第二選択時間の残りが百十九分を切った瞬間から、
第一体育館の空気は、それまで以上に息苦しいものへ変わっていた。
第一選択時間では、四人だった責任対象者が、
伊吹澪、橋本正義、白波千尋の三人を救済した結果として七人まで増え、
その一覧には池寛治、佐藤麻耶、椎名ひより、森下藍、
松下千秋、網倉麻子、そして龍園翔の名前が並んでいる。
救済権を使えば一人を救えるという事実そのものは変わらないが、
そのたびに二人の責任対象者が新たに選ばれ、
一度救済された生徒であっても再び候補となる可能性が残されている以上、
もはや誰か一人を助けるという行為を単純な善意として受け止められる生徒はいなかった。
大型スクリーンに表示された『第二選択時間――120分』という文字の下には、
責任対象者が一定条件を満たしていない場合には、
追加規則が適用されるという警告だけが残され、学校側が求めている人数も、
第二選択時間終了時に何が起こるのかも示されていない。
その曖昧さこそが、生徒たちの焦燥を加速させていた。
堀北クラスでは池、佐藤、松下の三人をどう扱うかについて話し合いが続き、
坂柳クラスでは森下を救うべきだという声と、
これ以上候補者を増やすべきではないという意見が衝突している。
一之瀬クラスでは網倉が新たな責任対象者となったことで、
白波を救済した判断への罪悪感が広がり、
一之瀬自身も先ほどからまともに顔を上げることができていない。
しかし、四クラスの中で最も激しい空気に包まれていたのは、龍園クラスだった。
責任対象者一覧には、龍園翔と椎名ひよりという二人の名前が同時に表示されている。
そして、その原因の一部となった伊吹澪だけが、既に一度救済されている。
伊吹は龍園の正面に立ったまま、強く拳を握りしめていた。
「さっきの話、もう一回言ってみなさいよ」
「何度言わせる気だ。俺に救済を使うな」
「だから、それを本気で言ってんのかって聞いてるのよ」
龍園は伊吹を見ても表情を変えず、面倒そうに椅子へ腰を下ろしたまま答えた。
「本気じゃなきゃ言わねえよ。俺を一人助ければ二人増える。それだけの話だ」
「それだけで済む話じゃないでしょ。あんたがいなくなったら、このクラスを誰がまとめるのよ」
「そんなもん、生き残った奴らで考えろ」
「簡単に言わないで!」
伊吹の声が体育館へ響き、近くにいた他クラスの生徒たちまで一瞬だけ会話を止めた。
石崎も龍園の近くへ歩み寄り、
いつものように従順な態度を取ることなく、真正面から食い下がった。
「俺も納得できないっすよ。龍園さんをここで切るなんて無理っす。
ひよりだってそうですし、この二人がいなくなったら本当に終わりじゃないですか」
龍園は石崎を一瞥する。
「終わるかどうかを決めるのはお前らだろ」
「そういう話じゃないっす」
「じゃあどういう話だ」
「龍園さんがいなくなったら、俺らが困るって話です」
石崎の言葉は格好のいいものでも、論理的なものでもなかった。
しかし、その場にいる龍園クラスの生徒たちの多くが、同じことを考えていた。
彼らにとって龍園は、単なるリーダーではない。
恐怖で支配された時期があり、反発する者も多く、
素直に好意を向けられるような人間でもなかったが、
それでも数々の特別試験を通してクラスの進む方向を決めてきたのは龍園だった。
その男が突然いなくなれば、残された生徒たちが混乱することは想像するまでもない。
さらに椎名ひよりまで同時に責任対象者となっている。
暴力と威圧で前へ進む龍園と、穏やかさと冷静さでその空気を和らげてきたひより。
性格も役割も正反対に近い二人だったが、
どちらもクラスにとって簡単に代えの利く存在ではなかった。
アルベルトが静かに腕を組み、龍園を見つめている。
