……もしかすると、ますださんの二次創作と、どこかで繋がっているのかもしれません。
作品の中に何を見つけるかは、あなた次第。
どうぞ自由に考察してください。
あなたが思ったことは、決して間違いではございません。
●プロローグ
夏休みの終わり頃に、久しぶりに幼馴染から連絡があった。
少し会って話でもしないかと言われ、特に予定もなかったし、まぁいいかと日時を決めて会うことにした。
逆三角形屋根の国際展示場近くにあるカフェ、彼女は先に着いていて、テーブル席に座りアイスティーを飲んでいた。
向かい側に座り、僕はアイスコーヒーを注文する。
彼女の多愛ない話を聞きながら、僕は自分でも気づかないほど機械的に相槌を返していた。
けれど、その声はどこか薄い膜を隔てて届くようで、言葉の輪郭だけが遅れて耳に触れた。
──彼女とは、幼稚園から小学校低学年頃まではよく遊んでいた。住んでいた場所が近かったから、町内会主催の小さな公園で開催される夏祭り、こんな夏の終わりの夜に百円玉の沢山入った小銭入れを首から下げて、彼女と手を繋いで無邪気に走り回った。
夜風が汗を冷まして、金魚すくいの水の匂いと焼きそばの煙が混ざっていた。
(夜店のくじで色合いの似た鈴を当てて、「お揃いだね」って、どうでもいいことで笑いあったっけ……)
思い出の中の彼女は、いつも頬を緩めていた。
──けれど、記憶を辿れば、あの頃の彼女はよく転んで泣いていたし、僕はそのたびに手を引いて立たせていた気がする。
泣き顔と笑い顔の境目が曖昧で、感情がそのまま表情に溢れ出るような子だった。
その全部が、今の彼女の笑顔とはどこか違って見えた。
目の前の彼女も笑っているはずなのに、その笑顔の奥だけが、ほんの少し沈んで見える。
説明できない違和感だけが、記憶の底を叩いていた。
(……どうしてだろう?)
笑っているのに、目だけが笑っていないように見える? いや、違う。僕がそう“感じてしまった”だけかもしれない。
けれど、その違和感は、胸の奥の柔らかい場所に
細い氷片が触れたような冷たさを残したまま居座っていた。
彼女がアイスティーにさしていたストローを指先で持つと、紅茶がなくなった氷がずれて、ガラスの底をかすめるような乾いた音が響いた。
その一音だけが、妙に耳に残った。
不意に静寂が怖くなって、少しだけ俯いた彼女に注目する。
「──私、近い内に死ぬかもしれない」
ストローが、カップの底に当たって止まった。
(は? 何を急に?)
僕が何かを聞き返す前に、彼女は何事もなかったかのように先ほどまでの会話に戻った。
(何か聞き間違えたのかもしれない)
そう思いたくて、僕は先ほどより熱心に彼女との会話に集中した。
●1
「そろそろ帰る?」
いつの間にか日も傾いて、道行く人々の表情も暑さから解放されて多少穏やかに見える。
「そうだね。そうしようか」
追加で注文した分のお会計も済ませて店を出る。
冷房のきいた店内から一歩外へ出た瞬間、
まとわりつくような熱気が肌に張りついた。
「まだ暑いね」
彼女が少し困ったように笑う。
「そうだね。駅まで行く? 一緒に行こうか」
「うん!」
横に並んで歩き出す。先ほどまでの会話を思い出しつつ、そういえばと思い出した内容を付け足して。
「あ、それでその時の鈴がね」
鞄から彼女が小さなポーチを取り出すと、取り出した勢いで鈴が外れて歩いてきた方へ音を立てて転がっていく。
「あっ!!」
彼女は反射的に一歩踏み出した。
転がる鈴の音は軽く、夏のアスファルトを跳ねるみたいに遠ざかっていく。
周囲の音が、まるで水の底に沈んだみたいに鈍くなった。
蝉の声も、人の話し声も、車の走行音さえも。
鈴の音だけが、周囲の景色を押しのけるように際立って響いた。
ほんの数秒の出来事なのに、時間が伸びたように感じた。
