第二選択時間の中間通知が表示されてから、第一体育館の空気は再び大きく揺れていた。
それまで生徒たちは、救済権を行使するほど責任対象者が、
増えていくという単純な構造を理解し始め、
少なくともこれ以上は不用意に人数を増やすべきではないという方向へ傾きつつあった。
しかし学校側は、その考えを見透かしたかのように新たな規則を提示した。
第二選択時間終了時点で責任対象者の人数が規定人数へ到達していなければ、
学校側が強制的に追加指定を行う。
しかも、その規定人数は非公開。
七人で足りるのか、八人なのか、十人なのか、それとももっと多いのか。
誰にも分からない。
救済を使えば責任対象者は増える。
救済を止めても、学校側が勝手に増やす可能性がある。
つまり生徒たちは、どちらを選んでも完全には安全になれない状況へ追い込まれていた。
その中で、坂柳クラスだけは他の三クラスとは少し違った空気に包まれていた。
現在の責任対象者は森下藍ただ一人。
最初に選ばれていた橋本正義は既に救済され、
その結果として森下が新たに対象となり、さらに堀北クラスから松下千秋が選ばれている。
橋本は助かった。
しかし、自分を助けた結果として森下が危険へ落ちた。
その事実が、彼の中で予想以上に重く残っていた。
「姫、やっぱり森下は助けるべきじゃないか」
橋本は何度目か分からない提案を口にした。
坂柳は椅子に腰を下ろし、杖を手元へ置いたまま大型スクリーンを見上げている。
「先ほども申し上げましたが、感情だけで判断するべきではありません」
「いや、感情だけじゃないって。今の中間通知見ただろ。
どうせ規定人数まで増やされるなら、こっちから救済使っても同じじゃないか」
「同じではありません」
坂柳は即座に否定した。
「学校側が追加指定する人数は不明です。
こちらが森下さんを救済した場合、確実に二名が増えます。
しかし、何もしなかった場合に学校側が何名を追加するのかは分かりません。
比較できないものを同一視することはできません」
橋本は舌打ちを堪えるように息を吐いた。
「でもこのまま森下を置いといたら、退学候補のままだろ」
「そうですね」
「それでいいのかよ」
坂柳は少しだけ橋本を見る。
「良いとは言っていません」
「じゃあ何でそんな落ち着いてられるんだよ」
「落ち着いて見えることと、何も感じていないことは同じではありませんよ」
橋本は黙った。
その言葉には、いつものような軽い皮肉とは違う重さがあった。
坂柳自身も森下を切りたくない。
橋本を助けた判断が本当に正しかったのか、既に確信を失い始めている。
そして何より、森下本人が責任対象者となっているにもかかわらず、
普段とほとんど変わらない調子を崩していないことが、周囲の生徒たちを逆に不安にさせていた。
その森下は、少し離れた場所で自分の端末を見つめながら何やら操作していた。
近くにいた山村美紀が心配そうに声をかける。
「森下さん、大丈夫ですか」
「はい。現在のところ身体的異常はありません」
「そういう意味ではなくて……」
「精神的な意味でしょうか」
「はい」
森下は少し考えた。
「正直に申し上げますと、責任対象者と表示された瞬間には驚きました。
しかし、まだ退学が確定したわけではありませんので、
今から過度に落ち込むのは効率が悪いと判断しています」
山村は困ったように笑った。
「森下さんらしいですね」
「ただし、一つ問題があります」
山村の表情が曇る。
「何ですか」
「先ほどから皆さんが私を深刻な顔で見ています」
「それは心配しているからだと思います」
「理解しています。しかし普段より視線の密度が高く、若干居心地が悪いです」
「そこを気にするんですか」
「重要です」
森下は真顔で答えた。
「もし本当に退学することになった場合、
