舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する   作:ドコサヘキサエンさん

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09_湊 演台の高さ

 翌朝、政近が僕の机に紙を置いた。

 

 立候補届だった。

 

 会長候補の欄に、九条アリサ。副会長候補の欄に、久世政近。推薦人の欄には、一人分だけ名前が入っている。久世政近。字が雑だった。

 

 僕は、副会長候補の欄をしばらく見ていた。

 

 こいつが、逃げ場のある席から、逃げ場のない席へ移った。それだけのことが、紙の上では二行で済んでいる。

 

「……お前、立つのか」

 

「立つ」

 

「ふうん」

 

「ふうん、じゃないだろ」

 

「いや。よかったなと思って」

 

 返事はなかった。かわりに、左肩が上がった。

 

「二人目、まだ空いてる」と政近は言った。

 

「僕に頼むなら、頼むって言えよ」

 

「俺は頼まない」

 

「は?」

 

「俺が頼んだら、あいつが借りを作ることになる」

 

 政近は自分の席に座って、頬杖をついた。

 

「昨日、あいつに言った。二人目は自分で取れって」

 

「厳しいな」

 

「厳しくない。そのほうがあとで効く」

 

 ずるい男だ、と僕は思った。

 

 こいつは昔から、いちばん大事なところだけは、人にやらせない。かわりに、人がやりやすいように場所を空ける。空けておいて、自分は何もしていない顔をする。

 

「政近」

 

「あ?」

 

「お前、そういうの、どこで覚えたの」

 

「……さあな」

 

 左肩が上がった。

 

 僕はそれ以上聞かなかった。ルールだ。

 

 昼休み、僕が弁当を広げていると、目の前に影が落ちた。

 

 九条アリサが立っていた。

 

 教室が、少しだけ静かになった。彼女がクラスの誰かに自分から近づくのは、めずらしいことだったからだ。日野がわざとらしくノートに目を落とし、耳だけこっちに向けているのがわかった。

 

 彼女は、すぐには続けなかった。

 

 何か言おうとして、やめて、また言おうとした。指がスカートの横で二回、握られて開いた。

 

 僕は待った。待つのは仕事のうちだ。

 

「……宗像くん」

 

「はい」

 

「推薦人に、なってくれない?」

 

 言い切ってから、彼女は顔をそむけた。耳が赤かった。

 

 この人にとって、これは相当きつい一言だったはずだ。三日間見ていたから、わかる。

 

 僕は、二つのことを同時に考えた。

 

 ひとつ。ここで少しでももったいぶったら、この人は二度と人に頼まなくなる。

 

 もうひとつ。ここで即答しすぎると、頼んだこと自体が軽くなる。

 

 だから僕は、箸を置く動作を一拍ぶんだけ丁寧にして、それから言った。

 

「いいよ」

 

「え」

 

「いいよ、って言った。ペン貸して」

 

 彼女はしばらく固まって、それから慌てて筆箱を開けた。シャープペンを出しかけて、「これじゃないわね」と言って、ボールペンに持ち替えた。細かいところで律儀な人だ。

 

 僕は届出用紙に名前を書いた。

 

 九条アリサは、僕の手元をずっと見ていた。

 

 書き終えて顔を上げると、彼女はまだ何か言いたそうにしていた。

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 僕は弁当に戻った。

 

 それ以上、何も言わなかった。

 

 ここで「困ったことがあったら言って」なんて付け足すのは、素人の仕事だ。この人は、押しつけられた優しさを飲み込めない。だから、扉だけ開けて、こっちを見ない。

 

 三十秒後、彼女はまだそこに立っていた。

 

「……ひとつ、聞いていい?」

 

「どうぞ」

 

「わたしのポスター、どう思う?」

 

 来た、と思った。

 

 この人は、礼を言いに来たんじゃない。批評をもらいに来たのだ。頼むのが怖くて、その前に用事をもうひとつ足したかった。

 

「上手いよ。書体も余白も、素人の失敗を全部避けてる」

 

「そう」

 

「でも、誰の記憶にも残らない」

 

 彼女の眉が上がった。怒った顔だった。

 

「なぜ」

 

「間違いがないから」

 

 僕は箸を置いた。

 

