エンジニアのSAO Progressive ~NPCが売ってないなら作ればいい~ 作:Edward
ヒースクリフとサタン。
二人の戦い方は、まるで正反対だった。
ヒースクリフは《静》。
盾で受け、剣で流し、敵の攻撃を最小限の動作で封じ込める。
決して無理には踏み込まない。
相手の攻撃を見極め、受け止め、崩し、その隙に確実な一撃を返す。
攻防一体。
剣と盾、その二つを一つの武器のように扱う、完成された正統派剣術だった。
対するサタンは《動》。
「うおおおおおっ!!」
拳が唸る。
老師から叩き込まれた体術。
剛拳。
柔拳。
足技。
関節技。
寝技。
投げ。
合気。
そして――《闘気》。
敵の攻撃を真正面から打ち砕くこともあれば、紙一重で受け流し、その力さえ利用して反撃する。
かつてのサタンなら、ただ力任せに殴っていただろう。
だが、今は違う。
攻めるべき時。
退くべき時。
受けるべき攻撃。
流すべき攻撃。
そのすべてを身体で理解している。
老師から受け継いだ技を、自分自身の戦い方へと昇華していた。
静のヒースクリフ。
動のサタン。
二人が並んだ瞬間――。
それぞれ異なる道を歩いてきたはずの二人の技が、奇妙なほど噛み合った。
ヒースクリフが盾で止める。
その一瞬にサタンが潜り込む。
サタンが敵の体勢を崩す。
そこへヒースクリフの剣が走る。
一人が攻めれば、一人が守る。
一人が崩せば、一人が仕留める。
言葉など必要なかった。
「……すげえ」
キリトが呟いた。
悔しかった。
正直に言えば――嫉妬していた。
自分はベータテスターだ。
この世界のシステムを知っている。
ソードスキルを知っている。
モンスターの挙動を知っている。
その知識を武器に、ずっと最前線を走ってきた。
自分は強い。
そう思っていた。
だが――。
目の前の二人は違う。
知識でもない。
レベルでもない。
装備でもない。
積み重ねた技術そのものが、一段高い場所にあった。
「……ちくしょう」
それでも。
キリトの口元には、いつの間にか笑みが浮かんでいた。
悔しい。
だからこそ――面白い。
(だったら、俺も行けばいい)
あの高さまで。
いや。
いつか――あの二人よりも上へ。
キリトの目から、諦めの色は消えていた。
だが。
その隣に立つアスナは――違った。
「…………」
細剣を握る手に、わずかに力が入る。
ヒースクリフの剣。
サタンの体術。
そして、その二人を見て笑っているキリト。
自分も攻略組だ。
最前線を走っている。
誰よりも早く、この世界を終わらせたい。
そのために強くなってきた。
――なのに。
(私……)
届かない。
そう思ってしまった。
今のままでは。
このままでは――いつか攻略組に残れなくなる。
焦燥が胸を締め付ける。
もっと。
もっと速く。
もっと強く。
今までとは違う――。
何か、新しい力が必要だった。
その時だった。
《カガチ・ザ・サムライロード》のHPバーが――最後の一段へ突入する。
「来るぞ!!」
キリトが叫んだ。
カガチが大きく後方へ跳んだ。
右手には刀。
そして――。
左手が腰へ伸びる。
ジャキンッ!!
抜き放たれたのは――小太刀。
「二刀流!?」
誰かが叫ぶ。
だが、キリトは即座に否定した。
「違う!!」
カガチは小太刀を前へ構えた。
刀は右。
小太刀は左。
その構えを見た瞬間、ヒースクリフの目が細くなる。
「……防御用か」
そう。
小太刀は攻撃のためではない。
受けるための剣。
ガキィィン!!
サタンの拳を――小太刀が受けた。
「なにっ!?」
そのまま力を横へ流す。
サタンの身体がわずかに泳ぐ。
そこへ――。
ズバァッ!!
右手の刀が走る。
「サタン!」
ヒースクリフの盾が割り込む。
ガァァァン!!
