舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
噂というのは、本人のいないところで完成する。
その日の昼休み、教室の後ろで、誰かがこう言った。
「九条さん、推薦人探してるらしいよ」
俺は自分の席で、机に伏せていた。伏せていたが、耳は起きていた。この体は、寝るのは得意でも、聞かないのは下手だ。
「探してるって、誰に聞いたの」
「知らない。誰かが言ってた」
誰かが言ってた。この学校で、いちばんよく喋るやつだ。誰も顔を見たことがないのに、全員が引用する。
俺は顔を上げなかった。上げると、目が合う。目が合うと、何か言わなければいけない気がしてくる。そういう反射が自分にあることを、俺は最近知った。知りたくなかった。
「でもさ、九条さんって、あの九条さんでしょ」
「あの、って何」
「いや、話しかけづらいっていうか」
「わかる」
わかる、と三人が同時に言った。三人ぶんの「わかる」ってのは、三種類の意味だ。話しかけづらい。関わりたくない。でも悪く言ったとは思われたくない。
俺は木目を見た。机の木目は、右から左に流れている。流れているだけで、何も言わない。えらい。
二時限目の終わりに、掲示板の前を通った。
周防有希のポスターが、今日も完璧な角度で貼ってあった。踊り場の一枚は、昨日より二センチ下がっていた。誰かが貼り直したらしい。二センチ下げると、階段を上る人の視線に、もう半歩ぶん早く入る。
計算してるんだ。あの家の人間は、二センチを計算する。しかも、計算したことを顔に出さない。
その隣に、白い紙が一枚あった。「立候補受付 残り九日」。
九日。
俺には関係のない数字だ。関係のない数字を、俺は昨日から二回見ている。
昼飯を買いに行くと、購買の前で丸山毅につかまった。
「久世、聞いた? 九条さんの話」
「聞いてない」
「嘘つけ、お前クラスにいただろ」
「寝てた」
「寝てたやつが『聞いてない』って言えるのは、聞いてたからだろ」
毅は時々、こういう鋭さを出す。本人に自覚がないのが、いちばんたちが悪い。
「あの人、推薦人が集まらないらしいぜ」隣で清宮光瑠が、パンの袋を静かに開けていた。「二人でいいのにね」
「二人が難しいんだよ」と毅が言った。「頼むのが難しいタイプってのは、いるからな」
俺は、袋の中の焼きそばパンを見ていた。
頼むのが難しいタイプ。毅は三秒で、俺が八年かけて言葉にしたことを言った。この男は時々こうだ。深いことを言って、次の瞬間には忘れている。
「久世が書いてやれば?」
毅が、なんでもない顔で言った。
なんでもない顔だから、まっすぐ入ってきた。防ぐ用意がなかった。
「なんで俺が」
「同じクラスだし。隣だし」
「隣だからって理由で名前を書くと、そのうち隣に住んでるやつの保証人にされるぞ」
「なんだそりゃ」
光瑠が、小さく笑った。それから「無理しないほうがいいと思うけど」と言った。誰に向けて言ったのかは、はっきりしなかった。はっきりさせない言い方をするのが、この男のやり方だ。
俺は焼きそばパンを持って、そこを離れた。
離れながら、一つ気づいた。俺はいま、話題を逸らした。逸らすつもりで逸らした。
一回目。
五時限目の前に、事務室の前を通った。
通る必要はなかった。教室に戻るなら、廊下は反対側のほうが近い。近いほうを使わなかった理由は、自分でも説明できない。説明できないので、しなかった。
事務室の外に、書類を入れる棚がある。用紙が種類ごとに立ててあって、いちばん右の段に、薄い黄色の紙があった。
「生徒会役員選挙 立候補届」
俺は一枚抜いた。抜いてから、なんで抜いたんだと思った。
様式は簡単だった。氏名、学年、組。志望する役職。それから、下のほうに枠が二つ。
