舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

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05_湊 誰も座らない客席

 九条アリサの選挙準備を、僕は三日間、ただ眺めていた。

 

 眺めるつもりはなかった。目に入ってしまうのだ。

 

 あの人は目立つ。銀色の髪のせいだけじゃない。ひとりで動いている人間は、群れの中で必ず目立つ。舞台でも同じだ。全員が右を向いているとき、ひとりだけ左を向いている人がいると、客の目はそこに吸われる。演出としては便利な現象だが、当人にとってはたまったものじゃない。

 

 **一日目。**

 

 昼休み、彼女はクラスの女子二人に声をかけた。

 

「推薦人になってほしいの。名前を書くだけよ」

 

 言い方は丁寧だった。内容も正しかった。実際、名前を書くだけだ。

 

 それなのに、二人は顔を見合わせて、「うーん、ちょっと考えとくね」と言った。

 

 あれは断り文句だ。教室で十年生きていれば誰でもわかる。

 

 九条アリサにも、わかったはずだ。彼女は「そう」とだけ言って、席に戻った。背中が、まっすぐすぎた。

 

 僕は、断った側を責める気にはならなかった。

 

 あの頼み方には、「あなたに頼みたい」が入っていない。「条件を満たすために名前が二つ必要だ」という事実しか入っていない。つまり、相手は誰でもよかった。誰でもいい相手として扱われて、喜んで名前を貸す人間はいない。

 

 午後、日野が僕の机に来て、小声で言った。

 

「宗像くん。九条さん、なんか声かけてまわってるらしいね」

 

「みたいだね」

 

「なんで誰も書かないんだろ。書くだけなのにね」

 

「日野は書かないの?」

 

 日野は困った顔をした。

 

「……なんかさあ。あの人に名前渡すの、ちょっと怖くない?」

 

「怖い?」

 

「怖いっていうか。ちゃんとしてなきゃ怒られそうっていうか。あたし、そんな真面目じゃないし」

 

 なるほど、と思った。

 

 九条アリサは、完璧すぎるのだ。完璧な人のそばに立つと、人は自分の欠けている部分を数えはじめる。数えるのは疲れる。だから離れる。

 

 あの人は、自分の高さで人を遠ざけていることに気づいていない。

 

 **二日目。**

 

 彼女は選挙用のポスターの試作を作ってきた。

 

 僕は斜め前の席から、机の上に広げられたそれを見た。

 

 正直に言うと、上手かった。

 

 書体の選び方に迷いがない。見出しは太めのゴシックで、本文は明朝。混ぜ方の温度が合っている。余白の取り方も、素人がやると必ず失敗する類のものを、きれいに外していた。写真の中の彼女は、姿勢がよくて、まっすぐカメラを見ている。

 

 完璧だった。

 

 完璧で、冷たかった。

 

 僕は職業病で、つい採点してしまう。

 

 あれは「見せる」ためのポスターじゃない。「間違いがない」ためのポスターだ。見た人が何を感じるかより、見た人に何も突っ込ませないことを優先している。

 

 だから、誰の心にも引っかからない。引っかからないものは、記憶に残らない。

 

 現場でよく言われることがある。「きれいなものは、通り過ぎられる」。汚くていいという意味じゃない。どこか一箇所、指が止まる場所を作れという意味だ。ざらついたところ、そろっていないところ、作り手の癖が出ているところ。人はそこを掴んで、中に入ってくる。

 

 あの人は、人にどう見られたいかを考えたことがない。

 

 考える前に、隙を消してしまう。

 

 昼休み、廊下で三年の先輩たちがそのポスター案の話をしていた。

 

「一年の九条さん、出るんだって」

 

「へえ。あの子、頭いいよね」

 

「うん。でもさ、なんか誰かと喋ってるの見たことある?」

 

「ない」

 

 それで会話が終わった。

 

 悪意はなかった。悪意がないほうが、たちが悪い。

 

 **三日目。**

 

 彼女は放課後の教室で、ひとりで演説の練習をしていた。

 

 僕は忘れ物を取りに戻って、廊下からそれを見た。

 

 誰もいない教室で、彼女は黒板の前に立って、原稿を読み上げていた。夕方の日が斜めに入って、机の列に長い影を作っていた。

 

 声はよく通った。滑舌もいい。区切りの位置も正しい。

 

 でも、客席を見ていなかった。

 

