インポテンツ提督がヤンデレ鎮守府を切り抜けるようです 作:赤目のカワズ
戦艦榛名が着任して、一ヶ月が経った。
厳しい冬も去りゆき、草木の萌芽は今か今かと花開くその時を窺っている。砲台に照りつく日の光は、早くも夏の気配を感じさせた。
額に滴り落ちる汗に、榛名はそれほど嫌悪感を抱いてはいない。着任して日の浅い彼女にとって、一定の努力や勤勉さは必要条件であって十分条件ではないのだ。
正しく粉骨砕身の四文字に準えられる精神性が、彼女の体を突き動かしていた。戦術確認、訓練、持ち回りの雑用、装備整備に至るまで、どれに対しても彼女はひたむきな姿勢を貫いた。
榛名はそれを当然の事だと思っていた。だからこそ、上官からの直々のお言葉に、幾ばくかの反感を抱かなかった訳でもない。
「なあ榛名。あんまり頑張り過ぎるのも体に毒だぞ」
それは榛名が廊下の掃除をしていた時だった。鎮守府の拡充にあたり、慢性的な人手不足こそ改善されてはいるものの、この手の雑用は猫の手を借りても足りないと言っていい程である。
見かけによらず積極的に雑用を買って出る鈴谷らのおかげで清潔さこそ維持されてはいるものの、やはり限界は存在する。そうした経緯から、一日も早く鎮守府に溶け込もうとする榛名にとって、この手の雑用は正に打ってつけの代物であった。
上官からの忠告をありがたく思いながらも、榛名は気丈に徹する。
「榛名は大丈夫です! ご心配なさらず! こうした雑用も、きっと何かの役に立ちますし!」
「だが、お前は先日演習ばかりか出撃も行った身だ。それに報告の後、夜遅くまで戦術データを読み返していたとも聞いている」
「それは……ですが、榛名はまだまだ未熟者ですし、頑張って金剛お姉様や他の皆に追いつけるよう努力しなければ!」
「確かにその通りだろう。お前はまだまだ未熟者で技量も乏しく、何より経験が足らない。金剛のように第一線を往くにはまだまだ時間がかかる、それは事実だ」
上官の言葉は鋭い刃となって、榛名を貫く。彼は正しく榛名の現状を理解していた。
男の言う通り、戦艦だからといってすぐに活躍出来るようになるものではない。練度が伴っていなければ無用の長物でしかなく、それを重々承知しているからこそ、榛名は今の自分を歯痒く感じ、日夜切磋琢磨に励んでいるのだ。
それを頭ごなしに否定されているように聞こえたものだから、榛名は知らず知らずの内に顔を俯けてしまっていた。せめてもの反駁も、胸元に突き刺さった痛みのせいか、搾り出すような声色で染まっている。
「そ、それが分かっていらっしゃるならどうして……。は、榛名は、少しでもお役に立てるようにと」
「誰もがすぐに活躍出来るようになった訳ではない。あの金剛だってそうだ。確かにお前にとって、他の連中との開きは大きなものに映るだろう。だがな、お前にはお前の歩き方がある。気負ってばかりでは何事も、な」
「…………」
「分かるな?」
「…………はい。榛名が間違ってました」
上官の言葉に逆らうほど、榛名も強情ではなかった。しかし、その場凌ぎで取り繕ったものだから、榛名の言葉は鈍く、とても重い。拭い切れない反感が榛名の心中を渦巻いていた。
理解は出来る。しかし、納得出来たかと言えば疑問符がつくだろう。胸の内に不満を抱え込んだ彼女の表情は自然と暗いものであったが、上官はそれに気付いた様子もない。
元々人の機微に疎いというのもあったが、それに相まって、押し寄せてくる気恥ずかしさが男から正常な観察眼を奪い取っていた。
いやに芝居がかった男の咳払いに、榛名は顔を上げる。
「あー、それで、だな。うむ。ちょっとばかし話は変わるんだが」
「……?」
「う、うむ。少し待ってくれ。いや、何だ。これが慣れた相手なら勝手も違ってくるんだが……」
突如として動揺を露にした上官に、榛名は首を傾げる。先ほどまでの佇まいは何処に行ってしまったのか、榛名の視線の先にいるのは挙動不審を繰り返す只の青年だ。