「あのポスターは、『文句をつけられないこと』を目標に作られてる。だから、隙がない。隙がないものは、人が入る場所もない。人は、隙間から入るんだよ」

 

 九条アリサは、しばらく僕を見ていた。

 

 それから、僕の隣の椅子を引いて、座った。

 

 教室が、今度ははっきりざわついた。日野が「えっ」と小さく言った。彼女は気にしなかった。

 

「もっと言って」

 

 こういう人だったのか、と僕は思った。

 

 この人は、批判を怖がらない。

 

 怖がるのは、届かないことだけだ。

 

 なるほど。政近が三日も窓際を見ていたわけだ。

 

「じゃあ、ひとつだけ」と僕は言った。「あの写真、目線がカメラにまっすぐでしょ」

 

「まっすぐでないと、不誠実に見えるわ」

 

「見えないよ。まっすぐすぎると、審査されてる気分になる。人は、自分を見つめてくる顔から一回逃げるんだ」

 

「じゃあ、どうすれば」

 

「二度見させればいい。一回目は逃げられていい。逃げた先に、もう一回引っかかるものを置く」

 

「……具体的には」

 

「それは、あなたの中身を知ってからじゃないと言えない」

 

 彼女は少し黙って、それから「面倒な人ね」と言った。

 

 悪口のはずなのに、なぜか、少し嬉しそうだった。

 

 昼の校内放送で、候補者紹介の枠があると聞いたのは、その日の放課後だった。

 

 各候補三分。放送室から、音声だけ。

 

 選挙管理委員会の掲示を見て、僕は舌打ちをこらえた。

 

 あの日、視聴覚室で、メモ帳の余白に「候補者紹介の形式 確認すること」と書いた。書いておいてよかった。書いておいたのに、確認が間に合わなかった。

 

「音だけか」

 

「なんか、まずいのか」政近が聞いた。

 

「まずいよ。この形式は、周防さんに有利すぎる」

 

 僕は説明した。

 

 周防有希という人は、声だけで完成する。滑舌、抑揚、間の取り方、どれも仕上がっている。九十秒の告知放送を毎週やっている人だ。三分なんて、あの人にとってはホームグラウンドだ。

 

 対して、九条アリサは違う。

 

 あの人の説得力は、立ち方にある。背筋と、目線と、逃げないところ。それが音声から全部落ちる。落ちたあとに残るのは、正しくて冷たい原稿の朗読だけだ。

 

「顔が見えないってのは、そんなにでかいのか」

 

「でかいよ。情報量が七割落ちる」僕は言った。「しかも、落ちる七割が、あの人の強い側だ」

 

「……なるほどな」

 

「形式は変えられない。選挙管理委員会のルールだ。なら、中身を変える」

 

 僕は九条アリサを空き教室に呼んで、原稿を見せてもらった。

 

 A4で二枚。

 

 行事の予算配分、意見箱の設置、部活動費の見直し。三年ぶんの数字が根拠として並べてある。部費の推移は、グラフにしてもいいくらい丁寧だった。

 

 全部、正しかった。

 

 全部、誰かの心には届かなかった。

 

「一枚目、全部捨てよう」

 

「……は?」

 

「二枚目も、最後の五行だけ残す」

 

 彼女は原稿をひったくった。

 

「これは、三週間かけて調べたのよ」

 

「知ってる。調べた量は、字面から伝わる」

 

「なら」

 

「でも、三分だ」僕は言った。「三分で人が覚えられるのは、ひとつだけだよ」

 

「ひとつって」

 

「あなたが、本当のことを言った瞬間だけ」

 

 九条アリサは黙った。

 

 窓の外で、野球部のノックの音がしていた。金属バットの音は、遠くで聞くと少し間抜けだ。

 

「たとえば、なんで会長になりたいのか。かっこいい理由じゃなくていい。むしろ、かっこ悪いほうがいい」

 

「……そんなの、言う必要ある?」

 

「ない。言わなくても選挙はできる。でも、負ける」

 

「あなた、さっきから負けるとしか言わないのね」

 

「勝てる方法を言うためだよ」

 

 彼女は原稿を握りしめた。紙が少し歪んだ。歪んだところを、指で伸ばした。

 

 僕は待った。

 

 三分くらい、何も言わずに待った。現場で覚えたことのひとつだ。人が本当のことを言うまでの時間は、だいたい三分か、あるいは永遠かのどちらかだ。

 

