エンジニアのSAO Progressive ~NPCが売ってないなら作ればいい~ 作:Edward
青い騎士――ディアベル
ディアベルは、騎士になりたかったわけではない。
少なくとも――最初からそうだったわけではなかった。
βテストの頃。
彼が見据えていたのは、いつも上だった。
次の街。
次の迷宮区。
次のボス。
そして――次の階層。
誰よりも早く。
誰よりも強く。
誰よりも高く。
正式サービスが開始され、アインクラッドがデスゲームへと変貌してからも、その根底にあるものは変わらなかった。
ただ、自分一人で上を目指すだけでは不十分になった。
ならば、人を集めよう。
攻略組をまとめよう。
先頭に立とう。
皆を導こう。
そうして彼は、《青い騎士》と呼ぶにふさわしい男になった。
「みんな――勝とうぜ!」
人々を鼓舞する言葉。
爽やかな笑顔。
堂々とした立ち姿。
それは偽りではなかった。
皆を生きて現実世界へ帰したい。
その想いも本物だった。
けれど――。
その胸の奥には、わずかな欲望もあった。
βテスターとしての知識。
誰よりも早く先へ進めるという自負。
攻略組を率いる自分への誇り。
そして、第1層ボスが瀕死になった時。
――ラストアタックを取りたい。
ほんの一瞬。
ほんのわずかな間。
その欲望が、彼の判断を狂わせた。
結果――。
ディアベルは死にかけた。
仲間たちを危険にさらし。
自分が思い描いていた《攻略組のリーダー》という姿も失った。
だから、第1層へ戻った。
逃げたのかもしれない。
その日の宿代だけを稼ぎ。
食事をして。
眠る。
翌日になれば、最低限のコルだけを稼ぐ。
剣を振る理由など、もうなかった。
自分には、攻略組を率いる資格などない。
そんなことを、何度も考えた。
それでも。
ディアベルの瞳だけは、死んでいなかった。
何かをしたかった。
何かで償いたかった。
けれど――その《何か》が分からなかった。
だから彼は歩いた。
βテストでは見向きもしなかった第1層を。
急がず。
競わず。
上を目指さず。
ただ、歩いた。
小さなクエストを受けた。
NPCの依頼を引き受けた。
道に迷った。
知らなかった場所を見つけた。
そして、いつしかその時間を楽しんでいた。
かつて現実世界でバイクに乗り、北海道を巡った時のように。
道の駅を見つけては立ち寄り。
スタンプ帳を開き。
ポン。
また走って。
ポン。
目的地へ誰よりも早く到着することなど、どうでもよかった。
道中そのものが楽しかった。
ディアベルは、ようやく思い出した。
旅とは――そういうものだった。
そして。
そんな寄り道の途中で。
彼は見つけた。
《はじまりの街》の片隅。
公園で身を寄せ合って眠る、子供たちを。
宿代すらない。
食べ物にも困っている。
彼らを守っている女性――サーシャは、一人でフィールドへ出てコルを稼いでいるという。
しかも。
夕方になっても帰ってこない。
「サーシャ、まだ帰ってこない……」
泣いている子供がいた。
「モンスターに襲われたんじゃ……」
震えている子供がいた。
ディアベルは尋ねた。
サーシャがどこへ行ったのか。
そして。
走った。
誰かに頼まれたわけではない。
クエストウインドウが表示されているわけでもない。
報酬額も。
経験値も。
レアアイテムも。
ラストアタックボーナスも。
――何もない。
攻略組の仲間たちは、すでに第3層にいる。
彼らがこのことを知ることもないだろう。
アルゴの記事に載ることもない。
《青い騎士ディアベル、少女を救出》。
そんなニュースになることもない。
それでも――。
「俺が連れて帰ってくる!!」
ディアベルは走った。
夕暮れの《はじまりの街》を駆け抜け。
東門を飛び出し。
剣を抜いた。
理由は一つだけ。
泣いている子供たちがいたから。
大切な人の帰りを待っている子供たちがいたから。
だから。
助けに行く。
それだけだった。
――ああ。
もしも誰かが。
この時のディアベルを見ていたなら。
きっと、こう思っただろう。
第1層攻略会議で大勢の前に立った男より。
ボス攻略隊を率いた男より。
ラストアタックを狙って剣を振るった男より。
今。
たった一人の見知らぬ女性を救うため、夕暮れの草原を駆けている男の方が。
ずっと――。
騎士らしい、と。
