舞台に立てない元子役が、生徒会長選挙のすべてを裏から設計する 作:ドコサヘキサエンさん
翌朝、政近が僕の机に紙を置いた。
立候補届だった。
会長候補の欄に、九条アリサ。副会長候補の欄に、久世政近。推薦人の欄には、一人分だけ名前が入っている。久世政近。字が雑だった。
僕は、副会長候補の欄をしばらく見ていた。
こいつが、逃げ場のある席から、逃げ場のない席へ移った。それだけのことが、紙の上では二行で済んでいる。
「……お前、立つのか」
「立つ」
「ふうん」
「ふうん、じゃないだろ」
「いや。よかったなと思って」
返事はなかった。かわりに、左肩が上がった。
「二人目、まだ空いてる」と政近は言った。
「僕に頼むなら、頼むって言えよ」
「俺は頼まない」
「は?」
「俺が頼んだら、あいつが借りを作ることになる」
政近は自分の席に座って、頬杖をついた。
「昨日、あいつに言った。二人目は自分で取れって」
「厳しいな」
「厳しくない。そのほうがあとで効く」
ずるい男だ、と僕は思った。
こいつは昔から、いちばん大事なところだけは、人にやらせない。かわりに、人がやりやすいように場所を空ける。空けておいて、自分は何もしていない顔をする。
「政近」
「あ?」
「お前、そういうの、どこで覚えたの」
「……さあな」
左肩が上がった。
僕はそれ以上聞かなかった。ルールだ。
昼休み、僕が弁当を広げていると、目の前に影が落ちた。
九条アリサが立っていた。
教室が、少しだけ静かになった。彼女がクラスの誰かに自分から近づくのは、めずらしいことだったからだ。日野がわざとらしくノートに目を落とし、耳だけこっちに向けているのがわかった。
彼女は、すぐには続けなかった。
何か言おうとして、やめて、また言おうとした。指がスカートの横で二回、握られて開いた。
僕は待った。待つのは仕事のうちだ。
「……宗像くん」
「はい」
「推薦人に、なってくれない?」
言い切ってから、彼女は顔をそむけた。耳が赤かった。
この人にとって、これは相当きつい一言だったはずだ。三日間見ていたから、わかる。
僕は、二つのことを同時に考えた。
ひとつ。ここで少しでももったいぶったら、この人は二度と人に頼まなくなる。
もうひとつ。ここで即答しすぎると、頼んだこと自体が軽くなる。
だから僕は、箸を置く動作を一拍ぶんだけ丁寧にして、それから言った。
「いいよ」
「え」
「いいよ、って言った。ペン貸して」
彼女はしばらく固まって、それから慌てて筆箱を開けた。シャープペンを出しかけて、「これじゃないわね」と言って、ボールペンに持ち替えた。細かいところで律儀な人だ。
僕は届出用紙に名前を書いた。
九条アリサは、僕の手元をずっと見ていた。
書き終えて顔を上げると、彼女はまだ何か言いたそうにしていた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
僕は弁当に戻った。
それ以上、何も言わなかった。
ここで「困ったことがあったら言って」なんて付け足すのは、素人の仕事だ。この人は、押しつけられた優しさを飲み込めない。だから、扉だけ開けて、こっちを見ない。
三十秒後、彼女はまだそこに立っていた。
「……ひとつ、聞いていい?」
「どうぞ」
「わたしのポスター、どう思う?」
来た、と思った。
この人は、礼を言いに来たんじゃない。批評をもらいに来たのだ。頼むのが怖くて、その前に用事をもうひとつ足したかった。
「上手いよ。書体も余白も、素人の失敗を全部避けてる」
「そう」
「でも、誰の記憶にも残らない」
彼女の眉が上がった。怒った顔だった。
「なぜ」
「間違いがないから」
僕は箸を置いた。
「あのポスターは、『文句をつけられないこと』を目標に作られてる。だから、隙がない。隙がないものは、人が入る場所もない。人は、隙間から入るんだよ」
九条アリサは、しばらく僕を見ていた。
それから、僕の隣の椅子を引いて、座った。
教室が、今度ははっきりざわついた。日野が「えっ」と小さく言った。彼女は気にしなかった。
「もっと言って」
こういう人だったのか、と僕は思った。
この人は、批判を怖がらない。
怖がるのは、届かないことだけだ。
なるほど。政近が三日も窓際を見ていたわけだ。
「じゃあ、ひとつだけ」と僕は言った。「あの写真、目線がカメラにまっすぐでしょ」
「まっすぐでないと、不誠実に見えるわ」
「見えないよ。まっすぐすぎると、審査されてる気分になる。人は、自分を見つめてくる顔から一回逃げるんだ」
「じゃあ、どうすれば」
「二度見させればいい。一回目は逃げられていい。逃げた先に、もう一回引っかかるものを置く」
「……具体的には」
「それは、あなたの中身を知ってからじゃないと言えない」
彼女は少し黙って、それから「面倒な人ね」と言った。
悪口のはずなのに、なぜか、少し嬉しそうだった。
