舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
征嶺学園の視聴覚室は、思っていたよりまともだった。
放課後、僕はそこで機材の下見をしていた。学園祭でも選挙の演説でも、いずれこの部屋の設備を使うことになる。誰に頼まれたわけでもない。ただ、知らない現場に立つのが嫌なだけだ。
プロジェクターは四年前の型で、明るさは三千五百ルーメン。カーテンを閉めれば足りる。閉めなければ足りない。音響卓は十二チャンネル。ワイヤレスマイクが二本、有線が四本。スピーカーの位置が悪くて、部屋の後ろ三列でハウリングが起きそうだった。
僕はメモ帳に書き込んだ。「後方スピーカー、位置要調整」「ワイヤレス電池、予備なし」。
こういうことを書いていると、落ち着く。世界に自分の居場所があるような気がしてくる。安い居場所だが、ないよりましだ。
三十分ほど前まで、僕は日野に付き合って、文化祭のクラス企画の掲示物を見ていた。
案は三つあった。どれも「悪くない」の範囲だった。悪くないというのは、この世でいちばん危険な状態だ。悪ければ直せる。悪くないものは、そのまま出てしまう。
「宗像くん、どれがいいと思う?」
「三案目。ただし、真ん中の見出しを削って」
「削るの? そこ、いちばん大事なとこだよ」
「大事なことは、二回言うと軽くなるんだ。上ですでに言ってる」
日野は「うわ、それっぽい」と言って笑った。それから、少し真顔になった。
「宗像くんってさ、なんでそういうの、迷わないの」
僕は少し考えて、「間違え慣れてるからだよ」と答えた。
日野は「かっこつけてる」と言った。かっこつけてはいなかったが、そう聞こえるなら、それでよかった。
配線を覗き込んでいると、うしろで声がした。
「あら。もしかして、宗像くん?」
振り返ると、あの子が立っていた。教室のドア越しに政近へ手を振っていた、生徒会広報の周防有希。制服の着方がきれいで、髪の流れまで整っている。うしろに、無表情な女子がひとり控えていた。
「久しぶり。……で、合ってる?」と僕は言った。
「合ってる。……先週、教室のドアのところで目が合ったのに、知らんぷりしたくせに」
「……気づいてたのか」
「気づくわよ。気づかれてないと思ってたなら、心外」
有希は腕を組んで、それから、少し笑った。
「話すのは八年ぶりね。あなた、あのころより背が伸びたのね」
「君は、あのころより上手に笑うようになった」
有希の笑顔が、〇・二秒だけ止まった。それから、何事もなかったように動きだした。
僕たちは、子どものころに何度か会っている。
周防の家で、だ。
あの屋敷には、季節ごとに人が集まった。大人たちが立ったままグラスを持って、名刺の代わりに肩書きを交換する会だ。子どもは飾りとして呼ばれる。呼ばれた子どもは、行儀よく挨拶をして、行儀よく褒められて、行儀よく引っ込む。
僕がそこにいたのは、仕事のつながりだった。当時の僕はテレビに出ていたから、大人たちにとっては手頃な話題だった。「あの子役の子」として紹介されて、握手をして、頭を撫でられた。撫でられるたび、僕は自分が人間ではなく話題なのだと理解した。
政近は当時「久世」じゃなかった。あの家の跡取りとして、大人の輪の中心に立たされていた。八歳か九歳で、大人の質問に大人の速度で答えていた。恐ろしい子どもだと思った。
有希は、その兄の背中にくっついていた。
泣き虫だった。人の多い部屋が苦手で、よくカーテンの裏に隠れていた。
一度、僕がそこを見つけてしまったことがある。
大広間の、南側の窓の、厚い緞帳みたいなカーテンだった。裾から靴が二つはみ出ていた。隠れ方が下手だった。
僕はしゃがんで、カーテンを少しだけ持ち上げた。
七つか八つの周防有希が、膝を抱えて座っていた。泣いてはいなかった。泣いたあとの顔をしていた。
「言わないで」