ディアベルは知らない。
この先。
ようやくサーシャを見つけることも。
森の中で彼女を守るため、再び本気で剣を振るうことも。
公園で暮らしていた子供たちに、
「ディアベル兄ちゃん!」
と呼ばれるようになることも。
荒れ果てた教会を見つけ。
そこを彼らの家にすることも。
やがて――。
守りたいと思った女性と人生を共にすることも。
そしていつの日か。
その女性と子供たちに背中を押され。
もう一度、上層へ続く階段を登ることも。
まだ何も知らない。
ただ一つだけ。
かつてのディアベルは。
誰よりも早く《上》へ行こうとしていた。
けれど今は。
誰かを助けるために《前》へ走っている。
その違いこそが――。
彼が失敗の果てに見つけた、新たな強さだった。
青い騎士は、一度夢に破れた。
だからこそ。
名声も。
報酬も。
称賛も。
何一つ得られない場所で。
ようやく――。
本当の騎士になろうとしていた。
ディアベルは走っていた。
月明かりに照らされた草原を、ただひたすらに駆け続ける。
《索敵》スキルはない。
《追跡》スキルもない。
サーシャがどちらへ向かったのか、確かな情報すらなかった。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
「頼む……間に合ってくれ……!」
あの公園には、子供たちがいる。
サーシャを慕い、彼女の帰りを待っている子供たちがいる。
現実世界へ帰ることすら叶わないこの世界で、それでも明日を信じて生きようとしている、小さな命がある。
その子供たちから、希望の灯を奪うわけにはいかなかった。
「サーシャさん!」
叫ぶ。
返事はない。
聞こえるのは、草を踏みしめる自分の足音と、乱れた呼吸だけだった。
――考えろ。
ディアベルは走りながら、必死に思考を巡らせる。
第一層攻略組を率いていた頃なら、情報を集め、地図を確認し、敵の出現位置を予測したうえで、仲間を配置していた。
だが、今はそのどれもない。
あるのは、自分の目と耳。
そして、勘だけだった。
その時、なぜか一人のプレイヤーの姿が脳裏に浮かんだ。
攻略には決して向いているとは思えないスキルばかりを伸ばしていた男。
剣士でありながら料理をし、武器を修理し、工具を作り、炭まで焼く。
戦場へ赴けばフライパンまで持ち出し、それでも最後には、その場にあるものすべてを活用して攻略組を支えていた職人。
――こっこ。
「……君なら、どうする?」
もちろん、返事などない。
それでもディアベルには、彼なら何と言うのか分かるような気がした。
使えるものはすべて使え。
目で見ろ。
耳で聞け。
自分で考えろ。
そして――諦めるな。
「……そうだな」
ディアベルは顔を上げた。
スキルがないのなら、自分自身の感覚を信じるしかない。
風の音。
草木の揺れる音。
遠くから聞こえる獣の遠吠え。
そのすべてに意識を集中させる。
そして――。
キラッ。
「――!」
ほんの一瞬だった。
遠く離れた林の中で、何かが月光を反射した。
普通なら見逃してしまうほど小さな光。
だが、ディアベルの視線はそれを捉えていた。
「金属……?」
考えるより先に、直感が告げる。
剣だ。
誰かが振るった剣身が、月光を反射したのだ。
根拠などない。
完全な勘だった。
だが、ディアベルの右手はすでにストレージを操作していた。
取り出したのは一本のナイフ。
投擲可能な小刀だった。
走ったまま、大きく振りかぶる。
距離も分からない。
敵の位置さえ見えていない。
ただ、あの光だけを信じて――。
「届けぇぇぇっ!!」
《投剣》。
システムアシストを受けたナイフが、ディアベルの手から放たれる。
銀色の一筋が月夜を切り裂き、木々の隙間へ吸い込まれていった。
◇
「……っ……!」
サーシャのHPバーは、すでに赤く染まっていた。
レッドゾーン。
あと一撃。
まともに攻撃を受ければ、それですべてが終わる。
目の前には狼。
その後ろにも二頭、三頭。
サーシャの握る剣は震えていた。
もはや腕を上げる力は残っていない。
逃げる力も残されていなかった。
「みんな……」
公園で待っている子供たちの顔が浮かぶ。
「ごめんね……」
狼が地面を蹴った。
大きく開かれた口。
月光を反射する牙。
サーシャは目を閉じる。
その瞬間――。
ヒュンッ!!
