ことの発端は、ごく些細なことだった。
「マスター、今いいでござろうか?」
人気のない物静かなカルデアの主通路で黒髭に呼び止められた。それだけのことだった。
「黒髭、別にいいけど。どうしたの?」
日々のトレーニングも終え、さて、自由時間をどう過ごそうかと思っていた矢先のことだ。
振り返ると、まるで忍ぶかのように周囲を警戒し視線を巡らせる黒髭の姿があった。その様子に驚き、俺も瞬時に警戒態勢に移る。
なにせ普段からおちゃらけており、どうにも真面目さからは程遠いこの大海賊が珍しく真面目な顔をしていたのだ。
何か事件が起こったのか?
身を固め、通路の奥に素早く視線を走らせるが、警報や周囲に異変が起こっている様子もない。通路の奥から騒々しい音も聞こえてはこない。
一見して何も問題は起こっていないように感じる。
感じるのだ……が、黒髭がこのような顔をしている以上、安易に問題なしとするわけにはいかない。
これまで様々な特異点、事件に巻き込まれてきた経験から、俺はいつでもマシュを呼べるように身構える。
「デュフフ。マスター、こっちへ。こっちへきてちょ」
「?」
ちょいちょいと、大柄な黒髭が小さく手招きをして誘っている。
大柄な体に似合わない、妙に愛らしい仕草だ。
それは先生や女子に隠れて密談する時の男子高校生のようでもある。
(あっ、さてはこれ、大して深刻なことじゃないな)
警戒すべき事態と捉えるにはあまりにも緊張感のない姿。そう思うと、先ほどまでの緊張が嘘のように薄れていった。
警戒を解き、手招きする黒髭に近づく。
「どうしたのさ黒髭」
「ちょっ、声を抑えて抑えて。どこで誰が聞いてるのかマスターの場合わからないんだから」
まるで、「マスターはダメですなあ」と、こちらが悪いと言いたげな黒髭の態度に思わずムッとする。
しかし落ち着けと、その気持ちをグッと抑え付ける。まずは要件を聞くことが先決。
文句を言うのはその後でもいい。
黒髭の様子からして緊急事態ということでもなさそうだが……。
だけど、だとすれば何故このようにコソコソとする必要があるのか。
史実で名高い恐ろしい大海賊とは違い、今の黒髭は色々な意味ではっちゃけてしまっている。主にオタク文化に。
そんな彼がわざわざ俺にだけ聞かせようとしているのだ。
(嫌な予感がするなあ……)
特異点で感じるような命の危険とは、また別の意味で。
正直、今すぐこの場から逃げ出したい。
「実はマスターにお見せしたい代物がございましてな。偶然、いや運命的に手に入ったので持ってきたのですよ」
「見せたいもの?」
「そうでござる〜……デュフフ」
ニヤニヤと、黒髭の口元には不気味さを通り越してもはや気色悪い笑みが浮かんでいる。
ゴソゴソと服の内側を探りながら、周囲への警戒は怠らないその仕草は、どう見ても不審者。怪しさ満点。
しかしそこまで隠さなければならないものとは何だろうか。
よほどのものらしいことだけは間違いないのだろうけれど……。
期待と不安の中、ゴクリと喉が鳴った。
「マスターに見せたいもの。それは……これでござる!」
「!? これは──!!」
ジャジャーンと、効果音がつきそうな勢いで取り出されたもの。
それは一冊の薄い本だった。
魔力も危険な気配もない。書店にでも行けばいくらでも見かけることのできるありふれたものだ。
断じて、特異点やサーヴァントたちがもつような特別な力を有するそれではない。
が、淡いピンクとどうみてもいかがわしい表紙を目にした時、俺はそのありふれた本がとてつもなく危険なものであると理解した。
「く、黒髭。その本は……まずい!」
「デュッフッフ。さすがは吾輩のマスター。お目が高い。一目でこの本がどのようなものかがわかったようですなあ」
「そりゃそう──じゃない、早く隠さないと! そんな本を持っていると知られたらどんな目に遭うか!?」
「大丈夫。吾輩らの他に、人の気配はありませんぞ」
その言葉一つで安心できるなら、俺もマスターとして苦労はしないんだよなあ。
サーヴァントの中には気配遮断スキルを持つアサシンたちや自分には想像もつかない魔術を使うキャスターたちなどがいる。
