舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
刷り上がったビラを、僕は二百枚抱えていた。
文化祭のクラス企画の告知だ。日野に頼まれて、版下を作った。実家の会社のプリンタを借りて、夜のうちに刷った。紙は上質紙の九十キロ。安いほうだが、掲示に耐える。
版下は、三日前に日野と決めた。
案は二つあった。写真を大きく使うものと、文字だけのもの。日野は写真のほうを推した。僕は文字のほうにした。
「宗像くん、写真のほうが目立つよ」
「目立つのと、伝わるのは別だ」
「またそういうこと言う」
「廊下は暗い。写真は暗い場所で沈む」
実際、この学校の廊下は照度が足りない。窓のある側はいいが、掲示板は反対側にある。天井の蛍光灯は二メートル間隔で、板の真上には来ていない。
暗い場所に貼るものは、線を太くする。色は減らす。文字は大きくする。
現場で覚えたことの九割は、こういう地味な話だ。
これを廊下に貼れば、仕事は終わる。
終わらなかった。
「宗像くん。それ、印もらった?」
昇降口で、日野が言った。
「印?」
「掲示物の。事務室の受付で押してもらうやつ」
知らなかった。
中学までは、貼りたいものを貼っていた。剥がされたら諦める。それだけの世界だった。
この学校は違うらしい。
僕は二百枚を抱え直して、事務室に行った。
窓口に、A4の紙が一枚立ててあった。
「掲示物取扱要領」。
僕は読んだ。全部読んだ。二段組みで、両面だった。
現場では、要領を読まない人間から順に事故を起こす。だから読む。読むのは無料だ。
内容は単純だった。掲示物は事務室で受付印をもらう。掲示できる場所は指定の板の上だけ。掲示期間は最長で二週間。期間を過ぎたものは、掲示した者が剥がす。
そこまでは、どこの現場でもある話だ。
問題は、裏面だった。
裏面には、別の見出しがあった。
「選挙運動に係る掲示物については、別に定める」。
僕は、その一行を二度読んだ。
窓口の人に聞くと、別の紙を出してくれた。
「生徒会役員選挙 掲示物取扱細則」。
こちらは四段組みだった。
選挙用の掲示は、枚数の上限がある。設置場所が指定されている。掲示物には候補者名の明示が必要で、他候補への言及には制限がある。受付印は事務室ではなく、選挙管理委員会が押す。
押した日付と枚数が、台帳に記録される。
僕は、台帳という言葉のところで指を止めた。
掲示には、二種類ある。
読ませるための掲示と、置いてあることに意味がある掲示だ。
前者は、内容が読まれなければ失敗になる。後者は、誰も読まなくても、そこにあった事実だけが残ればいい。
台帳に番号を残すのは、後者の作り方だ。
照明で言えば、当てる明かりと、点いていることを見せる明かりの違いに近い。舞台には両方がいる。非常灯は誰も見ないが、消えていると全員が困る。
現場では、記録の残る仕事と、残らない仕事がある。残らない仕事は、あとで誰のものにもならない。残る仕事は、あとで誰かのものになる。
どちらが安全かは、その場では決まらない。
「宗像くん、そんなに読む?」
日野が、うしろから覗き込んでいた。
「読む」
「みんな、たいてい印だけもらって帰るよ」
「印をもらうために読むんじゃない。何を許されてるかを知るために読む」
「……それ、ちょっとこわいこと言ってる」
「こわいのは、知らないまま貼ることだよ」
日野は「はいはい」と言って、ビラの束を半分持ってくれた。
この人は、面倒くさがりながら手が出る。いい制作進行になると思う。
二百枚に、印は一つで足りた。
枚数は申告制で、種類が同じなら一括で受け付けるらしい。窓口の人が朱肉を出して、いちばん上の一枚に押した。
朱の色が、思ったより薄かった。
印面は二重丸で、内側に「征嶺学園事務室」、外側に日付が入っていた。
