エンジニアのSAO Progressive ~NPCが売ってないなら作ればいい~ 作:Edward
茅場晶彦による、あまりにも現実離れした説明だった。
ログアウトはできない。
外部からナーヴギアを外すこともできない。
そして、この世界でHPがゼロになれば――現実の肉体も死ぬ。
《ソードアート・オンライン》は、もはや単なるゲームではない。
頭では言葉の意味を理解している。
しかし、あまりにも突拍子のない内容であり、現実感が追いつかなかった。
そんなプレイヤーたちを見下ろしながら、空を覆う巨大な赤いローブ――茅場晶彦は静かに告げた。
『――最後に、私からプレゼントを贈ろう』
こっこは眉をひそめた。
「……プレゼント?」
『諸君のアイテムストレージを確認したまえ』
言われるまま、こっこは左手を動かしてシステムウインドーを開く。
アイテム一覧。
その中に、見覚えのないものが一つ追加されていた。
《手鏡》
「……なんだ、これ?」
選択して実体化させる。
ポンッ、と軽い音とともに現れたのは、本当に何の変哲もない小さな手鏡だった。
周囲でも、次々とプレイヤーたちが同じものを取り出している。
「最後のプレゼントが……鏡?」
こっこは首を傾げながら、自分の顔を映した。
そこにいるのは、SAOを始める際に作成した自分のアバター。
現実の自分より少し若く、少し格好よく――まあ、ゲームなのだから、多少の見栄は許されるだろう。
「……特に変わったところは――」
その瞬間だった。
鏡の表面から、青白い光があふれ出した。
「え?」
――バシュンッ!!
「うわっ!?」
光が全身を包み込む。
視界が真っ白に染まった。
同時に、広場のあちらこちらから悲鳴が上がる。
「なんだ!?」
「うわああっ!」
「なにこれ!?」
数秒後。
光が消えた。
こっこは目を瞬かせる。
「…………?」
何かがおかしい。
身体の感覚が、先ほどまでとは微妙に異なっている。
腕の長さ。
肩幅。
目線の高さ。
そして――。
恐る恐る手鏡を見る。
「…………」
そこに映っていた男を、こっこはよく知っていた。
毎朝、洗面所で見る顔。
仕事帰りには少し疲れていて。
休日には家族と同じ食卓を囲んでいる――。
「……僕じゃん」
現実世界の、自分自身だった。
「えっ?」
頬を触る。
鏡の中の男も頬を触る。
鼻をつまむ。
鏡の中の男も鼻をつまむ。
「いやいやいや……」
鏡を裏返す。
もう一度見る。
「僕だ……」
また裏返す。
もう一度。
「……やっぱり僕だ」
周囲を見渡せば、さらに深刻な混乱が起きていた。
「お、お前、誰だよ!?」
「お前こそ誰だよ!」
「えええっ!? 男だったの!?」
「ちょっと待て! 俺の身長を返せよ!」
美しい女性アバターだったプレイヤーが男性の姿になり、屈強な戦士だった者が細身の少年になる。
小柄な少年だと思っていた者が、大人の男性へと変わっている。
こっこは呆然と周囲を見渡した。
全員が――現実の姿に戻されている。
「……どうやって?」
その疑問への答えは、すぐに思い当たった。
ナーヴギアを初めて使用した際に行ったキャリブレーション。
身体を動かし、各部位の位置や体格を機器に認識させる作業。
医療機器のエンジニアであるこっこには、その意味が余計によく理解できてしまった。
「……キャリブレーションデータか」
そこまで言ってから、鏡を睨みつける。
「いや、勝手に使うなよ!」
思わず口をついた抗議だった。
だが――。
誰も笑わない。
こっこの表情からも、すぐに冗談めいた色が消えた。
先ほどまで、どこかに残っていたのだ。
これは大規模なイベントなのではないか。
悪趣味な演出なのではないか。
そのうち《ログアウト》ボタンが戻ってくるのではないか。
そんな淡い期待が。
だが。
鏡に映っているのは、作り物のアバターではない。
四十年近く付き合ってきた、自分自身の顔。
そして、この身体で死ねば――。
現実でも死ぬ。
『諸君も、すでに理解したことと思う』
頭上から、茅場の声が降り注ぐ。
『現在の姿こそ、現実世界における諸君自身の姿だ』
「…………」
こっこは、自分の右手を見る。
指を動かす。
次に左手。
握って、開く。
間違いない。
自分の身体だ。
そして、これまで別々に聞こえていた茅場の言葉が、一つにつながった。
ログアウトできない。
ナーヴギアは外せない。
HPがゼロになれば死ぬ。
現実の姿。
つまり――。
