エンジニアのSAO Progressive ~NPCが売ってないなら作ればいい~ 作:Edward
こっこ、アインクラッドへ
私の名前は、こっこ。
もちろん、本名ではない。
昔、息子がまだ幼かった頃のことだ。
私のことを「とっと」と呼ぼうとして、どうしてもうまく発音できなかったらしい。
「こっこ」
そう呼ばれた。
その呼び名が妙にかわいらしく、妻も気に入ったため、いつの間にか家族の中で私を指す呼称として定着していた。
今では、息子も娘も自然に「こっこ」と呼ぶ。
私は、妻と息子、娘の四人で暮らす、ごく普通の会社員だ。
多少、機械を扱うのが好きではあるが。
――2022年11月6日、日曜日。
数日前、息子から新しいゲームをねだられた。
《ソードアート・オンライン》。
話題のVRMMORPGらしい。
専用機器《ナーヴギア》を頭部に装着すると、視覚や聴覚だけでなく、身体を動かしている感覚まで再現され、まるでゲーム世界の中に入り込んだかのように遊べるという。
発売前から非常に高い人気を集め、ゲームソフトの初回出荷本数は一万本。
当然のように入手困難だった。
しかし、知人を通じて探してみたところ、幸運にも一本を手に入れることができた。
「こっこ! SAO、手に入ったの!?」
息子は大喜びだった。
だが、パッケージを確認した私は、気になる点を一つ見つけた。
「……対象年齢は、13歳からじゃないか」
息子は、まだ12歳だ。
13歳になるまで、あと半年ほどある。
「半年くらいなら……」
待たせるべきだろうか。
しかし、これまでとはまったく異なる技術を用いたゲームである。
頭部に直接装着する機器によって、意識を仮想世界へ送り込む。
親としては、やはり気になる。
私はナーヴギアを手に取った。
「一度、私が入ってみるか」
「ええーっ!?」
息子から抗議の声が飛んできた。
「正常に動作するか、安全かを確認するだけだよ。問題がなければ、13歳になったときに遊べばいい」
「半年も待つの!?」
「対象年齢は守りましょう」
「こっこが遊びたいだけじゃないの?」
「……」
否定しきれない。
新しい機械というものは、少し触ってみたくなる。
いや。
安全確認だ。
これは保護者としての、正当な安全確認なのである。
昼過ぎ。
妻と子供たちがいる家の中で、私はベッドに横になった。
ナーヴギアを頭部に装着する。
説明書は確認した。
周囲に危険物はない。
姿勢に問題はない。
機器の接続も正常だ。
「では、少し行ってくる」
息子が羨ましそうにこちらを見る。
「どうだったか教えてよ!」
「ああ。危険がないか、確認してくるよ」
まさか、その言葉が――
家族と直接交わす、最後の言葉になるとは思いもしなかった。
私は目を閉じる。
そして、起動ワードを口にした。
「リンク・スタート」
無数の光が視界を満たした。
感覚が切り替わる。
次の瞬間。
私は、巨大な石造りの街の中に立っていた。
始まりの街。
頭上には、遥か天空まで伸びる巨大な浮遊城がそびえている。
《アインクラッド》。
私は自分の手を握り、開いた。
もう一度、握る。
「……すごいな」
指先まで、本当に自分の身体のように動く。
足を踏み出す。
石畳の感触さえも感じられる。
周囲では、同じように初めて仮想世界へ降り立ったプレイヤーたちが歓声を上げていた。
走り出す者。
剣を掲げる者。
友人と笑い合う者。
私は、その中で一人だけ異なることを考えていた。
「なるほど……。まずは操作確認だな。転倒した場合の挙動、痛覚設定、それからメニューからの終了操作も確認して……」
息子が半年後、この世界に来るかもしれない。
それなら、事前にしっかり確認しておこう。
危険な場所はないか。
子供でも問題なく操作できるか。
困ったとき、どのようにログアウトするのか。
このときの私は、まだ知らなかった。
数時間後。
その《ログアウト》という、ただ一つの機能を探して――
一万人のプレイヤーが絶望することになるとは。
第一層――はじまりの街
2022年11月6日、日曜日――昼。
「リンク・スタート」
その言葉を口にした直後。
視界を覆っていた暗闇の中に、いくつもの光が流れ始めた。
接続確認。
認証。
キャラクターデータ。
そして――。
世界が開く。
「…………おお」
最初に出たのは、そんな間の抜けた声だった。
石畳。
中世ヨーロッパを思わせる街並み。
何階建てにも連なる石造りの建物。
その間には細い路地が伸び、広場には露店が並んでいる。
頭上を見上げれば青い空。
遠くには巨大な城壁。
そして、その遥か上空には――。
この世界そのものを覆う、巨大な浮遊城《アインクラッド》の底面。
私はしばらく、その場から動くことすら忘れていた。
「……これはすごい」