最後の記憶が皆さんの暗い顔だけというのはあまり趣味が良くありません」
山村は一瞬だけ目を見開いた後、思わず小さく笑ってしまった。
周囲にいた数人も、緊張の中で僅かに表情を緩める。
それを見た森下は満足そうに頷いた。
「今のほうが良いです」
坂柳はそのやり取りを少し離れた場所から見ていた。
橋本も気づき、呆れたように息を吐く。
「何であいつ、こんな時まであの調子なんだよ」
「森下さんですから」
坂柳が僅かに微笑む。
「いや、それ説明になってないだろ」
「十分な説明だと思いますよ」
その短いやり取りによって、坂柳クラスの空気は一瞬だけ軽くなった。
しかし、その安堵は長く続かなかった。
第二選択時間は依然として減り続けている。
責任対象者七名。
池寛治。
佐藤麻耶。
松下千秋。
椎名ひより。
森下藍。
網倉麻子。
龍園翔。
この中で誰を助けるのか。
誰をそのまま残すのか。
そして規定人数とは何人なのか。
答えのない問いが、再び全員の意識をスクリーンへ引き戻す。
坂柳は手元の端末へ視線を落とし、これまでに得られた情報を整理していた。
一度目の救済では、龍園クラスが伊吹を助け、堀北クラスの佐藤と龍園クラスのひよりが選ばれた。
二度目では、坂柳クラスが橋本を助け、坂柳クラスの森下と堀北クラスの松下が選ばれた。
三度目では、一之瀬クラスが白波を助け、一之瀬クラスの網倉と龍園クラスの龍園が選ばれた。
三回の救済によって、追加された責任対象者は六名。
そのうち二名は救済を実行したクラスと同じクラスから選ばれている。
これだけ見れば、完全な無作為にも見える。
しかし坂柳は、それを信用していなかった。
学校側が選出方法を非公開としている以上、何らかの意図が介在している可能性は消えない。
むしろ、主要人物や人間関係の濃い人物が選ばれていること自体に、不自然さを感じ始めていた。
どの人物も、それぞれのクラスにおいて一定の役割や人間関係を持つ生徒ばかりだった。
完全無作為なら、もっと接点の薄い生徒が連続して選ばれてもおかしくない。
坂柳は小さく息を吐いた。
「橋本くん」
「何だ?」
「一つお願いがあります」
「珍しいな。俺に頼み事?」
「四クラスの責任対象者について、人間関係とクラス内での役割を整理してください」
橋本の眉が上がる。
「何で?」
「抽選が本当に無作為か確認します」
橋本は一瞬考えた後、すぐに理解した。
「学校がわざと重要な奴を選んでるかもしれないってことか」
「可能性の一つです」
「でも選出方式は非公開だろ。証明できないんじゃないか」
「証明できなくても傾向は見られます」
橋本は端末を操作し始めた。
「分かった。俺の知ってる範囲でまとめる」
その様子を見ていた森下が、いつの間にか二人の近くへ寄ってきた。
「私も参加してよろしいでしょうか」
橋本が顔を上げる。
「お前、当事者だろ」
「だからこそです」
「普通こういう時って、自分をどう助けるか考えるんじゃないのか」
「自分一人では自分を助けられませんので」
「それはそうだけど」
「それに、私が責任対象者であることと、分析能力が消失したことは別問題です」
坂柳が頷く。
「ではお願いします」
「承知しました」
森下は橋本の横へ座り込んだ。
「まず私から評価します」
「自分で?」
「客観性を確保するためです」
「無理だろ」
森下は真顔で端末へ入力する。
「森下藍。クラス内における役割は、
主として観察、情報整理、時折意味不明な発言を行うことによる場の攪乱です」
橋本が吹き出しかけた。
「自覚あんのかよ」
「あります」
「じゃあ直せよ」
「長所を?」
「誰も長所って言ってねえ」
森下は少し首を傾げる。
「橋本正義は失礼ですね」
「お前にだけは言われたくない」
坂柳は二人のやり取りを見ながら、僅かに口元を緩めた。