鈴が跳ねるたび、言葉にならない波が、内側の静けさをひとつ乱した。
嫌な予感というより、もっと原始的な“拒絶”に近い感覚だった。
内側のどこかが、きしむように震えた。
『ここから先は戻れない』と、誰かが耳元で囁いたような気がした。
理由なんてない。ただ、空気の流れが、一瞬だけ別の方向へねじれた気がした。
夏の夕方の匂いが、急に色褪せた。
あれを追いかけてはいけない、と身体が叫んでいた。
「危ない!」
僕が声を出した時にはもう遅かった。
耳を裂くようなエンジン音が、背後から突き刺さる。
振り向いた瞬間、視界を塗りつぶすような白い塊が、猛烈な速度で輪郭を削り取っていった。
速すぎて、それが何であるかを認識する暇すらない。
ただ、絶対的な暴力としての「重み」が、すぐそこまで迫っていた。
彼女が僕を見た。
ほんの一瞬だった。
彼女の口が、何かを言いかけて、結局声にならなかった。
その形だけが、あとで何度も思い出された。
次の瞬間、強い衝撃が胸にぶつかる。
「っ──!」
押された。
突き飛ばされた。
世界が横にずれる。
僕の体が歩道に転がり、背中を強く打った。
息が詰まり、音が消えた。
空気を押し潰すような重たい衝撃音が響いた。
金属が潰れる音。
何かが壊れる音。
そして、鈴の音が一度だけ、ころんと鳴った。
視界の先で、彼女の体が宙に浮いて、落ちた。
名前を呼ぼうとして、声が出なかった。
喉が凍りついたみたいに動かない。
彼女は動かない。
夏の夕方の光の中で、
さっきまで笑っていた幼馴染が、
まるで最初からそこにいなかったみたいに、静かだった。
転がってきた鈴が、僕の指先に触れて止まる。
ちりん、と小さく鳴ったその音が、この日を終わらせる合図みたいに聞こえた。
●2
警察署内は、冷房が効きすぎていて寒かった。
冷たいパイプ椅子に座らされたまま、何度も同じ質問をされる。
「その時、あなたはどこにいましたか」
「彼女が道路に出た理由はわかりますか」
「車が来ているのは見えましたか」
答えるたびに、声が自分のものじゃなくなる気がした。
喉の奥で言葉が乾いて、うまく出てこない。
「……わかりません」
「覚えていません」
「気づいた時には、もう……」
最後まで上手く言えた気がしなかった。
刑事は何も言わず、メモを取り続ける。
紙を擦る微かな音だけが、静まり返った室内に妙に響いた。
⸻
葬式は、夏の終わりの湿った空気の中で行われた。
黒い服の人たち。白い花。
棺の中の、静かな彼女。
名前を呼んでも、返事はない。
それが現実だと、頭ではわかっているのに、身体が拒否していた。
彼女のお母さんに久しぶりに会った。
泣き腫らした目で僕を見て、何か言いかけては唇を噛みしめる。
隣で彼女のお父さんが、そっと肩に手を置いた。
その仕草が「言わなくていい」と制するようにも、「言ってはいけない」と諭すようにも見えた。
(僕を庇って彼女は死んだ。
謝るべきなのか、お礼を言うべきなのか──)
どちらも正解だとは思えなかった。
だって彼女は死んで、僕は生きているんだから。
自分が死ねば良かったなんて、思いたくもないのに……思ってしまう自分がいた。
胸の内側がじわりと熱を帯び、息が詰まりそうになった。
自分が死ねば良かったなんて思いたくもないのに……思っちゃいけないのに……。
そんなことを考えたら、彼女が本当に怒る気がしたのに。
焼香の順番が来て、手を合わせた瞬間、指先が震えた。
(……普通に、話してたのに)
その『日常』が、もうどこにもない。
外の時間だけが、僕を置き去りにして淡々と流れていく。
それが、怖かった。
⸻
自室に戻ったのは、夜だった。
鞄を床に置き、ベッドに座る。
部屋は、何一つ変わっていない。
彼女がいなくなったこと以外は。
机の上には、昨日までと同じように教科書が積まれている。