昼の校内放送で、候補者紹介の枠があると聞いたのは、その日の放課後だった。
各候補三分。放送室から、音声だけ。
選挙管理委員会の掲示を見て、僕は舌打ちをこらえた。
あの日、視聴覚室で、メモ帳の余白に「候補者紹介の形式 確認すること」と書いた。書いておいてよかった。書いておいたのに、確認が間に合わなかった。
「音だけか」
「なんか、まずいのか」政近が聞いた。
「まずいよ。この形式は、周防さんに有利すぎる」
僕は説明した。
周防有希という人は、声だけで完成する。滑舌、抑揚、間の取り方、どれも仕上がっている。九十秒の告知放送を毎週やっている人だ。三分なんて、あの人にとってはホームグラウンドだ。
対して、九条アリサは違う。
あの人の説得力は、立ち方にある。背筋と、目線と、逃げないところ。それが音声から全部落ちる。落ちたあとに残るのは、正しくて冷たい原稿の朗読だけだ。
「顔が見えないってのは、そんなにでかいのか」
「でかいよ。情報量が七割落ちる」僕は言った。「しかも、落ちる七割が、あの人の強い側だ」
「……なるほどな」
「形式は変えられない。選挙管理委員会のルールだ。なら、中身を変える」
僕は九条アリサを空き教室に呼んで、原稿を見せてもらった。
A4で二枚。
行事の予算配分、意見箱の設置、部活動費の見直し。三年ぶんの数字が根拠として並べてある。部費の推移は、グラフにしてもいいくらい丁寧だった。
全部、正しかった。
全部、誰かの心には届かなかった。
「一枚目、全部捨てよう」
「……は?」
「二枚目も、最後の五行だけ残す」
彼女は原稿をひったくった。
「これは、三週間かけて調べたのよ」
「知ってる。調べた量は、字面から伝わる」
「なら」
「でも、三分だ」僕は言った。「三分で人が覚えられるのは、ひとつだけだよ」
「ひとつって」
「あなたが、本当のことを言った瞬間だけ」
九条アリサは黙った。
窓の外で、野球部のノックの音がしていた。金属バットの音は、遠くで聞くと少し間抜けだ。
「たとえば、なんで会長になりたいのか。かっこいい理由じゃなくていい。むしろ、かっこ悪いほうがいい」
「……そんなの、言う必要ある?」
「ない。言わなくても選挙はできる。でも、負ける」
「あなた、さっきから負けるとしか言わないのね」
「勝てる方法を言うためだよ」
彼女は原稿を握りしめた。紙が少し歪んだ。歪んだところを、指で伸ばした。
僕は待った。
三分くらい、何も言わずに待った。現場で覚えたことのひとつだ。人が本当のことを言うまでの時間は、だいたい三分か、あるいは永遠かのどちらかだ。
長い沈黙のあと、彼女は言った。
「……わたし、この学校で、誰にも必要とされてない気がしてた」
小さい声だった。
「成績は一番よ。何をやっても、だいたいできる。でも、誰もわたしに何も頼まない」
「うん」
「頼まれないってことは、いらないってことでしょう」
僕は、そこで口を挟まなかった。
彼女は続けた。
「日直の仕事も、わたしがやると早く終わるから、みんな任せてくれる。でも、任せるのと、頼むのは、違うでしょう」
違う、と僕も思った。
任せるのは、こちらが減る作業だ。頼むのは、相手を必要としている作業だ。
「だから、いちばん頼まれる場所に立ちたかったの。……くだらない理由よね」
「くだらなくないよ」
僕はメモ帳を開いた。
「それを言おう。三分の、最初の三十秒で」
「そんなの、みっともないわ」
「みっともないほうがいい。みっともないところにしか、人は入れない」
彼女は僕をじっと見た。
「あなた、それ、自分のことも言ってる?」
僕は、少し黙った。
「……さあ、どうだろう」
左肩が上がったかもしれない。政近がうつったらしい。
当日の朝、僕は放送室に入って、演台の高さを測った。
三日前にメモしていた項目だ。使わないかもしれないと思いながら書いた一行が、ここで役に立った。
裏方の準備なんて、九割は無駄になる。無駄になった九割のうしろで、一割が仕事をする。
放送室のマイクスタンドは、前の使用者の高さのままだった。
九条アリサが立つと、マイクが顎の位置に来る。
顎の位置にマイクがあると、人は無意識にうつむく。うつむくと、喉が締まる。喉が締まると、声が下に落ちる。
僕はスタンドを八センチ上げた。
それから、原稿台を撤去した。
「原稿、なし?」
「四百字なら覚えられるでしょ、あなたなら」
「……それは、そうだけど」
「紙を見る人の声は、紙に向かって喋る声になる。今日は、そうじゃないほうがいい」
彼女はマイクの前に立って、位置を確かめた。それから、少し困った顔をした。
「……手が、余るわ」
「そう。余る。だから、その手をどうするかは考えなくていい。考えないでいい状態にした」
「なにそれ」
「人は、手をどうするか考えはじめると、声から意識が抜ける。だから、持たせない」
自分の両手を見て、彼女は小さく笑った。
初めて見る笑い方だった。
僕は卓に座って、フェーダーに指をかけた。
