舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
宮前乃々亜は、その日、二十分間ずっと同じ場所に座っていた。
中庭の縁石だ。腰かけるためのものではないので、硬いし、低いし、冷たい。それでも動かなかった。動く理由がなかったからだ。
人はどんどん抜けていった。模擬店の列が進むたびに、一人ずつ、二人ずつ。誰も悪くない。順番が来たら、そっちに行く。それだけのことだった。
乃々亜は、抜けていく人のことは見なかった。
ステージだけを見ていた。
膝の上に、ケースに入ったままのキーボードがあった。持ってきた理由は、自分でもよくわからない。朝、家を出るときに、なんとなく持った。
なんとなく持ったものは、たいてい、なんとなく持ち帰ることになる。
演奏は、うまくいっていなかった。
乃々亜は音楽の理屈には詳しくない。詳しくないが、聞けばわかる。低いところが抜けていた。ギターとドラムのあいだに、大きい空白がある。空白があると、耳がそこを埋めようとして、勝手に疲れる。
あと、歌が届いていなかった。
声を張っているのは伝わってきた。張れば張るほど、音程が上に逃げていた。あれは、自分の声が聞こえていない人の歌い方だ。
直せるのかどうかは、わからない。
わからないので、乃々亜は考えなかった。考えないのは、乃々亜の得意なことだった。
昔からそうだったわけではない。
中等部の一年か二年のころは、もう少しいろいろ考えていた気がする。何を考えていたかは、思い出せない。思い出せない程度のことだったのだろう。
止まったのは、二年前だ。
谷山沙也加が、生徒会長選挙で負けた年だった。
あのころ、沙也加はよく喋る子だった。よく喋る、というより、調べたことを全部言う子だった。予算のこと、部費のこと、備品の更新のこと。乃々亜には一つもわからなかったが、聞いているのは嫌ではなかった。
沙也加は負けた。七対三だった。
負けた次の日から、沙也加は喋らなくなった。
正確に言えば、喋る量は同じだった。ただ、調べたことしか言わなくなった。感想を言わなくなった。「悔しい」も「疲れた」も、一度も言わなかった。
乃々亜は、それを二年見ていた。二年見ていて、何もしなかった。
できることがなかったからではない。何かできることがあったのかもしれないが、それを探すには、調べなければいけない。乃々亜は調べるのが向いていない。
だから、隣にいた。隣にいるのは、調べなくてもできる。
沙也加が征嶺の高等部に来ると言ったとき、乃々亜は理由を聞かなかった。
聞かなくても、だいたいわかっていた。
あの子は、誰かを探しに行く。二年かけて調べて、たぶん、見つけた。見つけたから、同じ学校に行く。
誰を、とは聞かなかった。
聞くと、答えが返ってくる。返ってきたら、乃々亜もその人を知ることになる。知ってしまうと、たぶん、そのあと何かしなければいけない気がしてくる。
乃々亜は、それが面倒だった。
面倒だと思う自分のことも、たいがいだと思っている。
だが、面倒だと思うのと、離れるのは別だ。
だから乃々亜も、同じ学校に来た。
自分の理由は、一つもない。
昇降口で、久世という男に会った。
式次第で名前だけ見たことがあった。九条アリサの副会長候補になった一年、と誰かが言っていた。噂の出どころは知らない。乃々亜は噂の出どころを調べない。
その男は、乃々亜の膝の上を見て、こう言った。
――それ、弾かないのか。
乃々亜は「弾くとうるさいっしょ」と答えた。
答えてから、少し変な感じがした。
あの男は、「なんで持ってるの」とは聞かなかった。「弾けるの」とも聞かなかった。弾く前提で、弾かない理由のほうを聞いた。
その順番は、乃々亜にとって初めてだった。
たいていの人は、まず「弾けるの?」と聞く。聞かれると、乃々亜は「まあ、ちょっと」と答える。すると相手は「へえ、すごい」と言って、それで終わる。
終わるのが、楽だった。昨日までは、楽だった。