ひよりはその少し後ろで椅子に座ったまま、膝の上で両手を重ねていた。
普段なら本を持っていることの多い彼女も、今は何も手にしていない。
伊吹が龍園を睨んだまま、さらに言葉を続けた。
「そもそも、私を助けたのが間違いだったんでしょ」
石崎がすぐに首を振る。
「何言ってんだよ」
「事実じゃない。私をそのままにしておけば、椎名は選ばれなかったかもしれない」
「でもお前が退学するだろ」
「それで一人で済んだなら、そのほうがマシだったでしょ」
「今さらそんなこと言ってどうすんだよ」
「今さらじゃない!」
伊吹の声が震えた。
怒っているように聞こえる。
しかし、実際には怒りだけではなかった。
自分が助かったことによって、ひよりが責任対象者になった。
それだけでも重い。
さらに白波の救済によって龍園まで責任対象者となったことで、
伊吹にとっては自分だけが一度安全圏へ押し戻されたように感じられていた。
もちろん、再抽選の対象となる以上、本当に安全なわけではない。
それでも、今この瞬間に責任対象者一覧へ自分の名前がないという事実は、
伊吹にとって耐え難いものになりつつあった。
「私が残って、あんたと椎名が消えるなんて、そんなの納得できるわけないでしょ」
龍園の目が細くなる。
「だったらお前がもう一回候補になれば満足か?」
「そういう意味じゃない!」
「同じだ。自分が助かったことに罪悪感持って、今度は自分を差し出したいって言ってるだけだろ」
伊吹が言葉に詰まった。
龍園はさらに続ける。
「そんなもんは自己満足だ。お前が自分から責任対象者になったところで、
ひよりも俺も消えねえし、試験の人数が減るわけでもねえ」
「じゃあ何をしろって言うのよ」
「頭使え」
「使ってるわよ!」
「だったら分かるだろ」
龍園は大型スクリーンへ顎を向けた。
「この試験は、全員助けようとした奴から負けるようにできてる」
その言葉に、周囲の空気が止まった。
ひよりがゆっくりと顔を上げる。
石崎も反論できずにスクリーンを見る。
龍園は冷静さを取り戻すように言葉を続けた。
「最初は四人だった。伊吹を助けて五人、
橋本を助けて六人、白波を助けて七人。ここまでは誰でも分かる。
問題はその先だ。七人全員を助けりゃ、そのたびに一人ずつ総数が増える。
途中で救済された奴がまた選ばれる可能性もある以上、終点がねえ」
ひよりが静かに頷いた。
「救済を繰り返せば、理論上は責任対象者の人数が増え続けますね」
「そういうことだ」
「ですが、第二選択時間終了時の一定条件が分かりません」
「そこが学校側の餌だ」
龍園はスクリーンの追加規則へ視線を向けた。
「条件を隠してるから、俺たちは止まれねえ。責任対象者が多すぎたら罰があるのか、
少なすぎたら罰があるのか、それすら分からねえ。だから全員、怖くなって救済を続けたくなる」
石崎が険しい顔をする。
「じゃあ学校は、わざと俺らに救済させたいってことですか」
「少なくとも、使わせるつもりで用意してる。
そうじゃなきゃ最初から救済権なんて名前にしねえ」
伊吹は黙った。
龍園の説明は残酷だったが、筋は通っている。
学校側は一人を助ければ二人増えるという仕組みを作りながら、その行為を「救済」と呼んでいる。
普通なら、一人を助けることは状況を好転させる行為だ。
しかし、この試験では逆だった。
使えば使うほど、全体としては悪化する。
つまり生徒たちは、言葉そのものによって心理的に誘導されている可能性がある。
ひよりが静かに口を開いた。
「龍園くんは、ここで救済を止めるべきだと考えているんですね」
「ああ」
「私も助けないということですか」
石崎が反射的にひよりを見る。
伊吹も龍園を睨んだ。
しかし龍園は躊躇しなかった。
