舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
公開討論会の記録は、二日後に選挙管理委員会から配布された。
A4で六枚。発言の要旨が、時刻つきで並んでいる。
記録係は谷山沙也加だった。字が細かく、正確で、余計な形容がひとつもない。あの人らしい書類だった。
周防有希は、自室の机でそれを読んだ。
自分の発言が、活字になっている。
十四時二十六分、周防有希、生徒会の年間業務時間について質問。
十四時三十一分、周防有希、可視化の実効性について質問。
十四時三十八分、周防有希、依頼の実行可能性について質問。
全部、制度の話だった。
二十分間、一度も人の話をしなかった。
紙の上で見ると、それがはっきりわかる。わかる人には、わかってしまう。
有希は、六枚を最後まで読んだ。
九条アリサの答弁も、全部載っていた。
十五時六分、九条アリサ、放送における第三者の関与について、具体的に列挙して回答。列挙して回答、の八文字に、あの十九秒は入っていない。
紙は、沈黙を記録しない。あの十九秒が、いちばん効いたのに。
有希は、その行を指でなぞった。
自分だったら、と考えてしまう。
自分だったら、あの場で十九秒黙れただろうか。
――黙れない。
答えは、考える前に出た。
自分なら、三秒で何か喋る。喋りながら整える。それができるから、この学園で強い。
でも、それは、整える余地を残しているということだ。
整える余地のない人間だけが、十九秒黙れる。
有希は、記録を閉じた。
悔しい、という感情の形をしていた。
悔しいと思えたことが、少しだけ嬉しかった。
二年前、谷山沙也加に勝ったときは、何も感じなかった。
その夜も、食事が終わってすぐに、書斎から呼ばれた。
書斎の温度は、いつもと同じだった。夏でも冬でも同じ温度に保たれている。この部屋には季節がない。
机の上に、あの六枚が置いてあった。
「読んだ」
「はい」
「よく喋った。声も通っていたそうだな」
「ありがとうございます」
祖父は、書類を一枚めくった。
「十五時四分、谷山沙也加、九条アリサに対し、候補者紹介放送への第三者の関与について質問」
読み上げる声には、抑揚がなかった。
「この質問を、お前が先にしなかったのはなぜだ」
有希は、両手を前で合わせた。合わせないと、指が動いてしまう。
「効果が薄いと判断しました」
「薄くない」
即答だった。
「相互質疑は、フロア質問より前だ。争点は先に置いたほうが勝つ。お前はそれを知っている」
「……はい」
「知っていて、置かなかった」
祖父は、初めて顔を上げた。
この人の目は、怒っていない。怒るという行為に、たぶん興味がない。
「有希。理由を言いなさい」
有希は、口を開いた。
――そういう勝ち方をすると、おじいさまが喜ぶからです。
昨日、放送室で、あの人にはそう言えた。言えたのは、あの人が家の外の人間だったからだ。
いま、同じ言葉を、この部屋で言えるか。
「……相手を、いちばん弱いところで倒したくありませんでした」
言えなかった。
半分だけ言った。
祖父は、しばらく有希を見ていた。
「それは、勝負ではない」
「はい」
「それは、趣味だ」
趣味、という単語が、部屋の中に落ちた。
有希は、自分の手のひらが冷たくなるのを感じた。
「勝ちなさい、と言ったはずだ」
「はい」
「勝ち方については、何も言っていない。言わなかったのは、お前に任せたからだ」
祖父は書類を揃えた。
「だが、任せた結果がこれなら、任せた判断が誤りだったことになる」
「……申し訳ありません」
「謝罪はいらない」
この人は、いつもそうだ。謝罪も、言い訳も、感情も受け取らない。受け取るのは、結果だけだ。
「投票日は十一月の第二週だな」
「はい」
「来光会から、何人か見に行くことになった」
有希は、顔を上げた。
「……見に、ですか」
「そうだ。見に行く」
祖父の言い方は、変わらなかった。
「今年は一年生同士の争いで、しかも接戦らしい。会の者が興味を持った」
興味、という言葉の意味を、有希は知っている。この家の周りにいる大人が「興味を持つ」とき、それは見物ではない。
手を出す準備を始めた、という意味だ。
