ったあと、あいつは嬉しそうにしてなかった」
「……」
「俺も嬉しくなかった。当たり前だ。俺がやったのは、有希の言葉を減らす作業だからな」
アリサは、黙って聞いていた。
「俺は、そういう組み方しか知らなかった。だから、あれを『無敵』って呼ぶのは、たぶん間違ってる」
「じゃあ、なんて呼ぶの」
「よくできた機械」
自分で言って、その通りだと思った。
俺は、あの家で機械の作り方を教わった。人を機能で数えて、いちばん効率のいい配置に置く。俺はそれが得意だった。得意なことを八年間、封印していた。
「お前と組んでからは、うまくいってない」
「ひどい言い方ね」
「ひどいが、事実だ。お前は指示どおりに動かない。頼めば断る。助けると怒る」
「……」
「昨日だって、俺は壇の上で何もできなかった。指名されるのを待つだけだった」
そこで、足を止めた。
「でも、俺はいまのほうがいい」
アリサが、こちらを見ていた。
「捨てたんじゃない。乗り換えたんだ。こっちのほうが、面白いからだ」
自分の耳が熱くなっているのがわかった。
こんなことを口に出す日が来るとは思っていなかった。
アリサは、そこで長く止まった。それから、前を向いて、歩き出した。
歩きながら、小さく言った。
「……そういうことは」
「あ?」
「そういうことは、もっと早く言いなさいよ」
声が、湿っていた。
俺は、追いかけなかった。
三歩の距離を保ったまま、うしろを歩いた。
しばらくして、聞こえた。
――『……もう、逃がさないから』
ロシア語だった。
俺は、空を見上げた。
十月の空には、木目も黒板も関係代名詞もなかった。逃げ場が一個もなかった。
最悪だ、と思った。
最悪なのに、口の端が勝手に上がっていた。その夜、統也先輩から連絡が来た。
投票日が確定した、という業務連絡だった。十一月の第二週。三週間を切っている。
文面の最後に、一行だけ、こう付いていた。
――今年は来光会のOBが何人か見に来るらしい。気をつけろ。
来光会。
この学園のOBが作っている会だ。生徒会長を務めた人間と縁ができる、あの会。
大人の熱が、そろそろ降りてくるということだ。
俺は、スマホを机に置いた。
もう一件、通知が来ていた。
有希からだった。
あいつのメッセージは、いつも短い。長い文を送ると感情が乗るからだ。
今日のは、二文字だった。
――「ごめん」
なんの謝罪なのか、書いていなかった。
俺は、返信を打ちかけて、消した。打ちかけて、消した。
三回目でやめて、天井を見た。
自分の部屋の天井には、木目がある。
木目は、何も言わなかった。
えらい。
えらいが、今夜も、あまり役に立たなかった。