「そうなる」
石崎が椅子を蹴るように立ち上がった。
「待ってくださいよ!」
「うるせえな」
「椎名まで切るなんて無理っすよ!」
「無理でもやるしかねえ」
「龍園さん!」
「俺を救うな、ひよりも救うな。今のところそれが一番被害が少ねえ」
あまりにも冷たい言い方だった。
しかし、その声にいつもの嘲笑はなかった。
ひよりは少しだけ目を伏せた。
伊吹は龍園へ詰め寄る。
「あんた、自分が候補だからって格好つけてるだけじゃないでしょうね」
龍園の眉が動く。
「格好つけて退学するほど暇じゃねえよ」
「じゃあ何でそんな簡単に決められるのよ」
「簡単じゃねえから今決めてんだろ」
龍園の声が初めて強くなった。
伊吹が息を呑む。
「勘違いすんな。俺が言ってんのは、誰を残したいだの、誰が消えたら困るだのって話じゃねえ」
龍園は拳を握り、椅子の背もたれへ手を置いた。
「一人助けりゃ二人増える。しかも次に誰が選ばれるか分からねえ。
だったら見るべきなのは、目の前の一人じゃなく、その先で何人まで増えるかだ」
石崎が何か言い返そうとしたが、龍園は視線だけでそれを制した。
「助けたいなら勝手に感情で決めるな。
そいつを助けた後に何が起きても、それでも同じ票を入れられるか考えてから押せ」
龍園は大型スクリーンへ視線を戻した。
「気持ちで数字は止まらねえ。
だったら、数字がどこまで俺たちを追い込むのか、先に見極めるしかねえだろ」
その言葉は、龍園らしい現実主義そのものだった。
龍園自身が退学したくないという感情。
ひよりを残したいというクラスの感情。
伊吹が罪悪感から自分を責める感情。
そのすべてを切り離し、結果だけを見れば、
今ここで龍園とひよりをそのまま責任対象者として固定したほうが、
少なくとも新たな二人を増やさずに済む。
ひよりは暫く龍園を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「私は、龍園くんの判断に賛成します」
伊吹がすぐに振り返る。
「椎名!」
「私一人を助けるために二人が新しく選ばれるのであれば、
その判断を他の方へ求めることはできません」
「だからって」
「怖くないわけではありません」
ひよりがそう言ったことで、伊吹の言葉が止まった。
ひよりは穏やかな表情を保とうとしていた。
しかし、膝の上で重ねられた指先は僅かに震えていた。
「退学したくないですし、まだこの学校で過ごしたいと思っています。
本もたくさん読みたいですし、皆さんとお話ししたいこともあります。
それでも、私が残るために二人の名前が新しく赤く表示されるところを見たら、
そのことをずっと忘れられないと思います」
石崎が苦しそうに顔を歪める。
「椎名……」
「だから、少なくとも今は救済を使わないでください」
伊吹は顔を背けた。
自分だけが救済されたことが、さらに重くのしかかる。
「じゃあ私は何なのよ」
ひよりが伊吹を見る。
「伊吹さんが悪いわけではありません」
「でも、私のためにあんたが」
「私を選んだのは学校です」
「そういう問題じゃないでしょ」
「そういう問題でもあります」
ひよりの声は穏やかだった。
「伊吹さんが自分を責め続けても、試験は終わりません。
今必要なのは、誰か一人が全部の責任を背負うことではないと思います」
その言葉を聞いた龍園が鼻を鳴らした。
「珍しくまともなこと言うじゃねえか」
ひよりが少しだけ龍園を見る。
「普段からまともに話しているつもりですよ」
石崎が思わず僅かに笑いかけたが、その笑いはすぐ消えた。
この状況で普段通りのやり取りが一瞬だけ戻ったこと自体が、かえって現実を強く感じさせた。
残り時間は百十分を切っている。
龍園クラスは、救済を使わないという方向へ傾き始めていた。
