第二選択時間の残りが三十分を切り、
第一体育館の大型スクリーンに表示された責任対象者が八名のまま動かなくなってから、
堀北鈴音は自分たちのクラスへ戻ると、誰とも言葉を交わさないままホワイトボードの前に立った。
現在の責任対象者は、堀北クラスから池寛治、佐藤麻耶、松下千秋の三名、
龍園クラスから龍園翔と椎名ひよりの二名、坂柳クラスから坂柳有栖の一名、
一之瀬クラスから神崎隆二と網倉麻子の二名となっており、
第二選択時間終了時点では合計十二名まで必ず増加することが学校側から明示されている。
残り四名。
救済権を一度使えば、
一人が現在の責任対象者から解除される代わりに二人が新たに選出されるため、
責任対象者全体は九名となる。
さらに二度使えば十名。
三度なら十一名。
四度使えば十二名。
一切使わなければ、学校側が不足している四名を追加指定し、
その四名に対する救済は第二選択時間終了後には認められない。
つまり、この三十分で四クラスが決めなければならないのは、
退学候補者を十二人より少なくする方法ではなく、十二人の中へ誰を残し、
誰を外し、その代わりに誰を入れるのかという極めて残酷な人員調整だった。
堀北はホワイトボードの左端へ現在の八名を書き、
その右側へ救済を一回行った場合、二回行った場合、三回行った場合、
四回行った場合という四つの欄を作り、考え得る組み合わせを書き始めた。
池を助ければ二人が増える。
佐藤を助けても二人。
松下でも同じ。
誰を助けても人数そのものは一人増える。
しかも新たに選出される二人が誰なのかは分からない。
救済済みの伊吹、橋本、白波、森下が再び責任対象者になる可能性もあれば、
平田、須藤、軽井沢、堀北自身、
あるいは今まで名前の出ていない生徒へ赤い表示が移る可能性も残されている。
堀北は数字を書いては消し、別の組み合わせを書いては再び消した。
少し離れたところで須藤がその姿を見ていたが、
普段なら何か声をかける場面でも、今は黙っていた。
篠原は池の隣にいる。
軽井沢は佐藤から離れない。
松下は自分の席に座り、腕を組みながらホワイトボードを見ている。
平田も全体を見渡しているものの、いつものようにすぐ全員へ話しかけることができずにいた。
誰かを励ます言葉が、別の誰かを傷つける可能性があるからだった。
オレは教室側の集団から少し外れた位置に立ち、堀北が何を書いているのかを眺めていた。
計算そのものに難しい部分はない。
八人を十二人へ近づける。
それだけなら小学生でもできる。
難しいのは、数字の一つ一つが人間であることだった。
仮に池を救済し、
新たに二人が選ばれた結果として平田と軽井沢が責任対象者になったとする。
その時、池を救った判断をクラスは正しいと考えられるのか。
逆に池を救わず、そのまま退学候補として残した場合、
篠原や須藤はその判断を受け入れられるのか。
佐藤を切れば軽井沢に傷が残る。
松下を切れば、
彼女自身がこれまで隠してきた能力を発揮する機会すら失う可能性がある。
誰か一人を助ける価値と、誰か二人を危険へ送る価値を比較する。
学校側が生徒たちへ強要しているのは、それだった。
「……駄目ね」
堀北が小さく呟いた。
誰かに聞かせるためではない。
しかし、近くにいたオレには聞こえた。
堀北はホワイトボードの一部を消し、新しい矢印を書き込む。
「池君を救済した場合、責任対象者が九人になって、
その後追加される三人は学校側が選ぶことになる。
でも、その二人が堀北クラスから出ない保証はないし、
既に救済された生徒が戻る可能性もある。佐藤さんでも松下さんでも同じ」
オレは答えない。
堀北は一人で考え続ける。
