その老猫の心臓には、爆弾が埋め込まれていた。
半径1キロを爆発させるほどの威力とされている。猫の心臓が停止すると同時に、爆発する仕組み。
もちろん、摘出が検討された。だが、一定以上の硬度のものが触れた瞬間に爆発する仕組みと判明した時点で頓挫した。
猫の心臓から摘出するためには、刃物相応の硬度が必要。それが触れた時点で、爆発してしまう。
ならば、猫を箱の中に閉じ込めるか。それを可能にするだけの設備は、短期では用意できなかった。
結果として選ばれた手段は、半径1キロが吹き飛んでも問題ない荒野に猫を連れて行くこと。逃げないように監視し、いざという時に拘束する人員とともに。
生贄として立候補したのは、とある老婆だった。彼女は猫を抱きかかえる。猫は軽く身をよじっていたが、老婆はギュッと抱いて抑えた。古い軽自動車に、猫を連れ込む。
ハンドルの後ろには、色あせた写真が立てかけられている。若い男女の警官が、並んで敬礼をしているもの。
それをながめながら、老婆は猫を助手席へと座らせる。猫は何度か窓を引っかいていた。
「独身女の、最後の花道さ。どうか、付き合っておくれ」
それだけ言い残し、老婆は前を向いた。鍵を差し込んで、サイドブレーキを下ろす。アクセルを踏み込んで、発車していった。
老猫は、その頃には座り込んでいた。エンジン音とともに、静かに運ばれていく。助手席の中で、尻尾と頭を触れさせるように丸くなりながら。
人気のない田舎道から、だんだん道なき道を進んでいく。日が高くなって、最後には暗くなるまで。
やがて、荒野の真ん中にたどり着く。周囲には誰ひとりとしていない。どこまでも岩肌まみれの、ゴツゴツした風景が広がっていた。わずかに生えている草が、生を感じさせるという程度。
老婆は座席から降りて、トランクへと向かう。吹き抜ける風に、手をこすり合わせて震えながら。
手に息を吐いてから、缶詰を上から順にいくつか取り出す。そして、また運転席へと戻っていった。
「ここが、あたしらの終の棲家さ。悪いね、こんな狭い場所で」
聞いているのかいないのか、猫はただ尻尾を揺らすだけ。それでも、老婆は微笑んでいた。
缶詰に手を伸ばし、震える手でプルタブに指をかける。軽くプルタブが持ち上がって、また落ちる。老婆は何度も何度も指をすべらせながら繰り返す。10度目になって、ようやく開けることに成功した。
わずかに微笑みながら、缶詰を猫に向けて差し出す。
「ほら、食べな。尽きる前には、終わると良いねえ。飢え死には、苦しいって聞くもんねえ」
猫は回り込むように、ゆっくりと近づく。何度か缶を叩いてから、舌を伸ばす。そして、一口。何度か噛んで、小さな鳴き声を漏らす。
それからは、勢いよく缶詰を貪っていた。
老婆はただ、笑顔で見守り続けるだけ。ときおり頷く程度だった。
食べ終えた猫に、そっと手を伸ばす。前足を叩きつけられ、引っ込めた。手の甲には、わずかに赤い線が入っていた。
眉を困らせながら、老婆は猫へと向き合う。
「ごめんねえ。慣れてない相手じゃ、嫌だよねえ。あたしも、知らない人に遠慮なく触られるのはゴメンだよ」
猫は軽く鳴き声を上げて、また丸くなる。うとうとしている様子が、老婆にも見て取れた。
「いっぱい揺れて、疲れたよねえ。今日は、おやすみ」
猫が目を閉じると、老婆は自分の缶詰を開けた。先程と同様に、何度も開けそこねて。
一口、また一口。噛みしめるように、味わって。猫とは対照的に、食べ終えるまでは長かった。
「爆弾、ね……。因果なものだよ……」
それだけを言い残して、背もたれにもたれかかる老婆。目を閉じてすぐ、寝息を立てていった。
次の日。朝も同様に老婆が猫に開けた缶詰を差し出す。今回は、最初からためらわずに食べる猫。
その姿を、老婆は運転席から見守っていた。手を伸ばそうとして、毛を逆立てられる。ざらつく感触が残るだけ。すぐに、老婆は手を引っ込めていった。
「一度くらい、あんたを撫でられたら良いけどねえ。そうしたら、もう悔いは残らないさ」
そうこぼす老婆を、猫は眺める。近寄りもせず、さりとて遠ざかりもせず。
老婆はただ、自分の缶詰を食べる。それに鼻を鳴らしながら近寄った猫に、半分ほど与えて。
「人間用は、体には悪いんだろうけどね。最後の晩餐くらい、好きなものを食べたいよねえ」
食べる猫は、聞いているのかいないのか。少しだけ、尻尾を揺らしていた。
昼もまた、老婆は缶詰を猫に渡す。猫は老婆に背を向けて、すぐに食べる。
老婆が背中に手を伸ばし、触れる。少しだけ乾いた肌を撫でだすと、猫は振り向いて手をはたいた。
「慣れて、くれているんだろうかねえ。そうだと、いいねえ」
老婆はまた、自分の缶詰を開けていく。しわがれた手で、ゆっくりと。今度は、最初から猫の分を取り分けていた。
夜もまた、老婆は缶詰を開ける。そっと猫に差し出しても、食べようとしない。ただ、ぼーっとした様子でながめていた。
「どうしたんだい? お腹いっぱいかい?」
猫はひと鳴きだけして、丸くなる。老婆が手を伸ばして撫でても、抵抗すらしない。沈み込むような感触が返ってくるだけ。
それどころか、抱きかかえても動かないままだった。ほんのわずかに、身じろぎをする程度。
ほんのりした暖かさだけが、老婆に伝わる。どこか軽い感触とともに。
その姿に、老婆は一度目を閉じた。ゆっくりと深呼吸をして、また開く。
「そうかい。あたしが選ばれた時点で、ギリギリだったんだねえ」
抱き上げた猫をゆっくりとゆすりながら、老婆は猫を優しい手つきで撫でる。毛並みに沿って、そっと。それでも、猫は抵抗しない。身じろぎすらも。
「嫌だったら、ごめんねえ」
その言葉に、軽く鳴き声を上げる猫。どこを見ているのかも、分からない。老婆は、口元を緩めた。
「あたしは、あんたに安らかな最後を与えたかった。できたの、かねえ」
猫は弱々しく、老婆の手に触れる。肉球の柔らかさが、手の甲に伝わった。それは、そっと触れる手つきのよう。老婆は少し、目を細めた。
開けられたままの缶詰に、老婆は目をやる。少しだけ、猫を抱える手が揺れた。猫は鳴き声もあげずに、毛を逆立てた。
老婆は猫を撫で続けながら、立てかけられた写真に目をやる。色あせた、若い男と女の警官が並んだ写真に。
「ごめんねえ。あたしはずっと、迷惑をかけてばかりさ。あいつも、あたしのせいで……」
猫は目を閉じて、ゆっくりと力を抜く。老婆の腕に、沈み込むように。それを見た老婆は、また微笑んだ。
「幸せそうな顔だねえ。あたしはきっと――」
最後まで言い切る前に、何もかもが真っ白に染まっていった。