途中で一度、見られた。
ステージの下手に、折りたたみの机が出ていた。その上に卓が置いてあって、その前に男が一人立っていた。
一年生だった。制服を着ていて、実行委員の腕章はしていない。
その男は、卓に触っていなかった。触らずに、ずっとステージを見ていた。
途中で、一度だけこちらを向いた。
目が合ったわけではない。あの男が見ていたのは、たぶん、乃々亜の顔ではなかった。
膝の上だった。
乃々亜は、そのとき初めて、自分がケースを両腕で抱えていることに気づいた。
抱える必要はない。膝に置いておけばいい。落ちるようなものでもない。
なのに、両腕で囲っていた。
見られたので、少しだけ姿勢を直した。直してから、直したことがなんとなく悔しかった。
悔しい、という感情が出てくること自体が、乃々亜には久しぶりだった。
部屋に帰って、乃々亜はケースを床に置いた。
開けなかった。
開けないまま、ベッドに座って、しばらく壁を見ていた。
ステージの上の二人のことを、思い出していた。
ギターの男のほうは、最後にマイクに向かって礼を言って、声が裏返って、それで笑っていた。あの笑い方には、見覚えがあった。
二年前、沙也加が負けたあとに一度だけした顔と、少し似ていた。
ドラムの男のほうは、片づけなかった。
乃々亜は、そっちを長く見ていた。
終わった舞台の上に、片づけずに座っている人。
あれは、まだ終わったことにしたくない人の座り方だ。
乃々亜には、その気持ちがわからなかった。わからないのは、乃々亜が一度も、終わらせたくないほど何かをやったことがないからだ。やったことがない人間には、比べるものがない。
スマホが光った。
沙也加からだった。文面は短かった。
――今日、中庭にいた?
乃々亜は「いた」と返した。
少しして、また来た。
――なぜ
なぜ、と聞かれると困る。理由を持って動いたことが、あまりない。
乃々亜は、しばらく画面を見ていた。それから、指を動かした。
――キーボード持ってたから
答えになっていなかった。
沙也加からの返事は、来なかった。
来ないのは、いつものことだった。あの子は、答えになっていない答えに対して、返事をしない。責めもしない。ただ、次の話題に移る。
二年間、それでやってきた。
乃々亜は、スマホを伏せた。
伏せてから、床のケースを見た。
中身は、二年前に買ってもらったやつだ。買ってもらったときは、毎日触っていた。いまは、月に一回か二回。触るのは、たいてい夜で、音は出さない。
電源を入れなくても、鍵盤は押せる。
押すと、かたかた鳴る。それだけだ。
その音が、乃々亜は嫌いではなかった。
誰にも聞こえないし、誰も上手いとも下手とも言わない。
明日、軽音は体育館に出るらしい。
二日目の十四時から三十分。式次第にそう書いてあった。乃々亜はそれを覚えていた。覚えるつもりはなかったのに、覚えていた。
三十分は、長い。
二十分でもたなかったものが、三十分もつわけがない。
それは、調べなくてもわかることだった。
乃々亜は立ち上がって、ケースの持ち手に手をかけた。
かけて、離した。
そのまま電気を消して、布団に入った。
目を閉じてから、一つだけ考えた。
自分は、本気を出していないと、よく言われる。中等部のころから何度も言われた。先生にも、部活の先輩にも、一度は母親にも言われた。
言われるたび、そうかもね、と答えてきた。
本当のところは、少し違う。
本気を出していないのではない。出し方を、知らないのだ。
やり方を教えてくれる人は、これまで一人もいなかった。みんな「本気を出せ」とは言うが、その出し方は誰も言わない。
二年前まで、隣にそれをやっている人がいた。
あの子は、負けたあと、やり方ごとしまってしまった。乃々亜は、それを見ていた。見ていただけだ。
目を開けると、天井が暗かった。
――明日、行くかも。
そう思って、すぐに、行かないかもしれない、とも思った。
どちらでもよかった。
どちらでもよかったのに、目が冴えて、しばらく眠れなかった。