舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
九月の頭、昇降口の横に掲示板が立った。
「生徒会長選挙 立候補受付開始」。白い紙に、事務的な明朝体。それだけのことなのに、廊下の空気の密度が変わった。
征嶺学園の生徒会長は、ただの生徒代表じゃない。
この学園のOBには、名前を出せば誰でも知っている人間がずらりといる。政治家、経営者、官僚。その連中が作っている会があって、在学中に生徒会長を務めた人間は、その会と縁ができる。つまり、生徒会長ってのは、大人の世界の受付の名前だ。
だから毎年、この選挙には妙な熱がこもる。生徒の熱じゃない。生徒の後ろに立っている大人の熱だ。
俺は八歳のとき、その受付の場所を暗記させられた。
俺はそういうものから、できるだけ遠いところで生きていくつもりだった。
うまくいっていた。一学期のあいだは。
その日の全校集会で、周防有希が壇上に立った。
立ち姿がきれいだった。背筋も、顎の角度も、手の位置も。マイクの前で一度だけ息を吸って、それから、聞き取りやすい速さで喋りだした。
内容は、あまり覚えていない。覚える必要がないくらい、よくできていた。
生徒の要望を吸い上げる仕組みを作る。行事の予算配分を透明にする。部活動の設備更新の優先順位を、生徒が見られるようにする。無理がなくて、角がなくて、誰の足も踏まない。演説というより、よく整えられた庭を歩かされているみたいだった。
俺には、その庭の造り方がわかる。
冒頭の三十秒で笑いを一回入れて、警戒を解く。中盤で数字をひとつだけ出す。多く出すと眠くなるから、ひとつだけだ。終盤で「わたしたち」に主語を移して、聞いている側を仲間にする。最後の一文は短くする。
全部、教わったやり方だ。俺も同じ教わり方をした。同じ家で、同じ大人に。
だから俺は、あの演説のどこが有希自身の言葉で、どこがそうでないかも、たぶん唯一わかる人間だった。
自分の言葉は、一箇所もなかった。
拍手が起きた。大きかった。体育館の後ろのほうまで、ちゃんと届く種類の拍手だった。
俺は、壇の上の妹を見ていた。
誰も知らない。この学園で、俺とあいつが兄妹だと知っているのは、片手で数えられる。
両親が離婚したのは、俺が小学三年のときだ。俺は父方に引き取られて久世になり、有希は母方に残って周防のままになった。ずいぶん珍しい別れ方らしい。子どもを一人ずつ分けるというのは、家財を分けるのに近い。実際、そういう話し合いだったんだと思う。
俺が出ていくとき、有希は泣かなかった。
あいつは、玄関でまっすぐ立って、「いってらっしゃい」と言った。行き先が違うことを、わかっていて、そう言った。
あの一言を、俺は八年、引きずっている。
拍手が止んで、有希が壇を下りた。体育館を横切って戻るあいだ、こちらを一度も見なかった。見ないのが、あいつの気遣いだった。
教室に戻る途中、廊下の窓に、銀色が映った。
九条アリサが、掲示板の前に立っていた。腕を組んで、紙をじっと見ている。人の流れが彼女を避けて通っていく。誰も声をかけない。彼女も、かけられるのを待っていない。
俺は少し離れたところで足を止めた。声をかける理由がなかった。かけない理由もなかった。結局、そのまま見ていた。
アリサは、掲示の右下の一行を指でなぞっていた。
「立候補には、同学年以上の推薦人二名を要する」。
それから、小さく、ロシア語で言った。
――『二人くらい、なんとかなるでしょう』
ならないだろ、と俺は思った。
声には出さなかった。出せるわけがない。俺は聞こえない男なので。
二人。この学校で、いちばん簡単な条件だ。頼めば誰でも書く。名前を書くだけで、責任も義務も発生しない。
なのに、あいつには壁になる。
頼み方を知らないからだ。
頼むというのは、相手に「断る権利」を渡すことだ。渡した権利を行使されたら、その分だけ自分が減る。減るのが怖い人間は、頼めない。
俺は、そういう人間を一人知っている。
鏡で毎朝見ている。
翌朝、学校に着くと、校舎の中が変わっていた。
周防有希のポスターが、貼られていた。
一枚じゃない。昇降口に二枚、一階の廊下に四枚、階段の踊り場に各一枚、二階と三階の掲示板にそれぞれ三枚。数えたわけじゃないが、目に入る回数でだいたいわかる。
しかも、貼り方が計算されていた。
人の視線は、階段を上るときに右上に向く。踊り場のポスターは、ちょうどその高さにあった。廊下のものは、教室から出た人間が最初に足を止める位置、つまり自販機とゴミ箱の中間に置かれていた。
誰かが考えている。有希本人か、そうでなければ有希の側の誰かが。
昼休みには、二年の教室に有希が挨拶に行っていた。ひとりではなく、三人連れで。三人のうち一人は運動部のマネージャーで、一人は吹奏楽部の副部長だった。顔の広いやつから順に押さえてある。教科書どおりだ。
俺が使わされていた教科書と、同じやつだ。
昇降口で、君嶋綾乃がクリップボードを持って立っていた。何かを記録していた。どのクラスに何枚配ったかの管理だろう。
これは選挙じゃない。作戦だ。
あの家のやり方だ。
俺はこの手順を知っている。八歳のとき、俺は同じ手順で、小学校の学級委員というどうでもいいものを取らされた。取ったあと、大人たちが満足そうにうなずいた。俺は何も嬉しくなかった。
有希は、あの手順を八年かけて自分のものにしたらしい。
自分のものにできたのなら、それはそれで、いいことなのかもしれない。
わからない。俺は逃げた側なので、残った側の答え合わせをする資格がない。