しかし、それで全員が納得したわけではない。
むしろ、クラス内部では反発が強まっていた。
「俺は反対だ」
石崎がはっきりと言った。
龍園が見る。
「俺は龍園さんもひよりも助けるべきだと思う。二人増えるとしても、そいつらもまた助ければいい」
「話聞いてたか?」
「聞いてましたよ。でも、だからって最初から諦めるのは違うでしょう」
「その結果、十人になっても二十人になっても助け続けるのか」
「方法があるなら」
「ねえよ」
「まだ分かんないじゃないですか!」
石崎の声が大きくなる。
「学校だって全員退学させるために試験やってるわけじゃないでしょう。
どっかに抜け道あるかもしれないじゃないですか」
その言葉に、何人かの生徒が頷いた。
人間は、完全に希望が失われたと認めることを簡単には受け入れられない。
龍園が示しているのは合理的な判断かもしれない。
しかし、それは同時に、龍園とひよりを切り捨てる決断でもある。
その判断を自分の手で確定させることに耐えられない者は多かった。
ひよりが静かに石崎へ声をかける。
「石崎くん」
「椎名も黙っててくれ。俺は納得してない」
「ですが」
「だって、昨日まで普通にいたじゃないか」
石崎の声が震え始めた。
「昨日まで龍園さんがいて、椎名がいて、伊吹がいて、それが普通だったのに、
今日いきなり三人のうち二人はいなくなっても仕方ないなんて言われて、
はいそうですかって納得できるわけないだろ」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
それは理屈ではない。
だからこそ強かった。
「俺、頭良くねえから、難しいことは分かんねえよ。
でも龍園さんがいなくなったら困るし、椎名がいなくなるのも嫌だ。それだけじゃ駄目なんすか」
龍園は石崎を暫く見ていた。
いつもなら「くだらねえ」で終わらせる場面だった。
しかし今回は、すぐに切り捨てることができなかった。
龍園自身も、本当は残りたい。
その感情だけなら石崎と同じだからだ。
「駄目じゃねえ」
石崎が顔を上げる。
龍園は続けた。
「ただ、それだけで決めたら他の二人が同じ目に遭う」
石崎は黙った。
「自分の近くの奴だけ助かればいいって言うなら、それでもいい。
俺らは他クラスと仲良くやるためにここにいるわけじゃねえからな。
だが、次に選ばれる二人が俺らのクラスじゃねえ保証もない」
石崎の表情が強張る。
「ひよりを助けて伊吹がまた選ばれるかもしれねえ。
俺を助けてお前が選ばれるかもしれねえ。アルベルトが選ばれるかもしれねえ。
そうなった時、今度は誰を切る」
石崎は答えられなかった。
「全員助けるなら、最後までやれ。途中で止めるなら、どこで止めるか今決めろ。
そこまで考えずに助けたいだけなら、それは責任取ってるんじゃなくて先延ばししてるだけだ」
龍園の言葉は容赦がなかった。
しかし、この試験の本質を正確に突いていた。
救済を選ぶこと自体は簡単だ。
問題は、その次に生まれた責任対象者をどう扱うか。
その二人も救うなら、また二人増える。
そこでも救うなら、さらに増える。
結局、どこかで必ず「この人は助けない」という判断を下さなければならない可能性が高い。
そしてその判断を後へ送れば送るほど、候補者の総数は増える。
体育館中央では、堀北と坂柳が再び情報交換を始めていた。
オレもその近くへ移動し、現在の状況を確認する。
「龍園クラスは救済を停止するつもりみたいね」
堀北が言った。
坂柳は龍園たちの様子を遠くから眺めている。
「合理的ではあります。龍園君自身が責任対象者であるからこそ、
クラス内では相当な反発があるでしょうけれど」
「私のクラスでは簡単にそうはいかないわ」
