舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
九条アリサの選挙準備を、僕は三日間、ただ眺めていた。
眺めるつもりはなかった。目に入ってしまうのだ。
あの人は目立つ。銀色の髪のせいだけじゃない。ひとりで動いている人間は、群れの中で必ず目立つ。舞台でも同じだ。全員が右を向いているとき、ひとりだけ左を向いている人がいると、客の目はそこに吸われる。演出としては便利な現象だが、当人にとってはたまったものじゃない。
**一日目。**
昼休み、彼女はクラスの女子二人に声をかけた。
「推薦人になってほしいの。名前を書くだけよ」
言い方は丁寧だった。内容も正しかった。実際、名前を書くだけだ。
それなのに、二人は顔を見合わせて、「うーん、ちょっと考えとくね」と言った。
あれは断り文句だ。教室で十年生きていれば誰でもわかる。
九条アリサにも、わかったはずだ。彼女は「そう」とだけ言って、席に戻った。背中が、まっすぐすぎた。
僕は、断った側を責める気にはならなかった。
あの頼み方には、「あなたに頼みたい」が入っていない。「条件を満たすために名前が二つ必要だ」という事実しか入っていない。つまり、相手は誰でもよかった。誰でもいい相手として扱われて、喜んで名前を貸す人間はいない。
午後、日野が僕の机に来て、小声で言った。
「宗像くん。九条さん、なんか声かけてまわってるらしいね」
「みたいだね」
「なんで誰も書かないんだろ。書くだけなのにね」
「日野は書かないの?」
日野は困った顔をした。
「……なんかさあ。あの人に名前渡すの、ちょっと怖くない?」
「怖い?」
「怖いっていうか。ちゃんとしてなきゃ怒られそうっていうか。あたし、そんな真面目じゃないし」
なるほど、と思った。
九条アリサは、完璧すぎるのだ。完璧な人のそばに立つと、人は自分の欠けている部分を数えはじめる。数えるのは疲れる。だから離れる。
あの人は、自分の高さで人を遠ざけていることに気づいていない。
**二日目。**
彼女は選挙用のポスターの試作を作ってきた。
僕は斜め前の席から、机の上に広げられたそれを見た。
正直に言うと、上手かった。
書体の選び方に迷いがない。見出しは太めのゴシックで、本文は明朝。混ぜ方の温度が合っている。余白の取り方も、素人がやると必ず失敗する類のものを、きれいに外していた。写真の中の彼女は、姿勢がよくて、まっすぐカメラを見ている。
完璧だった。
完璧で、冷たかった。
僕は職業病で、つい採点してしまう。
あれは「見せる」ためのポスターじゃない。「間違いがない」ためのポスターだ。見た人が何を感じるかより、見た人に何も突っ込ませないことを優先している。
だから、誰の心にも引っかからない。引っかからないものは、記憶に残らない。
現場でよく言われることがある。「きれいなものは、通り過ぎられる」。汚くていいという意味じゃない。どこか一箇所、指が止まる場所を作れという意味だ。ざらついたところ、そろっていないところ、作り手の癖が出ているところ。人はそこを掴んで、中に入ってくる。
あの人は、人にどう見られたいかを考えたことがない。
考える前に、隙を消してしまう。
昼休み、廊下で三年の先輩たちがそのポスター案の話をしていた。
「一年の九条さん、出るんだって」
「へえ。あの子、頭いいよね」
「うん。でもさ、なんか誰かと喋ってるの見たことある?」
「ない」
それで会話が終わった。
悪意はなかった。悪意がないほうが、たちが悪い。
**三日目。**
彼女は放課後の教室で、ひとりで演説の練習をしていた。
僕は忘れ物を取りに戻って、廊下からそれを見た。
誰もいない教室で、彼女は黒板の前に立って、原稿を読み上げていた。夕方の日が斜めに入って、机の列に長い影を作っていた。
