「上がって。何も無いし、何も出来ないけど」
陽ちゃんに連れられて訪れた十王家は、思っていたよりも圧倒されて、思っていたよりかは普通だった。いや、後者は勝手なイメージが先行していただけなのだけれども。
人の気配を感じない家の中。廊下を歩く彼女に付いて通されたリビングは、良くも悪くも生活感がなかった。一家団欒という言葉だけが抜けた辞書のように、その体は辛うじて保ちつつ、一堂に会することはなさそうな空気感。これだけで十王家の様子が垣間見えてしまうことに、わずかな恐怖を覚えた。
「……本当に、誰もいないのですね」
「うん。お姉ちゃんが帰ってくるまではお手伝いさんも来ないことになってる。わたしも、こんな時間に帰宅する予定じゃなかったからね」
やけに饒舌なのは、体調が悪いからだ。気丈に振る舞わなくてはいけない、それが十王陽。なのかな、と、思ってはみるものの。
「陽ちゃん、お部屋はどちらですか?」
「奥。案内するから、手」
帰宅中から上がり始めた彼女の熱は、今ではもう体温計で確認する必要のないくらい、分かりやすくなっていた。それでもまだ足取りはしっかりしていて、改めて彼女の体力を思い知る。とは言っても心配なことには変わりないので、その手を取って付いて行く。
開かれた彼女の自室は、シンプルだがそれでいて高級感溢れる家財で彩られていた。白を基調としたその部屋は、陽ちゃんが必要以上の拘りを持っていないことを教えてくれる。
ふと本棚が視界に入る。彼女らしい、様々な分野の本が並ぶその一角に、見覚えのあるグッズたちが並んでいた。会長のもの、雨夜先輩のもの、陽ちゃんが監修したと言っていた彼女のグッズ、それから__
「__わたし達のグッズ。飾ってくれているんですね」
「まぁ、貰い物だしね。嫌だった?」
「いえ……むしろ、嬉しいです」
SyngUp!のグッズ。わたしが渡したものの他にもいくつかが並んでいて、多分それは、まりちゃんやりんちゃんからの贈り物なのだろう。彼女のこういう、律儀なところが好きだ。
「意外です。陽ちゃん、こういうのを飾るイメージがなかったので」
「わたしもそう思う」
いけない、ギャップに悶えている場合じゃない。陽ちゃんをベッドに誘導し座らせる。まずはレッスン着から着替えてもらって、その間にわたしはお粥でも作って来よう。彼女が食べている間に制服を掛けて、それから__
「美鈴」
「はい?」
「キッチンにあるものは好きに使っていい、器具も食材も」
言うだけ言って、彼女はシャツに手を掛けた。待って、どの口が無防備だの無警戒だのを言ったんだ。わたしの目の前で、どうしてそんなことが。
大慌てで部屋を出るわたし。閉まった扉の奥で聞こえた笑い声は、わたしの気にしすぎなのだろうか。
「……だから言ったのに。警戒くらいしなよ」
ほんのり赤く染まった頬。マイペースな彼女のそんな表情が見られるのなら、風邪も悪くないのかもしれない。まぁ、思う通りに体が動かないことは想像以上のストレスだし、一刻も早く治したいところではあるけれど。
レッスン着から部屋着へと着替える。何となく、今の彼女に脱いだ衣類の片付けをさせるのは躊躇われたので、重たい体を引きずって洗面所に向かった。どうせこれも、数時間後に来るお手伝いさんが洗濯してくれるのだから、美鈴に頼むことでもない。
自室に戻ろうかと考えて、でも美鈴の姿を探しにリビングへ向かう。ダイニングキッチンで料理をしているその姿は、慣れない場所のはずなのに、違和感がなくて。
「……良いね。恋人が、自分のために料理をしてくれるの」
「陽ちゃん、来ていたなら言ってください」
「ごめん。で、リアクションは?」
「陽ちゃんがお望みなら、わたしはいくらでもお料理をしますよ」
「知ってる。ここで見ていてもいい?」
「せめて座ってくださいね」
キッチンカウンターに座って、正面で彼女を眺めていた。こうしているとまるで__
「新婚みたいだね」
「……っ」
「大丈夫?」
「わざとですよね……!?」
「もちろん」
味見としてお粥を口に含んだ美鈴を見届けて、わたしはわざとらしくボリュームを上げて言った。今のわたしは文字通り手持ち無沙汰、弄れるものならなんだって歓迎である。