激しい衝撃。
今度はヒースクリフが押し込まれた。
「ぐっ……!」
これまでとは違う。
防御から攻撃。
攻撃から防御。
その切り替えが異常に速い。
ヒースクリフの剣を小太刀で受け、刀で返す。
サタンの拳を流し、そのまま斬撃へ繋げる。
完成された攻防一体。
皮肉にも――。
それはヒースクリフ自身の戦闘思想に近かった。
「面白い……!」
ヒースクリフが初めて、わずかに笑った。
「笑ってる場合かぁ!!」
サタンが叫びながら蹴りを放つ。
小太刀が受ける。
刀が走る。
今度はサタンが腕で流す。
だが――。
二人でも押し切れない。
「キリト君!」
「ああ!」
黒い影が飛び込んだ。
キリトの剣が刀を弾く。
さらに――。
「はああああっ!!」
閃光。
アスナの細剣が、小太刀の防御の隙間へ突き込まれる。
四人。
ヒースクリフ。
サタン。
キリト。
アスナ。
四人がかりで――ようやくカガチの進撃が止まった。
だが。
問題はボスだけではなかった。
「また来たぞ!!」
《オロチ・エリートガード》。
《クチナ・エリートアサシン》。
取り巻きが次々とポップする。
一体。
二体。
三体――。
さらに増える。
「ボスはあの四人に任せろ!!」
ディアベルが叫んだ。
「残りは取り巻きを潰す! ここで前線を崩すな!!」
「おう!!」
攻略組が一斉に散った。
「こっちは任せろ!」
こっこも《ローグサーベル》を抜く。
誰にも気づかれないように、そっと《魔法付与》を発動。
STR補正を与えられた刃が軌跡を描き、エリートガードへ叩き込まれる。
「うひょー! 忙しくなってきたぁ!!」
「楽しそうに言うな!!」
リズが《アースシェイカー》を振り抜く。
ドゴォン!!
「シリカ!」
「はい!」
シリカの《キュートダガー》がアサシンの脇腹へ突き刺さる。
「ピナ!」
「キュルルルッ!!」
ピナの援護が飛ぶ。
「ぬおおおおっ!!」
エギルも負けてはいない。
第九層《Stone Fiend》戦。
投石機から自分自身を射出するという、とんでもない方法でラストアタックを奪い取った男。
その手に握られているのは、そこで得たラストアタックボーナス――《グラビティアクス》。
巨大な斧が唸りを上げる。
「まとめて――吹っ飛べ!!」
ズドォォォン!!
重い一撃がエリートガードをまとめて薙ぎ払った。
ディアベルも戦線全体を見渡し、崩れそうな場所を見つけるたびに即座に穴を埋めていく。
そして――。
「おらぁぁぁぁぁ!!」
クラインが飛び出した。
その腰にあるのは、森を思わせる深緑の鞘。
第八層ボス戦。
ラストアタックを決めたクラインが手に入れた報酬――。
《Forest Kagura》。
エルフの意匠を思わせる装飾が施された、片刃の刀。
突出した攻撃力を誇る武器ではない。
だが、状態異常に対する耐性補正を備えた、しぶとく前線に立ち続けるクラインにはよく似合う一振りだった。
そして今。
第十層で《刀》スキルを習得したことで――。
ついに、この武器を本来の形で振るう時が来た。
クラインの親指が鍔を押す。
カチン――。
《Forest Kagura》の刀身が、わずかに鞘から覗く。
「待たせたなぁ……!」
腰を落とす。
鞘へ刀を納めたまま――構える。
次の瞬間。
「おらぁぁぁぁぁ!!」
一閃。
《Forest Kagura》が深緑の鞘から抜き放たれる。
ソードスキルのライトエフェクトが爆発した。
閃光がエリートアサシンを一直線に斬り抜ける。
「これが俺様の新技だぁぁぁ!!」
エリートアサシンが吹き飛んだ。
「やるじゃねえか、クライン!」
「誰だと思ってやがる!!」
ようやく手にした《刀》スキル。
そして、第八層から持ち続けてきた《Forest Kagura》。
二つが今――初めて噛み合った。
攻略組全体が、必死に戦線を支える。
そして中央では――。
四人とカガチの死闘が続いていた。
ガキン!!
