舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

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06_政近 三回目の消しゴム

 噂というのは、本人のいないところで完成する。

 

 その日の昼休み、教室の後ろで、誰かがこう言った。

 

「九条さん、推薦人探してるらしいよ」

 

 俺は自分の席で、机に伏せていた。伏せていたが、耳は起きていた。この体は、寝るのは得意でも、聞かないのは下手だ。

 

「探してるって、誰に聞いたの」

 

「知らない。誰かが言ってた」

 

 誰かが言ってた。この学校で、いちばんよく喋るやつだ。誰も顔を見たことがないのに、全員が引用する。

 

 俺は顔を上げなかった。上げると、目が合う。目が合うと、何か言わなければいけない気がしてくる。そういう反射が自分にあることを、俺は最近知った。知りたくなかった。

 

「でもさ、九条さんって、あの九条さんでしょ」

 

「あの、って何」

 

「いや、話しかけづらいっていうか」

 

「わかる」

 

 わかる、と三人が同時に言った。三人ぶんの「わかる」ってのは、三種類の意味だ。話しかけづらい。関わりたくない。でも悪く言ったとは思われたくない。

 

 俺は木目を見た。机の木目は、右から左に流れている。流れているだけで、何も言わない。えらい。

 

 二時限目の終わりに、掲示板の前を通った。

 

 周防有希のポスターが、今日も完璧な角度で貼ってあった。踊り場の一枚は、昨日より二センチ下がっていた。誰かが貼り直したらしい。二センチ下げると、階段を上る人の視線に、もう半歩ぶん早く入る。

 

 計算してるんだ。あの家の人間は、二センチを計算する。しかも、計算したことを顔に出さない。

 

 その隣に、白い紙が一枚あった。「立候補受付 残り九日」。

 

 九日。

 

 俺には関係のない数字だ。関係のない数字を、俺は昨日から二回見ている。

 

 昼飯を買いに行くと、購買の前で丸山毅につかまった。

 

「久世、聞いた? 九条さんの話」

 

「聞いてない」

 

「嘘つけ、お前クラスにいただろ」

 

「寝てた」

 

「寝てたやつが『聞いてない』って言えるのは、聞いてたからだろ」

 

 毅は時々、こういう鋭さを出す。本人に自覚がないのが、いちばんたちが悪い。

 

「あの人、推薦人が集まらないらしいぜ」隣で清宮光瑠が、パンの袋を静かに開けていた。「二人でいいのにね」

 

「二人が難しいんだよ」と毅が言った。「頼むのが難しいタイプってのは、いるからな」

 

 俺は、袋の中の焼きそばパンを見ていた。

 

 頼むのが難しいタイプ。毅は三秒で、俺が八年かけて言葉にしたことを言った。この男は時々こうだ。深いことを言って、次の瞬間には忘れている。

 

「久世が書いてやれば?」

 

 毅が、なんでもない顔で言った。

 

 なんでもない顔だから、まっすぐ入ってきた。防ぐ用意がなかった。

 

「なんで俺が」

 

「同じクラスだし。隣だし」

 

「隣だからって理由で名前を書くと、そのうち隣に住んでるやつの保証人にされるぞ」

 

「なんだそりゃ」

 

 光瑠が、小さく笑った。それから「無理しないほうがいいと思うけど」と言った。誰に向けて言ったのかは、はっきりしなかった。はっきりさせない言い方をするのが、この男のやり方だ。

 

 俺は焼きそばパンを持って、そこを離れた。

 

 離れながら、一つ気づいた。俺はいま、話題を逸らした。逸らすつもりで逸らした。

 

 一回目。

 

 五時限目の前に、事務室の前を通った。

 

 通る必要はなかった。教室に戻るなら、廊下は反対側のほうが近い。近いほうを使わなかった理由は、自分でも説明できない。説明できないので、しなかった。

 

 事務室の外に、書類を入れる棚がある。用紙が種類ごとに立ててあって、いちばん右の段に、薄い黄色の紙があった。

 

「生徒会役員選挙 立候補届」

 

 俺は一枚抜いた。抜いてから、なんで抜いたんだと思った。

 

 様式は簡単だった。氏名、学年、組。志望する役職。それから、下のほうに枠が二つ。

 

 「推薦人(同学年以上、二名)」。

 