榛名の眼差しに堪えきれなくなった男は、意を決して彼女と再び向き合うと、緊張で波打つ声色に鞭を打ちながら、
「その、だな。今度の週末、商店街における軍事行進の件に関して、話し合いが行われるのは知ってるな?」
「は、はい。確かあちらに直接出向いてのものとか……」
「理解が早くて助かる。それで、急な話ではあるんだが、今回の会議にはお前にも出席してもらおうと考えていてな」
「は、榛名がですか?」
「う、うむ。俺もお前の努力を否定する気はないし、出来得る限りの手助けをしてやりたいというのも本心である。一般市民との交流は、お前の思考に更なる幅を加える事になるだろう」
それは、事前に種明かしされた手品そのものだった。使い古された方便でもあった。
事実、尤もらしい建前を吐き出すのに男は一生分の勇気を使い果たしたかのようにも見える。三下の手品師とて、こうも無様な真似は晒さないだろう。
本来艦娘が鎮守府の外に出るには各種申請が必要で、受理されないケースも多いのが実情だ。上官を経由する必要がある上、手間もかかるとなれば尚更である。
その点、上官の出先に同行するといった類の任務は艦娘にとって酷く都合が良かった。空いた時間がショッピングや娯楽施設に費やされる事になろうが、名目上は上官の護衛と地域の視察である。申請さえ通ってしまえば、艦娘の自由はかなりの範囲で保証されていた。
詰まる所、この手の任務は艦娘達のガス抜きを図る為のものと見ていい。黙認状態にあるといっても差し支えないだろう。精神状態の不安定さが肉体の疲弊に伍するとすれば、上層部の判断もあながち間違ってはいない。
しかし、だからと言って大っぴらに言葉にするには躊躇いが生じたのだろう、奥歯に物が挟まったかのような上官の口ぶりは、その節々に動揺が走っていて痛々しい。顔に感情が出やすい男であったから、突けば直ぐにでもボロを出すのは明白であった。
しかし、榛名はそれをあえて言及しようとはしなかった。勿論、戦艦榛名が上官の言う所の過剰な努力を捨て切ったからではない。上官の言葉に素直に従ったからでもない。
あえて言うならば、無用な心配を招いてしまった罪悪感と――――提督から送られた不器用な気遣いが、妙にくすぐったかったからである。
「提督は、お優しいのですね……」
「や、やさしいだと? どうも勘違いしているようだが、市民参加の場に赴くというのは重責が付き物で……」
誰だって、自由な時間が欲しくない訳ではない。その点においては榛名も一緒だ。欲望に蓋をして仕舞い込んでおく事を彼女は躊躇しなかったが、それにしても限度は存在する。行き過ぎた努力を優先し続ければ、それは最悪な形で榛名の前に現れるだろう。
ストレス、倦怠感、疲労――榛名自身は気丈に振る舞い続けるであろうけれども、艦隊への影響は必至だ。
提督の行動は、そうした榛名の現状を見かねてのものだったとも取れる。猛省すべき点ではあるけれども、提督はしっかり自分の事を見てくれていたのだと認識出来た気がして、彼女は何だかそれが歯痒くも嬉しかった。
「あー、は、榛名。何か誤解しているようだが、俺はただ、色々な経験を積ませてやろうと考えてだなっ」
自然と微笑みを浮かべる榛名に堪えかねて、男が声を荒げる。
意固地になって上官ぶる男の姿は、傍目から見れば滑稽そのものだろう。縺れこんだ声色に、揺れる視線。およそ上官として求められる理想像からは酷くかけ離れている。
しかして不思議な事に、榛名はそんな提督の様子を見て、どことなく子どもっぽくて愛おしいと、そんな感情を抱き始めていた。
だからこそ、榛、榛、h、
無能な男①
それは明くる日の午後の事だ。真っ赤な夕焼けが世界を燃やし尽くしている。
水平線越しの太陽が沈むにつれ、鎮守府もまた、その動きを緩やかなものにしようとしていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、往来を行き来する影法師も、心なしかその数を減らしているように思える。