それが第一声だった。
僕は「うん」と言った。
それから、少し迷って、カーテンの内側に入った。
なぜそうしたのか、いまでもよくわからない。あのころの僕は、大人に見つかりそうな行動を極端に嫌っていたはずだ。仕事にさわるからだ。
たぶん、疲れていたんだと思う。二時間、笑い続けたあとだった。
カーテンの中は、思ったより暗くなかった。窓から庭の照明が透けていた。二人ぶんの膝が、狭い場所で並んでいた。
「なんで来るの」
「じゃあ僕もここにいる」
「意味わかんない」
「うん」
それから二十分くらい、僕たちは黙っていた。
外では大人の笑い声がしていた。グラスの触れる音がしていた。誰かが誰かの名前を、必要以上に大きな声で呼んでいた。
カーテン一枚で、その全部が少し遠くなった。
立ち上がるとき、有希は「ありがと」とは言わなかった。かわりに、「あなたも、疲れてるでしょ」と言った。
七歳か八歳が言う台詞ではなかった。
僕はそれで、この子は隠れているんじゃなくて、逃げているんだと理解した。
それだけの縁だ。それだけの縁を、僕は八年、覚えていた。
要するに、僕たちは三人とも、大人の都合で同じ檻に入れられていた子どもだった。檻の中で一度だけ、隣に座った。それ以上のことは、何もない。
だから、政近と有希が兄妹だってことを、僕は知っている。
この学園では、二人はそれを隠している。僕もそれに合わせる。
「政近……久世くんとは、仲良くしてくれてるみたいで、うれしいわ」有希は言った。声の作りが、完璧すぎた。
「腐れ縁だよ」
「わたしとあなたも、腐れ縁ね」
「君とは、腐ってる暇もなかっただろ。会う回数が少なすぎて」
有希はくすりと笑った。今度の笑いは、さっきより二割ほど本物に近かった。
うしろの無表情な子が、僕を見た。品定めするような、静かな目だった。
「君嶋綾乃です」と彼女は名乗った。「有希様の、従者をしております」
「従者」
「はい。従者です」
言い直す気配はなかった。本気らしい。
「あの、確認だけど、それは部活とか委員会とかの名称ではなく」
「職務です」
「なるほど」
僕は「宗像湊です」とだけ返した。
君嶋さんの視線は、まだ僕の上にあった。有希のそばに、知らない変数がひとつ増えた。それを警戒しているのが、はっきりわかった。
悪くない反応だ。人を守る仕事の人間は、そのくらい疑り深くていい。現場でも、いちばん信頼できるのは、こちらを疑ってかかる制作進行だ。全部を信じる人間は、何も守れない。
「君嶋さん」
「はい」
「僕は、周防さんに何かする気はないよ」
「存じております」君嶋さんは表情を変えなかった。「する気のある方は、そう言いません」
「……それは、そうだね」
完敗だった。この人は強い。
有希が笑った。「綾乃はね、わたしのことになると急に長く喋るのよ」
「有希様。わたくしは常に簡潔です」
「うそ。さっき二回喋ったでしょ」
有希は視聴覚室の中を見回した。それから、慣れた足取りで音響卓の前まで来て、フェーダーの並びを一瞥した。
「これ、生徒会の告知放送でも使うの」
「使ってるわ。毎週水曜のお昼」有希は言った。「わたしが原稿を書いて、読んでる」
「へえ。何秒?」
「九十秒」
「短いね」
「短いほうが聞いてもらえるから」
即答だった。
僕は少しだけ、この子の見方を修正した。この子は、笑顔が上手いだけじゃない。伝わる長さを知っている。九十秒という数字は、経験からしか出てこない。
「宗像くんは、選挙のこと、聞いた?」有希が話題を変えた。
「担任が予告してた。君が出るって、みんな噂してる」
「出るわ。勝つつもりで」
その一言だけ、声の作りが消えた。
素の重さがあった。勝つつもり、というより、勝たなければならない、という響きだった。うしろに何か大きなものが立っている人の言い方だ。
僕は、それには触れなかった。触れる場面じゃない。八年ぶりに会った相手の、いちばん重い荷物に手をかけるのは、無礼を通り越して危険だ。
