舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
谷山沙也加の父は、勝ち方について、一度だけ娘に説明したことがある。
沙也加が九歳のときだ。
その日、父の会社は競合との入札に勝った。夕食の席で、父は上機嫌だった。母がワインを注いで、乾杯をした。
「沙也加。今日、父さんの会社が仕事を取ったよ」
「おめでとうございます」
「なぜ取れたと思う?」
沙也加は、そのころから真面目な子どもだった。だから、真面目に考えて答えた。
「うちの製品が、いちばん良かったからですか」
父は笑った。
褒めるときの笑い方ではなかった。かわいいものを見たときの笑い方だった。
「二番目だ」
「え」
「性能は二番目だった。値段は三番目だ」
「じゃあ、なぜ」
「話し方だよ」
父はグラスを置いた。
「先方の担当者が何を心配しているかを、こっちが先に言った。それだけだ。いちばん性能のいい会社は、性能の話しかしなかった」
父は満足そうだった。
自分の勝ち方に、一点の曇りもない顔だった。
沙也加は、その夜、眠れなかった。
九歳の頭で考えたことを、いまも覚えている。
――じゃあ、いちばんいいものを作った人は、どうなったんだろう。
その人は自分の会社に戻って、負けた理由がわからないまま、また作り続けたのだと思う。
性能で負けたなら、次は性能を上げればいい。値段で負けたなら、下げればいい。でも、話し方で負けた人は、何を直せばいいのかがわからない。
沙也加が父を嫌いになったわけではない。
父は誠実な人だ。約束を守るし、社員を大事にする。娘の話も最後まで聞く。
ただ、あの日から、沙也加は自分の家のやり方を、自分では使わないと決めた。決めた理由を、うまく言葉にできたのは、ずっとあとになってからだ。
――見せ方で勝つのは、負けた側から、次に何をすればいいのかを奪う。
中等部二年の秋の生徒会長選挙で、沙也加は周防有希に負けた。
得票率は三割だった。
あれは、納得のいく敗北だった。少なくとも、当日はそう思った。
周防有希という人は、壇上に立っているだけで空気が変わる。声がよく通る。間の置き方が上手い。そして何より、あの人は自分の言葉で喋る。
沙也加は、演説原稿を四十七回書き直した。中等部の予算規模、部費の配分、備品の更新周期。全部調べた。調べたことしか言わなかった。
周防有希は、それより少ないことを、それよりずっと大きく言った。
負けた。
悔しかったが、恨みはなかった。
あの人が三年かけて積んだ人望に、自分の四十七回は届かなかった。それだけの話だ。ただ、ひとつだけ、いまも喉に刺さっているものがある。
選挙の中盤で、周防有希の演説の方向が変わったことだ。
最初の二回、あの人は具体的な話をしていた。図書室の開室時間の話。部室棟の掃除当番の話。地に足がついていた。
三回目から、変わった。
中身が減って、大きさが増えた。「わたしたち」という言葉が増えた。数字が一つだけになった。
上手くなった、というのとは違う。
方針が変わった、という変わり方だった。
沙也加は、そのとき初めて、自分の背筋が冷たくなるのを感じた。あれは、誰かが設計を書き直した動き方だ。
証拠はない。
周防有希本人が、自分で気づいて直したのかもしれない。優秀な人だから、それは十分ありうる。だから沙也加は、二年間、誰にもこの話をしていない。
証拠のないことを口にするのは、父のやり方に近づくことだからだ。
高校を一年で移ったのは、家の都合が半分だった。
残りの半分は、自分でもよくわかっていない。
一年半ぶりに征嶺の門をくぐったとき、沙也加は自分がまだ何も終えていないことを認めた。
周防有希と、もう一度やりたい。
今度は、勝ち負けではなく、確かめたい。あの人の言葉が、あの人のものかどうかを。
転入して三日目に、候補者紹介の放送を聴いた。
放送そのものは、転入より前だった。校内放送は保存されていない。それでも、音は残っていた。
クラスの誰かが、スマホで録っていたものが回っていた。雑音だらけの、机の上に置いたままの音だった。
九条アリサ。名前は知らなかった。
三分間、沙也加はメモを取らずに聴いた。雑音の向こうの声だけを追った。
冒頭の三十秒で、二回噛んだ。
その二回で、教室の空気が変わった。誰かが顔を上げた。廊下を歩いていた生徒が足を止めた。
――誰にも必要とされていない気がしていた。だから、いちばん必要とされる場所に立ちたい。
言い終えたあと、その人は少しだけ間を置いた。
沙也加は、その間の長さを、正確に覚えている。
二秒だった。
二秒は、原稿には書けない。書いても、書いたとおりには置けない。あれは、その場で置かれたものだ。
だから沙也加は、最初、感心した。感心したまま、その日の放課後に体育館へ行って、そこで平面図を広げている男子生徒を見た。
