「姉さん――っ」
自分の口からこぼれた、幼い少女の声。
その余韻が消えてからも、榊原伊織はしばらく動けなかった。
天井には照明がある。換気口も火災報知器も、白い天井板を区切る細い継ぎ目も、すべて元の位置に戻っている。
両手首に拘束具はない。
分かっている。それでもシーツの上に置いた手を動かそうとすると、皮膚の下で存在しない金属の輪が軋んだ。
伊織は呼吸を整え、枕元の呼出装置へ手を伸ばした。
指が触れるより先に、扉が開く。
「お呼びでしょうか」
入ってきたのは看護師ではなく、葉山だった。
「まだ押していません」
「失礼いたしました。室内の御様子に変化がございましたので」
「どこで見ていたんです」
「患者様の安全に関わる設備については、お答えいたしかねます」
「見られていることだけは教えてくれるんですね」
「御安心いただけたようで何よりでございます」
安心という言葉の意味が、四葉では少し違うらしい。
部屋の隅に監視装置らしきものは見当たらない。しかし、見当たらないから存在しないと考えられるほど、伊織も楽観的ではなくなっていた。
「今、もう一度起きました」
葉山の目がわずかに細くなる。
「目眩が、でしょうか」
「違います。先ほどより長い。病室が別の部屋に見え、臭いも痛みもありました」
「奥方様に関係するものですか」
「その可能性があります」
「何を御覧になりました?」
伊織は答えなかった。
葉山も急かさない。十秒ほど沈黙が続いたあと、伊織はベッド脇の医療端末を手に取った。
「四葉さんへ連絡してください」
「内容を先に伺っても?」
「四葉さん本人の同意を得る前に、診療内容を第三者へ話すつもりはありません」
「先生御自身に生じた症状でも?」
「発症の契機も内容も、彼女の症例と切り離せません」
葉山の表情は変わらなかった。
「四葉家当主の精神情報に関する異常は、当家の安全保障に関わります」
「同時に医療情報でもあります」
「国家機密に準ずる情報であっても?」
「機密指定が守秘義務を強くすることはあっても、消すことはありません」
扉は外から施錠され、窓もない。目の前にいるのは、四葉家当主の命令一つで翌日の診療予定まで消せる男だ。
その相手へ、四葉家の情報を四葉家に渡さないと宣言している。
医師としては間違っていない。生存戦略として正しいかは、まったく自信がなかった。
「かしこまりました」
葉山は丁寧に頭を下げた。
「奥方様へ確認いたします。それまで、再検査を受けていただけますか」
「検査内容を先に説明してください」
「非侵襲検査のみです。薬剤投与と精神干渉魔法は行いません。先ほどの記憶様体験が再発した時刻を基準に、現在の脳活動、自律神経反応、想子活動を比較いたします」
「分かりました。それなら同意します」
拒絶される可能性まで含め、すべて予定されていたような返答だった。
二度目の検査は、観察用個室で行われた。
頭部と胸部へ端子を装着され、伊織はベッドへ横たわった。手首には何も巻かれていない。先ほどの検査技師が、伊織の視線を確かめてから装置を起動する。
「前回と同じく、手首の固定は行いません」
「ありがとうございます」
「胸部と両脚は固定します」
「そこは前回から改善されなかったんですね」
「検査精度を優先しました」
「私の快適性は?」
「御理解はしております」
やはり、顔には何の感情も浮かんでいなかった。
二十分後、画面へ並んだ数値は、拍子抜けするほど正常だった。
発作直後に上昇していた心拍と血中のストレス反応は下がり、神経活動にも新たな異常はない。最初の検査で一度だけ確認された未知の想子周期も、今回は検出されなかった。
「再発している間だけ現れる変化かもしれません」
検査技師は、推測と分かる言い方で告げた。
「映像を見ている最中の記録は残っていませんか」
「室内の常時監視は心拍、呼吸、体動のみです。脳活動と詳細な想子波形までは記録しておりません」
「では今回分かったのは、現時点の測定値が基準内だということだけですね」
「はい。正常であると断定できたわけではありません」
伊織は小さく息を吐いた。
「昨日より説明が慎重になりましたね」
「先生から、患者向けの説明を見直すと伺いましたので」