「おじいさま」
「なんだ」
「わたしは、自分の力で勝ちたいのですが」
「そうしなさい」
あっさりしていた。
「私は何もしない。会の者が何をするかは、私の管轄ではない」
管轄ではない。
その一言で、祖父はいつも自分を安全なところに置く。そして、置いたまま、こちらの逃げ道だけを塞ぐ。
「下がってよろしい」
書斎を出て、廊下を歩いた。
絨毯が足音を吸う。
廊下の途中に、母の部屋がある。
細い光が、ドアの下から出ていた。ドアは閉まっていた。
有希は、足を止めた。
止めて、ドアに手を伸ばしかけて、下ろした。この一ヶ月で、伸ばしかけたのは三回目だった。
三回とも、下ろしている。
階段の途中で、有希は一度立ち止まった。
――趣味だ。
祖父の言葉が、まだ耳に残っている。
あの人は、罵倒をしない。罵倒は感情の消費だから、この人はやらない。
やるのは、分類だ。
勝負か、趣味か。役に立つか、立たないか。二つに分けて、片方を捨てる。
有希は、七歳のころから、その分類の中で生きてきた。
自分の笑い方も、声の高さも、歩幅も、全部「役に立つ」側に置くために作った。
昨日、放送室で、それを他人に話した。話したときの、あの人の顔を覚えている。
驚いてもいなかったし、同情もしていなかった。ただ、聞いていた。
――わたし、その話、一生忘れないと思う。
自分が言ったことなのに、いま思い出すと、こちらのほうが忘れられなくなっている。
自室のドアを開けると、綾乃がいた。
「有希様」
「お茶、いらない」
「かしこまりました」
綾乃は、それ以上何も言わなかった。
有希は制服のまま、ベッドに倒れ込んだ。
この部屋の天井は、子どもの背丈では届かない場所に影を作る。
「綾乃」
「はい」
「わたし、間違えたのかな」
「どちらの話でございますか」
「札を使わなかったこと」
綾乃は、少し間を置いた。
「わたくしには、判断できかねます」
「役に立たない従者ね」
「申し訳ございません」
有希は笑った。笑ったつもりだったが、うまく出なかった。
「でも、ひとつだけ、申し上げられることがございます」
「なに」
「昨日の有希様は、討論会が終わったあと、袖に戻る前に、笑っておられました」
天井から、目を離した。
「……見てたの」
「職務ですので」
「わたし、笑ってた?」
「はい」
「作ってた?」
「作っておられませんでした」
綾乃の声には、抑揚がなかった。抑揚がないぶん、嘘が混じらない。
有希は、目を閉じた。
閉じると、四十メートル先が浮かんだ。
体育館のいちばん後ろ。壁際の通路。あの人は、一歩前に出た。
あの一歩は、自分の全部を捨てる一歩だった。喋れば減点で、喋れば陣営が終わる。それを承知で出た。
九条アリサに止められて、戻った。
――みてた?
口だけ動かして聞いたとき、あの人は、間抜けなくらい大きくうなずいた。その瞬間、有希は自分が笑ったことに気づかなかった。
綾乃に言われて、初めて知った。これは、なんだろう。
名前をつけないほうがいい種類のもの、という気はしている。
名前をつけると、たぶん、この家の中で持ち歩けなくなる。
有希は寝返りを打って、枕に顔を埋めた。
机の引き出しには、この二年で買った単行本が、背表紙を伏せて並んでいる。
いつもなら、こういう夜は一冊取り出す。
今日は、手を伸ばさなかった。
かわりに、スマホを取った。
兄に、二文字だけ送った。
――ごめん
なんの謝罪かは、書かなかった。
書けなかった、というほうが近い。
来光会が動くことを、有希は止められない。
止められないものについて、先に謝るのは卑怯だ。それはわかっている。わかっていて、送った。
送ってから、返信が来ないことを願った。
願いは叶った。
既読はついた。返信は来なかった。
兄は、こういうときだけ、正確に何もしない。
有希は、スマホを伏せて置いた。
外は、もう何も見えない。この家の窓は、夜になると外ではなく部屋の中を映す。
鏡と同じだ。
どこを向いても、映るのは自分だけだ。
――違う。
今日は、少し違った。
映っている自分の、うしろのほうに、四十メートル先の通路が見える気がした。
見えるはずがない。窓は窓だ。
それでも、有希はしばらく、そちらを見ていた。