堀北は池、佐藤、松下の方向へ視線を向ける。
三人。
既に堀北クラスだけで責任対象者が三人になっている。
ここで全員を固定すれば三人が危険。
一人でも救えば新たに二人が増える。
しかも誰が選ばれるのか分からない。
堀北にとっても判断は容易ではない。
「坂柳さん、そっちは森下さん一人ね」
「現時点では、ですが」
坂柳は淡々と答える。
「橋本くんを救った結果として森下さんが選ばれました。
橋本くん自身にも相応の罪悪感が生じているようです」
「あなたは森下さんを救うつもり?」
坂柳はすぐには答えない。
「助けたいかと問われれば、当然そうです。
しかし、助けるべきかと問われれば別の答えになります」
堀北はその言葉を聞き、僅かに顔を曇らせた。
一之瀬は少し離れた場所で、網倉と白波の間に座っている。
神崎が周囲の生徒へ説明を続けているものの、
クラス全体から先ほどまでの一体感は失われつつあった。
そして龍園クラスでは、龍園自身が救済停止を命じている。
各クラスが、同じ試験を受けながら異なる壊れ方を始めていた。
オレは大型スクリーンを見る。
第二選択時間はまだ百分以上残っている。
学校側がこれだけ長い時間を与えた理由。
それは考える時間を与えるためだけではない。
長く議論させれば、それだけ意見は割れる。
誰かを助けたい者。
人数を増やしたくない者。
自分を犠牲にしたい者。
自分だけは残りたい者。
リーダーへ判断を押し付ける者。
リーダーの判断に反発する者。
時間そのものが、人間関係を削る装置になっている。
おそらくこの試験は、責任対象者だけを追い詰めるものではない。
残される側にも、同じかそれ以上の傷を残すように設計されている。
その時、龍園クラスの端末に一斉通知が表示された。
救済投票の申請。
申請者は石崎だった。
対象者。
椎名ひより。
龍園が端末を見る。
「てめえ」
石崎は怯まなかった。
「俺はやります」
「さっきの話聞いてなかったのか」
「聞いた上です」
「却下だ」
「救済申請そのものは誰でもできるって規則に書いてあります。
最終的に決めるのは過半数でしょう」
龍園の目が鋭くなる。
伊吹も驚いて石崎を見る。
「石崎、あんた」
「俺は椎名を助けたい」
ひよりが立ち上がる。
「やめてください」
「すまん。でもこれは聞けない」
「石崎くん」
「俺、後で絶対後悔するから」
石崎の声は震えていたが、端末を持つ手は下げなかった。
「今ここで何もしないで、椎名が本当に退学になったら、
あの時押せばよかったってずっと思う。だったら俺は押す」
救済投票が始まった。
龍園が立ち上がる。
「全員反対に入れろ」
その声はクラス全体へ響いた。
しかし、すぐに反対票ばかりが増えるわけではなかった。
賛成。
反対。
賛成。
反対。
票がほぼ同じ速度で増えていく。
ひよりは自分の端末を見つめていた。
自分自身にも投票権がある。
救済に賛成することもできる。
反対することもできる。
ひよりは迷わず反対を押した。
伊吹は画面を見ながら指を止めている。
賛成すればひよりを助けられる。
しかし、その結果として二人が増える。
自分が救われた時と同じことを繰り返す。
伊吹は唇を噛んだ。
最後に反対へ触れた。
票数が更新される。
賛成と反対の差は僅か。
石崎の顔が強張る。
龍園は腕を組んだまま表示を睨んでいる。
そして残り数票となった時、賛成票が一つ増えた。
続いてもう一つ。
過半数まであと一票。
ひよりが息を呑む。
龍園の目付きが変わる。
「誰だ」
誰も答えない。
匿名投票である以上、誰が賛成したのかは分からない。
最後の未投票者が選択する。
大型スクリーンへ結果が表示された。
『椎名ひより救済案』
『賛成――過半数未達』
『救済不成立』