「私が患者の間に改善されるとは思いませんでした」
正確な説明はありがたい。ありがたいが、その正確さによって何も分からないことまで明確になった。
葉山が携帯端末を操作すると、壁面画面へ真夜の記録が呼び出された。個人を特定できる生の想子波形ではなく、診療に必要な項目だけを数値化した資料である。
「奥方様より、接触前後の測定値に限り開示の許可が出ました」
接触前と接触後。
前回の診察中に得た記録と、接触後に四葉側の医療班が別系統で測定した記録だった。開示されたのは安静時の脳活動、自律神経反応、想子放出量の数値だけで、個人を識別できる生の波形は伏せられている。
どの項目も基準範囲に収まり、発作を訴えていた人間と、症状が消えた人間の記録とは思えないほどよく似ていた。
「やはり、どちらも異常なしです」
「測定値は、です」
今度は伊織が訂正する番だった。
機械が測定した数値は正しい。問題は、数値同士の関係だった。
真夜は特定の言葉へ身体だけを反応させる。心拍や表情、本人の自己申告には変化がないまま、皮膚電位と想子活動がわずかに跳ね、迎撃魔法の構築直前に似た反応を示す。
意味を知っているのに、それに結びつく感情を経験していない。
身体は拒絶しているのに、その反応を本人は自分のものとして認識できない。
一つずつを測れば、すべて正常に働いている。切れているのが個々の機能ではなく、それらを一つの経験へ結びつける関係なら、部品をどれほど精密に調べても異常は見つからない。
「機械には、反応が起きたことは測れます」
伊織は画面を指した。
「ですが、本人がその反応を自分の経験として認識しているかまでは測れません。まして、なぜ私の中で彼女のものらしき感覚が体験へ組み直されたのかは、数値だけでは判断できない」
「それを判断できるのが、先生ですか」
葉山の問いに、伊織はすぐ答えなかった。
接触する前なら、自分でなければならない理由はなかった。測定条件を揃え、時間をかければ、別の専門医も同じ仮説へたどり着けたはずだ。
今は違う。
伊織自身が症例の一部になっている。
そして、四葉へ明かしていない違いがもう一つあった。
前世の記憶。
別の世界、別の身体で生きた一生を、伊織の精神は現在の経験と切り離さず、自分自身の過去として抱えている。その特異な統合の仕方が、所有者を失った精神情報にまで働いたのかもしれない。
それは仮説ですらない。誰にも検証させるつもりのない、伊織だけの秘密だった。
「接触前なら、私でなければならない理由はありませんでした」
「今は違うと?」
「私が現象の当事者になった以上、私の感覚を記録から切り離すことはできません。ただし、私にしか治せないという意味ではありません」
「では、何が代替できないのでしょう」
「昨夜、私が何を感じたかという事実です」
伊織は自分の手首へ目を落とした。
傷はない。それでも金属の幅も、冷たさも、締めつけられたときの恐怖も思い出せる。
「機械は恐怖という情報を記録できます。ですが、記録した恐怖を怖がることはできません」
「ほかの精神干渉系魔法師なら?」
「同じ現象を起こせる方がいる可能性は否定できません。ただ、それを確かめるには、四葉さんとの接触と精神情報の流入を別の人間で再現することになる」
「実験はできないと?」
「健康な人間を二人目の症例にするつもりはありません」
「先生だけは受け取れると?」
「受け取ってしまったことが確認されているのは、今のところ私だけです」
昨夜までなら、そんな能力は持っていないと答えていた。
だが真夜の目眩は伊織へ触れたあとから消え、伊織の中では、彼女の精神構造に残された痕跡が一人分の経験として形を取り始めている。
「承知いたしました」
「何をです」
「榊原先生が、現時点では代替困難な人材であることを」
「診断結果を人材評価へ転用しないでください」
「院内で得られた情報ですので」
「その理屈が通るなら、私は二度と職員健診を受けませんよ」
葉山は答えなかった。
否定されなかったことが、何より不安だった。
「それに、これが治療なのか、ただ私へ傷を移しているだけなのかも分かっていません」
それ以上の会話は、扉の解錠音で途切れた。
