伊吹澪の名前が責任対象者一覧から消え、
その代わりとして佐藤麻耶と椎名ひよりの名前が赤く表示されてから、
第一体育館を支配していた空気は、それまでとは明らかに異なるものへ変わっていた。
試験開始直後にも退学という言葉が生徒たちへ与えた衝撃は大きかったが、
その段階ではまだ、四人の責任対象者を、
何らかの方法で救えるのではないかという希望が残っていた。
しかし、実際に救済権を行使した結果として一人の危機が解除され、
その直後に二人の新たな生徒が同じ立場へ落とされた光景を目の当たりにしたことで、
学校側が提示した規則は単なる文章ではなく、
現実に人間関係を破壊する力を持った仕組みなのだと全員が理解させられていた。
体育館正面の大型スクリーンには、現在の責任対象者が五名と表示されている。
池寛治。
橋本正義。
白波千尋。
佐藤麻耶。
椎名ひより。
伊吹一人を救うために、四人だった退学候補者は五人へ増えた。
数字だけを見れば、増えたのは一人に過ぎない。
しかし、その一人という数字の裏側には、
伊吹を救わなければ責任対象者になることのなかった佐藤とひよりが存在しており、
特に伊吹自身にとって、その事実は数字として処理できるものではなかった。
伊吹はモニターに表示されたひよりの名前から目を離すことができず、
救済成立を知らせる表示が消えてからも、その場に立ち尽くしていた。
「……何でよ」
誰に向けた言葉なのかは分からなかった。
龍園へ向けたものかもしれないし、学校へ向けたものかもしれないし、
自分自身へ向けたものだったのかもしれない。
龍園は答えなかった。
普段なら伊吹の苛立ちに対して皮肉の一つでも返しそうな男が、
今は正面のモニターを睨みながら黙っていることが、
龍園クラスの生徒たちに事態の深刻さを伝えていた。
ひよりは自分の名前が赤く表示された画面を見つめた後、ゆっくりと視線を落とした。
「伊吹さんが残れたこと自体は、良かったと思います」
静かな声だった。
その言葉を聞いた伊吹が、勢いよく振り返る。
「良くないでしょ」
「ですが、伊吹さんが救済されなければ、
伊吹さんの退学が確定する可能性が高かったことも事実です」
「だからって、あんたが代わりになっていいわけじゃない」
「私が代わりになったのかどうかは、まだ分かりません」
「同じことでしょ!」
伊吹の声が体育館に響いた。
近くにいた石崎が肩を震わせるほどの声量だったが、ひよりは驚くことなく伊吹を見返した。
「私だけではありません。佐藤さんも責任対象者になりました。
私を助ければ、また別の誰かが選ばれる可能性があります」
「そんなこと分かってるわよ!」
「それなら、私のことだけを考えてはいけないと思います」
「だったら、あんたは自分が退学になってもいいって言うの?」
ひよりはすぐには答えなかった。
普段の彼女であれば、相手を刺激しないよう柔らかな言葉を選ぶことが多い。
しかし今は、どのように言い換えても結論そのものを柔らかくすることはできなかった。
「いいとは思いません。
ただ、誰か一人を残すために二人を危険へ送ることが正しいとも思えません」
その言葉を聞いた伊吹は、何も言い返せなくなった。
自分が救われた直後だからこそ、最も聞きたくない言葉だった。
もし龍園たちが伊吹を救わなければ、
現在の責任対象者は池、伊吹、橋本、白波の四人のままだった。
しかし龍園クラスは伊吹を助けた。
その結果として、佐藤とひよりが危険へ落ちた。
誰かが悪意を持って選んだわけではない。
誰かを蹴落とすために行った行為でもない。
仲間を助けたいという判断だった。
だからこそ、誰を責めればいいのか分からなかった。
「クソが」
龍園が低く吐き捨てた。
伊吹が睨む。
「何よ」
「学校の狙いが見えてきやがった」
龍園は椅子から立ち上がると、両手をポケットへ入れたまま大型スクリーンを見上げた。
「普通なら、救済って言葉を聞けば助けることしか考えねえ。
しかも最初に選ばれた連中は全員、同じクラスで一年以上過ごしてきた奴らだ。