僕はその一枚を、束の中から抜いた。
抜いて、鞄に入れた。
「それ、貼らないの?」
「これは見本にする。あとで揉めたときに出す」
「揉めるの?」
「揉めないよ。揉めないために持つんだ」
保険というのは、使わないから保険なんだ。使う予定のあるものは、保険じゃなくて計画だ。
廊下に出て、掲示板を順に見た。
周防有希のポスターが、目に入った。
昇降口に二枚、一階に四枚。踊り場に各一枚。二階と三階の掲示板にそれぞれ三枚。
僕は、そのうちの一枚に顔を近づけた。
右下の隅に、小さく印が押してあった。
二重丸ではなかった。四角い枠に、細い字。
「征嶺学園 選挙管理委員会 受付」。
その下に、日付と、通し番号。
番号は、十四だった。
僕は他の掲示板も見た。全部に押してあった。番号は連続していなかった。飛んでいる番号がある。
飛んでいるということは、受け付けたが貼らなかったものがある、ということだ。
用意した枚数と、貼った枚数が違う。
差の分だけ、あの陣営には余りがある。破れたとき、汚されたとき、剥がされたとき。全部想定してある。
予備を持つ人間は、事故を想定している人間で、事故を想定する人間は、たいてい一度は事故を経験している。
僕は、二百枚のうち百枚を余らせた自分のことを思い出した。同じことを考える人間が、この学校に、少なくともあと一人いる。
少し嬉しくなって、すぐにやめた。
嬉しがる場面ではない。あちらは対立候補だ。
――と、思ってから、気づいた。
僕は、どちら側でもない。
どちら側でもない人間が「対立候補」という言葉を使うのは、おかしい。
おかしいのに、自然に出てきた。
三階の掲示板の前で、声がした。
「熱心ね」
周防有希が立っていた。うしろに君嶋さん。手にはクリップボード。
「見てただけだよ」
「番号を数えていたでしょう」
「……見てただけだよ」
「二回言うと、嘘になるわよ」
この子は、こういうところが鋭い。
「四番と九番と十一番が飛んでる」と僕は言った。「予備を確保してるんだろ」
有希は、少し目を開いた。それから、笑った。作りの笑顔ではなかった。〇・二秒だけ、素の顔が出た。
「綾乃。この人、面倒くさいわ」
「はい」君嶋さんは表情を変えなかった。「面倒でございます」
「そこ、否定しないんだ」
「事実は否定いたしません」
完敗だった。この人は、いつも一言で終わらせる。
有希はクリップボードを君嶋さんに返して、僕のほうに一歩来た。
「宗像くん」
「うん」
「この前の貸し、返させて」
僕は、少し黙った。
貸しというのは、視聴覚室の話だ。彼女が言い間違えた一言を、僕が聞かなかったことにした。そのかわりに一つ、と言った。
「なんで急に」
「持っていられるのが、落ち着かないの」
「借りが?」
「あなたに、よ」
まっすぐ言われた。
この子は、言いにくいことを言うとき、逆に速くなる。速く言えば、途中で止まらなくて済むからだ。
「返さなくていい」と僕は言った。
「なぜ」
「貸しは、返す側が決めるものじゃないからだ」
「ずいぶん一方的ね」
「一方的だよ。だから貸しって言うんだ」
有希は、しばらく僕を見ていた。
それから、視線を掲示板に移した。自分のポスターを見る目じゃなかった。糊の乾き方を見る目だった。
「……あなた、こっち側に来る気はある?」
来た、と思った。
この子は、こういうことを、廊下で、笑ったまま聞く。
「ないよ」
「即答」
「即答できる程度には、考えてある」
「理由は?」
僕は、少し考えた。
考えて、いちばん短いものを選んだ。
「君の陣営には、もう僕がいるから」
有希の顎が、二ミリだけ上がった。
「どういう意味」
「あの貼り方も、番号の飛ばし方も、僕がやることと同じだ。同じことをやる人間が二人いる現場は、片方が余る」
「……それ、褒めてる?」