体育館の一角から、張り詰めていた息が一斉に吐き出される。
石崎は端末を握ったまま俯いた。
ひよりは静かに目を閉じる。
伊吹も僅かに安堵したように見えたが、その安堵を自覚した瞬間、さらに苦しそうな表情になった。
ひよりが助からなかったことに安堵する。
そんな感情を自分が持ってしまったことが嫌だった。
龍園は石崎へ歩み寄る。
周囲が緊張する。
普段なら殴られてもおかしくないほど命令へ逆らった。
しかし龍園は拳を振るわなかった。
「次はねえぞ」
石崎は顔を上げる。
「でも」
「言いたいことは分かった。だから今回はこれで終わりだ」
石崎は黙って頷いた。
龍園はそこでクラス全体へ向き直った。
「よく聞け。俺とひよりへの救済申請は禁止する。誰かが勝手に出しても反対に入れろ」
不満の声が僅かに上がる。
龍園は構わず続ける。
「少なくとも追加規則が出るまで待つ。
学校が条件を隠してる以上、今ここで人数増やすのは悪手だ」
その時、ひよりが静かに手を上げた。
「一つだけよろしいでしょうか」
龍園が見る。
「何だ」
「龍園くんは自分と私を助けないと言いましたが、
もし新たな責任対象者が増えた場合も同じ判断を続けますか」
龍園は少しだけ黙った。
「場合による」
「つまり、全員を切るわけではないんですね」
「当たり前だ。人数と相手見て決める」
「それなら安心しました」
伊吹が眉を寄せる。
「何が安心なのよ」
ひよりは少しだけ微笑んだ。
「龍園くんが、自分が候補になったから投げやりになっているわけではないと分かったので」
龍園は不機嫌そうに舌打ちした。
「くだらねえこと確認すんな」
ひよりはそれ以上何も言わなかった。
しかし、その僅かな笑みはすぐに消えた。
残り時間は九十分を切ろうとしていた。
龍園クラスは、ひとまず救済を止めるという方針でまとまり始めている。
それでも教室に戻れば、龍園とひよりの席が本当に空くかもしれないという恐怖は消えない。
伊吹は自分の席へ戻りながら、ひよりの横で足を止めた。
「私、あんたに何て言えばいいか分かんない」
ひよりが顔を上げる。
「何も言わなくていいですよ」
「でも」
「伊吹さんが残ることを、私は嫌だとは思っていません」
「そういう言い方やめてよ」
「では、別の言い方にします」
ひよりは少しだけ考えた。
「もし私が本当に学校を去ることになったとしても、伊吹さんには残ってほしいです」
伊吹の表情が歪んだ。
「やめてって言ってるでしょ」
「すみません」
「まだ退学って決まったわけじゃないんだから」
「そうですね」
「絶対何かあるでしょ。抜け道とか、追加規則とか、何か」
ひよりは答えなかった。
希望を否定する必要はない。
しかし根拠のない希望で伊吹を安心させることもできなかった。
伊吹は暫くその場に立っていたが、やがてひよりの隣へ乱暴に座った。
「私、まだ諦めてないから」
「はい」
「勝手に諦めないでよ」
「努力します」
「努力じゃなくて」
伊吹はそこで言葉を止めた。
それ以上続ければ、自分が泣きそうになることを理解したからだった。
ひよりは何も言わず、ただ隣に座る伊吹へ僅かに体を向けた。
その少し前では、龍園が一人で大型スクリーンを見上げていた。
七人。
今はまだ七人。
龍園はその数字を睨みながら、
自分たちが既にかなり危険な場所まで進んでいることを理解していた。
最初の四人で止められた。
伊吹を助けなければ五人にはならなかった。
橋本を助けなければ六人にはならなかった。
白波を助けなければ七人にはならなかった。
後から振り返れば簡単に言える。
しかし、その場で仲間を切れたかと問われれば、答えは変わる。
龍園自身が伊吹を救った。
その判断を後悔しているわけではない。
だからこそ厄介だった。