「……これ、本当にゲームではなくなったんだ」
ぽつりと漏れた。
手鏡が、小さく震えている。
「…………」
違う。
鏡が震えているのではない。
自分の手が震えているのだ。
怖い。
死にたくない。
家に帰りたい。
妻に会いたい。
娘に会いたい。
そして――。
「……息子」
その言葉を口にした瞬間。
こっこの顔から血の気が引いた。
このナーヴギアとSAOは、本来――息子にせがまれて手に入れたものだった。
だが、パッケージに記載された対象年齢を見て、思いとどまった。
十三歳以上。
息子は、まだ十二歳。
あと半年。
たった半年だった。
だから。
『一度、私がゲームに入って安全か確かめてから判断しよう』
そう考えた。
ただ、それだけだった。
父親としての、何気ない判断。
「…………」
もし。
対象年齢を気にしなかったら?
もし、息子にせがまれるまま渡していたら?
もし――。
安全確認など必要ないと思っていたら?
今、この広場に立っていたのは。
「……僕じゃなくて……」
声が震える。
「息子だったのか……」
ぞっとした。
これまでとは比べものにならないほどの恐怖が、背筋を駆け抜けた。
十二歳の息子が、この世界に閉じ込められている姿を想像してしまった。
ログアウトできず。
死の恐怖に怯え。
父親も母親もいない世界で。
一人で――。
「…………っ」
こっこは手鏡を強く握りしめた。
怖い。
自分だって怖い。
帰りたい。
こんなところで死にたくない。
家族のもとへ帰りたい。
それでも。
胸の奥から湧き上がった最初の感情は、自分でも驚くほど単純だった。
「……よかった」
小さく呟く。
「僕で……よかった」
自分が閉じ込められたのに。
命を賭けることになったのに。
それでも父親としては、その言葉しか出てこなかった。
息子でなくてよかった。
妻でも、娘でもない。
自分でよかった。
こっこはしばらく、鏡の中の自分を見つめる。
そこには勇者でも、剣士でもない。
ただの会社員。
ただのエンジニア。
そして――二人の子供の父親がいた。
「……帰らないとな」
震えていた手を、ゆっくり握りしめる。
「絶対に帰らないと」
その時のこっこは、まだ知らなかった。
この何気ない安全確認によってSAOへ足を踏み入れた一人のエンジニアが――。
やがて料理を作り。
武器を修理し。
店を開き。
職人たちを集め。
工具を武器にし。
そして、茅場晶彦の想定すら超えた方向へ、この世界を少しずつ変えていくことを。
すべての始まりは。
父親としての、たった一つの判断だった。
――息子に渡す前に、自分で安全を確認する。
皮肉にも。
その慎重さこそが、こっこの運命を大きく変えたのである。
茅場晶彦の姿が消えたあとも、《はじまりの街》の中央広場には重苦しい沈黙が残っていた。
いや――沈黙が続いたのは、ほんの数秒だった。
「嘘だろ……」
誰かが呟いた。
「ログアウトできないって……どういうことだよ……」
「死んだら……本当に死ぬの?」
「嫌……」
「嫌よ……!」
ざわめきが波のように広がっていく。
一万人近いプレイヤーたちの間を、恐怖が伝染していく。
そして――
「ふざけんなああああっ!!」
一人が叫んだ瞬間、抑え込まれていた感情が一気に爆発した。
「出せ!! ここから出せよ!!」
「お母さん……!」
「明日、仕事なんだぞ!」
「誰かGMを呼べよ!!」
「ログアウトボタンを探せ! どこかにあるはずだ!」
泣き叫ぶ者。
怒鳴る者。
その場にへたり込む者。
何度もシステムウインドウを開き、存在しない《ログアウト》の文字を探し続ける者。
そして、出口を求めるように広場から走り出す者。
こっこは、その光景を呆然と見つめていた。
心臓が激しく脈打っている。
怖くないはずがない。
自分にも家族がいる。
妻がいる。
息子がいる。
娘がいる。
現実世界では、きっと自分が戻ってくるのを待っている。
今すぐ帰りたい。
だが――。
こっこは周囲を見回した。
押し合う人々。
泣きながら走る少年。
転倒したプレイヤーを踏み越えそうになる者。
目的もなく、ただ周囲につられて走り出す者。
こっこ(まずい……)
背筋に冷たいものが走った。
こっこ(このままでは、恐慌が起こる)
機械のトラブルでも同じだった。
異常が発生したとき、最も危険なのは、原因が分からないことだけではない。
何が起きているのか分からないまま、全員が勝手な判断で動き始めることだ。
だったら――。
こっこ(よし!)