上げれば大きく、下げれば小さく。人の声を、聞かせたい大きさに調整する装置。
部屋のうしろで、政近が壁にもたれていた。何も言わなかった。何も言わないのが正解だった。
赤いランプが点いた。
彼女は一度、息を吸った。
そして、しゃべりだした。
最初の三十秒は、震えていた。
ひどいものだった。二回、言い直した。「わたしは」で詰まって、「……わたしは」ともう一度言った。
僕はフェーダーに触らなかった。
ここで音量をいじると、震えが「事故」になる。触らなければ、震えは「本気」になる。同じ波形が、扱い方ひとつで意味を変える。
三十秒を過ぎたあたりで、声から力みが抜けた。
――誰にも必要とされていない気がしていた。だから、いちばん必要とされる場所に立ちたい。
言い終わったあと、彼女は少しだけ間を置いた。
その間は、原稿にはなかった。
自分で置いた間だった。
僕は、その瞬間に、この人は伸びると思った。間を自分で置ける人は、伸びる。
三分が終わって、ランプが消えた。
九条アリサは、しばらくマイクの前から動かなかった。
それから、こっちを振り返った。
「……最悪。二回も噛んだ」
「うん」
「聞いてられた?」
「僕は、聞いてた」
彼女は何か言いかけて、やめた。
うしろで、政近が壁から背を離した。
「よかったぞ」
「……あなたに言われても」
「じゃあ言わない」
「言いなさいよ」
理不尽な人だ。政近が「面倒くさい」という顔をしていた。少し嬉しそうでもあった。
その日の午後、廊下で、二人の女子が話しているのを聞いた。
「九条さんの、なんかよかったね」
「うん。なんか、意外だった」
「意外って?」
「なんか、人間だった」
それだけだ。
それだけだが、三日前まで、この学校で九条アリサの話をする人間は一人もいなかった。
放課後、僕が機材を片づけていると、放送室に周防有希が入ってきた。うしろに君嶋さんがいた。
「お疲れさま、宗像くん」
「そっちこそ。完璧だったね、三分」
「完璧なんてことはないわ」有希はにこりと笑った。「でも、あの子のほうが、話題になってるみたい」
「されてないよ。まだ、なんかよかったね、止まりだ」
「その『なんか』が、いちばん厄介なのよ」
有希はマイクスタンドを見た。
八センチ上がったままのそれを、目で測るようにした。
「これ、上げたの、あなた?」
「うん」
「……なるほどねえ」
感心したような、あきれたような顔だった。
「わたし、自分でスタンド調整したことなかった。いつも、ちょうどいい高さになってたから」
「誰かが合わせてたんだよ」
「そうね。……たぶん、綾乃ね」
「はい」と君嶋さんが言った。
有希は少し黙った。それから、機材ラックのほうへ歩いていって、そこに置いてあった僕のメモ帳を、ひょいと覗いた。
「返して」
「あ、これ。演出のノート?」
「返して、って言った」
「わ、すごい。カット割りみたいなの書いてある。ねえ、この矢印、視線誘導? もしかして、間の取り方まで秒で切ってる?」
有希の声が、少し速くなった。
「あー、これあれだ。アニメの絵コンテと同じ書き方だ。わたし、こういうの好きなんだよね。特にさ、Bパートで一回音を全部止めてから台詞入れるやつ。あれやられると、もう、ずるいっていうか、こっちは泣くしかないっていうか。あとさ、引きの絵で三秒待つやつ。あれ考えた人、絶対に性格悪いよ。だってあの三秒で全部持ってかれるんだもん。ねえ、宗像くんもそう思わない? 思うよね?」
言い終わって、有希は固まった。
自分の口を、両手で押さえた。
放送室が、静かになった。
君嶋さんが、視線をすっと横に外した。有能な人だ。
有希の顔が、耳まで赤くなっていく。
「……いまの」
「聞かなかった」
「宗像くん」
「僕は音響の人間だから、耳が悪いんだ」
「音響の人が耳悪かったら困るでしょ」
「困るね」
有希は、僕をじっと見た。
それから、力が抜けたように、笑った。
作っていない笑い方だった。二回目だ。
「……貸し、増えちゃったじゃない」
「そうだね。二つ目」
「返す気ある?」
「返してもらったら、僕、君に用がなくなるだろ」
言ってから、少し変な言い方をしたな、と思った。
有希は何も言わなかった。
何も言わずに、君嶋さんを連れて、放送室を出ていった。
ドアが閉まる直前、君嶋さんが一度だけ振り返って、僕を見た。
あれは警戒の目ではなかった。
もっと別の、何かを確認する目だった。何を確認されたのかは、わからなかった。
ドアが閉まったあと、僕はフェーダーをいちばん下まで下げた。
下げても、心拍のほうは下がらなかった。
困ったものだ。
僕は、卓の上に置きっぱなしのメモ帳を閉じた。
三分間の波形は、もう録音のどこにも残っていない。放送室の機材は、生放送のぶんを保存しない。
でも、あの三十秒の震えは、何人かの耳に残っている。
残ってしまえば、それはもう機材の管轄外だ。
僕にできるのは、そこまでだった。