「じゃあ三人全員を救えば、八人から十一人になるのではなく、
一人ずつ総数が増えるから十一人。その間に新しく六人が責任対象者へ入って、
そのうち現在の三人が外れる。つまり、結果として責任対象者の構成が大きく入れ替わるだけ」
「そうなるな」
「それでも最後に一人は学校側が追加する」
「ああ」
「四回目の救済を使えば十二人にはなるけれど、
そのためには他クラスの誰かまで助けなければならない」
「使う義務はない」
「分かっているわ」
堀北は苛立ったように返した。
オレに対して怒っているわけではない。
自分が何度計算しても、答えが出ないことに苛立っている。
「結局、誰かを助ければ別の誰かが増える。それだけなのよ」
「最初からそういう試験だ」
「分かっている」
堀北は再び同じ言葉を口にした。
「でも、分かっていることと、納得できることは違うでしょう」
その言葉には、普段の堀北らしくない疲労が混じっていた。
試験開始から彼女はずっと、全員が残れる可能性を探している。
学校側が提示した文章の裏。
救済回数。
クラス間の権限。
特別ポイント。
自主退学。
責任対象者の再選出。
第二選択時間。
規定人数。
あらゆる条件を組み合わせても、責任対象者を十二人未満へ減らす方法は見つからない。
むしろ学校側は、堀北たちが抜け道を探すことまで想定しているかのように、
一つずつ逃げ道を塞いでいる。
篠原が立ち上がった。
「堀北さん」
堀北が振り返る。
「何?」
「寛治を助けて」
体育館の空気が僅かに変わった。
池が篠原を見る。
「おい」
「黙ってて」
篠原は池を振り切るように堀北へ近づいた。
「もう時間ないんでしょ」
「ええ」
「だったら寛治を助けてよ」
「篠原さん」
「誰か二人増えるのは分かってる。でも、どうせ最後は十二人になるんでしょ」
堀北は眉を寄せる。
「だからといって、池くんを優先していい理由にはならないわ」
「じゃあ何で寛治なの?」
「何が?」
「最初から学校に選ばれただけじゃん」
篠原の声が震える。
「寛治が何か失敗したわけじゃないし、誰かを裏切ったわけでもない。
それなのに最初に選ばれたから、そのまま退学候補でいいっておかしくない?」
堀北は答えられない。
篠原は続ける。
「伊吹さんは助けてもらった。橋本くんも白波さんも助けてもらった。
だったら寛治にも助けてもらう権利あるでしょ」
「その三回の救済によって、責任対象者は四人から七人まで増えたのよ」
「分かってる!」
「なら」
「分かってるけど嫌なの!」
篠原の目から涙がこぼれた。
「寛治がいなくなるの嫌なの。そんなの理由にならないの?」
堀北は口を閉じた。
合理性だけで言えば理由にはならない。
しかし、人間が誰かを救いたいと思う理由としては十分だった。
池は座ったまま顔を伏せている。
少し前までなら、篠原がここまで自分のために怒ることを喜んだかもしれない。
今はそんな余裕などなかった。
「さつき」
「何よ」
「もういいって」
篠原が振り返る。
池は顔を上げない。
「俺、もう助けなくていい」
「何言ってんの」
「だって俺助けたら二人増えるんだろ」
「だからって」
「椎名だって龍園だって助けるなって言ってるじゃん」
「他のクラスは関係ないでしょ!」
「関係あるだろ、この試験じゃ」
池の声も震えていた。
普段の軽薄さはどこにもない。
「最初は俺も助けてくれって思ってたよ。
マジで退学とか無理だし、卒業したいし、まだ遊びたいし、
やりたいこといっぱいある。でも伊吹助けたら佐藤と椎名が出て、
橋本助けたら松下と森下が出て、白波助けたら龍園と網倉が出たんだろ」
池はようやく顔を上げた。
「俺助けたら、また誰か出るじゃん」
篠原は首を振る。
「だからって諦めないでよ」