「事実を言ってる」
「褒めてるわね」
「否定はしない」
有希は笑った。今度は作りだった。作りだが、機嫌はよさそうだった。
彼女は君嶋さんを連れて、階段を降りていった。
降りる途中で、一度だけ振り返った。
「宗像くん」
「うん」
「余るほうにならないでね」
僕は、返事をしなかった。
言い返す言葉はあった。あったが、使う場面ではなかった。
残された掲示板の前で、僕は自分のビラを一枚貼った。
位置を三回変えた。
最初は目の高さに貼った。高すぎた。次に下げた。今度は低すぎた。三回目で、教室から出た人間が最初に足を止める高さに落ち着いた。床から百四十二センチ。
この高さは、現場で覚えた。人は、自分の目の高さより少し下を見る。上を見るのは、疲れるからだ。
テープは四隅だけにした。中央を留めると、湿気で紙が波打つ。四隅なら逃げる。
貼るときは、上の二箇所を先に留めて、下は最後にする。下から留めると、必ず斜めになる。
こういうことを、僕は誰にも教わっていない。現場で三回失敗して、四回目に覚えた。失敗の回数だけが、この手の知識の出どころだ。
貼り終えて、少し離れて見た。
文化祭のビラが一枚と、選挙のポスターが三枚。同じ板の上に、違う目的のものが並んでいた。
ポスターのほうが、きれいだった。
当たり前だ。あちらは半年かけている。こちらは一晩だ。
僕は、そのことを悔しいとは思わなかった。
思わなかったが、板の前から離れるのに、少し時間がかかった。
事務室の前を通ったとき、掲示板にもう一枚、紙が増えていた。
「立候補受付 残り九日」の下に、白い紙。
「選挙管理委員会からのお知らせ」。
届出書類の記入例が、細かい字で並んでいた。推薦人の欄の書き方まで書いてある。
誰かが、この記入例を作った。
右下に、小さく名前があった。
「選挙管理委員会 委員長 三年 白瀬 郁」。
知らない名前だった。
僕はその名前を、メモ帳の余白に書き写した。
なんとなくだ。
書き写していると、うしろから足音がした。
振り返らなかった。歩幅でわかる。この学校で、あの歩幅は一人だけだ。
九条アリサが、僕の横に立った。
彼女は僕を見なかった。掲示を見ていた。
記入例の、下から三行目。推薦人の欄の書き方が書いてあるところだ。
僕は、二歩ぶん離れた。
人が何かを読んでいるとき、横に立つ人間は邪魔になる。読む速度が落ちる。落ちた速度は、本人が自分のせいだと思う。
彼女は、その三行を長く読んでいた。
三行を読むのに、あの時間はかからない。読んでいたのは字ではない。
やがて、彼女は掲示から離れた。
離れるとき、僕のほうを一度だけ見た。
「宗像くん」
「はい」
「あなた、掲示に詳しいの」
「今日、詳しくなった」
彼女は少しだけ黙って、それから「そう」と言った。
「聞きたいことがあるなら、答えるよ」と僕は言った。
「ないわ」
速かった。
速いのは、考えていなかったからではない。考えたうえで、聞かないと決めていたからだ。
彼女は行ってしまった。
僕は、掲示の前に残った。
いま、僕は「答えるよ」と言った。答えるのは、頼まれてからやる仕事だ。頼まれる前に差し出すのは、演出ではなく、押し売りになる。
その線は、守った。
守ったのに、あまり気分はよくなかった。
余白に書いた名前は、たいてい半年後に必要になる。理由は、そのときになるまでわからない。
帰り道、僕は自分の鞄の中の一枚を思い出した。
受付印を押した、貼らない一枚。
あれは保険だ。使う予定はない。
ないはずだった。
ただ、この三日で、僕は自分の仕事の道具を二つ増やしている。要領の写しと、印の見本だ。
どちらも、まだ誰のためのものでもない。
まだ、というのは、いずれ誰かのためになる予定がある言い方だ。
僕は、その言い方をした自分に気づいて、少し歩く速さを落とした。