いきなり見捨てろと言われて、はいそうですかって切れる奴のほうが少ねえ」
石崎が険しい顔で龍園を見る。
「だったら、最初から俺たちが伊吹を助けることも読まれてたってことですか」
「少なくとも、その可能性は高え」
「じゃあ、どうすりゃよかったんすか」
龍園は答えなかった。
伊吹を見捨てればよかった。
理屈だけなら、それで終わる。
しかし実際にその場へ立った時、本当にそれを選べたかどうかは別問題だった。
その頃、堀北クラスでは別の意味で混乱が広がっていた。
佐藤は軽井沢の隣へ座ったまま、先ほどからほとんど動いていなかった。
自分の名前が責任対象者として表示された瞬間には驚きの声を漏らしたものの、
その後は何度かモニターを見上げるだけで、周囲へ何かを訴えることもなかった。
軽井沢のほうが明らかに動揺していた。
「麻耶ちゃん、大丈夫だから」
「……うん」
「まだ退学って決まったわけじゃないし、救済だってあるんだから」
「でも、私を助けたら二人増えるんでしょ?」
軽井沢の言葉が止まった。
佐藤は苦笑するような表情を浮かべた。
「恵ちゃんが困ってるじゃん」
「困るに決まってるでしょ」
「そっか」
「何でそんな普通にしてられるの?」
「普通じゃないよ」
佐藤は両手で端末を握りしめた。
よく見れば、その指先には力が入り、僅かに震えている。
「すっごく怖いし、退学なんかしたくないよ。
でも、私を助けるボタンを押したら、また誰か別の二人が
私と同じ気持ちになるんだって思ったら、簡単に助けてなんて言えないじゃん」
軽井沢は俯いた。
もし相手がまったく知らない生徒であれば、佐藤を助けたいと即答できたかもしれない。
しかし、この体育館にいるのはこれまで何度も特別試験で争い、
時には協力し、日常生活の中でも顔を合わせてきた同学年の生徒たちだった。
誰が選ばれても、完全な他人ではない。
そして、先ほどの抽選によって椎名ひよりという有名な生徒が実際に候補へ加わったことで、
次は誰が選ばれてもおかしくないという実感まで生まれていた。
篠原はその会話を聞きながらも、池の近くから離れなかった。
「でも寛治は最初から選ばれてるんだよ。
何もしなかったら本当に退学になるかもしれないんでしょ」
堀北は腕を組んだまま答える。
「分かっているわ」
「だったら助けようよ」
「今すぐにはできない」
「何で!」
篠原が立ち上がった。
「佐藤さんだって増えちゃったんだよ!
このまま時間だけ過ぎたら寛治も佐藤さんも危ないじゃん!」
「だからこそよ」
堀北の声も強くなった。
「池くんを救済すれば、また二人増える。佐藤さんも救済すれば、さらに二人増える。
二人を助けるだけで責任対象者は七人になるのよ」
「でも助けなかったら二人が退学するかもしれないじゃん!」
「その二人を助けるために四人を危険へ送っていいのかと聞いているの!」
堀北の声が体育館の一角へ響き、周囲が静かになった。
篠原は唇を震わせながら堀北を見る。
堀北自身も、自分の言葉がどれほど冷酷に聞こえるか理解していた。
しかし、誰かが言わなければならない。
仲間を助けたいという感情だけで救済を続ければ、責任対象者は増え続ける。
それだけは明白だった。
池が俯いた。
先ほどまでは必死に助けを求めていたが、
伊吹の救済によって佐藤とひよりが候補になった光景を見たことで、
自分の救済にも同じ代償が発生することを理解してしまった。
「……俺を助けたら、また二人増えるんだよな」
須藤が池を見る。
「だからって、お前が諦める必要はねえだろ」
「でもよ」
「まだ方法を探してんだ。勝手に決めんな」
須藤は強い口調でそう言ったが、その拳も硬く握られていた。
オレは少し離れた場所から議論を聞きながら、現在の規則を頭の中で整理していた。
一度目の救済によって分かったことは複数ある。
まず、新たな責任対象者の選出は、
救済を行ったクラスだけを完全に保護する仕組みではない。
実際に龍園クラスが伊吹を救ったにもかかわらず、
