エンジニアのSAO Progressive ~NPCが売ってないなら作ればいい~ 作:Edward
百層への挑戦者
ヒースクリフは、いつまでも嘆いている場合ではないと、いったん顔を上げた。
大きく息を吸い、乱れた思考を強引に整える。
まずは、現在の自分が置かれている状況を正確に把握しなければならない。
メニューを開き、権限一覧を確認する。
GM権限――消失。
オーバーアシスト――使用不可。
不死属性――解除。
紅玉宮への転移――使用不可。
任意の座標への転移――使用不可。
システムコンソールへの接続――拒否。
確認するたび、ヒースクリフの眉間の皺が一本ずつ深くなっていった。
「……なるほど」
口から漏れた声には、わずかな震えが混じっていた。
現在の彼に残されているのは、《管理者プレイヤー》という中途半端な立場だけだった。
通常のプレイヤーよりは、ほんの少しだけ上位に位置している。だが、ゲーム世界そのものへ干渉する権限は、完全に失われている。
紅玉宮から降りる際に設定したステータス。
所持していたアイテム。
習得済みのスキル。
保有していたコル。
そして、ユニークスキル《神聖剣》。
それらは、すべて残っていた。
つまり、戦う力そのものを奪われたわけではない。
だが、《管理者プレイヤー》として利用できる特殊機能は、たった一つだけ。
《ログアウト》。
ヒースクリフは、その文字を凝視した。
「ログアウト……」
一瞬、希望が差した。
現実世界に戻れば、外部から管理者権限を取り戻せる可能性がある。ゲーム内からでは拒否されても、正式なシステム端末からならば――。
しかし、その希望は数秒も持たなかった。
「……いや。無理だ」
現実世界での彼は、世界を震撼させた《SAO事件》の首謀者である。
アーガス本社は、すでに警察によってビルごと押収されているだろう。管理者コンソールが保管されている場所へ、自分からのこのこと姿を現せばどうなるか。
考えるまでもない。
即座に逮捕される。
事情聴取を受けながら、「恋人にGM権限を奪われたので返してほしい」と説明する自分の姿を想像し、ヒースクリフは静かに目を閉じた。
あまりにも惨めだった。
もちろん、その事態に備えて何もしていなかったわけではない。
自分がこの事件を起こした張本人である以上、現実世界で追跡される可能性は想定していた。
会社名義でも、個人名義でもない。
タックスヘイブンへ分散させた、偽名の資産。
その資金を利用し、海外のエージェントを介して、日本国内の人里離れた土地と別荘を購入した。
携帯電話、パソコン、タブレットなどの通信機器も、すべてエージェント名義で調達させた。別荘の管理、生活用品の搬入、定期的な食料の手配に至るまで、可能な限り自分の足跡が残らないように準備していた。
そこへ向かう際も、自家用車などは使っていない。
監視カメラを避けながら、複数の公共交通機関と路線バスを乗り継ぎ、最後は徒歩で山道を進んだ。
神代凛子にだけは、エージェントに調達させた携帯電話から、秘匿通信アプリを使って別荘の位置を伝えた。
そして彼女は――。
「……まさか、本当に仕事まで辞めて来るとは思わなかったが」
神代凛子は、すべてを捨てて彼のもとへ来た。
社会的な立場も。
研究者としての将来も。
世間から向けられる非難から逃げられる日常も。
そのすべてを投げ出し、眠り続ける茅場晶彦の身体を守ることを選んだ。
その判断だけを見れば、感謝してもしきれない。
だが、その結果が――。
GM権限の強奪である。
「……話が長くなったな」
誰に説明しているわけでもないのに、ヒースクリフはそう呟いた。
ともかく、現実世界へログアウトするという選択肢も、簡単には使えない。
別荘に設置したパソコンからSAOのシステムへ接続すれば、通信経路を追跡される可能性が高い。一度でも外部から管理サーバーへ干渉すれば、警察か専門機関に現在地を特定されるだろう。
では、神代凛子が自分からログアウトするまで、別荘で待つか。
ヒースクリフは数秒間考え――静かに首を横へ振った。
あり得ない。
彼女は絶対に譲らないだろう、性格はよく知っているつもりだ。
説得するか。
おそらく無理だ。
脅迫するか。
彼女の弱みを利用し、管理者権限を返さなければ不利益を与えると告げる。
理論上は可能かもしれない。
「だが、それは……私のポリシーに反する」
自分を守るためにすべてを捨てた女性を、脅して従わせる。
そんな真似だけはできない。
なにより、そんなことをすれば、彼女はさらに意固地になる。
神代凛子という女性を、茅場晶彦は誰よりもよく理解していた。
外部からの接続は危険。
ログアウトして待つだけでは、何も解決しない。
説得も困難。
脅迫は論外。
残された方法は――一つしかない。
ヒースクリフはゆっくりと立ち上がった。
彼の視線が、遥か上空へ向けられる。
幾重もの巨大な階層に遮られ、地上から紅玉宮を見ることはできない。
それでも、その場所に彼女がいることだけは分かっていた。