「諦めたくねえよ」
池の声が大きくなる。
「俺だって残りてえよ!」
その叫びに、クラス全体が静まった。
「でも、俺が残るために誰か二人出て、
その二人の友達が泣くんだろ。それ見たら、俺、絶対喜べねえよ」
篠原の涙が止まらない。
池自身も目元を拭いた。
「俺みたいなのでも、そのくらい分かるって」
須藤が池へ歩み寄る。
「馬鹿野郎」
池が苦笑する。
「お前に馬鹿って言われたくねえよ」
「そういう意味じゃねえ」
須藤は拳を握った。
「勝手に終わったみてえなこと言うな」
「でもよ」
「まだ退学って決まってねえだろ」
「責任対象者なんだからかなりヤバいだろ」
「それでもだ」
須藤はそれ以上うまく言葉にできなかった。
平田が静かに近づく。
「僕も池くんを助けたいと思ってる」
堀北が見る。
「平田くん」
「でも、だからこそ簡単には救済を使えない」
平田は池へ視線を向ける。
「僕たちが池くんを大切に思うのと同じように、
次に選ばれる二人にも、その人を大切に思っている人がいるから」
篠原は何も言えなくなった。
それは、この試験が四クラス全員へ突きつけている現実だった。
誰かを助けたいという感情は、誰にでもある。
だからこそ、自分の仲間だけを助ければいいという結論にはできない。
その少し離れた場所では、佐藤と軽井沢が話していた。
佐藤は先ほどから何度か救済を申し出るよう軽井沢に言われていたが、
ずっと首を縦に振らなかった。
「恵ちゃん、もうやめよ」
「何でよ」
「私を助ける話」
「やめられるわけないじゃん」
「でも、どうせ十二人になるんだよ」
「だったらなおさら助けたっていいでしょ」
「その代わりに二人増えるんだよ」
「学校が勝手に四人追加するのと一緒じゃん」
「一緒じゃないよ」
佐藤は静かに答えた。
軽井沢が眉を寄せる。
「何が違うの」
「私を助けるために増えたって分かるじゃん」
軽井沢の表情が止まった。
「学校が選んだなら、私たちにはどうしようもない。
でも恵ちゃんたちが私を助けて、そのせいで誰か二人が選ばれたら、
その人たちは絶対思うよ。佐藤を助けたせいで自分がこうなったって」
「だから何よ」
「恨まれても仕方ない」
「そんなの気にしなくていいよ」
「私は気にするよ」
佐藤は少しだけ笑った。
「私、そんな強くないもん」
軽井沢が唇を噛む。
「麻耶ちゃんがいなくなるほうが嫌なんだけど」
「うん」
「軽く返事しないでよ」
「軽く言ってないよ」
佐藤は軽井沢の手を握った。
「私も恵ちゃんと卒業したいよ」
その一言で、軽井沢の表情が崩れた。
「だったら」
「でも、助けてって言えない」
「……何でよ」
「恵ちゃんが次に選ばれるかもしれないから」
軽井沢が黙る。
「私を助けた直後に恵ちゃんの名前が出たら、私どうしたらいいの」
「そんなの分かんないじゃん」
「分かんないから怖いんだよ」
佐藤はそれまで抑えていたものを吐き出すように続ける。
「松下さんかもしれないし、平田くんかもしれないし、須藤くんかもしれないし、
他のクラスの誰かかもしれない。でも誰でも嫌じゃん」
軽井沢の手を握る力が強くなる。
「だから今は押さないで」
軽井沢は顔を背けた。
「……そんなのズルい」
「ごめん」
「本人にそう言われたら、押せないじゃん」
「うん」
「本当にムカつく」
「ごめん」
「謝らないでよ」
軽井沢は目元を拭った。
佐藤も何も言わず、その隣に座った。
そして三人目。
松下千秋は、堀北のホワイトボードをしばらく眺めた後、自分から立ち上がった。
「堀北さん」
「松下さん?」
「私については救済しなくていい」
堀北の表情が険しくなる。
「あなたまで同じことを言うの?」
「同じように聞こえるかもしれないけど、少し理由が違う」