声はよく通った。滑舌もいい。区切りの位置も正しい。
でも、客席を見ていなかった。
当たり前だ。客席には誰もいない。だから彼女は、机の列の上のあたり、誰の顔もない高さに視線を置いていた。
僕は、その高さを知っている。
人前に立つのが怖い人間が、逃げ場に使う高さだ。僕も昔、よくそこを見ていた。あの高さには誰もいないから、誰にも否定されない。かわりに、誰にも届かない。
彼女は原稿を三回読んで、途中で止めて、もう一度最初から読んだ。
二度、同じところでつっかえた。
「――生徒会は、生徒の、生徒による」
そこで、必ず引っかかる。
僕には理由がわかった。息継ぎの位置が悪い。「生徒の」のあとで一度息を入れると、そのあとが伸びる。「生徒の生徒による」を一息で行けば、つっかえない。
三十秒で直る。
誰も直してくれない。誰も聞いていない。
彼女はもう一度、最初から読み直した。今度は同じところでつっかえて、小さく舌打ちをした。
そのあと、彼女は原稿を机に置いて、両手で顔を覆った。
三秒くらいだった。三秒で顔を上げて、また黒板の前に立った。
僕は、廊下から動かなかった。
――入っていって、「そこ、息を継ぐ位置が違う」と言えば、三十秒で直る。
――ついでに「推薦人、僕が一人やるよ」と言えば、あの人の壁のひとつは消える。
できた。たぶん、できた。
でも僕はやらなかった。
理由は二つある。
ひとつは、あの人が僕から助けを受け取らないからだ。
いま入っていけば、あれは施しになる。九条アリサという人は、施しを受け取ると、その場で自分を嫌いになる。そういう立ち方をしている。
助けというのは、渡すタイミングを間違えると、相手の背骨を折る。折るくらいなら、渡さないほうがましだ。
もうひとつの理由のほうが、大きい。
この芝居の、その役は、僕のものじゃない。
照明を当てる人間が、舞台に上がっちゃいけない。上がったら、誰が明かりを操作するんだ。
……というのは、たぶん半分は言い訳だ。
正直に言えば、僕は、誰かの人生の分かれ目に自分の指紋を残すのが怖い。
子役をやっていたころ、僕は自分の演技で作品の出来が変わることに耐えられなくなった。うまくいけば僕の手柄になる。それはいい。うまくいかなかったときも、僕のせいになる。それが、無理だった。
だから裏方に回った。裏方は、うまくいっても手柄にならないかわりに、失敗しても「機材の都合」で済む。
卑怯なポジションだと、自分でも思っている。
僕は忘れ物を諦めて、帰った。
教室から、まだ声が聞こえていた。同じところで、また止まっていた。
階段を降りる途中で、九条マリヤとすれ違った。
妹と同じ銀髪の、生徒会書記の先輩だ。廊下でも、この人だけ歩く速度が違う。急いでいる人の多い校舎で、一人だけ散歩している。
「あら。宗像くんよね」
「はい」
「アーリャ、まだ上にいる?」
「……います。練習してました」
「そう」
マリヤ先輩は階段の手すりに手を置いて、上を見上げた。
「行かれないんですか」
「行かないわ」
あっさりした返事だった。
「あの子、わたしが行くと、やめちゃうから」
そう言って、この人は笑った。
笑い方が、下の階から見上げた光の中で、少しだけ寂しく見えた。
「先輩は、心配じゃないんですか」
「心配よ。すごく心配」マリヤ先輩は言った。「でもね、心配って、渡すと重いのよ。持ってる人が持ってるうちは、ただの心配なんだけど、渡した瞬間に、荷物になるの」
僕は、その言い方を、しばらく考えた。
「……先輩は、いつもそうやって考えてるんですか」
「いつもじゃないわ。今日は、たまたま」
嘘だ、と思った。
この人は、ずっとそうやって、妹の後ろに立っている。前に出ないことで支えるというやり方がある。それは、前に出て支えるより、たいてい難しい。
「宗像くん」
「はい」