「――え?」
何かが頬のすぐ横を通過した。
ガッ!!
「ギャウンッ!!」
飛び掛かっていた狼の鼻先に、一本のナイフが突き刺さる。
狼は空中で体勢を崩し、サーシャの横を転がっていった。
「……ナイフ?」
サーシャが呆然と呟く。
その時、草むらの向こうから、こちらへ駆けてくる人影があった。
剣を握り。
息を切らし。
何度も転びそうになりながら。
それでも、走ってくる。
「サーシャさん!」
サーシャはその名を知らなかった。子供たちから話には聞いていたが、こうして顔を合わせるのは初めてだった。
「……あなたは……?」
ディアベルはそのままサーシャの前へ滑り込んだ。
剣を抜く。
「間に……合った……!」
狼たちが低く唸った。
一頭。
二頭。
三頭。
さらに暗闇の奥から、新たな影が現れる。
サーシャは青ざめた。
「……逃げてください……!」
「サーシャさん」
ディアベルは振り返らなかった。
「動けますか?」
「少し……なら……」
「それなら」
剣を正眼に構える。
「俺の後ろに」
狼が飛び掛かった。
「はあっ!」
剣閃。
一頭目を斬り伏せる。
ポリゴン片が夜空へ舞った瞬間、横から二頭目が襲い掛かる。
「ぐっ!」
爪がディアベルの腕を裂く。
HPバーが減少する。
三頭目。
盾で受ける。
衝撃で身体が後退した。
「大丈夫!」
大丈夫ではない。
それでも、ディアベルは立っていた。
あの第一層ボス攻略戦とは違う。
スイッチしてくれる仲間はいない。
エギルはいない。
キリトもいない。
アスナもいない。
こっこもいない。
指揮する攻略組すら存在しない。
自分一人。
それなのに。
不思議と、逃げたいとは思わなかった。
背後に、守らなければならない人がいる。
「来い!!」
ディアベルが吼えた。
狼の群れが殺到する。
剣で牙を弾く。
盾で押し返す。
一頭を蹴り飛ばし、ソードスキルを叩き込む。
だが、クールタイムの隙を突いて、別の狼が飛び込んでくる。
「ぐあっ!」
牙が肩を捉えた。
HPが大きく減少する。
黄色。
まだだ。
剣を振る。
もう一頭。
さらに一頭。
だが、狼たちも諦めない。
「はぁ……はぁ……!」
ディアベルの呼吸が次第に乱れていく。
「もういいです!」
後ろからサーシャが叫んだ。
「私を置いて逃げてください!」
「駄目です!」
ディアベルは即答した。
「それだけは……絶対に駄目です!」
狼が突進する。
盾が弾き飛ばされた。
「ぐあっ!」
ディアベルの身体が地面を転がる。
HPバーが黄色から赤へ変わった。
サーシャ「!!」
それでも。
ディアベルは立ち上がった。
剣を杖にして。
震える膝を無理やり伸ばして。
かつて自分は、アインクラッドを攻略するために戦っていた。
誰よりも早く上へ行く。
攻略組を率いる。
ボスを倒す。
ラストアタックを取る。
それが攻略なのだと思っていた。
だが。
今なら、少し分かる。
攻略とは、上へ行くことだけではない。
誰かが明日を迎えられるようにすること。
この世界で生きていく道を切り開くこと。
それもまた――。
「攻略なんだ……!」
最後の狼が姿勢を低くした。
ディアベルのHPは、あとわずか。
一撃でも受ければ終わる。
「俺はもう……」
狼が地面を蹴る。
「誰かの希望を――」
跳躍。
巨大な牙が迫る。
「目の前で消させない!!」
ディアベルも踏み込んだ。
ソードスキルの光が剣を包む。
狼の爪が胸をかすめた。
HPバーが削られる。
赤い線が、消える寸前まで細くなる。
だが。
ディアベルの剣は止まらなかった。
「うおおおおおおおっ!!」
剣が狼を貫いた。
青い光が弾ける。
狼の身体は無数のポリゴン片となり、月夜へ消えていった。
静寂が訪れた。
「……」
ディアベルは剣を振り抜いた姿勢のまま、動かなかった。
やがて。
カラン――。
剣が地面へ落ちる。
「しっかりしてください!」
崩れ落ちた身体を、サーシャが抱き止めた。