松下は落ち着いていた。
佐藤や池ほど感情を表へ出していない。
しかし、その声には普段より明らかな緊張が混じっていた。
「私、今まで自分の能力を全部出してこなかったでしょ」
堀北は黙る。
松下が本来の学力や判断力を意図的に目立たせてこなかったことは、
堀北もある程度察していた。
「もっと早く本気でクラスに関わってたら、今の立場も違ったのかなって考えた」
「今回の選出基準との関係は分からないわ」
「そうだけど、思っちゃうのよ」
松下は苦笑した。
「必要な時だけ本気を出せばいいとか、
面倒なことには巻き込まれないほうが楽だとか、自分ではうまくやってるつもりだった。
でも、いざ自分の名前が退学候補に出たら、もっとやれることあったなって」
堀北は静かに聞いている。
「だからって、あなたを切っていい理由にはならない」
「分かってる」
「なら」
「でも、私を救った結果として二人増えるのも嫌」
松下は大型スクリーンを見る。
「それに、今まで隠してた私が、こういう時だけクラスに助けてって言うのも何か違う気がする」
「そんなことを理由にする必要はないわ」
「これは私が勝手に思ってるだけ」
松下は少し笑う。
「堀北さん、今すごい顔してるよ」
堀北の眉が動く。
「どういう顔よ」
「全部自分で解決しないといけないって顔」
堀北は反論しなかった。
松下はホワイトボードを見る。
無数の矢印。
消した跡。
書き直した数字。
可能性の検討。
そこには堀北が短時間でどれだけ考え続けたのかが残っていた。
「そんなに考えて答え出ないなら、たぶん答えないんじゃない?」
堀北の表情が固まる。
「簡単に言わないで」
「簡単に言ってないよ」
「私はクラスのリーダーなのよ」
「だから?」
「三人も退学候補が出ているのに、仕方ありませんで終われるわけないでしょう!」
堀北の声が強くなる。
周囲が静まった。
堀北自身も、自分が声を荒らげたことに気づく。
しかし止められなかった。
「池くんも佐藤さんもあなたも、このクラスの生徒よ。
私はあなたたちを残す方法を考えなければならない。
でも三人を助けたら、六人が新しく対象になる。
そこからまた誰かを助ければ、さらに増える。何もしなくても学校が四人追加する」
堀北はホワイトボードへ向き直る。
「だったら何が正しいの」
誰も答えない。
「誰を助ければ正しいの?」
沈黙。
「誰を見捨てれば正しいの?」
答えはない。
堀北は消しかけた数字を見つめる。
「こんなもの、試験じゃないでしょう」
その声は怒っているというより、疲れていた。
「正解を選ぶんじゃない。誰を傷つけるか選んでるだけじゃない」
松下は何も言わない。
平田も須藤も篠原も、誰も堀北へ言葉をかけられなかった。
オレはその様子を見ながら、堀北がようやく一つの地点へ到達したことを理解していた。
これまでの堀北は、どれほど困難な特別試験であっても、
正しい解法が存在することを前提に考える傾向が強かった。
試験である以上、攻略可能な条件がある。
勝利条件がある。
最善手がある。
しかし今回、少なくとも現時点で学校側が提示している規則の中には、
全員が助かる解答は存在していない。
そして、最善手と呼べるものすら、何を価値基準にするかで変わる。
人数を最優先するのか。
クラス戦力を優先するのか。
人間関係を優先するのか。
本人の意思を優先するのか。
誰もが納得する基準などない。
堀北はホワイトボードの前で両手をついた。
そのまま少しの間、俯く。
そしてゆっくり片手を額へ持っていった。
「……どうすればいいのよ」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