「対抗馬は?」
「まだ、いない」有希は窓の外を見た。「でも、たぶん、もうすぐ出てくる。あの子」
あの子、が誰を指すのか、僕にはわかった。銀色の背中だ。
「知り合い?」
「同じ生徒会よ。会計をやってる」有希は言った。「すごく優秀。たぶん、この学年でいちばん頭がいい。……そして、たぶん、この学年でいちばん人に頼まない」
正確な評だと思った。
「勝てそう?」
「勝てるわ」有希は即答して、それから少しだけ間を置いた。「あの子がひとりのままなら」
僕は、その間の長さを覚えておくことにした。
「宗像くん」有希は僕に向き直った。笑顔が戻っていた。作りの笑顔だ。「もし、あなたがどちらかを手伝うことになったら。……正々堂々ね。手加減はいらないから」
「手伝うなんて、まだ何も」
「顔に書いてあるわ。あなた、もう現場の下見をしてる」
僕は自分の手の中のメモを見た。プロジェクターの型番が並んでいた。
有希は、政近と同じことを言う。顔に書いてある、と。兄妹というのは、こういうところが似るものらしい。
それとも、あの家で育つと、人の顔を読む技術が先に身につくのだろうか。読めないと、生き残れないから。
「ひとつ聞いていい?」と僕は言った。
「どうぞ」
「君は、なんでそんなに上手に笑うようになった?」
有希は、しばらく答えなかった。
窓の外で、吹奏楽部が同じ四小節を繰り返していた。同じところで、同じように失敗していた。
「……笑ってれば、中身を見られずにすむでしょう」
言ってから、しまった、という顔をした。
ほんの一瞬。素の顔だった。子どものころ、カーテンの裏で膝を抱えていた子の顔と、地続きだった。
「……いまのは、なし」
「聞かなかったことにする」と僕は言った。
「ほんとに?」
「うん。そのかわり、ひとつ貸しだ」
有希は目をまるくして、それから「ずるい人ね」と笑った。
「なんで貸しになるの。聞かなかったんでしょう」
「聞かなかったことにするには、労力がいるんだよ」
「屁理屈」
「屁理屈だけど、有効だ」
笑いながら、有希は君嶋さんを連れてドアへ向かった。
ドアのところで、一度だけ振り返った。
「宗像くん」
「うん」
「あなたも、上手に笑うほうだったわよ。八年前」
僕は、返事をしなかった。
有希は、それで満足したみたいに出ていった。仕返しのつもりらしい。悪くない仕返しだった。
視聴覚室に、僕はひとり残された。
音響卓の前に座って、フェーダーに指をかける。上げれば大きく、下げれば小さく。人の声を、聞かせたい大きさに調整する装置。単純な機械だ。単純だから、正直でもある。
僕は、有希の「なし」にした一言を、もう一度思い出した。
笑ってれば、中身を見られずにすむ。
それは、僕が子役を辞めるまでにやっていたことと、同じだった。
あのころ、僕は現場で泣くのが上手かった。上手いと褒められた。褒められるから、もっと上手くなった。そのうち、本当に悲しいときにどうすればいいのかがわからなくなった。表情の引き出しが、全部「仕事用」になってしまったからだ。
僕は辞めた。有希は、辞めていない。
しかもあの子は、その技術を、これから選挙という場所で使おうとしている。
――勝てるわ。あの子がひとりのままなら。
あの間の長さ。あれは、願望が混じった間だった。
僕はフェーダーを、いちばん下まで下げた。
スピーカーが、しんと黙った。
窓の外で、吹奏楽部がまた同じところで失敗していた。四回目だった。誰かが「もう一回」と言うのが聞こえた。
僕はもう一度メモ帳を開いて、余白に一行、書き足した。
「候補者紹介の形式 確認すること」
なんとなく、だ。
なんとなくで書いた行が、あとでいちばん働く。この仕事をしていると、それだけは覚える。
僕はメモ帳を閉じて、卓の電源を落とした。
ランプがひとつずつ消えて、部屋が本当の静けさになった。