いくら黒髭が大丈夫と保証してもそれを信じ切ることは難しい。
だから、自信満々に懐から差し出されても、それを受け取ることはあまりにもリスクが大きい。
気持ち的には、男として興味がないとは言わないけれど……。
「黒髭、気持ちはありがたいけど流石にそれは受け取れないよ」
「遠慮する必要はないですよマスター。いくらマスターが日々忙しい身で中々時間が取れないからといって、いや、だからこそ一瞬の安らぎと快楽に身を浸す必要もあるというもの。そうでござろう?」
「いや、遠慮とかじゃなくて」
「そうは言わずに」
「いやいや、マシュやみんなに見つかったら問題だし」
「大丈夫。これは純愛本でござる。万一見つかっても傷は浅いですぞ」
「その言葉のどこに安心できる要素が?」
「まあまあ、とりあえず受け取って。吾輩の気持ちですから……では、吾輩はこれで。確かに渡しましたぞー!」
「あっ!? 黒髭!」
渋る俺に押し付けるように本を強引に渡した黒髭が、巨体に見合わない素早い身のこなしで離れていく。
残された俺はポツンと1人、腕の中にある本に目を向ける。そこには一目でどのような内容かが見て取れる、あられもない姿をした女性が表紙に描かれている。
その女性がどこか、マシュに似ている気がするのは気のせいだろうか。
いや、今は深くは考えないでおこう。
「どうしよう……」
俺は押し付けられた本を見ながら、ため息を吐いたのだった。
*
黒髭から本を渡された俺はどうか、誰にも出会いませんようにと祈りながら自室へと向かっていた。
足早に、しかし不自然にならないように。
できる限り、普段通りを装って歩く。
早く自室に駆け込みたいのに、走れないことがもどかしい。
一目で用途のわかってしまう本は、誰かと出会った際に見られないよう、ズボンの背中側に差し込んである。
ベルトで固定し、上着の裾で隠しているため正面から見られる分には問題ないはずだ。
ただし、背後から見られたらどうなるかについては考えない。
どう考えても、今以上の隠し方が思い浮かばなかったからな。
後ろから気づかれたら?
その時はゲームオーバーだ。潔く諦めよう。
……いや、絶対に嫌だけど。
コツコツと、一定のリズムで白い通路を進んでいく。
本を渡されてからもう10分ほどか。幸いにも、まだ誰ともすれ違ってはいない。
まだ日中だと言うのに、不思議とカルデアの通路にスタッフもサーヴァントも通りがからない。
幸運か、それとも偶然だろうか。ここまで閑散としているのは珍しい。
普段から寂しさを覚えても可笑しくはないところだけど、この静かさが今はありがたい。
どうか、このまま何事もなく部屋まで行かせてくれ!
自室まではあと少し。
この曲がり角を越えれば見えてくる──!
(……ッ!? マシュッ……!!)
思わず声を上げそうになった口を慌てて押さえ、通路の角に隠れる。
危ない。もう少しで声を出すところだった。
(しかしなんてタイミングで、なんてところにいるんだマシュ。部屋まで、目と鼻の先だって言うのに……!)
角からマシュに見つからないようにそっと覗く。
彼女がいるのは俺の自室の前。
誰かを待っているように見える。
誰を待っているかと言う疑問は愚問か。
俺に決まっている。
チラと角から見える彼女の手を見ると、そこには数冊の分厚い本がある。
(そうだった。今日は2人で勉強しようって約束してたんだった!)
迂闊!
本のことで頭がいっぱいで、忘れてしまっていた!!
どうする。このまま出ていってマシュにバレずに本を隠すことはできるだろうか。
堂々としていれば気づかれない可能性もなくはないだろうけれど、やはり見つかるリスクは高い。
マシュとの付き合いは長い。些細な変化や動揺を見抜かれる可能性は十分にある。
いっそのこと、部屋に行くことは諦めて別の道を模索するか?
いや、さすがにここまできてそれは厳しい。
ここまで誰一人として会わずに済んだこと。それ自体が奇跡のようなものなのだ。
今から引き返して本をどうにかするというのは……いっそのこと捨てるか……?
…………ゴミ箱にシュート?