カーテンの揺れ方も、壁に貼ったポスターの折れ目も、何も変わらない。
なのに、世界の重さだけが違っていた。
呼吸をするたび、空洞がひやりと広がる。
その空洞は、息を吸うたびに形を変えた。
悲しみとも違う、恐怖とも違う、名前のつかない感情だった。
ただ一つだけ確かなのは、もう二度と元には戻らないということだけだった。
その深い隙間に、今日の出来事がゆっくり沈んでいく。
そのまま横になり、天井を見上げる。
目を閉じた瞬間、意識が落ちた。
目を開けた瞬間、最初に思ったのは──あぁ、なんか夢を見ていたな……ということだった。
(──あまりにも重たくて、嫌な夢だ)
見慣れた天井が視界に入る。
壁紙の小さなひびも、カーテンの隙間から差し込む朝の光も、全部知っている。
自分の部屋だ。
なのに、心の奥底に張りつめていた静かな水面に、
細い波紋がひとつ広がった。
胸の内側に、言葉にならない重さが沈んでいた。
(……変な夢)
体を起こした、その時。
スマホが震えた。
通知。
名前を見た瞬間、心臓が一拍遅れて跳ねる。
幼馴染の名前。
指先が冷たくなる。
触れたくないのに、画面を開いてしまう。
久しぶり。
少し会って話でもしない?
夏休みももう終わりだし。
同じ文面だった。
彼女が死んだ日の朝、見たものと、一字一句同じ。
背中を一筋の冷たい汗が伝い落ちた。
(……誰かの冗談? まさか)
そう思おうとした。
でも、日付を見る。
『今日は』夏休みの終わり。
曜日も、時間も、全部同じ。
足元の地面が不意に消え去ったような錯覚に襲われた。
●3
(──また、同じカフェだ)
逆三角形屋根の国際展示場近くにあるカフェ、彼女は先に着いていて、テーブル席に座りアイスティーを飲んでいる。
全部、知っている景色だった。
彼女は笑っている。
あの日と同じように、楽しそうに、どうでもいい話をしている。
ストローを指で動かす。
氷が鳴る。
その音に、内側の空気が一瞬きゅっと縮むような感覚が走った。
「──私、近い内に死ぬかもしれない」
言った。
やっぱり言った。
同じタイミングで、同じ声で、同じ表情で。
目の前の景色が、あの日の記憶に薄く重ね塗りされたように揺らいだ。
僕は何も言えなかった。
喉が動かない。
言葉が出てこない。
言葉の届かない冷たさが、内側の深い場所にじわりと染み込んだ。
昨日の『死』が、薄い膜に包まれて、記憶の淵へ沈んでいく。
僕だけが、その続きを覚えたまま取り残されている気がした。
夢の続きに迷い込んだような感覚だった。
目の前の景色は確かに現実なのに、足元だけがふわふわしている。
忘れたくないのに、現実のほうが、僕の記憶を静かに塗り替えていくようで怖かった。
まるで、昨日の出来事が『なかったこと』にされていく──僕の記憶だけが、世界から切り離されているような……。
そんな感覚が、背中の奥を細くなぞっていった。
彼女の言葉の意味じゃない。
声の調子でもない。
ただ、あまりにも予定通りすぎた。
彼女が死ぬ未来を知っているのは、今は僕だけだ。
その事実が、胸の奥で奇妙に熱を持っていた。
(違う。今回は違うはずだ)
あの日と同じ景色でも、同じ時間でも、同じ結末になるとは限らない。
少しでも、ほんの数分でもずらせばいい。
それだけで、未来は変わる。
そう思わなければ、ここにいる理由がなかった。
(……違う)
理由があったから来たんじゃない。
救われたかっただけだ。
何度も彼女が死ぬ光景を見て、
それでも自分だけが生き残る理由を、
後付けで探しているだけじゃないのか。
それを認めてしまったら、
次に進めなくなる気がした。
彼女はストローを指で弾いて、氷を鳴らす。
その仕草まで同じで、内側の静けさがひとつ乱れた。
空気そのものが、僕の判断を促すように張りつめていた。
──本当に、やり直すつもりか?