小太刀と剣。
刀と盾。
拳と刃。
細剣の閃光。
HPバーが削れていく。
残りわずか。
だが、カガチの動きはさらに速くなる。
サタンの拳を小太刀が受ける。
「今だ!!」
サタンは――無理に押さなかった。
拳を引く。
柔。
小太刀の力を利用し、その腕を外側へ流す。
防御が開いた。
「キリト!」
「おおっ!!」
キリトの剣が右の刀を弾く。
「アスナ!!」
「はあああああっ!!」
細剣が胸元を穿つ。
カガチがよろめく。
だが――まだ倒れない。
刀を振り上げる。
最後の反撃。
その瞬間。
巨大な盾が――。
ガァァァン!!
真正面から刀を受け止めた。
ヒースクリフ。
「ここまでだ」
盾が刀を押し返す。
カガチの体勢が完全に崩れた。
ヒースクリフの剣が静かに引かれる。
派手な動きではない。
雄叫びもない。
ただ――。
最初から最後まで変わらなかった、無駄のない一撃。
閃光。
剣がカガチの胴を斬り抜けた。
――HP、ゼロ。
一瞬。
世界が静止する。
次の瞬間。
《カガチ・ザ・サムライロード》の巨体が青白いポリゴン片となって――。
パァァァァァァン!!
爆散した。
視界いっぱいに舞い散る光。
そして――。
《CONGRATULATIONS》
第十層攻略。
ラストアタック――。
《Heathcliff》
「…………」
キリトは、その名前をじっと見つめていた。
強い。
間違いなく強い。
でも――。
キリトは笑った。
追いつけないとは思わなかった。
むしろ逆だった。
追いついてやる。
いつか必ず。
その隣で。
アスナだけは――。
静かに細剣を握り締めていた。
もっと強くならなければ。
今のままでは、駄目だ。
舞い散る勝利の光の中。
同じ戦いを見ていた二人は――。
まったく違う答えへ向かい始めていた。
《カガチ・ザ・サムライロード》の巨体が、大きく揺らいだ。
最後の一撃を受けた鎧に亀裂が走る。隙間から、無数の光がこぼれた。
そして――。
轟音。
その身体が、青白いポリゴン片となって砕け散った。
静寂。
誰も、すぐには動かなかった。
一瞬遅れて、攻略組の頭上に勝利を告げるシステムメッセージが浮かび上がる。
第十層迷宮区ボス――攻略完了。
「……終わった」
誰かの呟きが落ちた。
直後。
「うおおおおおおおっ!!」
歓声が爆発した。
剣を掲げる者。
その場に座り込む者。
隣の仲間と肩を叩き合う者。
激戦だった。
次々と出現する《オロチ・エリートガード》と《クチナ・エリートアサシン》。
崩壊しかけた戦線。
その中央で、ボスを一人で引き受け続けたヒースクリフ。
そして最後は、サタンとの連携によって《カガチ・ザ・サムライロード》を押し切った。
そのヒースクリフの前に。
一枚のウインドウが出現した。
《LAST ATTACK BONUS》
「……ほう」
ヒースクリフが目を細める。
表示されたアイテム名は――。
《The Aegis Edge》
イージス。
神話に語られる守護の名を冠した武具。
それは単独の剣でも、盾でもなかった。
剣と盾。
二つで一対となる武具だった。
ヒースクリフが実体化させる。
右手には、重厚でありながら取り回しを損なわない片手剣。
左手には、深い赤を基調とした堅牢な盾。
単純な攻撃力だけなら、突出した武器ではない。
だが、その真価は剣と盾を同時に装備した時に発揮される。
高い防御性能。
ガード時の衝撃軽減。
姿勢崩しへの耐性。
さらに剣と盾を連動させた攻防に補正を与える特殊効果。
攻めながら守り。
守りながら次の攻撃へ繋げる。
まさしく――。
「ヒースクリフさん専用みたいな装備だな……」
キリトが呟いた。
エギルも腕を組んで頷く。
「ただでさえ硬かった奴が、さらに硬くなったぞ」
「勘弁してほしいで……」
キバオウが顔を引きつらせる。
そして。
