舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
封筒は、一ヶ月前から机の右側に置いてある。
中身は、三週間かけて集めた数字だった。
部費の推移が六年ぶん。行事の予算配分が四年ぶん。備品の更新履歴。購買の価格改定。体育館の使用申請の受理率まで入っている。
一度、捨てようとした。
捨てなかったのは、隣の席の男が「取っとけ」と言ったからだ。
あのとき彼は、次は違うと言った。顔が見える場所で、時間をもらえて、相手と直接やり合う機会が来る、と。
来た。
明後日だ。
九条アリサは、封筒から紙を出して、並べた。
並べるのは得意だった。紙の上のものは、順番を変えれば意味が変わる。変えた意味は、こちらの都合では動かない。動かないものを扱うのは、楽だ。
人は、順番を変えると怒る。この一ヶ月で、彼女はそのことを、何度も確かめさせられた。
一。谷山沙也加が転入してきた。
二。彼女は初日から、こちらを見ていなかった。見ていたのは、こちらの隣だった。
三。そして、廊下でこう言われた。
――幼馴染だからでしょう。
あの一言が、まだ抜けない。
抜けない理由は、はっきりしている。反論できなかったからではない。反論しようとして、口を開いて、そこで自分でも「そうかもしれない」と思ってしまったからだ。
思ってしまったあとで出した言葉が、あれだった。
――戻ってもいいのよ。
いま思い出しても、ひどい言い方だった。
あれは相手に選ばせているようで、選ばせていない。断られる前提で差し出す提案は、提案の形をした確認だ。
断られたかったのだ。断られて、それでも隣にいると言われたかった。
そういう聞き方をする人間を、彼女はひとつだけ知っている。
鏡の中にいる。
ペン立てから赤ペンを取って、紙の端を折った。
折り目は、いつも同じ場所につく。指が覚えている。覚えているということは、この一ヶ月で何百回もやったということだ。
彼女はその折り目を、指の腹でならした。ならしても、跡は消えなかった。
四日前、宗像湊に頼みごとをした。
討論会、あなたは何もしないで。
理由は正直に言った。勝ったときに、誰の勝ちかわからなくなるのが嫌なの、と。
嘘ではなかった。嘘ではなかったが、全部でもなかった。
言わなかったほうの理由は、こうだ。
もし彼が動いて、それで勝ったら、谷山沙也加が正しくなる。
九条アリサは、人に用意してもらったもので前に出る人間だ、という話が正しくなる。それだけは、こわかった。
自分が負けることより、その話が正しくなることのほうが、こわかった。
――『それは、勝ちたいのとは違う』
ロシア語で言うと、いつもこうだ。
日本語で考えているあいだは、理屈が整っている。整っているから、疑わずに済む。
別の言葉に置き換えた瞬間、整っていた部分が落ちて、下に置いてあったものだけが残る。
残ったのは、勝ちたいという気持ちではなかった。見られたくない、だった。
彼女は目を閉じた。
あの日、頭を下げたことを思い出した。下げ方が下手だったのは、自分でもわかっていた。慣れていないことは、体に出る。
下げたあと、彼は「よくない。でも、わかった」と言った。
よくない、を先に言う人だった。あのときは、変な言い方をする人だと思っただけだった。
今日、丸山毅が紙を見せてきた。
手書きの手順書だった。四項目あって、最後の一つがこう書いてあった。
――「聞こえてます」と一度言ってあげる。それだけで、声を張らなくなる。
彼女は、その紙をしばらく見ていた。あの人は、何もしないでと言われて、何もしないための準備を七枚書いたのだ。
自分がいなくても回るように、全部渡してから、いちばん後ろに立つと決めている。
廊下で会ったとき、聞いてみた。四番は誰に言うのか、と。
壇上には二人いる。相手陣営の候補者も、同じマイクを使う。
彼は少し止まって、それから「両方です」と言った。あのとき自分がどんな顔をしていたか、彼女は知らない。
怒っていたわけではない。
ただ、その答えを予想していなかった。予想していなかったことに、少し腹が立った。腹が立ったことのほうに、もっと驚いた。
これまで、あの人のことは「久世政近の変わった友達」だと思っていた。思っていた、というより、それ以上の分類をしていなかった。