「いやいやいや。駄目だ駄目だ。流石にそれは駄目だ。内容がどうであれ、俺を思ってのプレゼント。流石にそれを捨てると言うのはマスターとして……と言うか人としてどうなんだ!」
断じて、中身が見たいからではない。
表紙の女の子がマシュ似で、黒髭曰く純愛物らしいとか、そんなことはどうでもいいんだ。
そう。あくまでもプレゼントされた物だからってだけで、マシュ似の女の子のエッチな姿を見たいわけではないんだ。
いや見たくないと言えば嘘になるんだけど……。
「って、誰に言い訳をしているんだ。どうするかを早く決めないといけないのに」
マシュに聞こえないようぼそりと呟く。
部屋の前でマシュが待ち構えている状況。見つからずに自室に行くことは不可能に近い。
かと言って捨てることもできない。
どうしたものか……。
「──先輩?」
「!?」
突如、横から聞こえてきた声に慌てて振り返る。
そこにはキョトンと不思議そうな顔でこちらを見つめるマシュの姿が。
俺の気配を察知されたのか、見られている視線に勘づいたのか、マシュがいつの間にかそばに立っていた。
「や、やあマシュ。待たせちゃったかな」
「いえ、そんなことは……それよりも先輩、大丈夫ですか?」
「え、なにが?」
「なんだか凄く汗をかいてらっしゃるので」
「アッハッハッ。さっきレオニダスと少しだけトレーニングしたからかな! うん、後でシャワーを浴びるよ」
全くの嘘……というわけではない。
さっきまでトレーニングしていたのは事実。ただし、この汗の原因は断じてそれではないと言うだけで。
「そうでしたか。ですがもしお疲れのようでしたら、勉強会は後日にでも──」
そうしてマシュがほんの少しだけ寂しい顔を見せた瞬間ーー。
「いや大丈夫。せっかくマシュと2人でいられる貴重な時間なんだ。これくらいなんともないよ」
条件反射のように、気がついた時には答えてしまっていた。
……って、しまった!
今、断っておけば、1人になれたのに!!
(だけど……仕方ないか)
女の子の……マシュのそんな顔を見てしまったら断れるわけがない。
苦境に追い込まれようとも、マシュには笑顔でいて欲しい。
まあ、その結果千載一遇のチャンスを逃してしまったわけだが。
「そっ……そうですか。わかりました先輩。でも本当にお疲れのようでしたら言って下さいね。休息も、大事な先輩の業務ですので」
勢い余ってなんかすごいことを言ってしまった気がするし、少しマシュの顔が赤くなっている気がするが、そんなことよりも今は背中にある本をどうするかを考えなければ。
ロックされていた扉を開き、自室にマシュと入る。
さて、マシュ同伴とは言えなんとか無事に部屋に戻って来れたわけだが、どこに隠すべきか。
部屋にあるのは白いベッドと机、それに今日のために用意していた椅子が二脚。あとは小さな観葉植物くらいか。
…………隠せる場所が少なすぎるッッッ!
勉強する以上、机には当然マシュがいる。バレずに引き出しの中に本を隠すなどアサシンでもなければ不可能。俺にできるわけがない!
観葉植物の裏にでも隠すか?
バカを言うな。奇跡的に見つからない可能性はあるが、バレる可能性の方が遥かに高い。
ならばやはり……。
(ベッドしかない。なんとかマシュからバレないように、そこへ隠すしかない!)
今、マシュは机の上に勉強道具を広げている。
どうやら機嫌は良いようで、普段以上ににこやかだ。
今なら隠せるか?
いや駄目だ。
俺が動けば彼女の視線もこちらへ向く。
あくまで自然に、彼女が不自然に思わない状況でベッドに向かわないと隠せない。
くっ!
俺もこんな状況でなければ2人でいられることを素直に喜べるのに……おのれ黒髭!
「先輩、用意できました。勉強しましょう!」
「あ、ああ。うん。そうだ……ねっ!?」
「?」
机の前で椅子に座ったマシュが首を傾げている。
それはそうだ。
部屋の入り口に立ち、一向に座ろうとしないのだから。
だが、ここで座るのはまずいのだ。
(立っている間はよかった。でも、座ったら背中に差し込んでいる本が目立ちすぎる!)
黒髭から受け取った本のサイズはB5くらいの一般的な本のサイズ。
これを背中に差し込んでいるが、そのまま座るとどうなるか。火を見るより明らかだ。
確実にマシュにバレる!!
「先輩?」
まずい。
マシュが訝しんでいる。
早く、なにか上手い言い訳を……。
「いや、その……」
「はい」
「喉が、乾いたな……と」
なんとか捻り出した言い訳にポカンと、小さな口を開けたまま固まるマシュ。
それから視線を俺の頭上、宙を見上げ考え込み。
「あ! わかりました! そうですね先輩。先輩はトレーニングしたばかりですから、お水が必要ですよね。私、食堂に行って取ってきますね」
そしてありがたいことに、マシュは自分から部屋を出てくれると言ってくれた。
さすがだマシュ。君は本当にできた後輩だ。
そしてごめんよ。使いっ走りのようなことをさせて。
今回の件が終わったら、必ずなにか、お礼をするよ。
部屋から出ていくマシュに謝りながら、俺は素早くベッドに駆け寄った。
今がチャンス!