入ってきた真夜は、昨夜と変わらない黒い装いに、両手を覆う黒い手袋を身につけていた。目眩が消えたためか、歩みに不安定さはない。
「興味深いお話でした」
伊織は天井と壁を見回した。
「どこで聞いていたんです」
「診療に必要な範囲で、共有していただきました」
「便利な言葉ですね」
「先生ほどではありません」
真夜は、ベッドから二歩離れた椅子へ腰を下ろした。その後ろに葉山が立ち、検査技師は機材を載せた台車とともに退室する。扉の脇には女性護衛が残った。
「何を見たの?」
伊織は葉山と護衛へ視線を向けた。
「お二人が聞いても?」
「私が許可します」
「では、診療記録にも残します」
「構いません。ただし、閲覧権限はこちらで指定します」
患者本人の同意は得られた。
伊織は、真夜が退室した直後に起きたことを説明した。
病室の輪郭が消えたこと。消毒薬の臭い。両手首へ食い込んだ拘束具。自分の腕が幼い少女のものに見え、「深夜」と呼んだこと。
真夜は、最後まで口を挟まなかった。
「時間は十秒未満です。映像には欠落が多く、人の顔も、そこで何をされたのかも見えていません」
「それでも、私の経験だと?」
「断定はできません」
「姉を呼び、私と同じ年頃の身体で、私が連れていかれた場所に似た部屋を見たのに?」
「似ていると判断できるだけの情報を、私は既にあなたから聞いています。与えられた情報を材料に、私の脳が映像を作った可能性もある」
「先生は随分と疑い深いのね」
「診断に都合のいい説明ほど、疑うことにしています」
真夜の口元へ、ごく薄い微笑が戻った。
「では、先生の診断は?」
「まだ診断名を付ける段階ではありません。ただ、仮説はあります」
「伺いましょう」
「あなたの目眩は、治っていません」
葉山の視線が伊織へ向いた。
「ですが奥方様は、接触後から一度も症状を訴えておられません」
「感じなくなったことと、原因がなくなったことは別です」
伊織は壁面に残された測定結果を示した。
「接触前も接触後も、機械上の数値はほとんど変わっていない。変わったのは、四葉さんが症状を感じなくなり、私が彼女に関連するかもしれない体験を始めたことです」
「目眩が先生へ移ったわけではないのでしょう?」
「症状ではなく、処理先が増えた可能性があります」
「処理先?」
「本来ならあなたの中で、知識、感情、身体反応を一つの経験として処理するはずだった経路が、どこかで切り離されている。その接続不良へ負荷が掛かると、目眩として表れる」
伊織は、自分の手首へ目を落とした。
「接触したとき、私は魔法を使っていません。それでも、私の想子波形には未知の周期が混ざった。素肌の接触をきっかけに、意図しない接続が生じた可能性があります」
「術式を使わずに?」
「私の《心象同調》は、自分の精神構造を基準に、記憶、感情、身体反応、自己認識の結びつきを観測する魔法です。そのために形成されている受容側の特性だけが、事故的に働いたのかもしれません」
「私の中で処理できなかったものを、先生の精神が代わりに処理している?」
「そうだとすれば、あなたの症状が消え、私が存在しない経験を現実のように感じることも説明できます」
「生きた記録媒体、ということかしら」
「記録媒体は痛がりません」
真夜が一度だけ目を瞬いた。
「では、代行者?」
「言い方を選ばなければ、生きた外部処理経路です。その役割を引き受けた覚えはありませんが」
「機械へ移すことは?」
「流れ込んだ情報を記録することはできても、既に生じた処理経路を機械へ付け替える方法はありません」
「ほかの人間へ移せばよろしいのではなくて?」
「何を、どう移すのかも分からない状態で試すつもりはありません。それは治療ではなく、被害者を一人増やす実験です」
真夜は否定しなかった。
事故接触で初めて起きたのだとすれば、伊織は単に最高機密を知った医師ではない。真夜から切り離されたものと、既に接続してしまった唯一の人間になる。
「先生を治せば、私の目眩が戻るのかしら」
「分かりません」
「私と先生の接続を切れば?」
「分かりません」
「便利な言葉ですこと」
「分からないものを分かったふりで処置すれば、二人分壊します」
真夜の微笑が消えた。
「二人分」
「あなたの精神構造と、私の精神情報体です」