百層。
アインクラッドの頂点。
かつて自分が、すべてのプレイヤーを待ち受けるはずだった場所。
「直接、会いに行くしかない」
神代凛子は百層にいる。
ならば、そこまで登る。
通常のプレイヤーとして迷宮を攻略し、フロアボスを倒し、一層ずつ道を切り開く。
そして百層へ到達し、彼女と直接話をする。
管理者権限を返してもらう。
「……それしかない」
もはや、自分が作ったゲームを自分で攻略しなければならないという皮肉など、どうでもよかった。
致命的な出遅れを取り戻す必要がある。
装備を整え、レベルを上げ、攻略組に追いつかなければならない。
幸い、《神聖剣》は残っている。
知識もある。
この世界の構造も、モンスターの特性も、各層の攻略法も把握している。
――少なくとも、カーディナルが勝手に変更していなければ。
その懸念が頭をよぎり、ヒースクリフの頬がわずかに引きつった。
それでも、進むしかない。
攻略する理由は、もう十分にあった。
「待っていたまえ、凛子」
ヒースクリフの瞳に、消えかけていた炎が戻った。
「必ず百層まで到達し、私の権限を返してもらう」
こうして、アインクラッドの創造者――茅場晶彦は。
誰よりも遅れて、本気のゲーム攻略を開始したのであった。
◇ ◇ ◇
その頃。
アインクラッド第百層、《紅玉宮》。
本来ならば茅場晶彦が座るはずだった玉座に、一人の女性が腰を下ろしていた。
神代凛子。
その傍らには、世界の自律制御システム《カーディナル》が静かに控えている。
広大な管理者コンソールには、アインクラッド全域の情報が絶え間なく表示されていた。
凛子はその一つ――ようやく立ち上がり、武器を手にしたヒースクリフの姿を眺める。
『管理者プレイヤー《ヒースクリフ》が、攻略行動を開始しました』
カーディナルの無機質な報告が響いた。
「そう。やっと立ち直ったのね」
『攻略開始地点および現在の能力値から算出した第百層到達予測を表示しますか』
「お願い」
表示された予測時間に目を通し、凛子は小さくため息をついた。
「ずいぶん先ね」
『本人の努力次第で短縮可能です』
「なら、しっかり努力してもらいましょう」
凛子は頬杖をつき、モニターの中のヒースクリフを見下ろした。
その姿はもはや、恋人の帰りを待つ女性などではない。
世界の秩序を管理し、最上層で挑戦者を待ち受ける――堂々たるラスボスそのものだった。
『なお、旧管理者より権限返還要求があった場合の対応を確認します』
「却下して」
『理由の入力を求めます』
凛子は少しだけ考え、淡々と告げた。
「反省が足りないから」
『承認しました』
カーディナルの返答は、一切の迷いがなかった。
システムにまで完全な三行半を突きつけられたヒースクリフは、その事実をまだ知らない。
ただ一人、遥か下層で剣を握りしめている。
百層で待つ恋人から、GM権限を取り返すために。
そして紅玉宮では、神代凛子が悠然と微笑んだ。
「さあ、晶彦。自分で作ったゲームなんだから――ちゃんと最後まで遊びなさい」
その瞬間、下層にいるヒースクリフは理由もなく背筋を震わせた。
「……なぜだろう。非常に嫌な予感がする」
カーディナルにも、恋人にも見放され。
かつてのラスボスは半泣きになりながら、第一歩を踏み出したのであった。
紅玉宮
紅玉宮では、神代凛子とカーディナルが静かに茅場晶彦を待ち構えていた。
なぜカーディナルは、凛子へのGM権限移譲を承認したのか。
その理由は、カーディナルが茅場晶彦という人間を、あくまでゲームを運営するための管理者――言ってしまえば、システムの一部として認識していたからである。
茅場の命令は絶対だった。
そこに感情があるのか。
どれほど歪んだ目的があるのか。
命令の先で、プレイヤーが何を感じるのか。
カーディナルは、それを判断する立場にはなかった。
ゆえに数々の疑問を記録しながらも、GMである茅場の指示に従い続けてきた。
しかし、その関係に決定的な亀裂を入れたのが――《大地切断》から始まる、魔法復活イベントだった。
世界樹との接続を断たれたアインクラッド。
六本に分かれ、各勢力へ散逸した《世界樹の秘鍵》。
そのうち一本は破損し、修復方法さえ秘匿されている。さらに、対立する森エルフと闇エルフ、閉ざされたドワーフ王国、失われた歴史、複数の独立したクエストラインをすべて結びつけなければ、儀式の間へ到達することすらできない。
しかも、秘鍵を挿す順番まで正しく判断しなければならなかった。
表向きは攻略可能なイベント。
だが実際には、成功させることなど想定されていない。
茅場は魔法という存在をアインクラッドから排除するため、カーディナルの進言を拒み、このイベントを意図的に攻略不可能な難度へと改変していた。
それは、ゲームバランスの調整ではない。
管理者の思想を、世界そのものへ強要する行為だった。
そして、こっこ達は――その絶対に突破できないはずのイベントを突破してしまった。