思わず自分の手を見る。
握る。
開く。
もう一度、握る。
五本の指が、自分の意思通りに動いた。
右手で左腕を触ってみる。
感触がある。
服を摘まめば布の感触まで指先へ返ってきた。
石畳を踏めば、靴底から硬さまで伝わってくる。
「βテストの時からニュースで騒がれていたわけだ……」
私はゲームに詳しいわけではない。
むしろ、息子のほうがずっと詳しい。
それでも技術者の端くれだ。
目の前で起きていることが、どれほど常識外れなのかくらいは分かる。
視覚と聴覚だけではない。
触覚。
平衡感覚。
身体の位置感覚。
現実ではベッドに横たわったままの身体と、こちらで感じている身体との間に、ほとんど違和感がない。
「どうやってここまで……」
思わず仕組みのほうを考えてしまう。
職業病だ。
私は右足を一歩前へ出した。
歩く。
もう一歩。
「おっと」
少し身体が傾いた。
慌てて踏ん張る。
転びはしなかった。
「……なるほど。現実と同じつもりでいいのか」
今度は歩幅を変える。
歩く。
止まる。
振り返る。
少し走る。
急停止。
「うわっ!」
危うく前につんのめった。
近くを歩いていたプレイヤーらしき青年が、ちらっとこちらを見る。
私は何事もなかったように姿勢を正した。
「…………」
青年が去っていく。
「恥ずかしいな、これ」
四十を過ぎた大人がゲームの中で歩く練習をしている。
息子には絶対に見せられない。
いや――。
そもそも今回、私がこの世界に来た理由が、その息子だった。
私の名前は、こっこ。
もちろん本名ではない。
家族の中で使われている、私の愛称だ。
息子が幼かった頃。
まだ「とっと」と上手く言えなかった息子が、なぜか私のことを、
「こっこ」
と呼んだ。
それが妙に可愛らしくて、妻も面白がって使い始め、そのまま家族の中で定着してしまった。
そして、その息子が欲しがったのが――。
《ナーヴギア》。
そして本日正式サービスを開始したVRMMORPG、
《ソードアート・オンライン》。
世間では入手困難どころの騒ぎではなかった。
初回出荷分は予約の段階から争奪戦。
普通なら、ゲームにそれほど詳しくない父親が簡単に手に入れられる代物ではない。
それでも私がナーヴギアとSAOを手に入れることができたのには、少しばかり理由があった。
私は医療系のエンジニアをしている。
普段扱っているのは、人の命に直接関わる機械だ。
動けばいい、では済まされない。
十回動いた。
百回動いた。
だから大丈夫――でもない。
必要な時に、必要な性能を確実に出す。
そのために点検し、調整し、故障の兆候を探し、問題があれば原因を潰す。
そんな仕事を長く続けてきた。
ある共同開発案件で、私は医療用VRシステム《メディキュボイド》に関わることになった。
そこで知り合ったのが――。
神代凛子さん。
彼女から装置のメンテナンスと安定稼働について相談を受けたのが始まりだった。
あのシステムは、とにかく難しかった。
「動きました」
では駄目。
長時間稼働させる。
条件を変える。
負荷を掛ける。
もう一度動かす。
またデータを見る。
こちらでは問題なし。
ところが別条件では挙動が変わる。
原因を探して調整する。
すると今度は別の部分に影響が出る。
会社のエンジニアたちと何度頭を抱えたか分からない。
技術主任だった私は、凛子さんから要求される水準を満たすため、何度も現場へ足を運んだ。
最初の頃は仕事の話しかしていなかった。
「この条件で、もう一度ログを取ってください」
「分かりました」
「前回の変動ですが――」
「こちらでも確認しています」
そんな関係だった。
ところが装置が安定する頃には、休憩中にコーヒーを飲みながら世間話をするくらいには打ち解けていた。
仕事の話。
家族の話。
子供の話。
そしてある日、私は何気なく話した。
「息子が今度出るゲームを欲しがってましてね」
「ゲーム?」
「ソードアート・オンラインとかいう……」
その瞬間。
凛子さんの表情が、ほんの少し変わった。
「ああ、SAO」
「知ってるんですか?」
「ええ。よく知ってるわ」
聞けば、開発元《アーガス》の茅場晶彦と親しいという。
私は驚いた。
世間は狭いものだと思った程度だった。
「でも困ってるんですよ。全然手に入らなくて」
「息子さん、いくつ?」
「十二です。もうすぐ十三ですけど」
「対象年齢は十三歳以上じゃなかったかしら?」
「そうなんですよ」
私は苦笑した。
「だから手に入ったとしても、すぐには渡しません。一度、私がやってみようかと思って」
「あなたが?」
「ええ。こういう機械ですからね。息子に使わせる前に、自分で安全か確かめたいんです」
