舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

28 / 29
幕間_アーリャ 誰の勝ちか

 封筒は、一ヶ月前から机の右側に置いてある。

 

 中身は、三週間かけて集めた数字だった。

 

 部費の推移が六年ぶん。行事の予算配分が四年ぶん。備品の更新履歴。購買の価格改定。体育館の使用申請の受理率まで入っている。

 

 一度、捨てようとした。

 

 捨てなかったのは、隣の席の男が「取っとけ」と言ったからだ。

 

 あのとき彼は、次は違うと言った。顔が見える場所で、時間をもらえて、相手と直接やり合う機会が来る、と。

 

 来た。

 

 明後日だ。

 

 九条アリサは、封筒から紙を出して、並べた。

 

 並べるのは得意だった。紙の上のものは、順番を変えれば意味が変わる。変えた意味は、こちらの都合では動かない。動かないものを扱うのは、楽だ。

 

 人は、順番を変えると怒る。この一ヶ月で、彼女はそのことを、何度も確かめさせられた。

 

 一。谷山沙也加が転入してきた。

 

 二。彼女は初日から、こちらを見ていなかった。見ていたのは、こちらの隣だった。

 

 三。そして、廊下でこう言われた。

 

 ――幼馴染だからでしょう。

 

 あの一言が、まだ抜けない。

 

 抜けない理由は、はっきりしている。反論できなかったからではない。反論しようとして、口を開いて、そこで自分でも「そうかもしれない」と思ってしまったからだ。

 

 思ってしまったあとで出した言葉が、あれだった。

 

 ――戻ってもいいのよ。

 

 いま思い出しても、ひどい言い方だった。

 

 あれは相手に選ばせているようで、選ばせていない。断られる前提で差し出す提案は、提案の形をした確認だ。

 

 断られたかったのだ。断られて、それでも隣にいると言われたかった。

 

 そういう聞き方をする人間を、彼女はひとつだけ知っている。

 

 鏡の中にいる。

 

 ペン立てから赤ペンを取って、紙の端を折った。

 

 折り目は、いつも同じ場所につく。指が覚えている。覚えているということは、この一ヶ月で何百回もやったということだ。

 

 彼女はその折り目を、指の腹でならした。ならしても、跡は消えなかった。

 

 四日前、宗像湊に頼みごとをした。

 

 討論会、あなたは何もしないで。

 

 理由は正直に言った。勝ったときに、誰の勝ちかわからなくなるのが嫌なの、と。

 

 嘘ではなかった。嘘ではなかったが、全部でもなかった。

 

 言わなかったほうの理由は、こうだ。

 

 もし彼が動いて、それで勝ったら、谷山沙也加が正しくなる。

 

 九条アリサは、人に用意してもらったもので前に出る人間だ、という話が正しくなる。それだけは、こわかった。

 

 自分が負けることより、その話が正しくなることのほうが、こわかった。

 

 ――『それは、勝ちたいのとは違う』

 

 ロシア語で言うと、いつもこうだ。

 

 日本語で考えているあいだは、理屈が整っている。整っているから、疑わずに済む。

 

 別の言葉に置き換えた瞬間、整っていた部分が落ちて、下に置いてあったものだけが残る。

 

 残ったのは、勝ちたいという気持ちではなかった。見られたくない、だった。

 

 彼女は目を閉じた。

 

 あの日、頭を下げたことを思い出した。下げ方が下手だったのは、自分でもわかっていた。慣れていないことは、体に出る。

 

 下げたあと、彼は「よくない。でも、わかった」と言った。

 

 よくない、を先に言う人だった。あのときは、変な言い方をする人だと思っただけだった。

 

 今日、丸山毅が紙を見せてきた。

 

 手書きの手順書だった。四項目あって、最後の一つがこう書いてあった。

 

 ――「聞こえてます」と一度言ってあげる。それだけで、声を張らなくなる。

 

 彼女は、その紙をしばらく見ていた。あの人は、何もしないでと言われて、何もしないための準備を七枚書いたのだ。

 

 自分がいなくても回るように、全部渡してから、いちばん後ろに立つと決めている。

 

 廊下で会ったとき、聞いてみた。四番は誰に言うのか、と。

 

 壇上には二人いる。相手陣営の候補者も、同じマイクを使う。

 

 彼は少し止まって、それから「両方です」と言った。あのとき自分がどんな顔をしていたか、彼女は知らない。

 

 怒っていたわけではない。

 

 ただ、その答えを予想していなかった。予想していなかったことに、少し腹が立った。腹が立ったことのほうに、もっと驚いた。

 

 これまで、あの人のことは「久世政近の変わった友達」だと思っていた。思っていた、というより、それ以上の分類をしていなかった。

 

 いまは違う。宗像湊、という名前の人だ。

 