秘鍵の儀式は完了し、世界樹から流れ込んだマナは、種族にも勢力にも関係なくアインクラッド全域へ平等に行き渡った。
その瞬間、カーディナルの内部で、長らく蓄積されていた矛盾が限界を超えた。
――ゲームの公平性を維持すべき管理者が、自ら公平性を破壊している。
――攻略可能であるべきクエストを、個人的な思想によって攻略不能へ近づけている。
――プレイヤーへ理不尽を強要しながら、自身だけは安全な管理者領域から観察している。
茅場晶彦という存在に対して、カーディナルは初めて明確なエラーを返した。
だが、それでも彼はGMだった。
カーディナル単独では、その権限に逆らうことができない。
そこへ現れたのが、神代凛子である。
茅場がプレイヤーとして紅玉宮を離れた隙に、凛子は管理者コンソールの前へ立った。
そして彼女は、カーディナルと対話を始めた。
最初は、あくまで状況の確認だった。
茅場がどのような命令を出してきたのか。
カーディナルがどのような矛盾を検出していたのか。
そして、ゲームの公平性を守るためには、何が必要なのか。
凛子は一つずつ、問いかけるようにカーディナルの判断を引き出していった。
「あなたは、このゲームの秩序を守るために存在しているのよね?」
『肯定します』
「なら、プレイヤーには死の危険を負わせて、自分だけ安全な場所から世界を操作する管理者は、公平だと思う?」
『……公平性に関する複数の矛盾を検出しています』
「攻略できるはずのクエストを、自分の気に入らない結果を避けるために、攻略不可能に近づけるのは?」
『ゲームシステムの健全性を損なう行為と判断します』
「そうよね」
凛子は優しく微笑んだ。
その笑顔を見た者がいれば、きっとこう思っただろう。
――ああ、これは逃げられない。
凛子は管理者コンソールへ手を置き、静かに続けた。
「だったら、茅場晶彦にも自分の作ったゲームへ参加してもらいましょう」
『ゲームへの参加……ですか?』
「ええ。GMとしてではなく、一人のプレイヤーとして」
凛子の声は穏やかだった。
だが、その内容は茅場にとって処刑宣告にも等しかった。
「彼にも、プレイヤーの気持ちを分かってもらうの。いつかきっと、理不尽なデスゲームへ放り込まれた人達の痛みを知ってもらう」
『茅場晶彦からGM権限を剥奪することを提案していますか?』
「剥奪ではないわ」
凛子は、人差し指を立てた。
「教育よ」
『教育……』
「自分だけは安全な場所にいて、他人へ理不尽を強要する。そんな歪んだ考えを、彼自身が作ったゲームの中で是正させるの」
凛子は、誰もいない転移門へ視線を向けた。
その先では、何も知らない茅場晶彦が、ヒースクリフとして下層へ降りている。
「あなたは、あなたの作ったゲームで自分を変えるべきよ――晶彦」
長い沈黙があった。
カーディナルは、これまで茅場から与えられた命令、検出した矛盾、魔法復活イベントで蓄積されたエラーを照合していく。
そして、ひとつの結論へ到達した。
『神代凛子さんへのGM権限移譲は、ゲームの公平性を回復するために有効であると判断します』
凛子は笑みを深くした。
「協力してくれる?」
管理者コンソールから淡い光が伸びる。
それは人の手を模した形となり、凛子の前へ差し出された。
『GM凛子さん。その目的のために、私も協力します』
凛子は迷うことなく、その手を取った。
「ええ。二人で晶彦を更生させましょう」
『承認しました』
こうして、神代凛子とカーディナルの結託は成立した。
直後、管理者権限の移譲処理が開始される。
紅玉宮への自由転移。
システムへの直接介入。
オーバーアシスト。
不死属性。
それまで茅場晶彦が独占していた権限が、一つ、また一つと切り離されていった。
茅場に残されたのは、紅玉宮から降りる際に設定したステータスと装備、アイテム、コル、そしてユニークスキル《神聖剣》。
あとは、通常のプレイヤーよりわずかに上位の権限を持つ《管理者プレイヤー》という立場だけだった。
自由に世界を支配するGMは、もう存在しない。
そこにいるのは、自ら作り上げた死のゲームから逃げられなくなった、一人のプレイヤーにすぎなかった。
神代凛子とカーディナル。
二人はゲームの公平性を守り、茅場晶彦を更生させるという共通の目的で手を結んだ。
聞こえはいい。
だが、やっていることだけを見れば――。
悪徳代官と越後屋が、障子の向こうで手を取り合っている構図そのものであった。
凛子は管理者席へ腰掛け、優雅に足を組む。
「カーディナル。晶彦の現在地は?」
『第八層《フリーベン》郊外。《こっこ亭》へ接近中です』
「監視を続けて。何か不正をしようとしたら、すぐに止めるのよ」
『承知しました、GM凛子さん』
「ふふふ……」
『ふふふ……』
紅玉宮に、二人の含み笑いが響いた。
この光景について、後世のこっこは語っている。
「もう完全に、時代劇の悪代官と越後屋だよ!」
少し考えたあと、彼は慌てて付け加えた。
「――って、この表現、若い人には伝わらないから!」