その日は、榛名が始めて秘書艦を勤めた日でもあった。結果は上々。前日の彼女の緊張ぶりと来たら金剛が辟易する程であったから、特に大きな失敗もなく過ぎ去ったこの一日は、彼女に大きな自信を与える事になったと言える。
しかし、榛名の顔色は一様にして優れない。陰りを帯びた横顔に、どれ程の間夕暮れが注がれたであろうか。赤い夕日に照り映えた彼女の横顔は憂いを帯びていて、その視線もどこか虚ろだ。
遠征部隊の報告書に目を通していた上官の男も、この時ばかりは彼女の異常に感付いた。
「……榛名、どうかしたのか? どこか、悪い所でも?」
「っ、い、いえ! 榛名は大丈夫です! ご心配なく!」
「……そうか? それなら、いいんだが…………」
夕暮れを背に受けているものだから、男の影は間延びするようにして伸びている。
そればかりではない。窓先から差し込んだ斜陽は、結果的に執務室の陰影を際立たせるものである。陰に沈みこんだ男の姿に、榛名は思わず息を呑んだ。
「……榛名、どうかしたのか? どこか、悪い所でも?」
「っ、い、いえ! 榛名は大丈夫です! ご心配なく!」
「……そうか? それなら、いいんだが……」
榛名が目元に大きな隈を拵えたのは、何も秘書艦任務への緊張からだけではない。この数日、寝床に体を横たえる彼女の脳裏を駆け巡ったのは、提督の姿である。
秘書艦ともなれば、必然的に二人だけになる時間も多い。その時自分は何を話せばいいのか、榛名はどうしようもなく考え込んでいた。
何も鎮守府を包む情勢は緊急を要している訳ではないのだ。世間話の一つ二つに花咲かせる事は大いに想像できる。それは今日の天気や好きな料理だとか、ありきたりなもので全く構わなかった。榛名としても――それは無自覚の好意でもあったが――上官との信頼関係の構築は急務の一つである。
彼女が提督との会話を楽しみにしていたのは紛れもなく事実であり――だからこそ、その失意はあまりあるものだった。
悴んだ手足とてこうは無様を晒さなかっただろう。どうにも私的な話をしようとすると、話が纏まらない。彼女がようやく話をまとめ、心を決めた頃には、とっくの昔に陽は暮れようとしていた。
「…………あの、提督?」
「…………どうかしたのか?」
「…………今日は、その、とっても、良い天気でした。榛名は、とても嬉しいです。何事もなく、今日という日が終わって……」
「……………………そうだな。俺も、そう思う。願わくば、ずっとこんな日常が続いて欲しいものだ。ずっと、ずっと」
「は、はい! 榛名も! 榛名もそう思います!」
「……そうか。お前も、そ、そう思うか。そういえば、今日はとても良い天気だったな。俺はとても嬉しい。今日という日が、何事も無く終わって」
「…………提督?」
「………………どうか、したのか?」
――提督の様子がおかしい。その事に初めて榛名が気付いたのが、この夕暮れ時だ。
見れば、男の手が震えている。見れば、男の視線は何処か虚ろげだ。思い返せば、男はまるで痴呆老人の如く、何度も何度も、唐突に話を切り変えた。
提督が何時からおかしかったのか、榛名は覚えていない。もしかしたら、最初からおかしかったのかもしれない。
さりとて、彼女がその事実を提督へ告げる事に、躊躇いを感じたのも事実である。それは部下として見過ごす事の出来ない失態でもあった。真に提督の事を思いやるのであれば、彼女は直ぐにでも提督の体調を聞き尋ねるべきだったのだ。
榛名は臆病な忠誠心を飼い肥らせるに飽き足らず、仄かな恐怖心さえ抱きつつあった。何か、大きなものが、榛名が知らない何かが提督を包み込んでいるように思える。
それは付き合いの短い榛名には到底推し量れないものであり、それこそが榛名の心に躊躇を芽生えさせた魔物でもあった。
「……榛名、どうかしたのか? どこか、悪い所でも?」
榛名の思案はとうとう提督の困惑を増大させるに至った。再三に渡る男の問いかけに、榛名は腹を据えかねて、
「……提督? その、大丈夫、でしょうか?」
「…………ん? どういう意味だ?」