「いいじゃん。わたしだって、たまにはメルヘンなことを言っても」
「度合いを考えて欲しいんですよ」
「好きな子が自宅のキッチンに立ってわたしのために料理してるんだよ?」
「改めて言葉にしないでくださいっ」
それに。こうして百面相をする美鈴を見られるのは、熱のせいに出来る今だけだ。だったら、普段はしまい込んで口にすることはない本心を吐露したっていいじゃないか。
「ねえ美鈴」
「なんですか」
「本当に、好きだよ。君のこと」
「……素直な陽ちゃん、心臓に悪い」
「好きでしょ、そういうわたしも」
「分かってやるからたちが悪いんです」
真っ赤な顔で、若干震えた手で、美鈴は鍋からお粥を掬った。これがお粥じゃなくて、もっと手の込んだ料理だったらな。でも、それはいくらでもチャンスがあるから、今じゃなくてもいいか。
「どうぞ。食べられますか?」
「うん、大丈夫」
「お薬とかはありますか?用意しておきますが……」
「市販の風邪薬ならそこの棚にあると思う。良くならなかったら明日、病院に行くよ」
差し出されたお粥を一口。美味しい。失敗することの少ない料理ではあるけれど、丁寧な味付けには最早安心すら感じる。出汁の匂い、卵の味、火傷しそうなくらいの温かさ。聞いてはいたけれど、上手なんだなぁ。
「美味しい。ありがとう、美鈴」
「いえ、それほどでも。陽ちゃんが望むならいつでも作ります、お弁当にでも」
「月村さんのお弁当も作ってるでしょ、いいよ。君の負担を増やしたいわけではないし」
時折、羨ましいなと思うことこそあったけれど。ただでさえ生徒会にユニットに、彼女と関わりのある日はずっと傍にいる。これ以上の負担にはなりたくない。
美鈴はわたしがお粥を食べている様子を、ずっとみていた。何がそんなに面白いのか分からないけれど、本当にずっと、空になるまで。
「……陽ちゃん、体調はどうですか?」
「ボーッとするくらいかな。特にいつもと変わりはないくらい」
「わたしに出来ることなら何でも言ってください」
甲斐甲斐しくわたしを部屋に連れ戻した美鈴は、不安そうに眉を下げながらそう言った。何でも、ね。今しがたわたしが何と言ったか、もう忘れてしまったのだろうか。
「……君は。もう警戒を解いてしまったのかな」
「え」
「言ったはずだよ。いつもと変わらないって。何でもなんて軽はずみに言ってはいけないと、教えてあげなきゃ駄目なのかな?」
「……っ」
わたしは。多分、可愛げがない。
お姉ちゃんから向けられる、姉妹を超えた感情はあんなに窮屈だったのに。
同じ湿度のものを、今度は美鈴にぶつけている。困らせているのに、困らせることなんて分かっていたのに。
なのに、彼女が。こんなにも無防備に、わたしの傍に来てくれるから。
「陽ちゃん……!」
わたしは自分のベッドに美鈴を組み敷いた。驚いた表情も、今のわたしには毒にしかならない。
「言ったよね。何度も、何度も。わたしの前では無防備で居るなと。その意味が分からないくらい、美鈴も鈍かったりする?」
「そんなことは……ない、と、思います」
「うん。そうしてくれないと困るかな」
本当は、このまま襲ってしまっても良かったのだけれど。風邪を移してはいけないから、美鈴の隣に寝転んだ。彼女はポカンと天井を仰いだまま。たまにはそうやって、気の抜けた表情でも浮かべているといいよ。
「お姉ちゃんが帰るまで居て。わたしは寝るけど」
「……はい」
「何かしてもいいよ?」
「しませんっ」
「残念」
からかわれたことに気がついた美鈴が、わざとらしくわたしに背を向ける。同じ布団に入って、でも背中を向け合ったままで。なんだか美鈴まで寝てしまいそうだ。
呼吸だけが聞こえてくるのが寂しくて、わたしは美鈴の背中に抱きついた。お腹に回した腕の中で、躊躇いがちに身を捩るのが分かる。
「陽ちゃん?」
返事はしないよ。だって、何かを言ったところで、赤くなった美鈴の表情は、今のわたしには見えないから。
続きはまた、わたしの体調が良くなった時にでも。これもまた、言ってやらないけれど。