しかし、クラスの多くが聞いていた。
堀北が人前でここまで弱った姿を見せることは珍しい。
篠原も何も言えなくなった。
軽井沢も佐藤の隣から堀北を見る。
松下も視線を落とす。
須藤が一歩動きかけたが、オレが先に堀北へ近づいた。
「堀北」
堀北は顔を上げない。
「何?」
「一つだけ間違ってる」
「何が」
「お前一人で三人を救う必要はない」
堀北が顔を上げた。
「でも私は」
「リーダーだから全部の責任を取る必要があると思ってるのか」
「そういうわけじゃ」
「そう見える」
堀北は黙った。
「学校側がこの試験を連帯責任と呼んだ意味は、おそらく一人の責任者を作らないことにもある」
「どういうこと?」
「誰を救うかをクラス全体に決めさせてる。結果がどうなっても、リーダー一人の判断にはできない」
堀北の表情が険しくなる。
「それで責任を薄めているつもり?」
「逆だろうな」
オレは大型スクリーンを見る。
「全員に背負わせるためだ」
堀北が息を止める。
誰か一人が決めたなら、その人物を恨める。
学校がすべて決めたなら、学校を恨める。
しかし、クラス全体で投票させれば、救済した者も、救済しなかった者も、その判断の一部になる。
学校側は責任を薄めるのではない。
広げている。
一人ではなく全員へ。
「だからお前が一人で全部引き受けたところで、この試験の構造は変わらない」
堀北は長い時間、何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「それでも、何もしないわけにはいかないわ」
「それでいい」
「あなたはどう思うの」
「三人への救済は、今は行わないほうがいい」
篠原の表情が変わる。
軽井沢もオレを見る。
須藤も眉を寄せる。
オレは続けた。
「残り四人はどうせ追加される。ここで三人を救えば、その過程で新しい六人が選ばれる。
責任対象者の構成が大きく変わるだけで、十二人になることは避けられない」
堀北が問う。
「学校側の追加指定に任せろということ?」
「少なくとも、今いる三人を助けるために自分たちの手で六人を追加するよりは、
因果関係を増やさずに済む」
篠原が耐えきれず声を上げる。
「それって寛治を見捨てろってことじゃん!」
オレは篠原を見る。
「そうなる可能性が高い」
「何でそんな平気で言えるのよ!」
「平気かどうかは関係ない」
「関係あるでしょ!」
「ない」
篠原が言葉を失う。
「判断に必要なのは、嫌かどうかじゃない。何が起こるかだ」
須藤が険しい顔でオレを見る。
「綾小路、お前……」
「救済するなら止めない。ただし、その時に選ばれる二人も助ける覚悟が必要になる」
誰もすぐには反論できない。
「その二人を切るなら、結局やっていることは同じだ。
池を残す代わりに二人のどちらかを見捨てることになる」
篠原は涙を拭った。
オレの言葉は慰めにならない。
それでも、この段階で曖昧な希望を与えるほうが残酷だった。
堀北がホワイトボードへ向き直る。
そして暫く考えた後、黒板消しを手に取った。
書かれていた救済パターンを、一つずつ消していく。
池救済。
佐藤救済。
松下救済。
三人救済。
複数クラス協調。
すべて消す。
最後に残ったのは、現在の八人という数字と、規定人数十二という数字だけだった。
「……救済を行わない」
堀北が言った。
篠原が顔を上げる。
「堀北さん」
「少なくとも第二選択時間が終了するまで、私たちのクラスから救済申請は出さない」
軽井沢も立ち上がる。
「麻耶ちゃんも?」
堀北が佐藤を見る。
佐藤は静かに頷いた。
「私はそれでいい」
池も苦笑する。
「俺も」
松下も続ける。
「賛成」
本人たちから言われたことで、反対する側の言葉が失われていく。