そんな問いを突きつけられている気がした。
彼女は何事もなかったように話を続ける。
それが一番怖かった。
⸻
「そろそろ帰る?」
同じだ。
夕方の光も、風の温度も。
(そうだ! 時間をずらそう……)
(事故は、いつも『帰り道』で起きている。
なら、帰らなければいい。
同じ時間、同じ場所にいなければ、世界は別の結果を選ぶはずだ)
彼女がセルフサービスのお冷を持って席に戻るのを見て、僕は自分の考えが正しいと確信しかけていた。
ほんの少しでも予定が狂えば、未来もきっと一緒にずれる。
そうやって、これまでだって何度も危機は避けてきたじゃないか、と。
頭の中で、必死に考える。
「ごめん、話したい内容思い出した。もう少し店にいよう」
一瞬、彼女は目を瞬いた。
それから笑った。
「そっか。じゃあ、もう少し一緒にいよ」
その笑顔が、胸に刺さった。
時間は、確かにずれた。
──でも。
店を出た瞬間、嫌な予感が背中を撫でた。
彼女がポーチを取り出す。
鈴が落ちる。
音を立てて転がっていく。
昨日と違う方向へ。
彼女が追いかける前に、僕が手を伸ばした。
「待っ──」
その瞬間、エンジン音が爆発した。
逃げ道を塞ぐように、白い塊が空間を押し潰して迫った。
今度は、彼女が突き飛ばされる番だった。
世界が歪む。
誰かの叫び声が、どこか遠い。
鈴が鳴った。
彼女の体が宙に浮いて、落ちる。
──音が、止まった。
●4
また、あの日と変わらない席に、彼女が静かに座っていた。
テーブル席に座りアイスティーを飲んでいる。
彼女は笑っている。
楽しげに、取り留めのない話を続けている。
ストローを指で動かす。
氷が鳴る。
「──私、近い内に死ぬかも」
「出よう」
「え?」
「母さんが久しぶりに会いたがっていたから、これから僕の家に行こう」
「う、うん! わかった」
彼女は微笑む。
お葬式の時に見た、遺影を思い出してしまって口を強く噤んだ。
店を出て、あの日とは違う、住宅街の細い路地を選んで歩く。
車が通れない道。ここなら大丈夫なはずだ。その選択は衝動ではなく、この世界に残された“選択肢”を、一つずつ潰していく作業だった。
(……大丈夫だ。これは『たまたま』なんだ)
彼女を奪った場所、通った時間、聞こえてきた音。それらをすべて避けて通りさえすれば、運命の歯車を狂わせられるはずだと、自分に言い聞かせた。
(たまたまなら、きっと避けられる)
そう信じたかった。
彼女は、いつも通りに歩いている。
彼女がいなくなる未来を想像すると、景色の色味が、ひとつ薄くなったように見えた。
僕は、彼女の歩幅に合わせながら、周囲を何度も見回した。
電柱の影、家の門扉、風の流れ。
どこかに『死』の気配が潜んでいないか、探すように。
彼女の背中は、何も知らないまま前に進んでいく。
その無防備さが、ひどく眩しくて、同時に怖かった。
少しだけ前を歩く背中。
何度も夢で見たはずの、その距離。
ふと、彼女が振り返った。
「どうしたの?」
その一言で、喉が詰まった。
助けようとしていることを悟られた気がして。
「……なんでもない」
本当は、言いたかった。
君は死ぬ。
だから、ここに来た。
そんなこと、言えるはずもなかった。
実際、辺りは驚くほど静かだった。
風の流れが途切れ、洗濯物の影だけが地面に張りついたまま静止していた。
まるで、この道だけ別の速度で流れているようだった。
静けさが、逆に不吉だった。
遠くの車の音さえ、どこか別の世界の出来事みたいに聞こえた。
この道だけ、空気が重たく沈殿していくようだった。
洗濯物の揺れる音と、どこかの家のテレビの音。
ここには、事故を起こすための“勢い”が足りない。
(ほら、ちゃんと考えれば避けられる)
僕は、ようやく肩の力を抜いた。
──だが、不自然な突風が吹いた。