放課後、湊がポスターの前で腕を組んでいた。
「見た?」
「見た」
「うまいよ、これ」湊は言った。「写真も、余白も、キャッチも。全部、狙って外してない」
「褒めるのか」
「褒めるよ。仕事として上等だ」
湊はしばらく黙って、それから言った。
「ただ、一枚も『周防有希』が写ってない」
「写ってるだろ。顔が」
「顔は写ってる。人は写ってない」
俺は、そのポスターをもう一度見た。
言われてみれば、そうだった。
あそこにいるのは、周防有希という完成品だ。完成品には、余地がない。
言おうとして、やめた。
妹の弱点を、他人と一緒に検討する。いちばんやってはいけないことだった。
その夜、久しぶりに、あの夢を見た。
まだ俺が周防にいたころの話だ。
屋敷でパーティーがあった。夏だった。大人ばかりの部屋で、子どもは俺と有希の二人だけで、俺は行儀よく笑うのに飽きていた。飽きた、というより、笑い方を忘れかけていた。同じ表情を二時間も続けると、顔の筋肉が自分のものでなくなる。
俺は庭に逃げた。
庭の隅、生垣の裏に、女の子がいた。
俺と同じくらいの背丈で、髪の色が違った。夜の照明の下で、白っぽく光っていた。
その子は、俺を見て、何か言った。
わからなかった。
日本語じゃなかった。困った顔をしていたので、その子も俺の言葉がわからないんだとわかった。俺たちはしばらく、生垣の裏でお互いを見合っていた。
変な話だが、そのとき俺は、生まれて初めて安心した。
言葉が通じないというのは、期待されないということだ。あの家で、俺に向けられる言葉には、全部期待がくっついていた。「政近くんは何ができるの」「政近くんならわかるでしょう」。その子の言葉には、何もくっついていなかった。ただの音だった。
やがてその子は、しゃがんで、地面に指で絵を描き始めた。
猫の絵だった。下手だった。耳が四つあった。
俺が笑うと、その子も笑った。それから、自分の絵を見て、もう一度笑った。笑い方が、大人の前でやるやつと全然違った。腹から出ていた。
それから何度か、あの庭で会った。
会うたび、その子は自分の言葉を一つずつ、俺に渡した。「こんにちは」。「ありがとう」。「またね」。発音を直されて、何度も言い直させられた。うまく言えると、その子は手を叩いた。
俺はそれを、家の誰にも言わずに集めた。
集めたものは、俺だけのものだった。あの家で、俺だけのものは、それしかなかった。
いつからか、会えなくなった。
理由は知らない。子どもの世界では、理由はたいてい教えてもらえない。ある夏、庭に行っても誰もいなくて、次の夏も誰もいなくて、そのうちパーティー自体がなくなった。両親が別れたからだ。
俺は、あの子の名前を覚えていない。
呼び名は覚えている気がするんだが、その呼び名を思い出そうとするたび、庭の照明の色とか、生垣の葉の裏の白さとか、猫の耳が四つあったこととか、そういう関係のないものが先に出てきて、肝心の音だけがいつも最後まで出てこなくて、結局そこで考えるのをやめることになる。
呼び名しか知らなかったし、その呼び名も、いまとなっては自分の記憶を信用できない。八年も経つと、思い出は勝手に手を入れられる。俺が覚えているのは、本当にあったことと、俺が後から足したものの混合物だ。
だから俺は、ロシア語だけを持っている。
持っているものが、言葉だけ、というのは、けっこうこたえる。
使い道がないからだ。使えば、あの庭を思い出す。思い出せば、あの家を思い出す。あの家を思い出せば、置いてきた妹を思い出す。玄関で「いってらっしゃい」と言った顔を思い出す。
だから俺は、この特技を隠している。単純な話だ。
目が覚めて、天井を見た。夜中の二時だった。
俺が住んでいるのは、父が海外赴任のあいだ空いている部屋だ。広すぎる。一人で使うには、明らかに広すぎる。夜中に目が覚めると、部屋の広さのほうが先に意識される。
冷蔵庫を開けて、水を飲んだ。
頭の中に、なぜか、掲示板の前の背中が浮かんだ。
『二人くらい、なんとかなるでしょう』
あいつは、あの言い方をロシア語でしかしない。日本語では絶対に、あんな油断した言い方はしない。日本語のあいつは、いつも武装している。
なんとかなるわけがない、と俺はもう一度思った。
あいつには、友達がいない。正確には、作らない。作らないから、推薦人二名という条件が、あいつにとっては壁になる。壁の前で立ち止まって、腕を組んで、それでも引き返さない。
あの立ち方を、俺は知っている。
あれは、負けるとわかっていて立っている人間の立ち方だ。
それは、俺には関係のない話だった。
関係のない話のはずだった。
俺は水のコップを流しに置いて、ベランダに出た。
九月の夜の空気は、まだ少し湿っていた。向かいの棟の窓に、まだ明かりがついている部屋がいくつかあった。誰かが起きている。何をしているのかは知らない。
俺は、自分がこの八年でいちばん避けてきたことについて考えた。
誰かの結果に、責任を持つこと。
あの家では、それが全部だった。俺の点数は俺のものではなく、家のものだった。俺が何かに失敗すると、俺以外の誰かの顔色が変わった。だから俺は、何にも本気を出さないことにした。本気を出さなければ、失敗も俺のものだけで済む。
でも、あの背中を見ていると、その理屈が、少しずつ崩れる。
崩れるのが、正直、怖かった。
俺は部屋に戻って、寝返りを打って、目を閉じた。
眠れなかった。天井の木目を数えた。
木目は何も言わなかった。えらい。
えらいが、今夜はあまり役に立たなかった。