こっこも、新たな剣と盾を装備したヒースクリフを上から下まで眺めた。
「……ますます要塞になったね」
「聞こえているぞ」
「おお、地獄耳まで強化された」
「それは《The Aegis Edge》の性能ではない」
周囲から笑いが漏れた。
だが。
ヒースクリフは剣を鞘へ収めると、改めて攻略組へ向き直った。
その瞬間。
空気が変わった。
先ほどまで最前線で戦っていた一人の剣士ではない。
人を率いる者の顔。
それを察したのか、次第に皆の声が消えていった。
「諸君」
ヒースクリフの声が、ボス部屋に響く。
「この世界に囚われてから、我々は十の層を越えた」
誰もが彼を見る。
「ここまで多くの者が戦い、多くの者が支え、道を切り拓いてきた」
一度、言葉を切る。
「しかし――」
ヒースクリフは上を見た。
さらに遥か上空。
まだ見ぬ九十の層。
「我々には、まだ九十層が残されている」
その数字に。
改めて、何人かが息を呑んだ。
十層まで来た。
だが。
まだ十分の一なのだ。
「私は――真に攻略を進める者を集める」
ヒースクリフは《The Aegis Edge》の盾を掲げた。
「一日でも早くこの世界を攻略し、囚われたすべての者を現実へ帰すために」
そして。
高らかに宣言した。
「私と共に、高みへ進もう」
静寂。
その言葉を、誰もが噛み締める。
やがて。
一人のプレイヤーが前へ出た。
「……俺は、ヒースクリフさんと行きます」
胸元には《The Paladin Order》――聖騎士団の紋章。
TPOの団員だった。
続いて、もう一人。
「俺もだ」
さらに――。
エンジニア隊の中からも、何人かが互いに顔を見合わせたあと、一歩を踏み出した。
その様子を見ていたキバオウの眉が跳ね上がる。
「おい、ちょい待てや!」
一歩前へ出ようとした、その肩を。
ディアベルが掴んだ。
「キバオウさん」
「ディアベルはん! こいつら、今まで一緒に――」
「だからこそ、ですよ」
穏やかだが、はっきりとした声だった。
ディアベルは首を横に振る。
「俺たちは攻略するために集まった。TPOに所属し続けることが目的じゃない」
「せやけどなぁ……!」
キバオウは納得できない様子だった。
当然だ。
ここまで一緒に戦ってきた仲間なのだから。
アインクラッド解放隊。
青龍連合。
そこへディアベルたちも加わり、形を変えながら一緒に戦ってきた。
仲間が去ると聞いて。
はい、そうですか。
キバオウは、そんな割り切り方ができる男ではなかった。
だが、ディアベルは彼らを責めなかった。
ヒースクリフの強さを、この目で見た。
ボスを一人で引き付け、崩壊しかけた戦線を支え続けた。
その姿を見て――。
この男について行けば、もっと早く上へ進める。
そう考える者が現れるのは、決して不思議ではない。
TPOの団員たちは、それでもどこか申し訳なさそうに視線を伏せていた。
エンジニア隊から離れる者たちも同じだった。
その視線が。
こっこへ向く。
「……こっこさん」
「ん?」
「すみません。俺たち――」
「いいよ」
あまりにも早い返事だった。
彼らの言葉が、途中で宙に浮く。
「え……」
「分かった」
こっこは笑う。
「僕に気にする必要はない。高みを目指すといい」
それだけだった。
引き留めない。
責めもしない。
恩を持ち出すこともしない。
こっこにとって、エンジニア隊もTPOも、自分に従わせるために作った組織ではない。
目的は一つ。
この世界を攻略し。
全員で現実へ帰ること。
ならば――。
「ヒースクリフさんのところのほうが自分を活かせると思うなら、それでいいんじゃない?」
「こっこさん……」
「ただし」
こっこが人差し指を立てる。
「死ぬなよ」
短い沈黙。
彼らは目を丸くした。
その言葉の軽さの奥にあるものを、測るように。
そして――。
「はい!」