何かしなければ。
今、自分にできることを。
こっこは突然、その場にしゃがみ込んだ。
ストレージを開く。
取り出したのは――。
火打ち石。
枯れ枝。
そして。
《ボアの肉》。
先ほど、自分で試したばかりの食材だった。
カチッ!
火花が散る。
もう一度。
カチッ!
ゲームらしい補正のおかげで、すぐに小さな炎が立ち上がった。
その場にいた何人かが、思わずこっこを見る。
この非常事態に。
この男は――。
火を起こし始めた。
こっこはナイフにボア肉を刺した。
じゅうううう……。
中央広場に、肉の焼ける音が響いた。
そして立ち上がると、こっこは精一杯の大声を張り上げた。
「おーい!! みんな、ボアの肉を持っているか!?」
何人かが振り返る。
こっこは焼けた肉を掲げた。
「調理してあげるから、落ち着いて肉を食べよう!!」
「…………」
しーん……。
「…………」
しーん…………。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
中央広場の一角が静まり返った。
こっこ(……あれ?)
次の瞬間。
「ふざけんな!!」
「こんなときに肉なんか食っていられるか!!」
「こっちは予定があるんだよ!!」
「返してよ!! 現実世界に返してよ!!」
「家族が待っているのよ!!」
こっこ「…………」
焼けたボア肉を持ったまま、硬直する。
こっこ「すべった…… 」
当然だった。
たった今、自分たちは命を懸けたデスゲームに閉じ込められたと宣告されたのだ。
そんな状況で突然、
「みんなで肉を食べよう」
である。
我ながら、もう少し適切な言い方があった気がする。
だが。
恐慌は収まらない。
人々は次々と広場から走り去っていく。
「待って!!」
こっこは、それでも叫んだ。
「落ち着いて!!」
誰も止まらない。
それでも叫ぶ。
「まずは、できることをやるんだ!!」
何人かが一瞬だけ振り返った。
「今、何が起きているのかも分からない! これからどうすればいいのかも分からない!」
こっこの声も震えていた。
怖い。
自分だって怖い。
それでも――。
「でも、パニックになったら本当に死んでしまう!!」
転んだプレイヤーを、別のプレイヤーが助け起こす。
こっこは続けた。
「街の中は安全だ! まずはここで落ち着こう! 持っているアイテムを確認しよう! 何ができるのか考えよう!」
そして――。
なぜか最後は、やはりそこへ戻った。
「肉だ!!」
「…………」
「みんなで肉を食べて、相談しよう!!」
再び沈黙。
こっこ「………… 」
やはり効果はなかった。
広場から人が消えていく。
攻略を目指して走り出した者。
宿屋へ向かった者。
安全な場所を探す者。
ただ現実から逃げるように走り続ける者。
やがて、あれほど大勢の人間で埋め尽くされていた場所に、ぽつぽつと空間ができ始めた。
こっこは焚き火の前に座り込んだ。
「……何をやっているんだろう、僕は」
パチッ。
焚き火が小さく爆ぜる。
手には焼けたボア肉。
家族の顔が浮かぶ。
息子に頼まれて手に入れたゲームだった。
対象年齢を確認し、自分が先に安全性を確かめようと思った。
ただ、それだけだったのに。
帰れない。
これからどうなるのかも分からない。
こっこ「……怖いよ」
小さく呟いた、そのときだった。
「あの……」
「?」
顔を上げる。
一人の少年が立っていた。
不安そうな顔をしている。
その手には、一つのアイテムが握られていた。
《ボアの肉》。
少年は、おそるおそるそれを差し出した。
「ねえ……」
こっこ「うん?」
「お肉を渡したら……焼いてくれる?」
「!」
こっこは目を見開いた。
少年の後ろを見る。