見上げた視界の外側で、建設中のビルの上層が、不自然に揺らいだ。固定が外れた鉄骨が垂直に自由落下してくるのが見えた。
「危な──」
言葉が届くより早く、彼女のいた場所が轟音と共に土煙に包まれた。
⸻
気がつくと、僕はまたカフェの椅子に座っていた。
「──私、近い内にし」
「行こう」
彼女の言葉が終わる前に、僕は彼女の手を引いて店を出た。
人混みの中なら、突発的な事故は起きにくい。僕はそう信じて、賑やかな商店街へ向かった。
だが、向かいから歩いてきた男が、何の脈絡もなく、懐から包丁を取り出した。
男は僕には目もくれず、吸い込まれるように彼女の胸元へ刃を突き立てた。
血の赤が、夏の午後の光にゆっくりと焼き付いていくように見えた。
●5
逆三角形屋根の国際展示場近くにあるカフェ、彼女は先に着いていて、テーブル席に座りアイスティーを飲んでいる。
彼女は笑っている。
楽しげに、取り留めのない話を続けている。
ストローを指で動かす。
氷が鳴る。
「──私」
「行こう」
彼女の言葉が終わる前に、僕は彼女の手を引いて店を出た。
また最初からやり直すしかない、と自分に言い聞かせた。
地下道。ここなら鉄骨も降ってこないし、背後にも気を配れる。
不意に、背後から金属が激しく擦れるような異音が響いた。
振り返る。地下道の点検用通路の扉が、内側からの異常な圧力で弾け飛んでいた。
噴き出したのは、高圧の蒸気か、あるいは破裂した配管からの熱水か。
逃げる間もなく、それは彼女だけを飲み込むように膨張した。
⸻
やり直し。
公園。
静かな広場で、今度こそ二人きりで話をしようとした。
だが、隣のマンションの屋上から、見知らぬ誰かが飛び降りてきた。
その落下地点に、彼女がいた。
空気を押し潰すような重たい衝撃音が響いた。
巻き添えという名の、確実な処刑。
⸻
やり直し、やり直し、やり直し。
どれもが、原因も意味も持たないまま、ただ結果だけを残していった。
──それでも、彼女の声だけは、毎回最初と同じ温度で耳に残った。
誰かが彼女を殺そうとしたわけじゃない。
ただ、世界がそういう順番を選んだだけだった。
何度目からか、やり直す前に次の手を考えるようになった。
驚きはなくなり、恐怖も薄れ、ただ確認だけが残った。
(今回は上から落ちる可能性がある)
(今回は人の流れが危険だ)
(今回は、彼女が立ち止まる場所が悪い)
僕は、彼女の死を避けようとしているはずなのに、
気がつくと、彼女の死に条件を付けているだけだった。
(──また、同じ死だ)
(──また、同じ朝……)
──何回目かで、数えるのをやめた。
彼女が死ぬ瞬間の顔も、音も、匂いも、もう区別がつかない。
僕の内側では、数えきれない死がひとつの塊になり、重たい石のように鈍く転がり続けていた。
それでも朝だけは、決まった形で僕の前に現れ続けた。
彼女に向かって、何かを収束させるみたいに。
晴天の空から、ピンポイントで雷が彼女を撃ち抜く。
回数を重ねるたびに、恐怖の質が変わっていった。
最初は、彼女が死ぬのが怖かった。
次は、失敗する自分が怖かった。
そしていつの間にか、怖いものがわからなくなった。
死に方は、雑になっていく。
……気づけば、そうなっていた。
死ぬ瞬間だけは、何度繰り返しても剥き出しのまま、僕の記憶に焼き付いて離れなかった。
それ以外の記憶は、どんどん薄れていくのに。
彼女の笑顔も、声も、歩き方も、輪郭が曖昧になっていくのに。
死ぬ瞬間だけは、何度繰り返しても色褪せなかった。
彼女の死は、もはや起きたことではなく、
この世界の根底に組み込まれた前提そのものになっていた。
そのたびに、僕の中の何かが削れていった。
悲しむ余裕も、恐れる余裕も、もう残っていなかった。
ただ、次の死を待つだけの存在になっていく自分がいた。
──理由も、前触れもなくなる。
(……あぁ、そうか)