力強く頷いた。
キバオウは腕を組み、盛大に顔をしかめる。
「……ったく。お人好しばっかりやな、ここは」
「キバオウさんだって、本気で止めるつもりはなかったでしょう?」
ディアベルが笑う。
「うっさいわ!」
そのやり取りに、小さな笑いが起こった。
だが――。
これもまた、一つの変化だった。
十層まで攻略してきた者たちは、もう一枚岩ではない。
誰もが同じ目的を持ちながら。
それぞれが、自分の信じる方法で上を目指し始めていた。
そして。
もう一人。
ゆっくりと前へ出る少女がいた。
「……私も」
キリトの表情が止まった。
アスナだった。
「私も、あなたのギルドに参加します」
ヒースクリフは静かに頷いた。
「歓迎しよう」
アスナは振り返った。
そこには。
今までずっと共に戦ってきた黒衣の少年がいる。
第一層から。
何度も背中を預けた。
何度も助けられた。
何度も意見をぶつけ合った。
そして何度も、一緒に死線を越えてきた。
「キリト君……」
呼びかけた声が、わずかに震えた。
キリトは。
すぐには顔を上げなかった。
やがて、ゆっくりと目を伏せたまま息を吐く。
それから顔を上げた時には、笑っていた。
いつもの。
少し不器用な笑顔だった。
「いいんじゃないか」
「……え?」
「君は十分に強くなった」
キリトは言う。
「もう、俺が教えられることなんてほとんどないよ」
「そんなこと……!」
「それに」
キリトはヒースクリフを見る。
今日。
その強さを誰より近くで見た。
この男なら。
そして、この男が作るギルドなら。
「これからは、君の信じるものに向かって進むべきだ」
アスナの瞳が揺れる。
「だから――」
キリトは手を差し出した。
ほんの少しだけ、ためらうように。
「今まで、ありがとう」
アスナは、その手を見る。
指先が動きかけて、止まった。
すぐには握れなかった。
その手を握れば。
本当に。
今までの二人が終わってしまうような気がした。
「……キリト君」
「うん」
「私……」
声にならない。
一日でも早く攻略する。
一日でも早く現実へ帰る。
それはずっと。
アスナが望んできたことだった。
ヒースクリフは強い。
そして彼は、個人の力だけではなく、攻略そのものを組織化しようとしている。
自分の選択は間違っていない。
そう思っている。
なのに。
涙が一粒、頬を伝った。
「……ごめん」
「なんで謝るんだよ」
キリトは困ったように笑った。
その笑顔が、かえってアスナの胸を締めつけた。
「なんだか……キリト君を裏切ったみたいで……」
「違う」
即答だった。
迷いのない声だった。
「そんなこと、一度も思ってない」
キリトはアスナの手を握った。
温度を確かめるように。
「行ってこい、アスナ」
「……うん」
握られた指が、ゆっくりほどける。
手が離れる。
それだけだった。
喧嘩はなかった。
怒鳴り声もなかった。
どちらかが間違っていたわけでもない。
嫌いになったわけでもない。
だからこそ。
引き留める理由がなかった。
ただ。
二人が、それぞれの道を選んだ。
◇
その日のうちに。
キリトは再び、ソロプレイヤーへ戻った。
「じゃあ、俺は先に行くよ」
片手を上げる。
黒いコート。
背中の片手剣。
誰かと組む前の――。
一人でアインクラッドを歩いていた頃の姿。
「キリト君!」
アスナが呼ぶ。
キリトは立ち止まった。
足が、ほんの一瞬だけ止まった。
だが。
振り返らなかった。
ただ片手を上げる。
「また攻略会議でな」
それだけ言って。
歩き始めた。
アスナは、その背中をずっと見ていた。
呼び止めたかったのかもしれない。
けれど、もう一度名前を呼ぶことはできなかった。
こっこも。
少し離れた場所から、その背中を見ていた。
「…………」
十層。
ここから先。
キリトにベータテスターとしての優位はない。
