舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

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08_政近 俺を使え

 旧校舎の三階に、いまはもう使われていない教室がある。

 

 机も椅子も撤去されて、床の日焼けだけが、かつてそこに何列も並んでいた跡を残している。四角い影が、規則正しく並んでいる。人がいなくなっても、いた形だけは残るらしい。

 

 窓は西向きで、夕方になると部屋ごと橙色に沈む。

 

 有希に呼び出されたのは、そこだった。

 

 メッセージは五文字だった。「旧校舎。三階」。八年ぶりに連絡先を交換してから、あいつが送ってくる文はいつも短い。長い文を送ると、感情が乗ってしまうからだと思う。

 

 俺が入っていくと、あいつは窓際に立っていた。

 

 学園の周防有希の姿勢のまま、こっちを振り返った。

 

 そして、崩した。

 

「おっそい。何分待たせるのよ、お兄ちゃん」

 

 学校での作り声が、一枚剥がれた。

 

 中から出てきたのは、家にいたころの妹の声だ。少し高くて、少し雑で、遠慮がない。

 

「用件は」

 

「ずいぶんつれないなあ。八年ぶりの再会みたいなテンションで来てよ」

 

「毎日、学校で会ってるだろ」

 

「学校で会ってるのは周防有希と久世政近でしょ。ここにいるのは違うじゃん」

 

 そのとおりだった。

 

 俺は何も言えなくなって、壁にもたれた。壁は冷たくて、少し埃っぽかった。

 

 有希は窓枠に腰かけて、足をぶらぶらさせた。西日が、あいつの輪郭を橙色に縁取った。

 

「ここ、いい場所でしょ」

 

「掃除されてないだけだろ」

 

「誰も来ないもん。わたし、時々来て、ここで漫画読んでる」

 

「……周防家の跡取りが、埃だらけの教室で漫画を読んでるのか」

 

「読んでるよ。悪い?」

 

「悪くない」

 

 むしろ、ほっとした。

 

 あいつがこの八年、あの家で完全に磨り潰されなかった証拠が、ひとつでも見つかると、俺は少し呼吸が楽になる。

 

「で、用件は」

 

「せっかちだなあ」

 

 有希は窓枠から下りて、俺の正面に立った。

 

 背が伸びたな、と思った。八年前は、俺の胸のあたりだったのに。いま、あいつの目線は俺の顎の下くらいにある。

 

「選挙、出るの知ってるよね」

 

「全校集会で聞いた。いい演説だった」

 

「いいでしょ。三十七回書き直したんだから」

 

「三十七回」

 

「三十八回目の直しを、いま頼みに来たわけ」

 

 俺は黙った。

 

 来る、とは思っていた。いつ来るか、だけの問題だった。

 

「お兄ちゃん。わたしの副会長候補になって」

 

 夕日の中で、あいつはまっすぐ俺を見ていた。

 

「二人で出よう。わたしが会長で、お兄ちゃんが副会長。そしたら誰も勝てない。断言してもいい。この学園で、わたしとお兄ちゃんが本気で組んだら、勝負になんない」

 

 それは、正しかった。

 

 俺は昔、この妹と組んで、いろんなものを取った。取るのは簡単だった。有希が前に立って、俺が後ろで数字を並べる。それだけで、たいていの大人が黙った。

 

 子どものころ、あの家の大人たちは俺たちを「使える」と言った。誉め言葉のつもりだったんだと思う。俺は八歳で、自分が道具の分類で語られていることを理解した。

 

「わたし、ずっと待ってたんだけど」有希は続けた。「お兄ちゃんが、また本気出すの」

 

「……」

 

「別に、周防に戻れなんて言ってない。そんなこと一言も言ってない。ただ、隣に立ってほしいだけ。それだけなんだけどな」

 

 それだけ、が、いちばん重い。……と書くと、かっこよく逃げた感じになるな。

 

 俺はこの八年、何にも本気を出さないようにして生きてきた。

 

 理由は単純だ。本気を出すと、俺は「できてしまう」。できてしまうと、周りが期待する。期待されると、あの家の匂いがしてくる。あの、いつも同じ温度の書斎の匂いだ。

 