堀北は三人を見る。
「勘違いしないで。諦めたわけではないわ」
池が少しだけ笑う。
「分かってるよ」
「第二選択時間が終わった後も、規則に抜け道がないか探す」
佐藤も頷く。
松下は小さく息を吐く。
「それで十分よ」
堀北はそれでも苦しそうだった。
自分が三人を助けないという決断を下した事実は消えない。
しかし、少なくともこの三十分間は救済を使わない。
その方針がクラス全体へ共有された。
残り時間は十五分。
四クラスすべてが、ほぼ同じ結論へ近づきつつあった。
龍園クラスは龍園とひよりを救済しない。
坂柳クラスも坂柳への救済を保留。
一之瀬クラスは神崎と網倉を救済しない。
堀北クラスも三人を固定。
つまり、このまま時間が終われば現在の八名へ学校側が四名を追加する。
その四名が誰なのか。
誰にも分からない。
残り十分。
体育館ではほとんど会話がなくなった。
時間だけが減っていく。
九分。
八分。
七分。
伊吹はひよりの隣に座っている。
橋本は坂柳の近くから離れない。
森下はいつの間にか山村と何か話している。
白波は網倉と手を繋いでいる。
軽井沢は佐藤。
篠原は池。
誰も、最後の数分を一人で過ごそうとはしなかった。
残り五分。
オレは大型スクリーンを見ながら、一つの違和感について考えていた。
学校側は不足する四人を「無作為に追加指定する」と通知している。
しかし、これまでに選ばれた人物を見る限り、本当に完全な無作為なのかは疑わしい。
それぞれクラス内で一定以上の役割を持つ人物が続いている。
偶然で説明できないわけではない。
ただし、学校側が生徒同士の心理へ最大限の負荷を与えることを目的としているなら、
次の四人にも意味を持たせる可能性はある。
そして現在、安全側へ戻されている生徒の中には、特徴的な共通点を持つ四人がいる。
伊吹澪。
橋本正義。
森下藍。
白波千尋。
いずれも一度は責任対象者となり、救済された生徒。
もし学校側が彼らを再び選ぶなら、
救済という行為が本当に何の保証にもならなかったことを、これ以上なく残酷な形で証明できる。
もちろん推測に過ぎない。
だが、この学校ならやりかねないと思った。
残り一分。
体育館全体が静まり返る。
大型スクリーンの数字が減る。
五十九秒。
五十八秒。
五十七秒。
池が篠原を見る。
「そんな顔すんなって」
篠原は涙を拭きながら睨む。
「誰のせいよ」
「俺じゃねえだろ」
「こういう時まで馬鹿なこと言わないで」
「泣かれてるよりマシだろ」
佐藤は軽井沢の肩へ少し寄りかかる。
「恵ちゃん」
「何」
「もし私が本当に退学になっても、自分のせいとか思わないでね」
「今それ言ったら怒るよ」
「じゃあ言わない」
「もう言ってんじゃん」
松下は二人を見て少しだけ笑った。
その向こうでは龍園が腕を組み、ひよりは静かにスクリーンを見ている。
坂柳も杖を手元へ置いたまま顔を上げている。
一之瀬は神崎と網倉の間に立っていた。
残り十秒。
誰かが小さく息を呑む。
九。
八。
七。
六。
五。
四。
三。
二。
一。
第二選択時間が終了した。
大型スクリーンが暗転する。
体育館の照明はそのままだったが、
巨大な画面だけが黒くなったことで、全員の視線が一点へ集まった。
数秒後。
白い文字が表示される。
『第二選択時間終了』
続いて、
『現在責任対象者数――八名』
『規定責任対象者数――十二名』
『不足人数――四名』
ここまでは予想通り。
そして最後。
『学校側による追加指定を開始します』
体育館にいた誰も声を出さなかった。
高速で名前が切り替わる。
一人目。
表示が止まった。
『龍園クラス』
伊吹澪。
伊吹の目が見開かれる。