いまは違う。宗像湊、という名前の人だ。
名前で覚えるというのは、その人の行動を、こちらが予想し始めたということだ。
予想し始めた相手は、もう、風景ではない。
要項は、暗記するほど読んだ。
前半二十分は、相手候補への質問。後半二十分は、会場からの質問。答えられるのは候補者本人だけで、副会長候補は補足しかできない。補足は一回三十秒まで。
三十秒は、短い。
六年ぶんの部費の推移を三十秒で説明することは、できない。できないから、説明するのは自分になる。
自分になる、というのは、当たり前のことだ。当たり前のことが、こんなに重いと思わなかった。
彼女は目を開けて、机の上の紙に戻った。
六年ぶんの部費の推移。数字の列。
この列を、彼女は全部覚えている。覚えているのに、明後日それを口に出す自分の姿が、うまく浮かばない。浮かばないのは、体育館が広いからだ。
――と、日本語で説明した。
説明してから、それが説明になっていないことに気づいた。
先週、生徒会室で、くだらない遊びをした。
罰ゲームで、その日の残りだけ下の名前で呼ぶことになった。
彼女は一度だけ呼んだ。声は、自分でも聞き取れないくらい小さかった。
次の日から、もとに戻した。戻したのは、恥ずかしかったからではない。
あの呼び方を続けると、たぶん、自分は楽になる。楽になった状態で明後日を迎えるのが、こわかった。
支えられている状態で立つのと、支えられずに立つのでは、立ったあとに残るものが違う。
――そう思っている自分が、いちばん面倒くさい。
それは、日本語でもロシア語でも、同じ形をしていた。
ドアの外を、姉が通った。
足音でわかる。九条マリヤは、廊下を歩くとき、かかとを先に下ろさない。だから音が丸い。
通り過ぎて、少し戻ってきた。ノックはしなかった。ドアの前で立ち止まって、それだけで行った。
入ってこなかったのは、こちらが集中していると思ったからだ。
姉は、そういうところを間違えない。間違えないのに、それを言わない。言えば貸しになると知っているのではなく、たぶん、貸しという発想がないのだ。
あの人には、頼めない。
頼めない理由は、一ヶ月前と同じだった。同じままで、少しだけ形が変わっていた。
一ヶ月前は「マーシャの妹になりたくない」だった。
いまは「明後日の結果を、あの人に見られたくない」になっている。
どちらも、逃げ方の名前が違うだけだ。
時計を見た。
十一時をすぎていた。
明日は、討論会の前日だ。彼女は原稿を三回読み直すつもりでいる。三回で足りなければ、四回読む。
一度だけ、声に出して読んでみた。
六年前の部費の表を、頭から。数字を読み上げて、そこから何が言えるかを続けた。
三行目で止まった。
止まった理由は、内容ではない。自分の声が、この部屋の壁に当たって返ってきたからだ。
返ってきた声は、思ったより高かった。高いというより、細かった。
人前で喋る人の声ではない、と彼女は思った。
思ってから、その判断が誰の基準なのかを考えた。
周防有希の声だ。
あの人の声は、体育館のいちばん後ろまで、同じ太さで届く。届くように作ってある。作れるということは、練習したということだ。
彼女は、練習をしたことがなかった。
勉強はしてきた。作業もしてきた。だが、声を出す練習だけは、一度もしたことがない。
明後日までに、間に合うものではない。
間に合わないものを数え始めると、きりがない。だから数えるのをやめた。やめられたのは、たぶん、いい兆候だった。
紙を封筒に戻して、机の右に置いた。
置いてから、封筒の口を一度開けて、いちばん上の一枚だけ抜いた。
六年前の部費の表だ。いちばん最初に見つけた数字だった。
三週間の作業のうち、この一枚を見つけた夜だけ、彼女は誰かに話したくなった。
話さなかった。話す相手を、そのときは思いつかなかったからだ。
いまは、思いつく。思いつくのに、明後日が終わるまでは言わないと決めていた。
理由は、自分でもよくわかっていない。
――『終わってからでも、遅くないでしょう』
彼女は電気を消した。
布団に入って、天井を見た。何も見えなかった。何も見えないところで、最後にもう一度だけ数えた。
一。覚えている数字。ぜんぶ。
二。明後日、隣に立つ人。ひとり。
三。
三つ目が、出てこなかった。
出てこないまま、彼女は眠った。