 当たり前だ。客席には誰もいない。だから彼女は、机の列の上のあたり、誰の顔もない高さに視線を置いていた。

 

 僕は、その高さを知っている。

 

 人前に立つのが怖い人間が、逃げ場に使う高さだ。僕も昔、よくそこを見ていた。あの高さには誰もいないから、誰にも否定されない。かわりに、誰にも届かない。

 

 彼女は原稿を三回読んで、途中で止めて、もう一度最初から読んだ。

 

 二度、同じところでつっかえた。

 

「――生徒会は、生徒の、生徒による」

 

 そこで、必ず引っかかる。

 

 僕には理由がわかった。息継ぎの位置が悪い。「生徒の」のあとで一度息を入れると、そのあとが伸びる。「生徒の生徒による」を一息で行けば、つっかえない。

 

 三十秒で直る。

 

 誰も直してくれない。誰も聞いていない。

 

 彼女はもう一度、最初から読み直した。今度は同じところでつっかえて、小さく舌打ちをした。

 

 そのあと、彼女は原稿を机に置いて、両手で顔を覆った。

 

 三秒くらいだった。三秒で顔を上げて、また黒板の前に立った。

 

 僕は、廊下から動かなかった。

 

 ――入っていって、「そこ、息を継ぐ位置が違う」と言えば、三十秒で直る。

 

 ――ついでに「推薦人、僕が一人やるよ」と言えば、あの人の壁のひとつは消える。

 

 できた。たぶん、できた。

 

 でも僕はやらなかった。

 

 理由は二つある。

 

 ひとつは、あの人が僕から助けを受け取らないからだ。

 

 いま入っていけば、あれは施しになる。九条アリサという人は、施しを受け取ると、その場で自分を嫌いになる。そういう立ち方をしている。

 

 助けというのは、渡すタイミングを間違えると、相手の背骨を折る。折るくらいなら、渡さないほうがましだ。

 

 もうひとつの理由のほうが、大きい。

 

 この芝居の、その役は、僕のものじゃない。

 

 照明を当てる人間が、舞台に上がっちゃいけない。上がったら、誰が明かりを操作するんだ。

 

 ……というのは、たぶん半分は言い訳だ。

 

 正直に言えば、僕は、誰かの人生の分かれ目に自分の指紋を残すのが怖い。

 

 子役をやっていたころ、僕は自分の演技で作品の出来が変わることに耐えられなくなった。うまくいけば僕の手柄になる。それはいい。うまくいかなかったときも、僕のせいになる。それが、無理だった。

 

 だから裏方に回った。裏方は、うまくいっても手柄にならないかわりに、失敗しても「機材の都合」で済む。

 

 卑怯なポジションだと、自分でも思っている。

 

 僕は忘れ物を諦めて、帰った。

 

 教室から、まだ声が聞こえていた。同じところで、また止まっていた。

 

 階段を降りる途中で、九条マリヤとすれ違った。

 

 妹と同じ銀髪の、生徒会書記の先輩だ。廊下でも、この人だけ歩く速度が違う。急いでいる人の多い校舎で、一人だけ散歩している。

 

「あら。宗像くんよね」

 

「はい」

 

「アーリャ、まだ上にいる?」

 

「……います。練習してました」

 

「そう」

 

 マリヤ先輩は階段の手すりに手を置いて、上を見上げた。

 

「行かれないんですか」

 

「行かないわ」

 

 あっさりした返事だった。

 

「あの子、わたしが行くと、やめちゃうから」

 

 そう言って、この人は笑った。

 

 笑い方が、下の階から見上げた光の中で、少しだけ寂しく見えた。

 

「先輩は、心配じゃないんですか」

 

「心配よ。すごく心配」マリヤ先輩は言った。「でもね、心配って、渡すと重いのよ。持ってる人が持ってるうちは、ただの心配なんだけど、渡した瞬間に、荷物になるの」

 

 僕は、その言い方を、しばらく考えた。

 

「……先輩は、いつもそうやって考えてるんですか」

 

「いつもじゃないわ。今日は、たまたま」

 

 嘘だ、と思った。

 

 この人は、ずっとそうやって、妹の後ろに立っている。前に出ないことで支えるというやり方がある。それは、前に出て支えるより、たいてい難しい。

 

「宗像くん」

 

「はい」

 

「あなたも、行かなかったのね」

 

 僕は、返事に詰まった。

 