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。葉山は何も言わず、真夜の横顔を見ている。
「ですから現時点では、精神干渉による検査を提案できません。あなたに対しても、私に対しても」
「私の許可があっても?」
「現時点では」
「患者本人が望んでいるのに?」
「危険性を説明できない処置へ同意をいただいても、医師は実施できません」
「先生は、私の命令を断れる立場だとお思い?」
「診察室では、そのつもりです」
護衛の視線が鋭くなり、伊織の背中へ冷たい汗が浮かんだ。
怖くないわけではない。四葉真夜が誰なのかも、自分が鍵の掛かった部屋にいることも、彼女の一言で精神を調べられ得ることも理解している。
それでも、危険な処置を安全だと言うことだけはできなかった。
「診察室では」
真夜は、その言葉をゆっくり繰り返した。
「ここは病室よ」
「では、診察を始めます」
一瞬の沈黙のあと、真夜はゆっくりと瞬きをした。やがて唇へ戻ったのは、感情を読ませない、いつもの微笑だった。
「よろしいでしょう」
真夜は椅子へ座り直した。
「今からここは診察室です。続けなさい、先生」
「まず、症状が始まった日のことを、もう一度伺います」
「初診でお話ししたはずですが」
「人事に関する書類を読んでいた、とだけ」
「それ以上は診療に必要?」
「目眩が精神情報の接続不良で起きるなら、何を読んだかは発症条件を探すために必要です」
真夜はすぐには答えなかった。開示する情報の価値と危険性を測る、これまでと同じ沈黙だった。
「ある研究報告書です」
「内容は?」
「十歳の魔法師に行われた、精神構造への処置」
「本人の同意は」
「ありません。保護者と管理機関の承認はありました」
「その報告書を読んで、どう感じました?」
「必要な処置だったと判断しました」
「正しかったかではなく、どう感じたかを伺っています」
「何も」
迷いのない返答だった。
「同情も、嫌悪も、罪悪感もありません。処置によって対象者の暴走は防がれ、周囲の安全も確保された。判断に誤りはないと考えています」
嘘ではない。真夜は本当に、そう考えている。
「その直後に、最初の目眩が起きた」
「ええ」
「二度目以降も、似た内容へ触れたときですか」
「必ずではありません。ただ、子供、本人の同意、精神への処置。そのいずれかを含む案件で起きることが多かったように思います」
初診では得られなかった情報だった。伊織の仮説に、追加の機密を開示して検証するだけの価値があると判断したのだろう。
それで十分だった。
「機械には、報告書の意味が分かりません」
「文字列としての解析はできます」
「ええ。けれど、その言葉があなたのどの経験と結びつき、何を引き起こしたかまでは決められない。現在のあなたは、その処置を合理的なものだったと判断している。一方で、身体と精神構造に残った痕跡は、本人の意思を無視した介入として拒絶しているのかもしれません」
「現在の私が下した判断と、精神構造に残った反応が食い違っている?」
「その二つを、同じ自分の経験として照合する経路が切れている。それが目眩の原因だとすれば、必要なのは過去を無理に思い出させることではありません」
「では、何を?」
「反応が起きたとき、現在のあなたがそれを自分のものとして認識し、自分でどう扱うか選べるようにすることです」
真夜は膝の上で組んだ指へ目を落とした。
「先生には、それができる?」
「できる可能性があります」
「随分と控えめね」
「二人分壊すかもしれないと判明した直後ですから」
「では、壊さずに調べる方法を考えなさい」
患者から医師への依頼というより、四葉家当主が管理下の専門家へ下した命令だった。
「その前に条件があります」
「伺いましょう」
「今夜の記録と今後の診療内容は、あなたが指定した医療関係者以外へ開示しないこと。警備部門へ出すのは危険性の評価だけです。記憶の内容そのものは渡しません」
「四葉の内部にも?」
「内部だからこそです。診察で話したことがすべて組織へ流れるなら、患者は治療に必要なことを話せなくなる」
「私は話せますよ」
「話せることだけを選んでいるでしょう」