「推薦人(同学年以上、二名)」。
枠は小さい。名前を書くだけの幅しかない。理由を書く欄はないし、責任を負う欄もない。ただ、名前を書けばいい。
書く側には、何の負担もない。名前を書いて、それで終わる。責任は候補者が全部持つ。
九月の掲示板の前で、俺は同じことを考えた。考えて、関係ないと思ったはずだった。
俺は紙を折って、ポケットに入れた。入れてから、これは持ち歩くようなものじゃないと気づいた。気づいたが、出さなかった。
五時限目、教室に戻った。
窓際で、九条アリサが同じ黄色い紙を机に置いていた。
二枚目だったんだと思う。一枚目は、もう書き損じたはずだ。あの人は、下書きをしない。いきなり本番を書いて、間違えて、最初から取り直す。効率が悪い。効率が悪いのに直さないのは、下書きという行為を「逃げ」だと思っているからだ。
俺はそういう人間を一人知っている。鏡で毎朝見ている――と言いたいところだが、それは違う。俺は下書きばかりして、本番を書かない側だ。
彼女は、枠の上でペンを止めていた。
止めたまま、動かなかった。あの止まり方には見覚えがあった。書けないんじゃない。書く相手がいないんだ。
それから、教室を見渡した。誰かを探すというより、地図を確認する目だった。ここに何があるかを知っていて、それでも一応、見る目。
誰とも目が合わなかった。全員、うまく合わせなかった。悪意ではない。悪意のほうが、まだ楽だったと思う。
彼女は視線を下ろして、ペンをしまった。
そのとき、小さい声がした。
――『……あと、九日』
ロシア語だった。
俺は、机に伏せた。伏せる以外にやることがないだろ。俺は聞こえない男なので、聞こえない男らしく、寝ているしかない。
寝たふりをしながら、俺は口を開いた。
「なあ、日野」
斜め前の委員長が振り返った。
「なに、久世くん」
「立候補届の推薦人の欄って、あれ、後から足せるのか」
「え? ……たぶん、受付までなら差し替えできると思うけど。事務の人が言ってた」
「へえ」
「なんで?」
「いや。宿題の提出期限と似てるなと思って」
「似てないでしょ」
日野は笑って、前を向いた。
俺は伏せたまま、右の窓際に意識を置いた。
ペンをしまう音が、途中で止まっていた。
二回目。
六時限目が終わって、教室が空になっていく途中だった。
九条アリサが立ち上がったとき、机の上の黄色い紙が落ちた。鞄の紐が引っかけたんだと思う。紙は、俺の椅子の脚のところまで滑ってきた。
俺は拾った。
考える前に拾っていた。人は、足元に紙が落ちてきたら拾う。それだけの話だ。それだけの話にしておきたかった。
差し出すと、彼女は一瞬、受け取らなかった。
受け取らずに、俺の顔を見た。
「……ありがとう」
「落ちてただけだ」
「落ちてただけのものを、拾ったでしょう」
「拾わないと踏むからな」
彼女は紙を受け取って、鞄に入れた。入れてから、少しだけ間があった。
その間に、何かが言えたんだと思う。あちらからも、こちらからも。
どちらも言わなかった。
彼女は「さようなら」と言って、教室を出ていった。俺は「おう」と言った。八年ぶんの語彙を総動員した結果が「おう」だった。
三回目。
――いや、待て、これは数えてるんじゃないか、俺はいま購買と日野と放課後の紙で三回と数えたわけだが、数えるってのは記録する気がある人間のやることであって、関わらないと決めた人間は数えないはずで、なのに俺は律儀に番号を振っていて、つまり俺はもうこの件に台帳を作り始めているわけで、台帳ってのはあの家で最初に教わった道具そのもので、俺はそれを捨てて出てきたはずなのに、捨てたはずのやつを、隣の席の女のために使っている。
俺は黒板を見た。
黒板には、六時限目の英語が残っていた。関係代名詞。先行詞。誰が誰を修飾しているかを、線で結ぶやつだ。