同じ龍園クラスのひよりが新たな対象者となった。
つまり、自分たちのクラスから救済を行えば、自分たちのクラスが安全になるわけではない。
さらに、学校側が抽選方法を公開していない以上、
無作為に見せかけて特定条件を参照している可能性も消えていない。
そして最大の問題は、試験終了条件が依然として不明であることだった。
救済を一切行わずに時間切れまで待てば試験が終了する保証もない。
現在大型スクリーンに表示されているのは、「第一選択時間」という名称だけであり、
その先に第二選択時間、第三選択時間が存在する可能性は高い。
学校側は明らかに、生徒たちが一度や二度の判断だけで終われる試験を用意していない。
その時、坂柳クラスの方向から声が上がった。
「悪いけど、俺は黙って退学を待つなんて無理だからな」
橋本だった。
彼の周囲には坂柳を中心としてクラスメイトたちが集まっている。
橋本は表面上こそ冷静さを保とうとしていたものの、声には焦燥が混ざっていた。
「伊吹は助けてもらったんだ。だったら俺にも同じ権利があるだろ」
坂柳は橋本を見上げた。
「権利という表現は適切ではありませんよ。
救済を行使するのはクラスであって、責任対象者本人ではありません」
「分かってるよ。でも、だからって俺だけ見捨てられるのは筋が違うだろ」
「伊吹さんを救済したのは龍園君たちの判断です。
それが正しい判断だったかどうかも、まだ判明していません」
「じゃあ、あいつらが間違ったかもしれないから俺は死ねって?」
「退学と死を同一視する必要はありません」
「言葉の問題じゃねえよ」
橋本の声が強くなる。
普段の橋本であれば、坂柳へ真正面から感情をぶつけることは避ける。
しかし自分の高校生活そのものが終わる可能性を前にして、
いつものように損得を計算する余裕が失われつつあった。
「俺はここに残りたいんだよ。何のために今までやってきたと思ってんだ」
その言葉に、周囲のクラスメイトたちも沈黙した。
橋本には橋本なりの事情がある。
坂柳へ完全な忠誠を誓っているわけではなく、
勝てる側へ移ることすら考える男ではあるが、
高度育成高等学校を卒業する価値を誰より現実的に理解している。
だからこそ、自分から退学を受け入れることなどできなかった。
森下が静かに手を上げた。
「坂柳さん、発言してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「橋本正義を助けない場合、橋本正義は退学する可能性があります。
橋本正義を助ける場合、新しく二人が責任対象者になります。
したがって人数だけを評価するのであれば、橋本正義を救済しないほうが損失は少なくなります」
橋本が振り返る。
「森下、お前な」
「ですが、人数だけで判断するのであれば、
最初の四人を誰も救わないことが最適解となります。
しかし龍園クラスは既に伊吹澪を救済しました。
つまり四クラス全体としては、人数だけを基準に行動する段階を既に逸脱しています」
森下は普段と変わらない淡々とした口調だった。
そのため一見すると冷静に状況を分析しているだけに聞こえる。
しかし内容そのものは、かなり厳しい現実を指摘していた。
「橋本正義を切るのであれば、伊吹澪を救ったこととの整合性を説明する必要があります。
逆に橋本正義を救うのであれば、新たに選ばれる二人を救わない理由を説明する必要があります。
結論として、どの判断を選択しても誰かに対して不公平となります」
坂柳が僅かに笑った。
「その通りです」
橋本は苛立ったように髪を掻いた。
「だったら助けてくれよ。不公平になるなら俺だけ損する必要もないだろ」
坂柳はしばらく目を閉じた。
彼女ほどの人物であれば、感情を無視して橋本を切る判断を下すこともできる。
一人を残すために二人を危険へ送るのは、単純な損得だけを見れば不合理でしかない。
しかし問題は、この試験が四クラス合同で行われていることだった。
龍園クラスが伊吹を救済したという前例ができた以上、