「しっかりしてください!」
「……勝った……?」
「勝ちました! もういません! だから……!」
ディアベルのHPバーはレッド。
サーシャもレッド。
どちらも風前の灯だった。
それでも。
二人とも生きている。
「……良かった」
ディアベルが呟いた。
「何がですか……!」
「子供たちのところへ……帰れますね」
サーシャの目から涙が溢れた。
「馬鹿……!」
「え……?」
「馬鹿です……!」
サーシャはディアベルの服を強く握った。
「あなたも帰るんです!」
「……」
「子供たちは、私だけを待っているんじゃありません!」
涙を流しながら、それでもサーシャは笑った。
「あなたのことだって、待っているんですよ!」
その言葉に。
ディアベルは目を見開いた。
攻略組にいた頃。
自分がいなくなったとしても、代わりはいると思っていた。
キリトがいる。
エギルがいる。
自分より強いプレイヤーだって、これからいくらでも現れる。
だが。
あの小さな公園では。
自分を待っている人たちがいる。
「……そうか」
ディアベルは小さく笑った。
「俺も……帰っていいのか」
「当たり前です」
二人は互いに肩を貸し合いながら立ち上がった。
まともに剣を振る力すら残っていない。
それでも、遠くには小さな明かりが見えていた。
公園。
子供たちが待っている場所。
かつてディアベルは、上を目指していた。
一層から二層へ。
二層から三層へ。
誰よりも早く。
誰よりも高く。
アインクラッドの頂へ。
だが今夜。
彼が目指している場所は、上ではなかった。
帰る場所だった。
ディアベルはサーシャと肩を寄せながら、一歩ずつ歩いていく。
そして心の中で、一人の職人へ語りかけた。
――こっこ。
今度会ったら、礼を言おう。
君の戦い方は、攻略には向いていないと思っていた。
でも。
違ったんだな。
持っているものをすべて使って。
誰かを生かす。
誰かが明日を迎えられるようにする。
それだって――立派な攻略だったんだ。
月明かりの下。
二つの赤いHPバーが並んで進んでいく。
それは今にも消えてしまいそうな、あまりにも小さな二つの光。
けれど。
決して消えなかった。
子供たちの待つ、小さな公園の灯へ向かって。
二人はゆっくりと――帰っていった。
◇
公園の入口には、まだ小さなランタンの灯りが残っていた。
「……誰も、寝てないみたいですね」
サーシャが困ったように笑う。
「それだけ心配していたんでしょう」
「あなたもですよ」
「俺?」
「ずっと子供たちが言っていました。『ディアベル兄ちゃんも帰ってこない』って」
「……」
ディアベルは返事ができなかった。
二人が公園へ近づいた、その時だった。
「……サーシャ先生?」
木陰から小さな声がした。
次の瞬間。
「サーシャ先生だ!!」
公園の中が一気に騒がしくなる。
「先生!!」
「帰ってきた!」
「サーシャ先生!!」
何人もの子供たちが一斉に駆けてくる。
「みんな……!」
サーシャが膝をついた。
子供たちが次々と抱きつく。
「先生、遅いよ!」
「どこ行ってたの!?」
「心配したんだから!」
「ごめんね……本当に、ごめんね……」
サーシャは、一人ひとりを抱き締めた。
泣いている子。
怒っている子。
安心した途端、笑い出す子。
その光景を。
ディアベルは少し離れた場所から眺めていた。
――良かった。
間に合った。
これでいい。
自分の役目は終わった。
そう思って、一歩だけ後ろへ下がる。
誰にも気づかれないうちに離れようとした。
その時。
「ディアベル兄ちゃん!!」
「――え?」
子供の一人がディアベルを指差していた。
「ディアベル兄ちゃんも帰ってきた!」
「ほんとだ!」
「兄ちゃん!」
「遅いよ!」
「……ちょ、ちょっと待って――」
逃げる間もなかった。
今度は子供たちの半分が、ディアベルへ殺到した。
「うおっ!?」
ドンッ!