 枠は小さい。名前を書くだけの幅しかない。理由を書く欄はないし、責任を負う欄もない。ただ、名前を書けばいい。

 

 書く側には、何の負担もない。名前を書いて、それで終わる。責任は候補者が全部持つ。

 

 九月の掲示板の前で、俺は同じことを考えた。考えて、関係ないと思ったはずだった。

 

 俺は紙を折って、ポケットに入れた。入れてから、これは持ち歩くようなものじゃないと気づいた。気づいたが、出さなかった。

 

 五時限目、教室に戻った。

 

 窓際で、九条アリサが同じ黄色い紙を机に置いていた。

 

 二枚目だったんだと思う。一枚目は、もう書き損じたはずだ。あの人は、下書きをしない。いきなり本番を書いて、間違えて、最初から取り直す。効率が悪い。効率が悪いのに直さないのは、下書きという行為を「逃げ」だと思っているからだ。

 

 俺はそういう人間を一人知っている。鏡で毎朝見ている――と言いたいところだが、それは違う。俺は下書きばかりして、本番を書かない側だ。

 

 彼女は、枠の上でペンを止めていた。

 

 止めたまま、動かなかった。あの止まり方には見覚えがあった。書けないんじゃない。書く相手がいないんだ。

 

 それから、教室を見渡した。誰かを探すというより、地図を確認する目だった。ここに何があるかを知っていて、それでも一応、見る目。

 

 誰とも目が合わなかった。全員、うまく合わせなかった。悪意ではない。悪意のほうが、まだ楽だったと思う。

 

 彼女は視線を下ろして、ペンをしまった。

 

 そのとき、小さい声がした。

 

 ――『……あと、九日』

 

 ロシア語だった。

 

 俺は、机に伏せた。伏せる以外にやることがないだろ。俺は聞こえない男なので、聞こえない男らしく、寝ているしかない。

 

 寝たふりをしながら、俺は口を開いた。

 

「なあ、日野」

 

 斜め前の委員長が振り返った。

 

「なに、久世くん」

 

「立候補届の推薦人の欄って、あれ、後から足せるのか」

 

「え? ……たぶん、受付までなら差し替えできると思うけど。事務の人が言ってた」

 

「へえ」

 

「なんで?」

 

「いや。宿題の提出期限と似てるなと思って」

 

「似てないでしょ」

 

 日野は笑って、前を向いた。

 

 俺は伏せたまま、右の窓際に意識を置いた。

 

 ペンをしまう音が、途中で止まっていた。

 

 二回目。

 

 六時限目が終わって、教室が空になっていく途中だった。

 

 九条アリサが立ち上がったとき、机の上の黄色い紙が落ちた。鞄の紐が引っかけたんだと思う。紙は、俺の椅子の脚のところまで滑ってきた。

 

 俺は拾った。

 

 考える前に拾っていた。人は、足元に紙が落ちてきたら拾う。それだけの話だ。それだけの話にしておきたかった。

 

 差し出すと、彼女は一瞬、受け取らなかった。

 

 受け取らずに、俺の顔を見た。

 

「……ありがとう」

 

「落ちてただけだ」

 

「落ちてただけのものを、拾ったでしょう」

 

「拾わないと踏むからな」

 

 彼女は紙を受け取って、鞄に入れた。入れてから、少しだけ間があった。

 

 その間に、何かが言えたんだと思う。あちらからも、こちらからも。

 

 どちらも言わなかった。

 

 彼女は「さようなら」と言って、教室を出ていった。俺は「おう」と言った。八年ぶんの語彙を総動員した結果が「おう」だった。

 

 三回目。

 

 ――いや、待て、これは数えてるんじゃないか、俺はいま購買と日野と放課後の紙で三回と数えたわけだが、数えるってのは記録する気がある人間のやることであって、関わらないと決めた人間は数えないはずで、なのに俺は律儀に番号を振っていて、つまり俺はもうこの件に台帳を作り始めているわけで、台帳ってのはあの家で最初に教わった道具そのもので、俺はそれを捨てて出てきたはずなのに、捨てたはずのやつを、隣の席の女のために使っている。

 

 俺は黒板を見た。

 

 黒板には、六時限目の英語が残っていた。関係代名詞。先行詞。誰が誰を修飾しているかを、線で結ぶやつだ。

 