坂柳クラスだけが最初の責任対象者を即座に見捨てれば、クラス内部に深刻な不信が残る。
今後、自分が責任対象者になった時も坂柳は切り捨てる。
そう考える生徒が増えれば、クラス統率そのものに影響する。
学校側は、おそらくそこまで計算している。
「一度だけ、救済を行います」
坂柳の言葉に、橋本が顔を上げた。
「姫」
「ただし橋本くん、あなたを助けることが正しかったのだとは考えないでください。
これはあなた個人を優先する判断ではなく、追加情報を得るための判断でもあります」
「何でもいい。助かるなら文句はねえよ」
橋本は安堵した。
しかし坂柳は、その表情を見ても笑わなかった。
クラス内投票が開始される。
橋本救済への賛成票が増えていく。
反対票も少なくはなかった。
一人を救うことで二人が危険になるという事実を目の当たりにした直後なのだから当然だった。
それでも最終的には賛成票が過半数へ到達した。
大型スクリーンが再び赤く点滅する。
『救済成立』
『橋本正義――責任対象解除』
橋本が大きく息を吐いた。
「……助かった」
その言葉が終わるより早く、画面が切り替わった。
『新規責任対象者を選出します』
体育館の空気が張り詰める。
一度目とは違い、今度は全員が何が起こるのか知っている。
だからこそ怖かった。
高速で切り替わっていた表示が止まる。
一人目。
『坂柳クラス』
森下藍。
橋本の表情が凍りついた。
森下は自分の名前を見上げ、僅かに首を傾けた。
「なるほど。私ですか」
その声に取り乱した様子はなかった。
しかし坂柳の表情が僅かに変わった。
自分のクラスから救済した結果として、自分のクラスから新たな責任対象者が発生した。
一度目のひよりに続き、この事実によって、
救済を行った側にも被害が戻ってくることが改めて証明された。
そして二人目の表示が止まった。
『堀北クラス』
松下千秋。
「……私?」
松下が目を見開いた。
普段は集団の中で強く前へ出ることの少ない彼女だったが、
自分の名前が赤く表示されれば平静ではいられなかった。
堀北クラスから一斉にざわめきが起こる。
これで責任対象者は六名。
池寛治。
白波千尋。
佐藤麻耶。
椎名ひより。
森下藍。
松下千秋。
橋本を救った結果として、森下と松下が加わった。
橋本は自分の名前が消えたことを確認しながらも、
先ほどのように安堵することができなくなっていた。
「……森下」
「何でしょうか、橋本正義」
「いや……」
言葉が続かない。
自分を助けた結果として森下が危険になった。
橋本は生き残りたいと望んだ。
実際に救われた。
それなのに、胸の内に浮かんだのは喜びではなかった。
森下は橋本を見た後、淡々と言った。
「謝罪されても責任対象者から外れるわけではありませんので、今は必要ありません」
「お前、こういう時くらい普通に喋れねえのかよ」
「普通とは何でしょうか」
「そういうとこだよ」
橋本は苛立ったように言ったが、その声には先ほどまでの勢いがなかった。
坂柳は森下と松下の名前を見比べた後、大型スクリーンを見上げた。
二度の救済。
責任対象者は四人から六人へ増加。
ここまで来れば、試験の方向性はほぼ確定していた。
救済は解決策ではない。
責任を他者へ移動させ、その総量まで増やす仕組みでしかない。
「やはりそういうことですか」
坂柳が小さく呟いた。
その声を近くにいた橋本が聞く。
「何がだよ」
「私たちは救済という言葉に誘導されています」
「誘導?」
「ええ。学校側は救済権を用意しているのではありません。責任転嫁権を用意しているのです」
橋本が黙る。
坂柳は大型スクリーンを見つめたまま続けた。
「責任対象者を一人解除する代わりに二人を追加する以上、
救済を続ければ状況は悪化します。それでも私たちは、
目の前の仲間を見捨てる決断ができないため、悪化すると理解しながら使用してしまう」
森下が静かに頷いた。
「人間の感情を利用した試験ということですね」
「そういうことでしょう」