真夜は否定しなかった。
「もう一つ。私たち双方への精神干渉は禁止。外出制限を続けるなら、医学的根拠と期限を明示してください」
「退職については?」
「この現象が収まったあとで申請します」
「治療の途中で患者を放り出すの?」
「主治医になった覚えはありません」
「私が指名しました」
「患者の単独指名で成立するなら、世の中の医師は大変です」
「先生の場合は、雇用契約もあります」
「明日、もう一度読みます」
「今度こそ、最後までお読みになって」
半年前の契約書を思い出し、伊織は真夜の顔を見た。
「あの求人は、いつから用意していたんです」
「今は診察中でしょう、先生」
「診療関係へ影響する重要な質問です」
「私の症状に関係が?」
「私の転職後の不眠に関係します」
「でしたら、先生御自身の診察で扱いなさい」
答えるつもりはないらしい。
真夜は立ち上がった。
「記録管理の条件は認めます。外出制限は、明朝の再検査まで。精神干渉を禁ずる命令も継続します」
「診療の継続は?」
「先生が安全な方法を提示してから判断します」
主治医として全面的に信頼されたわけではない。伊織の仮説と能力が、利用価値のあるものとして保留されただけだ。
それでも、真夜が伊織の提示した条件を受け入れたのは初めてだった。診察室でだけ貸し与えられていた裁量が、ほんの少し広がっている。
それでも真夜が扉へ向かいかけたところで、伊織は呼び止めた。
「四葉さん」
「何でしょう」
「昨夜の睡眠時間は」
「五時間ほどです」
「今夜は六時間、休んでください」
「目眩はもうありませんよ」
「治っていないと言ったでしょう。睡眠不足は精神情報の統合にも、魔法制御にも影響します」
「今の診察に必要?」
「必要です」
真夜は振り返ったまま、伊織を見つめた。
「承知しました。今夜は六時間、休むことにいたしましょう」
患者として従順になったわけではない。余計な変数を減らし、仮説を検証するための判断だろう。
理由が何であれ、指示に従うなら今はそれでよかった。
真夜と葉山、女性護衛が退室する。扉が閉まり、電子錠が作動した。
結局、鍵は開かなかった。
伊織はベッドへ身体を預け、天井を見上げた。
白い照明。換気口。火災報知器。今度は、すべて見えている。
目を閉じる気にはなれなかった。
守秘義務は患者を守るためにある。少なくとも、前世でもこの世界でも、伊織はそう教わってきた。
四葉では、医師を逃がさないためにも使われるらしい。
照明を見つめ続けているうちに、輪郭がぼやけた。
眠るつもりはなかった。
それでも次に瞬きをしたとき、伊織は白い部屋に立っていた。
病室ではない。検査室でも、記憶の中で見た場所でもない。
壁と床の境目さえ曖昧な、何もない白い空間。その奥に、小さな少女がうずくまっている。
両膝を抱え、顔を伏せ、細い身体をさらに小さく折り畳んでいた。長い黒髪が腕と膝へこぼれ、表情は見えない。
泣き声はしなかった。
肩も震えていない。
ただ、誰にも見つからないように息を殺している。
「聞こえますか」
返事はない。
伊織が一歩進むと、靴音だけが不自然に大きく響いた。少女の肩が、ごくわずかに強張る。
それ以上、足を動かせなかった。
あれを十二歳の真夜と呼ぶには、証拠が足りない。受け取った痕跡へ、伊織の脳が人の姿を与えただけかもしれなかった。診断に都合のいい名前をつけるつもりはない。
それでも、怯えてうずくまる子供へ、許可なく近づくことはできなかった。
「近づいてもいいですか」
少女は答えない。
伊織は、その場へ膝をついた。
「分かりました。ここにいます」
手を伸ばさず、名前も呼ばず、少女が顔を上げるのを待った。
どれほど時間が経ったのか分からない。
やがて白い空間が薄れ、伊織は暗い病室で目を覚ました。
壁際の観測端末に警報は出ていない。枕元の時計は、眠りに落ちてから十七分しか経っていないことを示している。
右手だけが、誰かへ差し出しかけた形で、シーツの上に浮いていた。
伊織はゆっくりと手を下ろした。
伊織は医療端末を引き寄せ、発生時刻と見たものを入力した。分類欄で指が止まり、結局、《夢》を選ぶ。
少なくとも、今はそう記録するしかない。
夢の中の少女は、最後まで一度も顔を上げなかった。