「その、お体が優れない様子に見えたので」
「む……そうか? 俺はいつも通りのつもりなんだが……そういえば、今日はとても良い天気だったな。俺はとても嬉しい。今日という日が、何事も無く終わって」
首を傾げる男の姿が、更に榛名の不安を煽りたてる。
杞憂に終わったのであれば、言うに越した事はない。全ては榛名の勘違いで蹴りがつく話だ。だが、無自覚の病が提督を蝕んでいるのであれば、その時榛名は――思案の海に沈みかけていた彼女を前に、男は何の気なしに訪ねた。
「そういえば、最近の調子はどうだ?」
「は、榛名ですか? ええ、それは勿論! 金剛お姉さまに追いつけるよう、日夜努力は惜しみません!」
「そうか。それは良い事だ。これからも慢心せず、己を磨いていってくれ」
「は、はい! 提督のご期待に沿えるよう、榛名は」
「ははは、だが、前も言ったように無理は禁物だぞ? お前は頑張りすぎるきらいがある」
次の瞬間上官の取った行動は、榛名の体を硬直させるには十分過ぎるものだった。突如として伸びた男の五指が、彼女に向かって押し寄せる。
思わずぎゅっと目を閉じた榛名は、次いで襲ってきた頭を撫でつけられる感触に違和感を覚えた――震える瞼がそっと開かれれば、優しげな微笑みを浮かべた提督の姿が、榛名の瞳に映りこむ。
耐えかねた彼女が疑問を口にさえしなければ、提督は何時までもそうしていたに違いない。
「あ、の、提督……?」
「む……す、すまん。何だか、無性に頭を撫でてやりたくなってな。気を悪くさせてしまったか?」
「い、いえ、そんな! その、突然でしたから……」
「頑張っている奴を見ると、どうにも手が勝手に動いてな……ほら、駆逐艦の連中はよく嬉しがるものだからな、つい癖になってしまった。忘れてくれ」
申し訳なさげに引っ込む提督の手を、榛名は名残惜しげに見つめる。
そこから起こった彼女の行動は正しく連鎖的発作だった。声高な自己主張を続ける胸の鼓動が耳に障る。震える口元が拙いながらも言葉を紡ぎ始めるのに要した勇気は、並大抵のものではない。
榛名は自分の頬が熱を帯びていくのを感じていた。私事に関して言えば酷く自己主張に乏しい女であったから、我を忘れていたと言っても過言でもない。
夕暮れの日差しが彼女の背中を押していたのも関係しているだろう、真っ赤な日差しを隠れ蓑に、榛名は、
「あ、あの、もし宜しければ……」
その時、彼女の背筋を強烈な寒気が襲った。熱を帯び始めていた彼女の意識が、冷や水をぶっかけられたかのように寝静まる。
それは榛名の慣れ親しんだ感覚でもあった。顔面に迫る悪意、海中を駆け巡る悪魔、空から押し寄せる悪寒――なべて殺気と称されるべき戦場の気配が、唐突なまでに彼女の肌に突き刺さる。
榛名の動揺は尋常なものではなかった。たちどころにして薄氷の上に立ち尽くす事になった彼女の背中を、冷や汗が滴り落ちる。恐怖に鷲掴みされた心臓は正常な脈拍を失い、壊れたポンプは異常な速度をもって血液を送り返す。
事ここに至れば、もはや殺気の出所は明白なものである。しかし、榛名はそれを頑なに認めようとはしなかった。
当然の道理だ。榛名にとって『鎮守府《ここ》』は、平和で、皆が仲良くて、辛い事もあるけど、楽しい職場で、皆が、笑って。
故に――故に! 初期艦叢雲が執務室の扉越しにこちらを窺っていたとしても、それは何かの間違いなのである。
「ひっ」
榛名にとって彼女は、信頼出来る先輩の立場にあった。
気の置けない間柄という訳ではなかったが、その草創期から提督と共に在ったというだけあって、彼女の言葉の数々には多くの金言が身についている。勿論その中には、仲間に対して敵愾心を抱けなどという見当違いな方針は、一つたりとて含まれてはいない。
叢雲の瞳が、榛名を射抜く。思いもよらぬ敵意を向けられた榛名は、それだけで立ちすくんでしまっていた。小さな悲鳴を上げた彼女を余所に叢雲がずかずかと執務室に入り込んできたものだから、怯えは更なる悪化を見せる。