素早く背中から本を抜き取る。
物を隠す場所としてはいささか古典的。というか使い古された場所だけど、贅沢は言えない。
マシュが戻ってくる時間もそう長くはないはず。さっさと隠してしまおう。
本を片手にベッドに手をかける。
その瞬間だった。
「お待たせしました先輩。お水持ってきました!」
マシュの声と共に、背後の部屋の入り口が開く音がした。
「うぉおおおおっっ!!」
あらん限りの瞬発力を持って、本を布団の中に隠す。
コンマ1秒ほどもかからない早業。
部屋に戻ってきた直後のマシュにも、何をしていたかを見ることはできなかっただろう。
「………」
驚き、固まっているマシュが俺をじっと見ている。
見ているだけで、本について何も言ってこない。どうやら、隠すところは見られずに済んだらしい。
「お、お帰りマシュ。随分とその、早かったね」
「は、はい。食堂へ行く途中でエミヤさんと会いまして。ちょうどお水を持っているとのことでしたので」
エミヤが!?
いつもなら、その気配りと優しさに感謝しかないその行動も、今このいっときに関しては真逆の反応をせざるを得ない。
くそっ!
余計なことをしてくれたっ!!
「それよりも先輩。今、なにかベッドに──」
「なんのことだいマシュ。俺はちょっと君が戻ってくるまで休もうとしてただけだよ。それよりほら、時間がもったいない。一緒に勉強をしよう」
「え、でも」
「さあさあ。時間は限られてることだし、ね?」
「えっと、はい。わかりました」
マシュの疑問を遮り、彼女を机に誘う。
その際もらってきたペットボトルの水を一口含む。激しく鳴る心臓が少し和らいだ気がした。
俺の勢いに押されて渋々椅子に座るマシュの横に俺も座る。
マシュと2人、机の上に広げられた勉強道具で数式を解いていく。
予定していた通りの勉強会。
物静かな部屋にシャープペンの書く音だけが響く。
しかし、そうして勉強を開始しながらも、俺の意識は常にベッドへと向けられていた。
(落ち着け、落ち着くんだ俺。とりあえず中身が見られたわけじゃないんだ。まだ、リカバリーは効くはず。マシュは……)
一応、マシュも俺と同じように勉強しているが、どうにも集中できていないようだ。
時折、ちらりとベッドへ視線を向けている。
(……やっぱり、さっきのを見られたか?)
いや、まだそう判断するのは早い。
単に俺の体調を心配しているだけかもしれない。さっきも随分と汗をかいていることを気にしていた。
それに、マシュは人の隠し事を無理に暴こうとするような子ではない。
……のだ……が。
(必要と判断したら、やれちゃう子でもあるんだよなあ……あっ、まただ)
またしてもベッドへ向けられた視線に、俺の心臓が嫌な音を立てた。
(駄目だ。どっちにしても落ち着かない!)
もし本当に探ろうとしてきたなら、なんとしても阻止しなければならない。
ベストはこのまま普通に勉強道具は片付け終え、マシュには彼女の自室に帰ってもらうこと。
次点で疑われてもなんとか誤魔化し、本の存在については隠し通すこと。
そんな都合のいい結果を迎えるための方法を模索しながら勉強を始めて2時間。
微妙に気まずい空気の中、俺は疲れをほぐすように腕を伸ばした。
「う〜ん! マシュ、そろそろ終わろうか」
「はい。そうですね先輩。今日はここまでにしておきましょう」
開いていた本をまとめ片付けを始めたマシュ。
それを横目に、俺は落ち着いた様子を見せながら考える。
(やっばいなー。結局なんの案も思い浮かばなかった)
怪しまれず、探られず、穏便に部屋を出ていってもらう方法。
それを考え続けていたが、一向に良い案は考え付かなかった。
途中、水を飲み終えることでまた取りに行ってもらうという手段を思いついたが、マシュがエミヤから受け取った水は500mlとなかなかの大容量。
頑張れば飲み終えられるが、明らかに飲み過ぎな量だし、それはそれで俺の体調を心配される可能性がある。
それにマシュ自身がベッドを気にしている現状、おかわりを取りに行ってくれる保証もない。
最悪尿意を催し、自爆する可能性さえある。よって、この手法を選ぶことはできなかった。
「ところで先輩、お疲れではありませんか。少し……そこのベッドで横になったらいかがでしょうか」
「!」
勉強道具を片付け終えたマシュの視線がベッドに向かう。
これは……俺を横にする名目で、その際に布団の中に隠したものを探るつもりだろうか。
それとも純粋に気遣って?