凛子さんは一瞬だけ私を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……相変わらずね」
「何がです?」
「エンジニアというより、お父さんだなって」
「そりゃ、父親ですから」
そんな会話をした。
それだけだった。
――はずなのだが。
次に仕事で訪問した時。
「はい」
凛子さんが私に差し出したものを見て、私は固まった。
「…………はい?」
「ナーヴギア」
「いや、それは見れば分かります」
「それとSAO」
「いやいやいや」
思わず周囲を確認した。
「これ、今ものすごく手に入らないやつでしょう?」
「知り合いに頼んだの」
「知り合いって……」
「茅場君」
私は箱を見る。
凛子さんを見る。
もう一度箱を見る。
「本当にいいんですか?」
「息子さんに、でしょう?」
「いや、まあ……そうなんですが」
「お父さんが先に試すんでしょ?」
彼女は少し楽しそうに笑った。
「安全確認」
「……そうですね」
そうして私は。
人伝というには、いささか強力すぎる人伝によって。
ナーヴギアとソードアート・オンラインを手に入れたのだった。
そして今日。
サービス開始日。
息子に渡す前に、まず父親である私がログインした。
理由は単純だった。
安全確認。
ただ、それだけだった。
「さて……」
私は広場の端に移動する。
まずはメニュー。
説明書で読んだ動作を思い出し、指を動かす。
「こうだったかな?」
人差し指と中指を揃え、下へ振る。
――何も起こらない。
「違うか」
もう一度。
――何も起こらない。
「……息子に聞いておけばよかった」
三度目。
今度は少し角度を変える。
澄んだ電子音。
目の前に半透明のウインドウが開いた。
「おお!」
分かっていても声が出た。
アイテム。
装備。
ステータス。
スキル。
設定。
「なるほど……」
ひとつ開く。
閉じる。
別の項目を開く。
戻る。
また開く。
同じ操作を何度か繰り返す。
こういうものを触ると、つい癖が出る。
まず操作する。
挙動を見る。
同じ操作をもう一度やる。
違う条件でも試す。
何ができるか。
何ができないか。
どこまでがシステム側の補助なのか。
「……仕事じゃないんだから」
自分で呟いて、苦笑する。
ゲームをしに来たのだ。
今日は仕事ではない。
続いて装備画面。
初期武器を確認する。
《片手剣》。
「まあ、これが無難だろうな」
ゲームの知識が乏しい私でも、剣くらいなら分かる。
魔法使いだの特殊職だのを選んでも、どう動けばいいのか見当もつかない。
剣なら握って振ればいい。
……たぶん。
キャラクター名の入力欄が表示された。
少し考える。
本名を使うのも妙な気がする。
仕事で使っている名前なんて、もっと嫌だ。
ゲームなのだから好きな名前でいい。
「……こっこ、でいいか」
入力。
《KOKKO》
決定。
次はキャラクターメイク。
「これは……」
思ったより細かい。
顔。
髪。
目。
輪郭。
身長。
年齢感。
現実の自分を思い浮かべながら調整していく。
だが。
少しだけ輪郭をすっきり。
目元も若干若く。
髪も現実より元気に。
肌も――まあ、ゲームなのだからいいだろう。
完成したアバターを正面から眺める。
「…………」
右へ回す。
左へ回す。
もう一度正面。
「…………若いな」
どう見ても若い。
自分をモデルにしたはずなのに、現実より明らかに若い。
「これは……若づくりしすぎたか?」
今から直そうか。
少し迷う。
しかし画面の向こうにいる自分は、現実より十歳ほど若く見えて、なかなか悪くない。
誰に迷惑をかけるわけでもない。
ゲームだ。
私は決定ボタンへ指を伸ばした。
「……まあ、いいか」
ポン。
決定。
「せっかくのゲームだ」
私は若返った自分の顔を見ながら笑った。
「僕でいこう!」
――この時の私は。
数時間後。
この世界にいる全プレイヤーの姿が、強制的に現実の肉体そのものへ変更されることも。
ログアウトという当たり前の機能が消えることも。
このゲームでの死が、現実の死を意味することも。
何ひとつ知らなかった。
ましてや。
息子のために、ほんの少し安全を確認して帰るだけだったこの世界で――。
剣を振り。
料理を作り。
物を直し。
店を開き。
仲間を集め。
工具を握り。
時には人の物まで盗み。
巨大な船まで造って。
数え切れないほどの人間の人生に関わることになるなど。
この時の私が知るはずもない。
私はただ。
初めて見る《はじまりの街》を、子供のように眺めていた。
「さて」
腰に下げた片手剣へ手を添える。
「まずは――何をすればいいんだ?」
四十代。
会社員。
医療系エンジニア。
VRMMORPG経験――ゼロ。
プレイヤーネーム、《こっこ》。
こうして。
私の《ソードアート・オンライン》での最初の一日が始まった。