榛名を襲った更なる驚きは、いつの間にか自身の背中が壁と接触を果たしていた事だ。知らず知らずの内に始まっていた彼女の後退はとうとう潰え、その間にも叢雲は榛名のほうに向かって迫ってくる。一歩二歩とあちらが確かな歩みを見せる中、榛名はもうどこにも逃げられない。隠れられない。対面せざるをえない。
果たして瞼を閉じて諦観溢れる逃走を果たした榛名であったが、想像していた恐怖は一向にやってこようとはしなかった。
「――――はいこれ。頼まれてた仕事」
「おお、いつもすまんな」
「ふ、ふん! べ、別にあんたの為にやったんじゃないんだから! 鎮守府の一員として、あたりまえの事をやっただけよ!」
「どうにも手が回らなくてな……色々と忙しかっただろうに、よくぞやってくれた」
「と、当然の事をしたまでよ。わ、私を誰だと思ってるのかしら?」
――震える瞼がそっと開かれれば、優しげな微笑みを浮かべた上官の姿と、気恥ずかしげな叢雲の姿が映りこむ。榛名を襲った殺意の足跡は、一つたりとて見当たらない。
「……榛名? 何だ何だ、そんな所で縮こまって」
「あ、いえ、榛名は、その」
「……どうかしたのか?」
「い、いえ、何でもありません。何でも……」
先の異変に全く気付いていない男の様子に、榛名は愕然とした。傍らの叢雲までもが不思議そうにこちらを覗きこんでいる。
奇妙な疎外感が榛名を蝕みつつあった。何か、榛名には全く分からないが、何か大きな枠組みから逸れて、たった一人だけ取り残されているような感覚が彼女を襲う。同調圧力に屈した榛名はとうとう先ほどの出来事全てが勘違いであったと決め込む事にした。
榛名の不幸は止まらない。
「そ、それで? 虱潰しに調べてみた訳だけど、ご希望に添えたかしら?」
「ああ……深海棲艦に関する論文のピックアップ……膨大な数の論文の中から、よくぞお目当てのものを探し出してくれた。こういう時はお前がいてくれて助かるよ。単純作業の精密さに関しちゃ、艦娘が一枚も二枚も上手だからな……ま、この手の話を余所ですると人権問題どうのに発展する訳だが」
「ふん、まあ当然よね? この私が直々に調べあげたんだから! 不備はない筈よ」
「ああ、ほんとに助かった。これからも宜しく頼むぞ」
「な、何よ……今日はいやに素直じゃない。ま、まあ頼まれれば? 私もしっかり仕事はやるけどね?」
「ああ、これからも宜しく頼むぞ。……ああ、そういえば、今日はとても良い天気だったな。俺はとても嬉しい。今日という日が、何事も無く終わって」
上官と叢雲の間には、二人だけの世界が構築されつつあった。それは榛名が欲して、とうとう手に入れる事が出来なかったものでもある。
男の口ぶりに淀みはない。彼の言葉には、いつの間にか生気が満ち満ちているように榛名には思えた。
これが叢雲の年季が成せる業であるとすれば、榛名が手に入れる事が出来ないのも無理はない。榛名が提督と共に過ごした時間は、叢雲のそれと比べれば圧倒的に短いのだ。
それこそ比べるのが馬鹿らしくなってくるほどの大きな壁がそこには存在した。叢雲がお茶を淹れ、榛名にもそれが配られる。一瞬輪の中に入れた気になっても、結局それは刹那にも満たないものだ。扉は再び閉められる。
榛名はそれを――当然の摂理として処理した。もっともっと頑張ればよいのだ。頑張れば、一生懸命頑張れば、榛名は報われる。提督と良好な関係を構築できる。榛名は盲目的にそう考えた。
「そういえば、あんた、昨日は大丈夫だったの?」
「…………昨日? …………どうかしたのか?」
「確か、そう、千歳が秘書艦だったわよね? 大丈夫だったの?」
「……特に問題はなかったが……何か、気になる事でも? あー、もしかして、アレか? 晩酌の量を減らせって話か? あいにく休肝日とは縁がなくてだな……」
「ちょ、また飲んだの!? あれだけ飲みすぎは禁句だって言ったのに! これだからあんたって奴は……!」
「ええい、言われんでも自分の限界は分かっとる。次の日の業務に支障を来すようなヘマ、する筈がないだろう。榛名、お前からも説明してやってくれ」