坂柳の口元には薄い笑みが戻っていた。
しかし、その笑みは普段の余裕から生まれたものではなかった。
学校側へ向けた不快感を隠すためのものに近かった。
その直後、一之瀬クラスでも議論が限界へ達していた。
白波を救うか否か。
一之瀬は最初から救いたいと考えている。
しかし白波本人が拒否している。
「帆波ちゃん、やめよう」
「千尋ちゃん」
「もう二回見たでしょ。伊吹さんを助けたら二人増えて、
橋本くんを助けても二人増えた。私を助けても絶対同じだよ」
「でも、このまま何もしなかったら千尋ちゃんが……」
「それでもいいなんて言えないけど、私のために二人増えるほうが嫌だよ」
一之瀬の目に涙が浮かび始めた。
「そんなの選べないよ」
「私だって選びたくないよ」
白波も声を震わせていた。
「でも誰かが止めないと、ずっと増えるんでしょ?」
神崎が険しい表情で二人を見る。
「白波の言うことは正しい」
一之瀬が神崎へ顔を向けた。
「神崎くんまで」
「感情の問題じゃない。現在六人だ。白波を救えば七人になる。
そこで新しく選ばれた二人を救えば九人になる。
全員救済を目指すほど、対象者は増えていく」
「分かってるよ!」
一之瀬が珍しく強い声を出した。
神崎が黙る。
「そんなこと分かってる。でも、だからって千尋ちゃんを見捨てるなんて、私にはできないよ」
「なら、新たに選ばれる二人をどうする」
「それは……」
「その二人も助けるのか」
「……うん」
「なら、また増える」
「それでも」
「いつまで続けるつもりだ!」
神崎の声も強くなった。
一之瀬クラスの生徒たちが息を呑む。
これまで何度も一之瀬の方針へ疑問を抱いてきた神崎だったが、
今回ほど真正面から彼女の善意そのものを否定するような言葉を向けたことは少なかった。
「全員を救うという言葉だけで済む試験じゃない。
救うたびに別の誰かを同じ場所へ押し込むんだぞ」
一之瀬は涙を堪えながら神崎を見る。
「じゃあ神崎くんは、千尋ちゃんをそのまま退学させればいいって言うの?」
神崎は答えなかった。
理屈ではそうなる。
しかし本人を目の前にして、それを口にすることは簡単ではなかった。
白波は二人の間へ入るように立った。
「もう喧嘩しないで」
「千尋ちゃん……」
「私のことで帆波ちゃんと神崎くんが喧嘩するほうが嫌だよ」
その言葉によって、一之瀬は完全に黙り込んだ。
残り時間は十分を切っている。
最初の選択時間が終わろうとしていた。
しかし一之瀬クラスでは結論が出ない。
白波を救えば一之瀬の理念を守れる。
その代わり二人が増える。
白波を救わなければ対象者の増加を防げる。
その代わり、一之瀬自身が仲間を見捨てることになる。
どちらを選んでも、一之瀬が大切にしてきたものの一部が壊れる。
残り五分となった時、一之瀬は震える手で端末を握った。
「ごめん」
白波が驚いた顔をする。
「帆波ちゃん?」
「ごめんね、千尋ちゃん。でも、私はやっぱりできない」
白波の目に涙が浮かぶ。
「帆波ちゃん、駄目だよ」
「見捨てられないよ」
一之瀬は泣きながら笑った。
「だって、ずっと一緒にやってきたんだもん」
その言葉をきっかけに、一之瀬クラスの空気が動いた。
白波を救いたいという感情は、多くの生徒が最初から抱いている。
止めていたのは理屈だけだった。
そして人間は、目の前にいる仲間の涙を見ながら、
数字だけを理由に切り捨てられるほど簡単にはできていなかった。
救済投票が始まった。
神崎は最後まで端末を見つめていた。
一之瀬は賛成を押した。
網倉も涙を浮かべながら賛成する。
次々と票が入る。
過半数。
大型スクリーンが赤く光った。
『救済成立』
『白波千尋――責任対象解除』
一之瀬は白波の手を握った。
白波は泣いていた。
しかし、二人とも喜ぶことはできなかった。
既に知っているからだ。
この後に何が起きるのかを。
『新規責任対象者を選出します』
表示が切り替わる。
体育館全体が黙り込む。
一人目。
『一之瀬クラス』
網倉麻子。