 長い沈黙のあと、彼女は言った。

 

「……わたし、この学校で、誰にも必要とされてない気がしてた」

 

 小さい声だった。

 

「成績は一番よ。何をやっても、だいたいできる。でも、誰もわたしに何も頼まない」

 

「うん」

 

「頼まれないってことは、いらないってことでしょう」

 

 僕は、そこで口を挟まなかった。

 

 彼女は続けた。

 

「日直の仕事も、わたしがやると早く終わるから、みんな任せてくれる。でも、任せるのと、頼むのは、違うでしょう」

 

 違う、と僕も思った。

 

 任せるのは、こちらが減る作業だ。頼むのは、相手を必要としている作業だ。

 

「だから、いちばん頼まれる場所に立ちたかったの。……くだらない理由よね」

 

「くだらなくないよ」

 

 僕はメモ帳を開いた。

 

「それを言おう。三分の、最初の三十秒で」

 

「そんなの、みっともないわ」

 

「みっともないほうがいい。みっともないところにしか、人は入れない」

 

 彼女は僕をじっと見た。

 

「あなた、それ、自分のことも言ってる?」

 

 僕は、少し黙った。

 

「……さあ、どうだろう」

 

 左肩が上がったかもしれない。政近がうつったらしい。

 

 当日の朝、僕は放送室に入って、演台の高さを測った。

 

 三日前にメモしていた項目だ。使わないかもしれないと思いながら書いた一行が、ここで役に立った。

 

 裏方の準備なんて、九割は無駄になる。無駄になった九割のうしろで、一割が仕事をする。

 

 放送室のマイクスタンドは、前の使用者の高さのままだった。

 

 九条アリサが立つと、マイクが顎の位置に来る。

 

 顎の位置にマイクがあると、人は無意識にうつむく。うつむくと、喉が締まる。喉が締まると、声が下に落ちる。

 

 僕はスタンドを八センチ上げた。

 

 それから、原稿台を撤去した。

 

「原稿、なし?」

 

「四百字なら覚えられるでしょ、あなたなら」

 

「……それは、そうだけど」

 

「紙を見る人の声は、紙に向かって喋る声になる。今日は、そうじゃないほうがいい」

 

 彼女はマイクの前に立って、位置を確かめた。それから、少し困った顔をした。

 

「……手が、余るわ」

 

「そう。余る。だから、その手をどうするかは考えなくていい。考えないでいい状態にした」

 

「なにそれ」

 

「人は、手をどうするか考えはじめると、声から意識が抜ける。だから、持たせない」

 

 自分の両手を見て、彼女は小さく笑った。

 

 初めて見る笑い方だった。

 

 僕は卓に座って、フェーダーに指をかけた。

 

 上げれば大きく、下げれば小さく。人の声を、聞かせたい大きさに調整する装置。

 

 部屋のうしろで、政近が壁にもたれていた。何も言わなかった。何も言わないのが正解だった。

 

 赤いランプが点いた。

 

 彼女は一度、息を吸った。

 

 そして、しゃべりだした。

 

 最初の三十秒は、震えていた。

 

 ひどいものだった。二回、言い直した。「わたしは」で詰まって、「……わたしは」ともう一度言った。

 

 僕はフェーダーに触らなかった。

 

 ここで音量をいじると、震えが「事故」になる。触らなければ、震えは「本気」になる。同じ波形が、扱い方ひとつで意味を変える。

 

 三十秒を過ぎたあたりで、声から力みが抜けた。

 

 ――誰にも必要とされていない気がしていた。だから、いちばん必要とされる場所に立ちたい。

 

 言い終わったあと、彼女は少しだけ間を置いた。

 

 その間は、原稿にはなかった。

 

 自分で置いた間だった。

 

 僕は、その瞬間に、この人は伸びると思った。間を自分で置ける人は、伸びる。

 

 三分が終わって、ランプが消えた。

 

 九条アリサは、しばらくマイクの前から動かなかった。

 

 それから、こっちを振り返った。

 

「……最悪。二回も噛んだ」

 

「うん」

 

「聞いてられた?」

 

「僕は、聞いてた」

 

 彼女は何か言いかけて、やめた。

 

 うしろで、政近が壁から背を離した。

 