この状況で森下がいつも通りであることは、ある意味では救いだった。
クラス全体が沈み続ければ、冷静な判断そのものが難しくなる。
森下の奇妙な言動は、
意図しているのかいないのか分からないが、場の緊張を少しだけ緩和している。
しかし坂柳は、それを理由に彼女を失ってよいとは到底思えなかった。
橋本が情報を整理しながら口を開く。
「佐藤は軽井沢との繋がりが強い。
椎名は龍園クラスの中でもかなり重要。松下も表向き以上に能力がある。
網倉は一之瀬と白波との関係が深い。龍園は言うまでもない」
森下が頷く。
「そして私は坂柳クラスにおける希少なギャグ要員です」
橋本が顔をしかめる。
「そこ自分で言うなよ」
「事実ではありませんか」
「まあ否定しにくいけど」
「つまり学校側が重要人物を優先的に選んでいる場合、
私が選ばれたことには極めて合理性があります」
「そんな理屈で納得すんな」
「納得はしていません。ただ、筋が通っています」
坂柳は端末を見つめる。
「確かに、偶然として片付けるには少し偏っていますね」
橋本も表情を戻す。
「じゃあ何だ。次も重要な奴が狙われる可能性が高い?」
「その可能性はあります」
「それならなおさら森下を助けるの危険じゃないか」
「そうなります」
橋本は黙り込んだ。
自分が救済を求めたことで森下が選ばれた。
今度は森下を救えば、さらに二人が選ばれる。
しかも、その二人が重要人物になる可能性がある。
もし坂柳自身が選ばれたら。
その想像が頭をよぎった瞬間、橋本の表情が硬くなった。
坂柳はその変化に気づいていた。
「私が選ばれることを考えましたか」
橋本が苦笑する。
「顔に出てた?」
「かなり分かりやすく」
「そりゃ考えるだろ。今の流れならあり得る」
「そうですね」
「姫が候補になったらどうすんだよ」
「その時に考えます」
「それでいいのか?」
「まだ起きていないことに怯えても、現在の判断が歪むだけです」
橋本は納得していない顔をした。
その時、山村が控えめに近づいてきた。
「坂柳さん、少しよろしいでしょうか……」
「どうぞ」
「クラスの中で、森下さんの救済投票を求める声が増えています……」
坂柳は周囲を見る。
確かに、森下をこのまま責任対象者として残すことに反対する生徒は多い。
橋本を助けた以上、森下も助けるべきだという意見。
自分たちだけ仲間を切り捨てるべきではないという意見。
規定人数まで増やされるのなら、どうせなら自分たちで助けたいという意見。
それぞれに理由がある。
「過半数まで行きそうですか」
山村は少し迷った。
「今のところ、かなり近いと思います……」
坂柳は目を閉じた。
救済を止める。
それが合理的。
しかし、クラス全体が納得しなければ意味がない。
リーダーが一方的に合理性だけを押し付ければ、残った生徒たちの信頼を失う。
特に今のような極端な状況では、
誰かを切る判断を一人で背負わせることそのものが危険だった。
森下が静かに手を上げる。
「私から一つ提案があります」
坂柳が目を開く。
「何でしょう」
「救済投票を実施してください」
橋本が驚く。
「お前、自分を助けてほしいのか」
「違います」
「じゃあ何で」
「クラスの意思を明確にするためです」
森下は周囲を見る。
「現在、皆さんは私を助けたい気持ちと、助けることで二人が増える恐怖の間で揺れています。
曖昧なまま時間だけが過ぎると、最終的に坂柳さんへ全責任を押し付ける形になりかねません」
坂柳が静かに森下を見る。
「続けてください」
「投票を行い、クラス全体で判断すべきです。
結果が賛成なら救済し、反対なら私は残ります。
それなら少なくとも、後で誰か一人だけを責める形にはなりにくいでしょう」
橋本が眉をひそめる。
「お前、本気で言ってんのか」
「はい」
「反対が勝ったら退学候補のままだぞ」
「現時点でも同じです」