世界は、方法を選んでいない。
彼女が死ぬという結果だけが、最初から決まっている。
避けるほど、遠ざけるほど、
確率は不自然なほど彼女に収束していく。
助けようとする僕の意思さえ、
この世界では『あってはいけないもの』なのかもしれなかった。
死因は、もはや何でもよかったのだ。
『彼女が死ぬ』という結果を導き出すために、僕が息をするたび、彼女の死が一歩ずつ近づいてくる気がした。
それは事故ではなく、
世界そのものがその結末へ向かって静かに舵を切った結果のように思えた。
●6
何度目かの、国際展示場近くのカフェ。
目の前で、彼女がストローを指先で弄ぶ。
氷が、ガラスの底をかすめるようにカラリと澄んだ音を立てる。
僕は、震える手でアイスコーヒーを口に含んだ。
味がしない。
ただ、冷たさだけが体の奥へすっと沈んでいく。
「──私、近い内に死ぬかもしれない」
彼女は、あの日と変わらない静かな表情でそう告げた。
あざ笑うような蝉時雨が、店の中にまで響いている。
僕は、彼女の瞳の奥を見た。
そこにいるのは、僕の知っている幼馴染なのか。
それとも、世界に殺される運命を、どこかで受け入れてしまった……そんな『捧げ物』なのだろうか。
(……次は、どこで死ぬつもり?)
口の奥までせり上がった言葉を、必死に押し戻した。
その考えが浮かんだ瞬間、自分で自分が気持ち悪くなった。
いつから僕は、彼女の死を前提に話を聞くようになったんだ。
救うためだ。
そう言い聞かせてきた。
でも、本当は。
彼女が死なない世界に辿り着けない自分を、否定したくなかっただけじゃないのか。
彼女の「生きたい」という曖昧な言葉に縋って、
僕は自分が生き残る理由を探していただけじゃないのか……。
ふと、考えた。
もし、次に死ぬのが僕だったら。
車に跳ねられる感覚。
骨が折れる音。
息が潰れる感触。
想像したはずなのに、
そこには不思議と恐怖がなかった。
代わりに浮かんだのは、
「あぁ、やっと終わる」
そんな言葉が浮かんだ自分に、思わず息が止まった。
拍子抜けするほど穏やかな感情だった。
──その穏やかさが、何よりも恐ろしかった。
死を想像しても心が動かない自分が、まるで別人のようだった。
彼女を救いたいと言いながら、
本当は『救えない自分』を許してほしかっただけじゃないのか。
そんな考えが頭をよぎり、吐き気がした。
……そのことが、何よりも怖かった。
僕は、もう自分が何を望んでいるのかさえわからなかった。
彼女を救いたいのか。
それとも、ただ正しい選択を探しているだけなのか。
周囲の音が、まるで深い水の底へ沈んでいくように鈍くなった。
蝉の声も、店内のざわめきも、厚いガラス越しに聞いているように遠ざかっていった。
「ごめん、久しぶりに会えたけど。今日はもう帰るよ」
僕は彼女が何かを言いかけるよりも前に、お会計を済ませて店を出る。
──家に帰って何も考えないようにしていたら、家の電話が鳴って母が出た。
いつもの他愛のない話をするような調子で電話に出た母の口調が、段々と平坦に静かなものへ変わっていく。
彼女が死んだ。
自殺だった。
──
逆三角形屋根の国際展示場近くにあるカフェ、彼女は先に着いていて、テーブル席に座りアイスティーを飲んでいる。
楽しそうに、どうでもいい話をしている。
ストローを指で動かす。
氷が鳴る。
「待って」
彼女が何かを言う前に、僕は片手のひらを見せて言葉を遮った。
「どうしてそう思うの?」
「どうしてって──なんとなく」
特別茶化している様子もなく真剣な表情で。
「……死にたいの?」
「……よく、わからない……でも……死ぬよりは、生きていたいな」
「……そうか」
重たい沈黙だけが、二人の間に降り積もっていった。
●7
自分の部屋で、彼女からの連絡を受けて、
僕は、胸の奥に溜まっていた重たい空気を、ゆっくり押し出すように息を吐いた。