石崎が息を呑む。
ひよりが伊吹を見る。
龍園だけが数秒間画面を睨んだ後、低く舌打ちした。
伊吹は一度救済されている。
その名前が再び赤くなった。
「……は?」
伊吹の声が掠れた。
「何よ、それ」
大型スクリーンは構わず二人目の抽選へ移る。
坂柳クラス。
堀北クラス。
一之瀬クラス。
停止。
『坂柳クラス』
橋本正義。
橋本の顔から血の気が消えた。
「嘘だろ」
坂柳が橋本を見る。
森下も目を細める。
橋本も一度救済されている。
しかし赤い表示が戻った。
「待てよ」
橋本が立ち上がる。
「俺、一回外れただろ!」
教師は答えない。
規則上、一度救済された生徒も再選出される可能性があることは最初から説明されている。
だから異議を唱える余地がない。
三人目。
高速表示。
停止。
『坂柳クラス』
森下藍。
体育館から別の種類のざわめきが起こった。
森下は大型スクリーンを見上げた。
橋本も坂柳も彼女を見る。
森下は数秒黙った後、真顔で口を開く。
「どうやら私の復帰を望む声が学校側に多かったようですね」
橋本が思わず振り返る。
「そんな人気投票じゃねえよ!」
「では再放送でしょうか」
「もっと違う!」
「再登場です」
「言い換えても変わんねえよ!」
この状況ですら森下は普段の調子を崩さない。
しかし山村だけは気づいていた。
森下が胸元で握っている端末の指先が、僅かに震えている。
森下も怖い。
それでも、彼女は彼女なりの方法で平静を保っている。
坂柳はそんな森下を見ながら、何も言わなかった。
残る一人。
一之瀬の表情が既に変わっている。
ここまでの三人。
伊吹。
橋本。
森下。
いずれも一度救済された人物。
偶然。
そう呼ぶこともできる。
しかし、もし四人目まで同じなら。
一之瀬の視線が白波へ向く。
白波も同じことに気づいた。
「……帆波ちゃん」
一之瀬は首を振る。
「まだ決まってないよ」
白波の手を握る。
「まだ」
最後の表示が回り始める。
堀北クラス。
龍園クラス。
坂柳クラス。
一之瀬クラス。
そして止まった。
『一之瀬クラス』
白波千尋。
一之瀬の表情から完全に色が消えた。
白波も動けない。
網倉が口元を押さえる。
神崎は目を閉じた。
体育館の誰もが理解した。
一度救済された四人。
伊吹澪。
橋本正義。
森下藍。
白波千尋。
その全員が、学校側による最後の追加指定によって責任対象者へ戻された。
大型スクリーンに最終一覧が表示される。
堀北クラス。
池寛治。
佐藤麻耶。
松下千秋。
龍園クラス。
龍園翔。
椎名ひより。
伊吹澪。
坂柳クラス。
坂柳有栖。
橋本正義。
森下藍。
一之瀬クラス。
神崎隆二。
網倉麻子。
白波千尋。
四クラスから三名ずつ。
合計十二名。
あまりにも綺麗に揃った人数を見た瞬間、
堀北は先ほどまで抱いていた疑問とは別の寒気を覚えた。
「……偶然?」
坂柳が遠くからその一覧を見ている。
龍園も同じ。
オレは答えなかった。
無作為という言葉を学校側は使った。
しかし最終結果は、四クラスから三人ずつ。
しかも最後に追加された四人は、全員一度救済された生徒。
これが完全な偶然である確率を計算する意味は薄い。
学校側に問い質しても、抽選方法は非公開だと返されるだけだろう。
重要なのは事実だけだった。
誰かを助けた。
確かに助かった。
一度は名前が消えた。
安心した。
泣いた。
喜んだ。
そして最後に、全員戻された。
救済という言葉が、この瞬間に完全な皮肉へ変わった。
伊吹はひよりの隣で画面を睨んでいる。
「……最悪」
ひよりが静かに伊吹を見る。
伊吹は笑わなかった。
「結局、私も一緒じゃない」
ひよりも返す言葉がない。
龍園が二人の名前と自分の名前を見上げる。