「だからって」
「橋本正義」
森下は少しだけ表情を緩めた。
「先ほどから私よりあなたのほうが焦っています」
橋本が言葉を失う。
「……悪いかよ」
「悪くありません」
森下は淡々と続けた。
「ただ、私が比較的落ち着いているのに、
救済済みの橋本正義が私の分まで慌てているので、役割分担としては効率が良いですね」
「お前な」
「ありがとうございます」
「礼言われると余計腹立つな」
山村がまた少し笑った。
坂柳はその様子を見た後、決断する。
「では投票を行いましょう」
橋本が振り返る。
「姫」
「森下さんの言う通りです。私一人の判断にするべきではありません」
クラス内の端末へ通知が送られる。
『椎名ひより救済案』ではなく、今度は坂柳クラスの画面に『森下藍救済案』が表示される。
賛成。
反対。
生徒たちがそれぞれ端末を見る。
森下自身も投票画面を見つめた。
橋本が気づく。
「お前、どっち入れるんだよ」
「反対です」
「即答かよ」
「自分一人を助けるために二人増えることへ賛成するのは、少し気が引けます」
「でも自分のことだろ」
「だからこそです」
「本当に変な奴だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてねえ」
投票が始まる。
最初は賛成票が優勢だった。
森下を助けたい生徒は多い。
しかし、反対票も着実に増える。
一度救済を経験したことで、全員が代償を理解している。
橋本は画面を睨んでいる。
坂柳は無言。
山村は迷った末に賛成を選んだ。
森下は宣言通り反対。
票差は徐々に縮まっていく。
そして最終結果。
『森下藍救済案』
『賛成――過半数到達』
『救済成立』
体育館正面の大型スクリーンが赤く点滅した。
『森下藍――責任対象解除』
坂柳クラスから僅かな安堵の声が上がる。
山村も息を吐いた。
橋本が森下を見る。
「助かったな」
森下は自分の名前から赤い表示が消えたことを確認し、少し考える。
「そうですね」
「もっと喜べよ」
「喜んでいます」
「全然見えねえ」
「内面は祝賀会です」
橋本が呆れたように頭を抱える。
「こんな時までその調子かよ」
「このような時だからこそです」
森下はそう答えた。
しかし、その直後に大型スクリーンへ表示された文字を見た瞬間、森下も僅かに表情を引き締めた。
『新規責任対象者を選出します』
誰も笑わなくなる。
クラス名が高速で切り替わる。
堀北クラス。
一之瀬クラス。
龍園クラス。
坂柳クラス。
一人目の表示が止まった。
『一之瀬クラス』
神崎隆二。
一之瀬クラスから大きなどよめきが起こった。
神崎本人は数秒間画面を見つめた後、何も言わずに腕を組んだ。
一之瀬の顔色が変わる。
既に網倉が責任対象者になっている。
そこへ神崎まで加わった。
森下を救ったことで、新たな犠牲候補が一之瀬クラスへ移った。
坂柳クラスの生徒たちにも重い沈黙が広がる。
そして二人目の抽選が始まる。
橋本は大型スクリーンを睨みつけていた。
坂柳も杖を握る手に僅かに力を入れる。
森下は先ほどまでの軽い調子を一旦消し、画面を見上げた。
表示が止まる。
『坂柳クラス』
坂柳有栖。
誰も声を出せなかった。
橋本の顔から血の気が引く。
山村が目を見開く。
周囲の生徒たちは、自分が見た文字を信じられないようにスクリーンを見上げ続ける。
森下も何も言わなかった。
普段なら何か奇妙な感想を挟む彼女ですら、この瞬間だけは黙っていた。
坂柳自身は、自分の名前が赤く表示された画面を見つめたまま動かなかった。
数秒後、橋本がようやく声を絞り出す。
「……姫」
坂柳は答えない。
「姫」
二度目の呼びかけで、ようやく坂柳が橋本を見る。
「聞こえていますよ」
「いや、これ……」
「私が責任対象者になりましたね」
あまりにも平静な言い方だった。