 だから俺は、全部を半分でやめてきた。テストも、部活も、人付き合いも。半分でやめれば、誰も俺に何も期待しない。期待されなければ、誰も俺のせいで顔色を変えない。

 

 有希は、それを知っている。知っていて、待っていた。

 

 八年、待った。

 

 断る理由は、ないはずだった。

 

 むしろ、断る理由のほうが、探すのが難しい。妹と組んで、勝って、それで何が悪い。

 

 俺は口を開いた。

 

「無理だ」

 

 自分の声が、思ったよりはっきりしていて、少し驚いた。

 

 有希の目が、ほんの少し丸くなった。

 

「……理由、聞いていい?」

 

「言ってもわからん」

 

「言ってよ」

 

「わからんと思うぞ」

 

「わかんなくていいから、言って」

 

 俺は、言葉を探した。

 

 探して、見つからなくて、結局、いちばん格好悪いところから話した。

 

「掲示板の前で、あいつが立ってた」

 

「あいつって」

 

「九条アリサ」

 

 有希は何も言わなかった。表情も変えなかった。ただ、足が動くのをやめた。

 

「推薦人が二人いるって書いてあった。二人だぞ。この学校でいちばん簡単な条件だ。頼めば誰でも書く。名前を書くだけで、責任も義務も発生しない」

 

 言いながら、腹が立ってきた。誰に対してかは、自分でもよくわからなかった。

 

「それが、あいつには壁になってる」

 

「頼めばいいのに」

 

「頼めないんだよ」

 

 俺は言った。

 

「頼むってのは、相手に断る権利を渡すことだろ。渡した権利を使われたら、その分、自分が減る。減るのが怖い人間は、頼めない」

 

「……お兄ちゃんみたいな人ってことね」

 

「うるさい」

 

 有希は少しだけ笑った。

 

「あいつ、誰にも頼まない。頼み方を知らないんだ。知らないくせに、一人で全部やろうとする。ポスターも一人で作って、演説も誰もいない教室で練習して、それで、勝つつもりでいる」

 

「勝てないよ、それじゃ」

 

「勝てない」俺はうなずいた。「勝てないのを、俺は知ってる。知ってて、窓際から見てた。三日間」

 

 言ってしまった。

 

 言ったあとで、耳が熱くなった。

 

 いや、待て、いま俺は何を言った、三日間見てたと、自分の妹に、対立候補の女を三日間見ていたと、そう言ったのか、それは字面だけ取り出すとかなり危ない発言なんじゃないか、というかこの八年、俺が誰かを三日も続けて見ていたことなんて一度もなかったわけで、その一度目がよりによってこれか。

 

「見てられなかった、ってこと?」

 

「……ああ」

 

 我ながら、ひどい理由だと思った。

 

 政策でもない。信念でもない。この学校をどうしたいという構想もない。ただ、見ていられなかった。それだけだ。

 

 子どもの理由だ。十六にもなって、これしか出てこなかった。

 

「あのさ」有希が言った。「お兄ちゃん、それ、恋?」

 

「違う」

 

「即答だ」

 

「即答するようなことだからだ」

 

「ふうん」

 

 有希はにやにやしていた。腹立たしいことに、この妹はこういうとき本当に楽しそうにする。

 

「じゃあ、なんなの」

 

 俺は少し考えた。

 

「……借りを返してるのかもしれん」

 

「誰に」

 

「わからん。俺に、かもな」

 

 有希は、しばらく黙っていた。

 

 それから、床に視線を落として、小さく息を吐いた。

 

「ずるいなあ」

 

「悪い」

 

「謝んないでよ。むかつくから」

 

 顔を上げたあいつは、笑っていた。

 

 学校で見せる、あの完璧な笑顔じゃなかった。

 

 もっと不格好で、口が少し歪んでいて、目のあたりが赤くて、それでも、笑っていた。

 

「お兄ちゃんが、誰かのために本気になるの、久しぶりに見た」

 

「有希」

 

「わたしのためじゃないのは、ちょっとむかつくけどね。まあ、いいや」

 

 あいつは俺の胸を、指先で一回だけ突いた。

 