「よかったぞ」

 

「……あなたに言われても」

 

「じゃあ言わない」

 

「言いなさいよ」

 

 理不尽な人だ。政近が「面倒くさい」という顔をしていた。少し嬉しそうでもあった。

 

 その日の午後、廊下で、二人の女子が話しているのを聞いた。

 

「九条さんの、なんかよかったね」

 

「うん。なんか、意外だった」

 

「意外って?」

 

「なんか、人間だった」

 

 それだけだ。

 

 それだけだが、三日前まで、この学校で九条アリサの話をする人間は一人もいなかった。

 

 放課後、僕が機材を片づけていると、放送室に周防有希が入ってきた。うしろに君嶋さんがいた。

 

「お疲れさま、宗像くん」

 

「そっちこそ。完璧だったね、三分」

 

「完璧なんてことはないわ」有希はにこりと笑った。「でも、あの子のほうが、話題になってるみたい」

 

「されてないよ。まだ、なんかよかったね、止まりだ」

 

「その『なんか』が、いちばん厄介なのよ」

 

 有希はマイクスタンドを見た。

 

 八センチ上がったままのそれを、目で測るようにした。

 

「これ、上げたの、あなた?」

 

「うん」

 

「……なるほどねえ」

 

 感心したような、あきれたような顔だった。

 

「わたし、自分でスタンド調整したことなかった。いつも、ちょうどいい高さになってたから」

 

「誰かが合わせてたんだよ」

 

「そうね。……たぶん、綾乃ね」

 

「はい」と君嶋さんが言った。

 

 有希は少し黙った。それから、機材ラックのほうへ歩いていって、そこに置いてあった僕のメモ帳を、ひょいと覗いた。

 

「返して」

 

「あ、これ。演出のノート?」

 

「返して、って言った」

 

「わ、すごい。カット割りみたいなの書いてある。ねえ、この矢印、視線誘導? もしかして、間の取り方まで秒で切ってる?」

 

 有希の声が、少し速くなった。

 

「あー、これあれだ。アニメの絵コンテと同じ書き方だ。わたし、こういうの好きなんだよね。特にさ、Bパートで一回音を全部止めてから台詞入れるやつ。あれやられると、もう、ずるいっていうか、こっちは泣くしかないっていうか。あとさ、引きの絵で三秒待つやつ。あれ考えた人、絶対に性格悪いよ。だってあの三秒で全部持ってかれるんだもん。ねえ、宗像くんもそう思わない? 思うよね?」

 

 言い終わって、有希は固まった。

 

 自分の口を、両手で押さえた。

 

 放送室が、静かになった。

 

 君嶋さんが、視線をすっと横に外した。有能な人だ。

 

 有希の顔が、耳まで赤くなっていく。

 

「……いまの」

 

「聞かなかった」

 

「宗像くん」

 

「僕は音響の人間だから、耳が悪いんだ」

 

「音響の人が耳悪かったら困るでしょ」

 

「困るね」

 

 有希は、僕をじっと見た。

 

 それから、力が抜けたように、笑った。

 

 作っていない笑い方だった。二回目だ。

 

「……貸し、増えちゃったじゃない」

 

「そうだね。二つ目」

 

「返す気ある?」

 

「返してもらったら、僕、君に用がなくなるだろ」

 

 言ってから、少し変な言い方をしたな、と思った。

 

 有希は何も言わなかった。

 

 何も言わずに、君嶋さんを連れて、放送室を出ていった。

 

 ドアが閉まる直前、君嶋さんが一度だけ振り返って、僕を見た。

 

 あれは警戒の目ではなかった。

 

 もっと別の、何かを確認する目だった。何を確認されたのかは、わからなかった。

 

 ドアが閉まったあと、僕はフェーダーをいちばん下まで下げた。

 

 下げても、心拍のほうは下がらなかった。

 

 困ったものだ。

 

 僕は、卓の上に置きっぱなしのメモ帳を閉じた。

 

 三分間の波形は、もう録音のどこにも残っていない。放送室の機材は、生放送のぶんを保存しない。

 

 でも、あの三十秒の震えは、何人かの耳に残っている。

 

 残ってしまえば、それはもう機材の管轄外だ。

 

 僕にできるのは、そこまでだった。

 

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