橋本は逆に苛立つ。
「見りゃ分かるよ!」
「では、なぜ説明を求めるのですか」
「そういうことじゃねえ!」
橋本の声が体育館へ響いた。
坂柳クラスの生徒たちが一斉に橋本を見る。
「俺を助けたせいで森下が候補になって、その森下を助けたら今度は姫って、何だよこれ!」
坂柳は少しだけ目を伏せた。
橋本の言葉は事実だった。
橋本を救った。
森下が選ばれた。
森下を救った。
坂柳が選ばれた。
一つの善意が次の犠牲を生み、その犠牲を救おうとした結果、
クラスの中心そのものが危険へ落ちた。
橋本は頭を抱える。
「こんなの俺が最初に残ってりゃよかっただけじゃねえか」
森下がすぐに否定する。
「それは結果論です」
橋本が振り返る。
「でも事実だろ!」
「当時の時点でこの結果を予測することはできませんでした」
「予測できなくても、俺を助けなきゃ」
「橋本正義」
森下は普段より少し強い声を出した。
「今それを言っても何も変わりません」
橋本が黙る。
「それに、私を救済したのはクラス全体の判断です。橋本正義一人が全ての原因ではありません」
「でも最初は俺だった」
「最初は学校が橋本正義を選びました」
「だからって」
「責任の所在を一人に集中させると、この試験の思うつぼではないでしょうか」
橋本は言葉を失った。
森下の表情は真面目だった。
そして数秒後、少しだけいつもの調子を戻す。
「それに、橋本正義が全部背負うと私の背負う分が減りすぎます」
「何だそれ」
「公平性の問題です」
「そこ公平にすんなよ」
森下の言葉に、ほんの僅かだけ周囲の緊張が緩む。
しかし坂柳は笑わなかった。
自分の名前。
神崎の名前。
それを見比べる。
現在の責任対象者は八名。
池寛治。
佐藤麻耶。
松下千秋。
椎名ひより。
網倉麻子。
龍園翔。
神崎隆二。
坂柳有栖。
四人から始まった試験は、とうとう倍の八人まで膨れ上がっていた。
坂柳はゆっくりと立ち上がった。
山村が心配そうに近づく。
「坂柳さん」
「大丈夫です」
「ですが」
「まだ何も確定していません」
そう言いながらも、坂柳の声から普段の余裕は減っていた。
大型スクリーンを見上げる。
そして、これまで何度も学校側の規則を分析してきた頭で、もう一度全てを組み直す。
救済を続ければ増える。
止めても学校側が追加する可能性がある。
規定人数は非公開。
重要人物が狙われている可能性もある。
救済にはクラス内過半数。
一度救われても再選出される。
特別ポイントによる解除は不可。
試験終了条件も非公開。
一つ一つは規則として成立している。
しかし全体として見ると、あまりにも生徒の心理を壊す方向へ設計されていた。
坂柳は杖を握りしめる。
「なるほど」
橋本が見る。
「何か分かったのか」
「いえ」
坂柳は静かに首を振った。
「むしろ、分からないことが増えました」
「姫でも?」
「ええ」
その言葉に、周囲が静まる。
坂柳が自分から分からないと認めることは珍しい。
だからこそ、その一言だけで状況の異常さが伝わった。
「ですが一つだけ確かなことがあります」
坂柳は監督席へ視線を向けた。
教師たちは依然として黙っている。
「この試験を作った方は、生徒の能力を測りたいだけではありません」
橋本が眉を寄せる。
「じゃあ何が目的なんだ」
坂柳の目が冷たくなる。
「誰かを救おうとする気持ちを利用して、私たち自身の手で人間関係を壊させることです」
その声に、初めて明確な怒りが混ざった。
大声ではない。
龍園のように罵声を飛ばすわけでもない。
しかし、それまでのどの言葉よりも冷たかった。
「救済という名称を与え、使えば使うほど状況を悪化させる。
それでも仲間を見捨てられないことを見越して、判断を繰り返させる。
そして最終的には、誰を助け、誰を助けなかったのかという記憶だけを残す」