一人ではなかった。
何人ものプレイヤーが、まだそこに残っていた。
座り込んだまま動けない者。
涙を拭っている少女。
どうすればいいのか分からず、焚き火を見つめている青年。
剣を握ってはいるものの、とても戦いに行けそうにない者。
そして。
ボアの肉を持っている者。
枯れ枝を拾ってきた者。
火打ち石を持っている者。
それぞれが、こっこの焚き火を見ていた。
「……俺も、焼いてもらっていい?」
「私も……」
「食べたらHPは回復するんですか?」
こっこは一瞬、何も言えなかった。
恐慌を止めることはできなかった。
大勢を救うような立派な演説もできなかった。
盛大にすべった。
それでも――。
ここに残ってくれた人たちがいる。
こっこは袖で目元を拭うと、少年からボア肉を受け取った。
「もちろん!」
ナイフに肉を刺す。
焚き火へとかざす。
じゅうううう……。
再び、肉の焼ける音がした。
「はい。少し待ってね。すぐに焼けるから」
少年が小さく笑った。
「ありがとう」
「うん」
その言葉だけで、胸の奥が少し軽くなった。
別のプレイヤーが焚き火の前に座った。
「じゃあ俺、枝を集めてくるよ」
「あ、火打ち石なら私も持っている」
「ボア狩りなら……街のすぐ外だよな?」
「でも、一人では怖いよ」
「じゃあ、何人かで行けばいいんじゃない?」
会話が始まった。
ほんの少しずつ。
「宿屋って何コル?」
「初期資金は、みんなどれくらい持っている?」
「戦闘ができない人はどうする?」
「食料はNPCから買い続けるしかないのかな?」
「武器の修理は?」
「生産スキルを取った人っている?」
こっこは肉を焼きながら、その声を聞いていた。
誰かが答える。
分からないことは、みんなで確認する。
できる者が、できない者を手伝う。
そこには攻略会議もなければ、リーダーもいない。
ただ。
小さな焚き火が一つあるだけだった。
やがて、少年に渡したボア肉が、《焼けた肉》へと変化する。
「ほら、できたよ」
「わあ……!」
少年が一口かじる。
「おいしい!」
「本当?」
「うん!」
その言葉を聞いて、周囲から小さな笑い声が漏れた。
恐怖が消えたわけではない。
現実世界へ帰れるようになったわけでもない。
茅場晶彦の宣告が嘘になったわけでもない。
それでも。
絶望に覆われた《はじまりの街》の片隅に。
ほんの小さな居場所ができていた。
こっこは、次の肉を受け取る。
「はい、次の人!」
「俺、お願いします!」
「私も!」
「順番ね、順番! 肉は逃げないから!」
「モンスターは逃げますけどね」
「それは捕まえてきて 」
くすくす、と笑いが起こった。
こっこも笑った。
このときの彼は、まだ知らない。
自分が何気なく選んだ《料理スキル》。
攻略には役に立たないと笑われた、そのスキルが――。
デスゲームとなったこの世界で、初めて誰かの役に立ったことを。
剣ではなかった。
強さでもなかった。
ただ肉を焼き、火を囲み、話をする場所を作った。
それだけだった。
けれど、この小さな焚き火から。
やがて料理をする者が現れる。
武器を直す者が現れる。
物を作る者が現れる。
戦えない者にも、この世界でできることがあるのだと考える者たちが現れる。
そして後に、攻略とはまったく異なる方向から《アインクラッド》を支えることになる、一つの流れが生まれていく。
もちろん――。
この時点のこっこ本人に、そんな壮大な自覚などあるはずもなく。
「おじさん、次のお肉!」
「おじっ……!?」
こっこは胸を押さえた。
「せめて、お兄さんと呼んで 」
少年「えー」
周囲「はははは!」
絶望に包まれた《はじまりの街》に。
ほんの一瞬だけ。
笑い声が響いた.