レッドゾーンの身体に数人分の体当たり。
「ぐっ……!」
「ディアベルさん!?」
サーシャが慌てる。
「兄ちゃん、どこ行ってたんだよ!」
「先生探しに行ってたの!?」
「怪我してる!」
「HP真っ赤だよ!」
「死んじゃうの!?」
「死なない! 死なないから!」
ディアベルは慌てて答えた。
すると一人の少年が鼻をすすった。
「……ほんと?」
「ああ」
「絶対?」
「絶対だ」
その言葉を聞いた途端。
「うわあああああん!!」
少年が泣き出した。
「ええっ!?」
「ディアベル兄ちゃんも帰ってこないから、死んじゃったと思ったぁぁぁ!!」
その一言で。
ディアベルの表情が止まった。
「サーシャ先生も帰ってこないし……」
「二人ともいなくなったらどうしようって……」
「怖かった……」
「……」
胸の奥が痛んだ。
狼に噛まれた傷ではない。
もっと深いところが。
攻略組にいた頃。
自分は大勢から必要とされていると思っていた。
リーダーだから。
戦えるから。
情報を持っているから。
人をまとめられるから。
だから、自分には価値があるのだと思っていた。
けれど。
ここにいる子供たちは違う。
レベルなど知らない。
剣の腕も知らない。
第一層攻略会議を開いたことも。
ボス戦で何をしたのかも。
ラストアタックを狙って失敗したことも。
知らない。
ただ。
――帰ってきてほしかった。
それだけだった。
「……参ったな」
ディアベルは呟いた。
「どうしたの?」
少女が不思議そうに見上げる。
「いや……」
ディアベルは膝をついた。
そして、自分に抱きついていた子供たちの背中へ、そっと腕を回した。
「ただいま」
一瞬。
静かになった。
そして。
「おかえり!!」
公園いっぱいに声が響いた。
「ディアベル兄ちゃん、おかえり!」
「サーシャ先生も!」
「おかえりなさい!」
サーシャが口元を押さえていた。
涙を堪えきれずに。
それでも、笑っていた。
「……おかえりなさい、ディアベルさん」
ディアベルはサーシャを見る。
彼女とは今夜、初めて会った。
命を懸けて助けた。
いや。
違う。
自分もまた、この人に助けられたのだ。
「……ただいま」
もう一度。
今度は少しだけ照れながら、ディアベルは答えた。
◇
その夜。
手持ちの回復アイテムを分け合い、二人のHPはようやく安全圏まで戻った。
安心した子供たちは、張り詰めていた糸が切れたように、次々と眠りについた。
簡易に作ったテントの中で眠る子供達・・・。
雨が降れば中に染みてくる粗末な作り。
風が強ければ、夜中に何度も目を覚ます。
ここは彼らの家ではなかった。
ただ、今夜を生き延びるために身を寄せている場所にすぎない。
ディアベルは木に背を預け、眠っている子供たちを見つめていた。
隣へサーシャが腰を下ろす。
「ありがとうございました」
「……俺は当然のことをしただけです」
「当然のことで、あそこまでHPを減らす人はいません」
「はは……それは反省します」
しばらく。
二人は何も言わなかった。
静かな寝息と、木々を揺らす風の音だけが聞こえる。
やがて。
小さな子供が寒そうに身体を丸めた。
サーシャは立ち上がり、自分の上着をそっと掛けてやる。
その姿を見ながら、ディアベルは呟いた。
「……いつまでも、ここじゃ駄目だな」
「え?」
「この子たちのことです」