榛名に疎外感を与えたのが男であれば、瞬く間にそれを解消したのも、やはり男の言葉である。
榛名と提督の間に介在していた壁が霞みの如く掻き消えたかと思うと、榛名は胸の内から暖かい感情があふれ出るのを感じ取った。
弾けるように顔を上げた彼女の表情には喜色が滲んでいて――そこでまた、彼女は思考停止に至る。
「――――あ」
「榛名? ……どうかしたのか?」
提督の事を真に慮るのであれば。行うべき事を、彼女が心の内から望んでいたならば。榛名はただ一言言ってしまえば、それで良かった。
しかし今現在、一見正常であるかのように映りこむ提督の姿が、事態をより一層おかしくさせる。
どれだけ榛名が切にその異常性を訴えたとしても、今の提督には決して届かないだろう。良くて単なる冗談として処理され、悪くて機嫌を損ねるのが関の山だ。
榛名はそれが怖かった。もし、勘違いに過ぎないかもしれない疑念により提督を呆れさせてしまうかと思うと、途端に胸元を締め付けられるような痛みが彼女を襲った。それは榛名に誤った判断を取らせるには十分過ぎる疼痛であり、無自覚の病でもあった。
「――――何も」
「ん?」
「…………何も、ありませんでした。何も。ええ、この榛名が、保証します」
悪鬼の再来を見たのがその時である。
食い入るような叢雲の視線が榛名を射抜いたかと思うと、経験した事のない重圧が彼女に圧し掛かった。
薄汚れた嘘が、榛名を責め立てる。しかし、彼女自身にさえ制御出来ないちっぽけななにかが、榛名を蝕み始めていた。
「本当なの? それ」
「――――ええ、本当です」
「そう、そうなの。それならいいの。それなら――――でも、一応大事は取っておいた方がいいわよね?」
果たして踵を返した叢雲は提督の方に向き直る。彼女は優しげな笑みを浮かべると、男を休息へ誘った。その視界には、既に榛名の事など映ってない。
「ほら、今日の業務はもう終わりでしょ? 仮眠でも取ってきたらどうかしら? いい加減あんたも、自分の体をもっと養生させるべきよ。ほら――私が、ついていってあげるから」
「…………どうかしたのか? 叢雲」
「何が? ほら、さっさと仮眠室に行きましょ? 大丈夫、私が見守っててあげるから。ね? ね? ね? 大丈夫、ずっと、ずっと私がいてあげる。だって私は、私だけが、あんたの初期艦なんだから。当然でしょ?」
「いや、しかし、だな……俺は先に飯を食いたいし、風呂にも入りたい。別段眠気がある訳でもなし……」
「でも、いやきっと、今のあんたには睡眠が必要だわ」
「何故そこまで言い切れるんだ?」
「分かるわ。だって私――初期艦だもの」
その時叢雲の瞳が悲痛な色合いを見せたのを、榛名は感じ取った。
それがどういう事を意味しているのかは、榛名にはよく分からない。しかしはっきりしている事が一つだけあれば、叢雲の行動は真実心の内からくるものであるという事である。
彼女は真に上官の御身を心配している。それだけは、榛名から見ても確かであった。薄汚れた嘘に塗れた榛名にとって、その姿はとても眩しく思える。
「……えーい、分かった分かった。お前がそこまで言うんだ。仕方あるまい。榛名、すまんが事後処理を頼めるか? どうもウチの初期艦は、休養を今すぐにでも取らんと艦隊運営に支障をきたすとお考えらしい」
「は、はい。分かりました」
「そうと決まれば話は早いわ! ほら、さっさと立ちなさい! 頭がふらついてちゃ、いくさには勝てないんだから!」
「うーむ……ま、確かに体を休める事に異論はない。それじゃ、榛名。後は頼んだぞ」
叢雲と共に、提督が執務室を後にする。残されるのは、榛名ただ一人だ。
扉がゆっくりと閉められていく。上官と、女の姿が見えなくなっていく。
三人が完全に隔てられるその間際、消え入るようにか細い女の声が、榛名の耳元に届いた。
「――――――え?」
地平線の彼方で、太陽が、沈む。
千歳とかいう万年発情期艦娘