正しいと思って選んだ行動が、結果としてひよりを危険へ送った。
そして今、自分までその中へ入っている。
龍園は学校側の監督席へ視線を向けた。
教師たちは何も言わない。
ただ、生徒たちの選択を見ている。
その態度が気に入らなかった。
試験で負けることなら受け入れられる。
頭脳戦で上回られることもある。
暴力で倒されることもある。
しかし、仲間を助けたいという感情を利用され、
自分たちの手で候補者を増やしていく構造だけは、龍園にとって別種の不快感を与えていた。
「随分と舐めた真似してくれんじゃねえか」
小さな声で呟く。
近くにいた石崎だけがその声を聞いた。
「龍園さん?」
「何でもねえ」
龍園は笑わなかった。
「この試験、絶対に学校の思い通りには終わらせねえ」
その言葉には、先ほどまでとは違う熱が混ざっていた。
自分が助かるためだけではない。
ひよりを助けるためだけでもない。
伊吹を救ったことを正当化するためでもない。
この試験そのものに対する敵意が、初めて明確な形になっていた。
しかし、その決意とは無関係に時間は進む。
大型スクリーンの数字が八十九分五十九秒へ変わった瞬間、
体育館全体の端末が一斉に震えた。
新しい学校通知だった。
堀北がすぐに画面を確認する。
坂柳も目を細める。
一之瀬が顔を上げる。
龍園も端末を開いた。
『第二選択時間・中間通知』
『現在の責任対象者数は七名です』
『本試験では、第二選択時間終了時に責任対象者数が規定人数へ到達していない場合、
学校側による追加指定を実施します』
体育館中からざわめきが起こった。
堀北が通知を読み返す。
「規定人数……?」
一之瀬の顔色が変わる。
坂柳から僅かな笑みが消える。
龍園は数秒間画面を見つめた後、拳を握った。
今まで生徒たちは、責任対象者を増やさないことが正しいと考え始めていた。
しかし学校側は、その考えそのものを揺さぶってきた。
規定人数へ届かなければ、学校が強制的に追加する。
つまり七人では足りない可能性がある。
どれほど救済を止めても、学校側がさらに候補者を増やす。
体育館の空気が再び崩れ始める中、スクリーンの最下部へ最後の一文が表示された。
『規定人数については、第二選択時間終了まで非公開とします』
龍園はその文章を見たまま、ついに抑えていた怒りを隠さなかった。
「ふざけんなよ」
低い声だったが、近くにいた全員が振り返った。
龍園は端末を握りしめたまま立ち上がる。
「人数増やしたら増やしたで退学候補が増える。
増やさなきゃ今度は学校が勝手に足す。しかも何人必要かは教えねえってか」
監督席の教師たちは答えない。
龍園は一歩前へ出る。
「最初から俺らに選ばせる気なんざねえじゃねえか」
ひよりが静かに龍園を見る。
伊吹も立ち上がる。
石崎の表情からも、先ほどまでの迷いが消えていた。
龍園はスクリーンを睨みつけながら、低く吐き捨てた。
「いいぜ。そこまでやるなら最後まで付き合ってやる」
その言葉と同時に、第二選択時間の数字は止まることなく減り続けていた。
龍園クラスはこの時点で、まだ誰一人正式に退学していない。
しかし、クラスを支えてきた龍園翔と椎名ひよりの二人が責任対象者となり、
一度救済された伊吹澪も、自分だけが残るかもしれないという罪悪感に押し潰され始めている。
そして学校側の中間通知によって、彼らは初めて理解させられた。
この試験では、救済を続けても地獄が広がり、救済を止めても地獄が向こうから近づいてくる。
龍園がどれほど合理的な判断を下しても、学校側はその先に新しい選択を用意している。
それでも彼は、まだ折れてはいなかった。
むしろ、自分自身が退学候補となったことで、ようやく本気でこの試験へ牙を剥き始めていた。