照明の角度を測っていた。音の返りを気にしていた。前列三列の視野角を計算していた。
宗像湊。九条アリサの推薦人。役割は「特にない」。
沙也加は、その夜、自分の部屋で、放送の音源を頭の中でもう一度再生した。
マイクの高さ。声の落ち方。噛んだ二回。二秒の間。
全部が、設計できる要素だった。
二秒の間も、設計できる。
演出のできる人間なら、「ここで一拍置け」と言える。言われたとおりに置いた間と、自分で置いた間は、音では区別がつかない。
沙也加は、そこで手が止まった。
――区別がつかないなら、疑うべきではない。
それが、自分に課したルールのはずだった。でも、疑ってしまった。
疑ったまま黙っているのは、いちばん卑怯だと思った。だから、確認しに行った。
昼休みの一年A組で、腕章を机に置いたのは、そのためだ。
立場のある人間が立場を使って詰めるのは、父のやり方だ。だから外した。
外して、聞いた。
九条アリサは、答えられなかった。
久世政近は、庇い方を間違えた。そして九条アリサは、椅子を鳴らして立ち上がって、「関係ないわけ、ないでしょう」と言った。あの一言だけは、設計されていなかった。
沙也加は、それを聞いた瞬間に、自分が少しだけ嬉しかったことに気づいて、そんな自分に驚いた。
教室を出て、廊下を歩きながら、胸が悪かった。
正しいことをしたはずだった。
正しいことをして、こんなに気分が悪くなるのは初めてだった。
――わたしは、あの人たちが嫌いなわけではない。
それは、教室で言った。言ったのに、伝わった気がしなかった。
伝え方が下手だからだ。
沙也加は、そのことをよく知っている。中等部の四十七回で、いやというほど知った。
伝え方が下手な人間が、伝え方の上手い人間に「上手すぎる」と文句をつけている。それは、単なる僻みと、どう違うのだろう。その夜、父が珍しく早く帰ってきた。
夕食の席で、父は転入のことを聞いた。学校はどうか。友達はできたか。困っていることはないか。
沙也加は、順番に答えた。悪くない。まだ。ない。
「選挙があるんだったな」
「はい。生徒会長選です」
「出るのか」
「出ません。管理する側にいます」
父は「そうか」と言って、味噌汁に口をつけた。それから、何気ない調子で言った。
「沙也加。出ればよかったんじゃないか」
「……なぜですか」
「二年前、悔しかっただろう」
沙也加は箸を止めた。
父は、こういうところがある。娘の話を最後まで聞くくせに、いちばん触られたくない場所を、遠慮なく正面から指す。
「悔しかったです」
「じゃあ、なぜ出ない」
「わたしが出ると、また同じことになるからです」
「同じこと、とは」
「わたしは、伝えるのが下手です」
言ってしまってから、少し後悔した。
父は箸を置いた。
「沙也加。伝えるのが下手なのは、欠点じゃない」
「……はい」
「ただ、直せる欠点を直さないのは、意地だ」
沙也加は、返事をしなかった。
父はそれ以上言わなかった。この人はいつも、一撃だけ入れて引く。引き際が上手い。
上手いから、こっちは何日も考えることになる。
自室に戻って、机の前に座った。
――直せる欠点を直さないのは、意地だ。
そのとおりだ、と思う。でも、直したその先にあるのは、父の勝ち方だ。
九歳のあの夜から、沙也加はずっとその分かれ道の前に立っている。二年前も立っていた。いまも立っている。
沙也加は、討論会の要項を読み返した。
答弁は会長候補本人のみ。第三者は発言できない。この四行があるかぎり、壇上に立つのは本人だけだ。
本人の言葉かどうかは、本人に聞くしかない。
聞けば、わかる。
言葉を借りている人間は、二十分ももたない。
スマホが鳴った。宮前乃々亜からだった。
――なんか食べた?
沙也加は「食べました」と返した。嘘だった。
二分して、また来た。
――嘘っしょ
どうしてわかるのか、沙也加にはわからない。乃々亜は何も調べない。調べないのに、こういうところだけ外さない。
沙也加は返事をしなかった。返事をしないと、乃々亜は追ってこない。追ってこないまま、明日また同じことを聞いてくる。
二年、それでやってきた。
あの子は、秋嶺祭のステージに勝手に出たらしい。あとで人から聞いた。本人は何も言わなかった。
沙也加は、そのことを少しだけ考えた。
二年間、乃々亜は何もしなかった。何もしないのは、たぶん、沙也加が何もさせなかったからだ。
――と、そこまで考えて、やめた。
いまは、その順番を並べる時間ではない。
沙也加はペンを置いて、机の引き出しを少しだけ開けた。
中には、この二年で買った単行本が、背表紙を伏せて並んでいる。誰にも見せたことがない。
一冊だけ手に取って、開かずに、また戻した。
いまは読む時間ではない。
引き出しを閉めて、要項に戻った。
窓の外で、十月の風が鳴っていた。