坂柳は小さく息を吐く。
「随分と趣味の悪い試験ですね」
橋本は何も言わない。
森下も黙っていた。
坂柳はさらに続ける。
「私が責任対象者となったこと自体は問題ではありません」
山村が思わず声を出す。
「も、問題です……」
坂柳が山村を見る。
「ありがとうございます」
その言葉だけは柔らかかった。
「ですが、私が問題だと感じているのは、自分の名前が表示されたことではありません。
橋本くんを救った結果として森下さんが選ばれ、森下さんを救った結果として私が選ばれた。
この因果関係を、残された皆さんへ背負わせることです」
橋本の表情が歪む。
坂柳はそれを見ても言葉を止めない。
「おそらく試験が終わった後も、誰かは考えるでしょう。
あの時救済しなければよかったと。誰かは逆に、なぜ自分を助けなかったのかと恨むでしょう。
それこそが学校側の狙いなのだとすれば、私は非常に不愉快です」
その瞬間、坂柳クラスの空気が変わった。
今まで誰もが自分たちの生存だけを考えていた。
しかし坂柳の言葉によって、初めて試験後のことまで想像した。
たとえ退学者が少なく済んでも、
残された者同士の関係が壊れていれば、本当に勝ったと言えるのか。
橋本は自分の手を見る。
自分を助けてほしいと願った。
その結果、森下が候補になった。
さらに森下を助けた結果、坂柳が候補になった。
もし坂柳が退学すれば、自分はその事実を忘れられるのか。
答えは出なかった。
森下が静かに坂柳へ近づく。
「坂柳有栖」
「何でしょう」
「今のところ、私は坂柳有栖の救済に賛成です」
橋本が思わず見る。
「お前、自分の時は反対だっただろ」
「はい」
「何で姫は助けるんだよ」
「クラスにおける重要度が違います」
「自分で言うのか、それ」
「事実です」
森下は真顔だった。
「坂柳有栖が退学した場合、このクラスは大幅に弱体化します。
私が退学した場合、ギャグ要員が一人減ります」
橋本が頭を抱える。
「比較の仕方がおかしいだろ」
「どちらも重要ですが、優先順位は明確です」
「自分でギャグ要員って認めるなって」
「既に先ほど認めました」
「そこ律儀に継続すんな」
坂柳がとうとう小さく笑った。
ほんの一瞬だった。
しかし、それはこの試験が始まってから初めて自然に出た笑いだった。
森下はそれを見て満足そうに頷く。
「良かったです」
坂柳が少し首を傾げる。
「何がですか」
「坂柳有栖が笑いました」
その言葉に、坂柳の表情が止まる。
森下は続ける。
「険しい顔も似合いますが、ずっと続けると疲れると思います」
「随分と余裕がありますね」
「余裕があるように振る舞うことと、本当に余裕があることは別です」
坂柳は森下を見る。
先ほど自分が橋本へ言った言葉と似ている。
森下は普段通りに見える。
しかし、彼女だって怖くないわけではない。
責任対象者になった時も、救済された時も、誰より平然としていた。
それでも内面まで何も感じていないはずがない。
坂柳はそれを理解した。
「森下さん」
「はい」
「ありがとうございます」
森下は少し考えた。
「何に対してでしょうか」
「今は分からなくて結構です」
「承知しました。後ほど考察します」
橋本が苦笑する。
「本当にブレねえな、お前」
「安定性は長所です」
「そこだけ聞くとかっこいいんだけどな」
その会話が終わった直後、体育館全体の端末が再び震えた。
第二選択時間の残りは六十分。
中間地点。
新しい通知が表示される。
『第二選択時間・追加情報』
『本試験における規定責任対象者数は、第二選択時間終了時点で十二名とします』
体育館中から悲鳴に近い声が上がった。
坂柳の目が見開かれる。
橋本が画面を二度見する。
森下も今度ばかりは完全に黙った。
現在八名。
規定人数十二名。
つまり、あと四人。