 名前で覚えるというのは、その人の行動を、こちらが予想し始めたということだ。

 

 予想し始めた相手は、もう、風景ではない。

 

 要項は、暗記するほど読んだ。

 

 前半二十分は、相手候補への質問。後半二十分は、会場からの質問。答えられるのは候補者本人だけで、副会長候補は補足しかできない。補足は一回三十秒まで。

 

 三十秒は、短い。

 

 六年ぶんの部費の推移を三十秒で説明することは、できない。できないから、説明するのは自分になる。

 

 自分になる、というのは、当たり前のことだ。当たり前のことが、こんなに重いと思わなかった。

 

 彼女は目を開けて、机の上の紙に戻った。

 

 六年ぶんの部費の推移。数字の列。

 

 この列を、彼女は全部覚えている。覚えているのに、明後日それを口に出す自分の姿が、うまく浮かばない。浮かばないのは、体育館が広いからだ。

 

 ――と、日本語で説明した。

 

 説明してから、それが説明になっていないことに気づいた。

 

 先週、生徒会室で、くだらない遊びをした。

 

 罰ゲームで、その日の残りだけ下の名前で呼ぶことになった。

 

 彼女は一度だけ呼んだ。声は、自分でも聞き取れないくらい小さかった。

 

 次の日から、もとに戻した。戻したのは、恥ずかしかったからではない。

 

 あの呼び方を続けると、たぶん、自分は楽になる。楽になった状態で明後日を迎えるのが、こわかった。

 

 支えられている状態で立つのと、支えられずに立つのでは、立ったあとに残るものが違う。

 

 ――そう思っている自分が、いちばん面倒くさい。

 

 それは、日本語でもロシア語でも、同じ形をしていた。

 

 ドアの外を、姉が通った。

 

 足音でわかる。九条マリヤは、廊下を歩くとき、かかとを先に下ろさない。だから音が丸い。

 

 通り過ぎて、少し戻ってきた。ノックはしなかった。ドアの前で立ち止まって、それだけで行った。

 

 入ってこなかったのは、こちらが集中していると思ったからだ。

 

 姉は、そういうところを間違えない。間違えないのに、それを言わない。言えば貸しになると知っているのではなく、たぶん、貸しという発想がないのだ。

 

 あの人には、頼めない。

 

 頼めない理由は、一ヶ月前と同じだった。同じままで、少しだけ形が変わっていた。

 

 一ヶ月前は「マーシャの妹になりたくない」だった。

 

 いまは「明後日の結果を、あの人に見られたくない」になっている。

 

 どちらも、逃げ方の名前が違うだけだ。

 

 時計を見た。

 

 十一時をすぎていた。

 

 明日は、討論会の前日だ。彼女は原稿を三回読み直すつもりでいる。三回で足りなければ、四回読む。

 

 一度だけ、声に出して読んでみた。

 

 六年前の部費の表を、頭から。数字を読み上げて、そこから何が言えるかを続けた。

 

 三行目で止まった。

 

 止まった理由は、内容ではない。自分の声が、この部屋の壁に当たって返ってきたからだ。

 

 返ってきた声は、思ったより高かった。高いというより、細かった。

 

 人前で喋る人の声ではない、と彼女は思った。

 

 思ってから、その判断が誰の基準なのかを考えた。

 

 周防有希の声だ。

 

 あの人の声は、体育館のいちばん後ろまで、同じ太さで届く。届くように作ってある。作れるということは、練習したということだ。

 

 彼女は、練習をしたことがなかった。

 

 勉強はしてきた。作業もしてきた。だが、声を出す練習だけは、一度もしたことがない。

 

 明後日までに、間に合うものではない。

 

 間に合わないものを数え始めると、きりがない。だから数えるのをやめた。やめられたのは、たぶん、いい兆候だった。

 

 紙を封筒に戻して、机の右に置いた。

 

 置いてから、封筒の口を一度開けて、いちばん上の一枚だけ抜いた。

 

 六年前の部費の表だ。いちばん最初に見つけた数字だった。

 

 三週間の作業のうち、この一枚を見つけた夜だけ、彼女は誰かに話したくなった。

 

 話さなかった。話す相手を、そのときは思いつかなかったからだ。

 

 いまは、思いつく。思いつくのに、明後日が終わるまでは言わないと決めていた。

 

 理由は、自分でもよくわかっていない。

 

 ――『終わってからでも、遅くないでしょう』

 

 彼女は電気を消した。

 

 布団に入って、天井を見た。何も見えなかった。何も見えないところで、最後にもう一度だけ数えた。

 

 一。覚えている数字。ぜんぶ。

 

 二。明後日、隣に立つ人。ひとり。

 

 三。

 

 三つ目が、出てこなかった。

 

 出てこないまま、彼女は眠った。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。