ディアベルは周囲を見渡した。
「雨が降ったら濡れる。冬になれば寒い。安心して眠るための鍵だってない」
「……はい」
「食料も、その日その日で何とかするしかない」
ディアベルは拳を握った。
「今日みたいなことがあったら……帰ってくる場所さえ、なくなるかもしれない」
サーシャは何も言わず、彼の言葉を聞いていた。
「俺……」
ディアベルは少し迷ってから続けた。
「街を歩いている時、見たんです」
「?」
「使われていない、小さな教会を」
サーシャが目を瞬いた。
「教会……?」
「ああ。古い建物だった。かなり傷んでいたし、買うには相当なコルが必要だし、購入しても修繕が必要だろう。」
屋根がある。
壁がある。
扉がある。
雨の日も。
寒い夜も。
子供たちが安心して眠れる場所。
「今の俺じゃ、とても手が届かない」
ディアベルは苦笑した。
「その日暮らしをしている俺が言うと笑われるかもしれないけど」
「笑いません」
サーシャの返事は早かった。
ディアベルが彼女を見る。
「いいと思います」
「……本当に?」
「はい」
サーシャは眠っている子供たちを見つめた。
「いつか、この子たちみんなが帰ってこられる場所を作りたいです」
ディアベルも同じ光景を見る。
「帰ってこられる場所……」
「学校みたいでもあって、家みたいでもあって」
サーシャは微笑んだ。
「『おかえり』って言える場所」
その言葉に。
少し前、子供たちから浴びせられた声が蘇る。
――おかえり!!
ディアベルは目を細めた。
「……いいな、それ」
「でしょう?」
「じゃあ」
ディアベルは手を差し出した。
「いつか、あの教会を手に入れよう」
サーシャはその手を見る。
「二人で?」
「……いや」
ディアベルは眠る子供たちを見渡して。
笑った。
「みんなで」
サーシャも笑う。
そして。
差し出された手を握った。
「はい」
まだ何もない。
コルも足りない。
食料だって十分ではない。
明日の寝床さえ、公園のこの場所だ。
けれど。
その夜。
二人には初めて。
未来の話ができた。
攻略組を離れた時。
ディアベルはすべてを失ったと思っていた。
夢を失い。
居場所を失い。
進むべき道すら見失った。
だが。
道は、上にだけ続いているのではない。
百層へ続く階段だけが、アインクラッドを攻略する道ではない。
ここにも道がある。
この公園から。
いつか手に入れる、小さな教会へ続く道が。
その時。
眠っている子供の一人が、寝返りを打った。
「……ディアベル兄ちゃん……」
「ん?」
「……明日も……いる……?」
ディアベルは目を細めた。
「ああ」
返事は小さく。
だが、迷いはなかった。
「明日もいるよ」
子供は安心したように、再び眠りについた。
ディアベルは夜空を見上げる。
アインクラッドの天井。
かつては、その先へ行くことだけを考えていた。
今は違う。
明日もここにいる。
明後日も。
その次の日も。
戦い。
稼ぎ。
少しずつコルを貯めて。
いつの日か。
あの教会の扉を開く。
そして子供たちへ言うのだ。
――今日から、ここが君たちの家だ。
それがいつになるかは、まだ分からない。
けれど。
ディアベルには久しぶりに。
追いかけたいと思える夢ができていた。
第一層の片隅。
小さな公園で。
一度夢を失った騎士は。
もう一度。
歩き始めた。