誰も知らない世界が始まる。
今までなら。
自分は先を知っている。
自分が危険を引き受ければいい。
だからアスナを守って進める。
そんな考え方もできただろう。
だが。
これからは違う。
何が待っているのか、キリトにも分からない。
――だから、ちょうど良かったんだ。
たぶん。
キリトは、そう思い込もうとしている。
アスナは十分に強くなった。
ヒースクリフも強い。
仲間も増える。
組織の中で戦ったほうが安全だ。
自分と二人で歩くより。
ずっといい。
だから。
これでいい。
「……嘘つけ」
こっこが、小さく呟いた。
誰にも聞こえないほどの声だった。
キリトの歩き方は、いつもと変わらない。
背筋も伸びている。
足取りだって迷っていない。
それでも。
こっこには分かった。
寂しいのだ。
たぶん。
とても。
背中が、少しだけ遠く見えた。
それでもキリトは、アスナを引き止めなかった。
自分の寂しさより。
彼女が選んだ道を優先した。
だから。
こっこも呼び止めなかった。
慰めにも行かなかった。
そんなことをすれば、キリトが守った別れを壊してしまう気がした。
ただ。
遠ざかっていく黒い背中を、こっこは黙って見送っていた。
その隣へ。
いつの間にか、リズとシリカが並んでいた。
二人も何も言わず、キリトの後ろ姿を見つめている。
やがて。
こっこが、ぽつりと呟いた。
「……一度、人のぬくもりを知ってから別れるのは、つらいね」
「え?」
リズが横を見る。
こっこはキリトの背中を見たままだった。
「はじめから一人なら、別れるつらさを知らずに済んだんだってことさ」
「こっこさん……」
シリカが小さく呟く。
第一層から、キリトは一人で歩いていた。
それなら。
孤独は日常だった。
一人で食事をすることも。
一人で迷宮へ入ることも。
一人で街道を歩くことも。
それが普通なら、それを寂しいとは思わない。
けれど。
一度、隣に誰かがいることを知ってしまった。
一緒に食事をして。
くだらないことで言い合って。
背中を預けて戦って。
振り返れば、そこに誰かがいる。
その温かさを知ってしまった。
だから。
同じ『一人』でも。
もう、昔と同じではない。
遠くで。
黒衣の少年の姿が小さくなっていく。
こっこは、しばらくその姿を見つめていた。
そして。
「若者たちよ」
突然、少し芝居がかった声になった。
リズとシリカが同時にこっこを見る。
「別れと出会いが、自分を強くするんだよ」
「…………」
「…………」
こっこは腕を組み。
うんうん、と一人で頷いた。
そして――。
「……いいなあ、青春って」
くるり。
そのまま歩き出した。
「…………」
リズが口を開きかける。
「…………」
シリカも何か言いかける。
だが。
二人は顔を見合わせた。
そして。
ほぼ同時に、口を閉じた。
――ここは、突っ込んではいけない。
なぜか二人とも。
そう思ってしまった。
いつもなら。
「何がおっさん臭いこと言ってんのよ!」
とか。
「こっこさんも十分楽しんでるじゃないですか!」
とか。
いくらでも言えるはずなのに。
今日だけは。
その背中に何も言えなかった。
少し先を歩くこっこ。
さらに遠くを、一人で歩くキリト。
その向こうには。
ヒースクリフのもとで新しい道を歩き始めるアスナがいる。
出会って。
共に歩いて。
そして、別れる。
けれど。
別れた道が、二度と交わらないとは限らない。
アスナはヒースクリフと共に。
キリトは再び、一人で。
TPOに残る者。
新たなギルドへ向かう者。
エンジニアとして別の形で攻略を支える者。
十層まで一緒に進んできた者たちが。
ここから少しずつ。
それぞれの信じる道を歩き始める。
第十層。
それは一つの区切りであり。
同時に――。
新しい攻略組が生まれ始めた層でもあった。