行かなければいい。
そう思えば、それで済む話だった。
連絡を無視して、
今日という日をなかったことにして、
普通の朝を続ければいい。
そうすれば、
彼女は生き延びる。
そうでなければ困るのは、結局のところ僕自身だった。
その言葉が、どれほど身勝手かはわかっていた。
でも、もう綺麗な言葉なんて残っていなかった。
彼女の死を何度も見て、心の形が歪んでしまったのだ。
そして僕も、ずっと生き続ける。
──その未来を想像して、
胸の深いところの温度がすっと下がり、ひどく苦しくなった。
連絡が来る前から、どこかでわかっていた。
明日は、彼女に会えない日だということを。
安心と後悔と、逃げ切ったような感覚が、同時に体の奥へじわりと広がった。
そのどれもが、最低だと思った。
──それでも、選んだのは僕だ。
彼女を救うことより、自分が壊れない道を。
その事実が、心のどこか深い隙間でずっと燻り続けていた。
それでも、息はできた。
生きている実感だけが、はっきりとそこにあった。
久しぶりに幼馴染に会うことを思うと緊張してしまい、その夜、僕はなかなか寝付けなかった。そのせいで、翌朝は見事に寝坊した。
約束の時間からだいぶ遅れて、カフェの見えるところまで走っていて、軽く酸欠状態になって到着。
次の瞬間、死角から車が猛スピードで突っ込んできた。
世界そのものが、次の犠牲として僕を指名したように思えた。
ようやく順番が回ってきたのだと、静かに理解した。
彼女との約束の時間通りに会っていたら、この時間は彼女と帰り始める時間だった。
地面には血痕が広がり、その中心には、かつて僕だった肉体が、ただの物のように、冷たく横たわっていた。
喧騒の中にありながら、そこだけ音が吸い込まれたように静止している、黒いスーツ姿の男が僕を見ていた。
(──死神?)
『あなたには、輪廻の輪に戻らない選択肢があります』
死んだから初めて知る真実。
そこでようやく、僕は理解した。
──そういう役割を背負わされていたのだと、
抗う余地もなく静かに悟ってしまった。
●エピローグ
一冊の本を手に取った。
本の重さが、以前よりもはっきりと理解できた。
その本は、どこにでも転がっていそうな、平凡な物語が綴られていた。
一人の少女について語られた本。
夏休みの終わりに、久しぶりに会うはずの幼馴染が、会う直前に事故で死ぬ。
──彼女の人生から見れば、それだけで終わってしまうような、ほんの一行の出来事だった。
少女はありふれた出会いと別れを繰り返して、やがて穏やかな死を迎えるだろう。
そのどのページにも、僕の名前だけは一度も登場しない。
僕はゆっくりと本を閉じた。
背表紙の『君のための物語』というタイトルに指先で触れる。
何度も救えなかった事実は消えない。
僕の中に、消えることのない傷跡のような記憶として刻まれた。
本棚に近づけると、まるであらかじめ場所が決まっていたかのように、本は隙間へと滑らかに吸い込まれ、最初から定位置だったかのような顔をして動かなくなった。
まるで、僕の手が触れる前から“そこにあることが決まっていた”みたいに。
本棚の奥には、まだ開かれていない物語がいくつも眠っている。
そのどれにも、僕の名前は載っていないのだろう。
けれど、それでいいと思えた。
僕はページの外側から、誰かの物語を見届けるために生まれたのだと、静かに受け入れられた。
……不思議と寂しさはなかった。
僕はただ、物語の外側に立つ者として、彼女の歩む道を最後まで見届けるために生まれたのだと──。
もしこの世界が舞台なら、僕の役目は、彼女の物語が静かに続いていくのを、ただ静観することだったのだ。
それは悲しいことではなく、ただ静かな事実として、心の底へそっと沈んでいった。
ようやく、受け入れられた気がした。
君のための物語 終幕