龍園クラス三名。
龍園。
ひより。
伊吹。
自分たち三人が揃って赤く表示されている。
龍園の拳がゆっくり握られる。
坂柳クラスでは橋本が呆然としていた。
「何だったんだよ……」
森下が見る。
「何がでしょうか」
「救済だよ」
橋本は画面から目を離さない。
「俺、助かったと思ったんだぞ」
森下は数秒黙った。
「私もです」
橋本が初めて森下を見る。
いつもの冗談めいた返答ではない。
森下もまた、一度は助かったと思っていた。
坂柳は二人を見ながら杖を強く握っている。
一之瀬クラスでは、一之瀬が白波の手を握ったまま動かない。
神崎。
網倉。
白波。
三人。
一之瀬が絶対に守りたかった人間が、三人揃って責任対象者となった。
白波を救った時、一之瀬は少なくとも一人を守れたと思った。
その結果として網倉と龍園が選ばれ、自分の判断を責め続けた。
それでも白波だけは残った。
その小さな救いまで、今奪われた。
「……何で」
一之瀬の声が震える。
「何で千尋ちゃんまで」
神崎が答えない。
答えられる者はいない。
堀北クラスでは篠原が池へ抱きつくようにして泣き、軽井沢は佐藤の手を強く握り、
松下は一度目を閉じてから大型スクリーンへ向き直った。
そして堀北は、自分のクラスの三人だけではなく、四クラスすべての十二名を見た。
名前だけ見ても、この学年の人間関係と特別試験を動かしてきた人物が何人も含まれている。
ただの十二人ではない。
この十二人が本当に退学すれば、四クラスの形そのものが変わる。
その時、壇上へ真嶋が戻ってきた。
体育館中の視線が集まる。
「第二選択時間を終了する。これをもって責任対象者十二名が確定した」
誰も喋らない。
真嶋は続ける。
「以後、責任対象者の変更および救済権の行使は認められない」
一之瀬が顔を上げる。
堀北も真嶋を見る。
石崎が立ち上がりかける。
橋本も何か言おうとする。
しかし真嶋は、その反応すら予想していたように次の言葉を告げた。
「なお、本試験はまだ終了していない」
体育館の空気が再び止まった。
責任対象者は確定した。
救済はできない。
それでも試験は終わらない。
大型スクリーンが切り替わる。
新しい文字。
『第三段階』
『最終判定』
その下には、まだ詳細が表示されていない。
堀北は十二人の名前を見たまま、再び額へ手を当てた。
自分たちは第二選択時間までに、誰一人救えなかった。
それどころか、最初は四人だった責任対象者を十二人まで増やし、
一度助けた四人まで最後には元の場所へ戻された。
この時点で十分に残酷だった。
しかし学校側は、まだ終わらせるつもりがない。
オレは壇上の大型スクリーンを見ながら、ここから先に用意されているものを考えた。
十二名は確定。
救済不可。
それでも最終判定が残っている。
もし学校側が単純に十二人全員を退学させるつもりなら、判定など必要ない。
つまり最後に、十二人と残された生徒たちへ、さらに何かを選ばせる可能性がある。
そして今回の試験がここまで一貫して人間関係へ負荷をかけてきた以上、
最後だけ単純な学力試験や運動試験になるとは考えにくかった。
体育館の大型スクリーンには、四クラスから三人ずつ並んだ赤い名前が消えずに残っている。
池寛治。
佐藤麻耶。
松下千秋。
龍園翔。
椎名ひより。
伊吹澪。
坂柳有栖。
橋本正義。
森下藍。
神崎隆二。
網倉麻子。
白波千尋。
十二人。
ここまで来ても、まだ正式な退学者ではない。
それでも体育館にいる誰もが、最初の四人が表示された時とは比較にならないほど強く、
この十二人が学校から消える未来を意識していた。
そして、その未来を否定するために使えるはずだった救済権は、もう存在しなかった。