「あなたも、行かなかったのね」
僕は、返事に詰まった。
マリヤ先輩は、それ以上何も聞かずに、階段を降りていった。
降りながら、鼻歌を歌っていた。上機嫌に聞こえる歌い方だったが、僕にはそう聞こえなかった。
この学校には、賢い人が多すぎる。
賢い人が多い場所では、誰も助けを出さない。出すタイミングを計りすぎるからだ。
計った結果、全員が動かない。それを僕は、いま自分でやった。
その夜、政近から電話がかかってきた。
用件は「明日の数学、当てられる番号どこだっけ」だった。
どうでもいい用件だ。こいつがどうでもいい用件で電話をかけてくるときは、だいたい、どうでもよくない話をしたいときだ。中学のときからそうだった。母親が再婚するかもしれないという話を、こいつは「消しゴム貸して」の流れで言った。
僕は番号を教えて、それから世間話を三つした。天気と、購買のパンの値上げと、毅が激辛麻婆に再挑戦して二回目も負けた話。
四つ目に、こう言った。
「九条さん、まだ推薦人二人、集まってないらしいよ」
電話の向こうが、少し静かになった。
「……そうか」
「うん」
「ふうん」
「ふうん、じゃないだろ」
僕は少し笑った。電話の向こうでも、たぶん笑った。
「今日、教室で練習してた」
「へえ」
「同じところで二回つっかえてた。息継ぎの位置が悪いんだ。三十秒で直る」
「直してやればよかっただろ」
「僕が直したら、あの人、たぶん使わないよ。あの原稿ごと捨てる」
「……ああ」
政近は、それだけで理解したらしかった。理解が早い男だ。早すぎて、時々、理解した内容から逃げる。
それから僕は、一回だけ言った。
一回でいい。二回言うと、それはもう説得になる。
「政近。お前、あの人のこと、けっこう見てるよ」
「見てない」
「三日で十九回、窓際を見た」
「……数えるな。気持ち悪いな、お前」
「職業病だ」
「その職業病、いつか刺されるぞ」
「気をつける」
沈黙があった。長かった。
僕は待った。待つのも仕事のうちだ。現場では、待てない人間から先に失敗する。
「湊」
「うん」
「俺が動くと、面倒なことになる」
「なるだろうね」
「なるだろうね、で終わりか」
「終わりだよ。僕はお前の面倒を引き受けられない。引き受けたら、それはお前の面倒じゃなくなる」
電話の向こうで、政近が長く息を吐いた。
僕はそれ以上、何も言わなかった。
言わないことが、いちばん効くときがある。政近には効く。昔からそうだ。こいつは、押されると立ち止まる。放っておかれると、勝手に歩き出す。厄介な構造をしている。
こいつが「面倒なことになる」と言うとき、その面倒は、たいてい妹の名前をしている。
だから僕は、背中を押さなかった。ドアの位置を教えただけだ。
開けるかどうかは、こいつが決めればいい。決めなかったら、それはそれでいい。僕は友達をやめない。
「じゃあな。明日、遅刻すんなよ」
「予鈴前には着く」
「それを『ちゃんと』とは言わない」
「うるさいな」
電話が切れた。
僕は机の上のメモを見た。
視聴覚室の音響卓の型番。プロジェクターの明るさ。体育館のステージの寸法。三日前に取ったメモだ。誰に頼まれたわけでもないのに、取ってしまった。
僕は自分の悪い癖に、少しうんざりした。
うんざりしながら、メモの下に、もう一行足した。
「演台の高さ 要実測」
準備だけは、しておこうと思った。
使わないかもしれない準備を積んでおくのが、裏方の仕事だ。
積んだ準備の九割は無駄になる。無駄になった九割のうしろで、一割が仕事をする。どの一割が生き残るかは、事前にはわからない。だから全部積む。
僕は電気を消して、布団に入った。
天井の暗がりで、なぜか、あの三秒間が再生された。
誰もいない教室で、顔を覆って、三秒で戻った人の。
あれを見なかったことにできるほど、僕は器用ではなかったらしい。