白波の顔が凍りついた。
「……麻子ちゃん?」
網倉自身も、自分の名前を見上げたまま動けなかった。
白波を救うために賛成票を投じた網倉が、その直後に責任対象者となった。
一之瀬の顔から血の気が引いていく。
「そんな……」
白波が口元を押さえる。
「私のせいで……」
「違うよ!」
網倉が反射的に否定した。
「千尋のせいじゃないから!」
しかし、その言葉を言った網倉自身の声も震えている。
大型スクリーンには、まだ二人目が残っていた。
表示が高速で切り替わる。
堀北クラス。
坂柳クラス。
龍園クラス。
一之瀬クラス。
再び龍園クラス。
そして停止した。
『龍園クラス』
龍園翔。
体育館から音が消えたように感じられた。
石崎が目を見開く。
伊吹が息を呑む。
ひよりは自分の名前の隣へ新たに表示された龍園の名前を見つめた。
龍園自身だけが、数秒間何も言わなかった。
一之瀬はモニターを見上げたまま立ち尽くしている。
白波を救った。
その結果、網倉麻子と龍園翔が責任対象者になった。
現在の対象者は七名。
池寛治。
佐藤麻耶。
椎名ひより。
森下藍。
松下千秋。
網倉麻子。
龍園翔。
その一覧を前にして、先ほどまで誰よりもこの試験を挑発的に眺めていた龍園は、
ゆっくりと椅子から立ち上がった。
石崎が慌てて声をかける。
「龍園さん、すぐ助けますから」
龍園が振り返る。
その目を見た瞬間、石崎の言葉が止まった。
「押すな」
低い声だった。
「でも龍園さんが」
「聞こえなかったか。俺に救済を使うんじゃねえ」
伊吹が立ち上がる。
「ふざけないで。あんたが抜けたら、このクラスどうすんのよ」
「知るか」
「知るかじゃないでしょ!」
「俺を助ければ二人増える」
「そんなの分かってる!」
「だったら黙れ」
龍園の声が鋭くなる。
石崎も伊吹も、それ以上すぐには言い返せなかった。
龍園は自分の名前と、ひよりの名前を見上げる。
少し離れたところには、既に救済された伊吹がいる。
伊吹を助けた結果、ひよりが選ばれた。
白波を助けた結果、今度は龍園自身が選ばれた。
皮肉という言葉だけでは足りなかった。
仲間を救おうとするたびに、次の人間へ赤い印が移っていく。
そして今、その印が自分に付いた。
「……なるほどな」
龍園が呟いた。
伊吹が眉を寄せる。
「何よ」
龍園は笑わなかった。
「ようやく本気でムカついてきたぜ」
その言葉と同時に、大型スクリーンの第一選択時間がゼロになった。
しかし、試験終了を知らせる表示は現れなかった。
代わりに、新しい時間が表示される。
『第二選択時間――120分』
そして、その下へ新たな文章が追加された。
『第二選択時間終了時点において、
責任対象者の人数が一定条件を満たしていない場合、追加規則を適用する』
体育館が再びざわめき始める。
一定条件。
その具体的な数字は表示されていない。
誰を助ければいいのか。
誰を見捨てればいいのか。
何人までなら許されるのか。
何人になれば試験が終わるのか。
学校側は何一つ教えない。
ただ一つだけ、全員が理解したことがあった。
この試験は、まだ始まったばかりだった。
堀北は七人へ増えた責任対象者一覧を見上げながら、無意識のうちに額へ手を当てていた。
一之瀬は白波を抱き締めながら、責任対象者となった網倉から目を逸らすことができずにいた。
坂柳は森下の名前を静かに見つめながら、先ほどまで残っていた微笑を完全に消していた。
軽井沢は佐藤の手を握ったまま動けない。
ひよりは自分と龍園の名前が並んでいる画面を見上げ、沈んだ表情で小さく息を吐いた。
伊吹は拳を握りしめていた。
そして龍園だけは、自分の退学候補を示す赤い表示を睨みながら、
学校側が用意したこの試験を初めて敵として認識していた。
救えば救うほど、危険に晒される人間が増えていく。
それでも、目の前の仲間を切ることなど簡単にはできない。
この時点ではまだ誰も知らなかった。
七名という数字すら、後になって振り返れば、まだ引き返せた頃の数字だったということを。