 マリヤ先輩は、それ以上何も聞かずに、階段を降りていった。

 

 降りながら、鼻歌を歌っていた。上機嫌に聞こえる歌い方だったが、僕にはそう聞こえなかった。

 

 この学校には、賢い人が多すぎる。

 

 賢い人が多い場所では、誰も助けを出さない。出すタイミングを計りすぎるからだ。

 

 計った結果、全員が動かない。それを僕は、いま自分でやった。

 

 その夜、政近から電話がかかってきた。

 

 用件は「明日の数学、当てられる番号どこだっけ」だった。

 

 どうでもいい用件だ。こいつがどうでもいい用件で電話をかけてくるときは、だいたい、どうでもよくない話をしたいときだ。中学のときからそうだった。母親が再婚するかもしれないという話を、こいつは「消しゴム貸して」の流れで言った。

 

 僕は番号を教えて、それから世間話を三つした。天気と、購買のパンの値上げと、毅が激辛麻婆に再挑戦して二回目も負けた話。

 

 四つ目に、こう言った。

 

「九条さん、まだ推薦人二人、集まってないらしいよ」

 

 電話の向こうが、少し静かになった。

 

「……そうか」

 

「うん」

 

「ふうん」

 

「ふうん、じゃないだろ」

 

 僕は少し笑った。電話の向こうでも、たぶん笑った。

 

「今日、教室で練習してた」

 

「へえ」

 

「同じところで二回つっかえてた。息継ぎの位置が悪いんだ。三十秒で直る」

 

「直してやればよかっただろ」

 

「僕が直したら、あの人、たぶん使わないよ。あの原稿ごと捨てる」

 

「……ああ」

 

 政近は、それだけで理解したらしかった。理解が早い男だ。早すぎて、時々、理解した内容から逃げる。

 

 それから僕は、一回だけ言った。

 

 一回でいい。二回言うと、それはもう説得になる。

 

「政近。お前、あの人のこと、けっこう見てるよ」

 

「見てない」

 

「三日で十九回、窓際を見た」

 

「……数えるな。気持ち悪いな、お前」

 

「職業病だ」

 

「その職業病、いつか刺されるぞ」

 

「気をつける」

 

 沈黙があった。長かった。

 

 僕は待った。待つのも仕事のうちだ。現場では、待てない人間から先に失敗する。

 

「湊」

 

「うん」

 

「俺が動くと、面倒なことになる」

 

「なるだろうね」

 

「なるだろうね、で終わりか」

 

「終わりだよ。僕はお前の面倒を引き受けられない。引き受けたら、それはお前の面倒じゃなくなる」

 

 電話の向こうで、政近が長く息を吐いた。

 

 僕はそれ以上、何も言わなかった。

 

 言わないことが、いちばん効くときがある。政近には効く。昔からそうだ。こいつは、押されると立ち止まる。放っておかれると、勝手に歩き出す。厄介な構造をしている。

 

 こいつが「面倒なことになる」と言うとき、その面倒は、たいてい妹の名前をしている。

 

 だから僕は、背中を押さなかった。ドアの位置を教えただけだ。

 

 開けるかどうかは、こいつが決めればいい。決めなかったら、それはそれでいい。僕は友達をやめない。

 

「じゃあな。明日、遅刻すんなよ」

 

「予鈴前には着く」

 

「それを『ちゃんと』とは言わない」

 

「うるさいな」

 

 電話が切れた。

 

 僕は机の上のメモを見た。

 

 視聴覚室の音響卓の型番。プロジェクターの明るさ。体育館のステージの寸法。三日前に取ったメモだ。誰に頼まれたわけでもないのに、取ってしまった。

 

 僕は自分の悪い癖に、少しうんざりした。

 

 うんざりしながら、メモの下に、もう一行足した。

 

 「演台の高さ 要実測」

 

 準備だけは、しておこうと思った。

 

 使わないかもしれない準備を積んでおくのが、裏方の仕事だ。

 

 積んだ準備の九割は無駄になる。無駄になった九割のうしろで、一割が仕事をする。どの一割が生き残るかは、事前にはわからない。だから全部積む。

 

 僕は電気を消して、布団に入った。

 

 天井の暗がりで、なぜか、あの三秒間が再生された。

 

 誰もいない教室で、顔を覆って、三秒で戻った人の。

 

 あれを見なかったことにできるほど、僕は器用ではなかったらしい。

 

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