あれは便利だ。線を引けば、どれがどれにかかるかが決まる。
人間には線がない。だから、隣にいるだけの人間が、いつのまにか自分の文の一部になっている。
教室を出た。
廊下で、湊とすれ違った。こいつは腕にビラの束を抱えていた。刷りたてらしく、インクの匂いがした。
「政近」
「なんだ」
「なんか、顔がひどい」
「もともとこういう顔だ」
「そうだな。もともとひどい」
「お前、友達をなくすぞ」
「もう一人しかいないから、大事にはしてる」
俺は笑った。笑ってから、笑えたことに少し驚いた。
湊は、ビラを抱え直した。抱え直すとき、束の角をきれいに揃えた。この男は、紙の角を必ず揃える。揃っていないと落ち着かないらしい。
「何枚刷ったんだ」
「二百」
「多くないか」
「配るぶんは百でいい。残りは、破れたときと、雨の日と、間違えたとき用だ」
「間違える予定があるのか」
「予定はない。準備はある」
言い方が、あいつの父親の会社の人間みたいだった。実際、そういう教わり方をしたんだろう。
湊は、途中で足を止めた。
「政近」
「なんだ」
「昨日の電話のこと、覚えてるか」
「覚えてない」
「即答だな」
「覚えてないものは、即答できる」
湊は少し黙って、それから「わかった」と言った。
わかった、の言い方が、わかっていない人間のそれじゃなかった。こいつは、こういうときに追わない。ドアの位置を教えて、あとは黙って立っている。押さないくせに、どかない。いちばん厄介なやり方だ。
「湊」
「うん」
「立候補届の推薦人の欄って、二つあるよな」
「あるな」
「なんで二つなんだと思う」
湊は、少し考えた。
「一人だと、その一人が責任を全部持つことになるからじゃないか」
「……ああ」
「二人いれば、半分になる。半分なら、頼まれたほうも背負える」
俺は、廊下の天井を見た。
蛍光灯が二本。片方が、少しだけ古い色をしていた。
半分なら背負える。
そんなことは、頼む側が知るわけがない。頼めない人間は、相手が背負うぶんを全部、自分の想像で見積もる。見積もりはいつも実際より重い。重いから、頼めない。
俺は、そのことを八年知っていた。知っていて、誰にも言わなかった。
八歳の秋に、一度だけ、頼まされたことがある。
学級委員の話だ。あの家の大人が「自分から手を挙げなさい」と言って、そのあとで「三人に、先に話を通しておきなさい」と言った。三人の名前は、こちらで用意されていた。誰と誰と誰に、どういう順番で、どういう言い方で。全部決まっていた。
俺は決まったとおりに回った。三人とも、うなずいた。
帰ってから、大人が「上手にできたね」と言った。
あのとき俺は、自分が何かを頼んだとは思わなかった。頼むというのは、断られる可能性がある行為のことだ。断られない手順だけを渡されて歩くのは、集金みたいなものだ。
だから俺は、いまだに知らない。
断られるかもしれない相手に、自分の言葉で何かを頼むというのが、どういう気分なのかを。
隣の席のあいつは、たぶん、それを知っている。知っているから、動けない。
俺は知らないから、動かない。
同じ場所に立っているように見えて、立ち方が違う。
「帰るぞ」
「僕は残る」
「またか」
「またなんだ」
湊は手を振って、階段を降りていった。
俺は昇降口で靴を履き替えて、外に出た。
九月中旬の夕方は、まだ明るい。明るいのに、風は少し切れていた。夏の終わり方は、いつもこうだ。急には終わらない。終わらないまま、ある日ふりかえると終わっている。
ポケットの中に、折った黄色い紙が入っていた。
捨てるつもりだった。
昇降口のゴミ箱の前で、俺は一度、手を入れた。入れて、出した。
四回目だ、と思った。
思ってから、数えるのはもうやめようと決めた。
決めたが、たぶん、明日も数える。