「わたしね、お兄ちゃんが本気出すとこ、見たかったの。相手がわたしじゃなくてもいい……ってことにしとく」

 

「ことにしとく、って」

 

「うるさい。譲歩してんの」

 

 有希は一歩下がって、制服の裾を直した。

 

 その一動作で、あいつの背筋が学校用に戻るのがわかった。作り声が戻ってくる前の、〇・五秒の空白があった。

 

「じゃあ、敵ね」

 

「そうなるな」

 

「手加減したら、一生口きかないから」

 

「するかよ」

 

「よろしい」

 

 有希は俺の横をすり抜けて、ドアのところで一度だけ振り返った。

 

「お兄ちゃん」

 

「なんだ」

 

「その人のこと、ちゃんと勝たせてあげてね」

 

 言い終わる前に、あいつはもう廊下に出ていた。

 

 足音が遠ざかっていく。旧校舎の廊下は音を吸わない。板が鳴る。しばらく鳴って、階段の下で消えた。

 

 俺は、その言い方の意味を、しばらく考えた。

 

 「ちゃんと勝たせてあげて」。

 

 勝つのはあいつのはずだ。なのに、負ける側の心配をした。

 

 考えて、途中でやめた。妹の言葉の裏を読むのは、兄の仕事じゃない。

 

 それに、読んだら動けなくなる。

 

 九条アリサは、その日も誰もいない教室にいた。

 

 黒板の前で、原稿を持って立っていた。

 

 俺が入っていくと、あいつは慌てて原稿を背中に隠した。隠してから、隠したことを後悔したような顔をした。隠す必要のないものを隠すと、余計に見られたことになる。あいつも、それに気づいた顔をした。

 

「……何か用?」

 

「用がある」

 

 俺は机の列のあいだを歩いて、いちばん前の席に座った。

 

 窓の外はもう暗くなりかけていて、教室の蛍光灯が、じじ、と鳴っていた。

 

 彼女は警戒したまま、動かない。

 

「九条。推薦人、二人いるんだったな」

 

 肩が跳ねた。

 

「……あなたに関係ないでしょう」

 

「関係ないな」

 

「じゃあ、何」

 

「一人目、俺だ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 アリサは、目を大きくして、それから、すぐに眉を寄せた。

 

「同情はいらないわ」

 

「同情してない」

 

「なら、なんで」

 

 俺は、少し考えた。

 

 それから、正直に言うことにした。この女に嘘をつくと、あとで全部ばれる。ばれたときの被害のほうが大きい。

 

「見てられないからだ」

 

「……は?」

 

「三日、見てた」

 

「見て……なに、それ。気持ち悪い」

 

「そう言われると思った」

 

 実際、湊にも言われた。

 

「お前のポスターは上手い。書体の選び方も、余白の取り方も、あれは素人がやると必ず崩れる。崩してない。演説も、区切りの位置は全部正しい。準備の量も、この学校の誰よりも多い」

 

 アリサの表情が、わずかに揺れた。

 

 褒められることに、慣れていない顔だった。褒め言葉を受け取る場所を、体のどこにも用意していない顔だ。

 

「でも、負ける」

 

 揺れが止まった。

 

「……なんで、そんなこと」

 

「一人だからだ」

 

 俺は立ち上がった。

 

「有希は強いぞ。あいつは一人じゃない。あいつのうしろには、あいつを勝たせたい人間が何十人もいる。しかも、あいつはそれを作るのが上手い。人に頼むのが上手いんだ。あれは技術だ。生まれつきじゃない。八年かけて身につけた技術だ」

 

「わたしにはない技術ね」

 

「ない」

 

「はっきり言うのね」

 

「嘘をつくと面倒だからだ」

 

 アリサは、原稿を握りしめた。紙が少し歪んだ。

 

「じゃあ、どうしろって言うのよ」

 

 声が、少しだけ震えた。

 

 それを聞いて、俺は腹をくくった。

 

 この女は、いま初めて、俺に質問をした。

 

 命令でも、拒絶でもなく、質問を。それは、この女にとって相当なことのはずだった。

 

「一人で戦うな」

 