わからない。
どちらもあり得る。
だけど、どちらだったとしても今ベッドに近づくわけにはいかない!
「いや、大丈夫だよマシュ。横になるほどじゃない。それよりも、そろそろ夕食の時間だ。食堂に行こう」
時計の針は18時を示している。
これを断る理由は、マシュにはないはず。
一旦マシュを部屋の外へ連れて行き、ちょうど良いタイミングを見計らって1人部屋に戻る。
怪しまれず。と言うのは無理だが、最悪マシュに見つかることさえ凌げれば、とりあえずはいい。
或いは黒髭。食堂に黒髭がいるならば、事情をこっそり話し、食事中に取りに行ってもらう。
それができれば、これがベスト!
「すみません先輩。実は私も疲れてまして、夕食の前に少し横にならせて欲しいなと」
そういうと、マシュは俺の横を通りながらベッドへと向かい、座ろうとして──。
「うおっと!」
俺は慌ててその横をすり抜け、本を隠した場所を塞ぐようにベッドへ腰を下ろした。
「先輩……」
「……なにも、聞かないで欲しい」
気まずい沈黙が流れる。
怖くて、マシュを見ることができない。
何やら悲しげな気配まで感じるが、すまない。こればかりは、知られるわけにはいかないんだマシュ。
……って、いやいや待て。待ってくれ。なんでだ?
なんでこんな、人生を左右するような空気になっているんだ?
俺が隠しているのは、ただの薄い本だぞ?
バレたところで大事には……いや、そういう問題じゃない!
マシュにこういうものを持っていると思われたくないのだ。だが、彼女を悲しませるくらいなら、いっそのこと……いや、駄目だ!
そう、内心で葛藤しているうちに、マシュがそっと腰をあげた。
「わかりました先輩。何も聞きません。何も見なかった。そういうことにしますね」
「マシュ……」
すまない。君はなんていい後輩なんだ。
俺が何かを隠していることには気づいているだろうに、これ以上は追及しないでいてくれるとは。
その優しさが、今は何よりもありがたかった。
「ありがとうございます、先輩。今日も楽しかったです」
そう言って、マシュはいつもの笑顔を見せてくれた。
それに対し、俺もどうにか笑顔を返す。
「……ふう」
マシュが部屋を出ていった直後、安堵の息を吐く。
よかった……本当によかった……。
どうやら俺は、今日という日を無事に乗り切れたらしい。
これもすべて、黒髭が不用意なプレゼントを持ってきてくれたせいだ。
脳裏に『ありがた迷惑』、という言葉が浮かび上がる。
「ふふ、黒髭め。素敵なプレゼントをくれたんだ。俺からも何か、お礼をしてあげなくちゃな」
一人となった部屋で布団の中から本を取り出す。
あられもない姿をした女の子の表紙を見ながら、俺は暗い笑みを浮かべるのだった。
*
翌日、食堂の一角。
「おはようですな、マスター」
「黒髭……」
机に突っ伏して動かない俺に、黒髭が昨日以上にニヤニヤとした顔で声をかけてきた。
「どうしたのですかなマスター。そのような暗い顔をして。昨日はあの本でお楽しみになれなかったのですか? それとももしや、純愛ものはマスターの性癖に合わなかったのですか!? それならそうと言ってくれれば、吾輩も相応のものを用意したでござるよ?」
大仰に驚く黒髭に、俺はこれでもかというほど、大きなため息で返す。
もはや突っ込む気にもなれん。
「黒髭」
「はい?」
「プレゼントはありがたいけど、時と場所を考えてくれ。そしたら俺もこう……普通でいられるんだから」
「ん〜?」
不思議そうにする黒髭に、再び俺がため息を吐き出す。
「あと、本のお礼にレオニダス・ブートキャンプに黒髭も参加させてもらえるよう頼んでおいたから、死ぬ気で頑張ってくれ」
「なぜ!?」
ありがた迷惑なプレゼントの返礼に、黒髭から悲鳴が上がった。
レオニダスの一切容赦のない特訓が、きっと黒髭を強くしてくれるだろう。
ちなみに昨日、マシュが帰った後こっそりとプレゼントされた本を見たが、その内容は素晴らしいものだった。それだけは、あとで言っておこう。