 あれは便利だ。線を引けば、どれがどれにかかるかが決まる。

 

 人間には線がない。だから、隣にいるだけの人間が、いつのまにか自分の文の一部になっている。

 

 教室を出た。

 

 廊下で、湊とすれ違った。こいつは腕にビラの束を抱えていた。刷りたてらしく、インクの匂いがした。

 

「政近」

 

「なんだ」

 

「なんか、顔がひどい」

 

「もともとこういう顔だ」

 

「そうだな。もともとひどい」

 

「お前、友達をなくすぞ」

 

「もう一人しかいないから、大事にはしてる」

 

 俺は笑った。笑ってから、笑えたことに少し驚いた。

 

 湊は、ビラを抱え直した。抱え直すとき、束の角をきれいに揃えた。この男は、紙の角を必ず揃える。揃っていないと落ち着かないらしい。

 

「何枚刷ったんだ」

 

「二百」

 

「多くないか」

 

「配るぶんは百でいい。残りは、破れたときと、雨の日と、間違えたとき用だ」

 

「間違える予定があるのか」

 

「予定はない。準備はある」

 

 言い方が、あいつの父親の会社の人間みたいだった。実際、そういう教わり方をしたんだろう。

 

 湊は、途中で足を止めた。

 

「政近」

 

「なんだ」

 

「昨日の電話のこと、覚えてるか」

 

「覚えてない」

 

「即答だな」

 

「覚えてないものは、即答できる」

 

 湊は少し黙って、それから「わかった」と言った。

 

 わかった、の言い方が、わかっていない人間のそれじゃなかった。こいつは、こういうときに追わない。ドアの位置を教えて、あとは黙って立っている。押さないくせに、どかない。いちばん厄介なやり方だ。

 

「湊」

 

「うん」

 

「立候補届の推薦人の欄って、二つあるよな」

 

「あるな」

 

「なんで二つなんだと思う」

 

 湊は、少し考えた。

 

「一人だと、その一人が責任を全部持つことになるからじゃないか」

 

「……ああ」

 

「二人いれば、半分になる。半分なら、頼まれたほうも背負える」

 

 俺は、廊下の天井を見た。

 

 蛍光灯が二本。片方が、少しだけ古い色をしていた。

 

 半分なら背負える。

 

 そんなことは、頼む側が知るわけがない。頼めない人間は、相手が背負うぶんを全部、自分の想像で見積もる。見積もりはいつも実際より重い。重いから、頼めない。

 

 俺は、そのことを八年知っていた。知っていて、誰にも言わなかった。

 

 八歳の秋に、一度だけ、頼まされたことがある。

 

 学級委員の話だ。あの家の大人が「自分から手を挙げなさい」と言って、そのあとで「三人に、先に話を通しておきなさい」と言った。三人の名前は、こちらで用意されていた。誰と誰と誰に、どういう順番で、どういう言い方で。全部決まっていた。

 

 俺は決まったとおりに回った。三人とも、うなずいた。

 

 帰ってから、大人が「上手にできたね」と言った。

 

 あのとき俺は、自分が何かを頼んだとは思わなかった。頼むというのは、断られる可能性がある行為のことだ。断られない手順だけを渡されて歩くのは、集金みたいなものだ。

 

 だから俺は、いまだに知らない。

 

 断られるかもしれない相手に、自分の言葉で何かを頼むというのが、どういう気分なのかを。

 

 隣の席のあいつは、たぶん、それを知っている。知っているから、動けない。

 

 俺は知らないから、動かない。

 

 同じ場所に立っているように見えて、立ち方が違う。

 

「帰るぞ」

 

「僕は残る」

 

「またか」

 

「またなんだ」

 

 湊は手を振って、階段を降りていった。

 

 俺は昇降口で靴を履き替えて、外に出た。

 

 九月中旬の夕方は、まだ明るい。明るいのに、風は少し切れていた。夏の終わり方は、いつもこうだ。急には終わらない。終わらないまま、ある日ふりかえると終わっている。

 

 ポケットの中に、折った黄色い紙が入っていた。

 

 捨てるつもりだった。

 

 昇降口のゴミ箱の前で、俺は一度、手を入れた。入れて、出した。

 

 四回目だ、と思った。

 

 思ってから、数えるのはもうやめようと決めた。

 

 決めたが、たぶん、明日も数える。

 

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