 俺は、彼女の前まで歩いた。

 

 三歩の距離。近づくと、あいつが半歩下がろうとして、やめたのがわかった。

 

「俺は、お前が勝つところが見たい。だから、使えるものは全部使え。俺も含めて」

 

「……含めて、って」

 

「推薦人だけじゃない」

 

 俺は言った。

 

「この選挙は、会長候補と副会長候補が二人で出る。お前の隣が、まだ空いてる」

 

 アリサの目が、大きくなった。

 

「……あなたが、そこに立つの?」

 

「立つ」

 

 言ってから、自分でも少し驚いた。

 

 八年、俺はこの手の椅子から逃げ続けてきた。逃げるのは得意だった。得意すぎて、逃げていることにも気づかなくなっていた。

 

「一つだけ言っておく。俺は、お前を勝たせるためにそこに立つ。俺が勝ちたいからじゃない」

 

「……それ、どう違うの」

 

「途中で俺が邪魔になったら、切っていいってことだ」

 

 アリサは、はっきりと怒った顔をした。

 

「……最低ね。そういうことを、最初に言う人は」

 

「そうか」

 

「切らないわよ。そんな面倒なこと」

 

 面倒、で片づけるあたりが、この女らしかった。

 

 手を差し出した。

 

 アリサは、その手を見た。

 

 長いこと見ていた。何かと戦っているのがわかった。俺とじゃない。自分とだ。

 

「……勘違いしないで」

 

「してない」

 

「わたしは、一人でもやれる」

 

「知ってる」

 

「一人でも、やれるのよ。ただ」

 

「ただ?」

 

「……効率が、悪いだけ」

 

「そうだな」

 

「あなたが勝手に手伝うだけよ。わたしが頼んだわけじゃない」

 

「ああ」

 

「……手を、貸すだけよ」

 

「そうだ。貸すだけだ」

 

 白い手が、俺の手に触れた。

 

 冷たかった。指先が、少しだけ震えていた。九月なのに、こんなに冷たい手をしている人間がいるのかと思った。

 

 握り返すと、彼女は顔をそむけた。

 

 銀色の髪が、耳を隠した。

 

 隠しきれていない耳が、赤かった。

 

 そして、聞こえた。

 

 ――『……待ってた。ずっと、誰かがそう言ってくれるの』

 

 ロシア語だった。

 

 俺は、天井を見上げた。

 

 木目はなかった。かわりに古い蛍光灯があって、じじ、と鳴っていた。役に立たない天井だった。

 

 俺は聞こえない男だ。

 

 この特技を、今日ほど呪ったことはない。

 

 手を離したあと、アリサは咳払いをして、原稿を鞄にしまった。しまう手が、まだ少し落ち着いていなかった。

 

「……明日から、どうするの」

 

「まず、推薦人がもう一人いる」

 

「あてはあるの?」

 

「ある」俺は言った。「ただし、俺は頼まない」

 

「え?」

 

「お前が頼め」

 

 アリサの顔が、はっきりと引きつった。

 

「……いきなり、無理難題を出すのね」

 

「無理じゃない。二人目までは、たぶん、お前が自分で取ったほうがいい」

 

「なぜ」

 

「そのほうが、あとで効くからだ」

 

 彼女はしばらく俺を睨んでいた。

 

 それから、鞄を肩にかけて、教室の出口へ歩いていった。

 

 ドアのところで、一度だけ止まった。

 

「久世くん」

 

「なんだ」

 

「……ありがとう、とは、言わないから」

 

「言われても困る」

 

「そう。よかった」

 

 あいつは出ていった。

 

 俺は、誰もいなくなった教室で、しばらく立っていた。

 

 窓の外は、もう完全に夜だった。校庭の照明が消えて、遠くの街灯だけが点いていた。

 

 ――ちゃんと勝たせてあげてね。

 

 妹の声が、まだ耳に残っていた。

 

 俺は、自分がたったいま、八年ぶりに何かを引き受けたことに気づいた。

 

 引き受けたものの重さは、まだわからなかった。

 

 わからないほうがいい、とも思った。わかっていたら、手を出せなかった。

 

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