救済を使わなくても、学校側は不足分を追加する。
そして救済を使えば、一回につき総数は一人増える。
坂柳はすぐに計算した。
今から救済を四回使えば、八人から十二人。
救済を一切使わなくても、終了時に学校側が四人追加して十二人。
二回使えば十人となり、残り二人を学校側が追加する。
どう選んでも、第二選択時間終了時点では十二人に到達する。
つまり、学校側は最初から十二人を責任対象者にするつもりだった。
救済とは、人数を減らす手段ではない。
誰を十二人の中へ入れるかを生徒自身へ選ばせる仕組みだった。
坂柳の表情から完全に笑みが消えた。
橋本も理解する。
「最初から……十二人?」
坂柳はゆっくりと頷いた。
「そういうことです」
森下が小さく息を吐く。
「つまり私たちは、人数を減らすために救済していたのではなく、
十二人の構成員を入れ替えていただけということですね」
橋本の顔が歪む。
「ふざけんなよ」
坂柳は監督席を見る。
今度こそ、その目には隠しようのない怒りが宿っていた。
「これは救済ではありません」
誰に聞かせるでもなく、しかし体育館に届くほど明確な声で言う。
「ただの選別です」
その言葉と同時に、第一体育館にいた全員がようやくこの試験の本当の形を理解した。
最終的に責任対象者は十二人。
その十二人が全員退学するのか、まだ別の段階があるのかは分からない。
しかし少なくとも、第二選択時間終了までに十二人の名前が赤く並ぶことだけは確定した。
坂柳は自分の名前を見上げる。
森下は救済されている。
橋本も救済されている。
しかし自分は今、責任対象者。
そして十二人へ到達するまで、あと四人。
クラスの誰もが、次に救済を使うべきか分からなくなっていた。
坂柳を助ければ二人増える。
助けなくても最終的には誰かが四人追加される。
ならば坂柳を助けるべきなのか。
しかし、その救済によって選ばれた二人が橋本や森下だったら。
一度救済された者も再び候補になり得る。
坂柳はその可能性まで計算し、静かに目を閉じた。
そして次に目を開いた時、そこには普段の余裕ある微笑はなかった。
「橋本くん、森下さん」
二人が見る。
「これからは、自分たちが残ることだけを考えてください」
橋本が眉を寄せる。
「姫?」
「私への救済は、現時点では行わないでください」
「何言ってんだよ」
森下も少しだけ表情を変える。
「理由をお聞きしても?」
「十二人まで必ず増える以上、私を助けても誰か二人が新たに選ばれます。
そして、その二人があなた方でない保証はありません」
橋本が強く首を振る。
「だからって姫をそのままにするのかよ」
「今はそれが最善です」
「最善なわけあるか」
「感情ではなく、クラス全体を見てください」
橋本は何も言えない。
坂柳がいなくなれば、クラスは大きく揺れる。
しかし坂柳を救うために、また二人が危険になる。
どちらを選んでも正しいとは言えない。
森下は暫く坂柳を見ていたが、やがて静かに頷いた。
「分かりました」
橋本が振り返る。
「森下」
「ただし、状況が変われば再検討します」
坂柳が僅かに笑う。
「それで結構です」
森下も頷く。
「私も坂柳有栖が退学すると非常に困りますので」
「理由を聞いても?」
「このクラスの秩序が崩れるからです」
橋本が少し安心した顔をする。
森下は続けた。
「あと、坂柳有栖がいなくなると私の発言を適度に受け流してくれる人が減ります」
橋本が即座に突っ込む。
「結局そこかよ」
「重要です」
坂柳は今度こそほんの僅かに笑った。
しかし、その笑みの向こうにある現実は何も変わらない。
十二名。
あと四名。
そしてその中に、既に坂柳有栖の名前がある。
第二選択時間の数字が静かに減り続ける中、
坂柳クラスは初めて、自分たちのリーダーを失うかもしれない未来を現実として見始めていた。