(ふぁ……眠ぃ)
大きく出かかったあくびを噛み殺しながら、俺は夕暮れの道を歩いていた。
空を見上げれば、太陽はすでに傾き始めている。
夕日に照らされた街並みが、ゆっくりとオレンジ色に染まっていた。
学校からの帰り道。
いつもと変わらない、なんてことのない風景だ。
(……暇だな)
学校へ行って。
授業を受けて。
家に帰る。
毎日毎日、同じことの繰り返し。
俺の名前は、犬神アヤ。
犬神家は、代々神社を守ってきた家系だ。
そしてその名の通り、俺たち犬神家は古くから『犬の神様』に守られてきた。
……らしい。
俺にとっては生まれたときから当たり前のことだから、特別だと思ったことはない。
普通の人間には見えないものが見えることも。
たまに面倒な霊を追い払うことも。
全部、昔から俺の日常の一部だった。
もっとも。
母さんほどじゃないけどな。
あの人は別格だ。
俺なんかとは比べものにならない。
そんな母さんも、今は家を留守にしている。
おかげで家に帰っても静かなもんだ。
(帰ったら何すっかな……)
そんなことを考えながら歩いていた、その時だった。
「……ん?」
視界の端に、ものすごい勢いでこちらへ走ってくる人影が映った。
俺は足を止める。
見覚えのある制服。
長い黒髪。
そして、見間違えるはずのない顔。
「……みこ?」
幼馴染の四谷みこだった。
「…………」
なんだ、あれ。
明らかに様子がおかしい。
みこは運動が得意な方じゃない。
少なくとも、学校帰りに全力疾走を楽しむような奴じゃない。
なのに今は、息を切らしながら必死に走っている。
顔は青ざめ、目には涙まで浮かんでいた。
(何やってんだ、あいつ)
みこが俺に気づいた。
「……!」
一瞬。
みこの表情に安堵が浮かんだ。
けれど。
「…………っ」
何も言わない。
俺を見つめながら、ただ必死にこちらへ走ってくる。
(……なんだ?)
何か言いたそうにはしている。
だけど、声を出そうとしない。
そのときだった。
ぞわり。
肌を撫でるような、嫌な感覚。
「…………」
俺は眉をひそめた。
空気が淀んでいる。
湿ったような重さ。
鼻につく独特の臭い。
そして何より、この気配。
嫌になるくらい知っている。
「……なるほど」
俺はみこの背後へ視線を移した。
いた。
黒く濁った身体。
辛うじて人型に見える程度の、醜い霊。
地面を這うようにしながら、みこの後ろを追いかけている。
「……なんだ、雑魚か」
あの程度なら大したことはない。
札一枚で十分だ。
問題は、そこじゃない。
「…………」
俺は再びみこを見る。
みこは決して後ろを振り返らない。
それなのに。
霊との距離が縮まれば、さらに必死に走る。
まるで。
そこに何がいるのか、分かっているみたいに。
(……まさか)
その可能性に気づいた瞬間。
みこの背後にいた霊が、大きく身体を伸ばした。
「……チッ」
考えてる場合じゃねぇ。
「みこ!」
「……っ!」
みこが顔を上げた。
「こっち来い!」
俺は地面を蹴った。
みこへ向かって走り、その腕を掴む。
「きゃっ……!」
勢いのまま引き寄せ、俺の背後へ回した。
「ア、アヤ……!」
震えた声。
同時に、背中へ柔らかな感触。
みこが俺の制服を強く掴んでいた。
その手は小さく震えている。
「大丈夫か?」
「…………」
返事はない。
ただ、俺の服を掴む力だけが強くなる。
「……まあいいか」
俺は前を見る。
黒い霊は俺たちへ向かってきていた。
「ったく……」
ポケットへ手を入れる。
取り出したのは一枚の札。
昔から使い慣れているものだ。
指で挟み、軽く構える。
「人の幼馴染を追い回してんじゃねぇよ」
札を放つ。
札は一直線に飛び。
霊の額へ張り付いた。
次の瞬間。
青白い炎が一気に燃え上がった。
『――――ッ!!』
耳障りな声。
黒い身体が炎に包まれていく。
俺はそれを黙って見ていた。
数秒後。
霊は跡形もなく消え去った。
「……終わり」
やっぱり一枚で十分だったな。
札をしまおうとして。
「…………」
俺は後ろを振り返った。
みこが固まっている。
「……みこ?」
「…………え?」
「どうした?」
みこは俺ではなく、霊が消えた場所を見つめていた。
「……消えた」
「そりゃ祓ったからな」
「祓った……?」
「おう」
「…………」
なんだ、その顔。
みこがゆっくり俺を見る。
目を見開いたまま、信じられないものを見るような表情をしている。
「……アヤ」
「ん?」
「今の……」
そこまで言って、みこが口を閉じた。
「今の?」
「…………」
みこの視線が泳ぐ。
その様子を見て、俺は確信した。
「……みこ」
「な、何?」
「あれ、見えてたのか?」
「…………!」
分かりやすく身体が跳ねた。
「やっぱりか」
「…………」
「だから逃げてたんだろ?」
「…………うん」
消え入りそうな声だった。
「いつから?」
「……最近」
みこは俯いた。
「急に……見えるようになって」
「急に?」
「うん……」
俺は眉をひそめる。
普通に生活していた人間が、ある日突然見えるようになる。
ない話じゃない。
ない話じゃないが。
「誰かに相談したか?」
みこは首を横に振った。
「……できなかった」
「なんで?」
「だって……」
みこが自分の腕を握る。
「こんなこと言っても、信じてもらえないと思ったし……」
「…………」
「それに……見えてるって気づかれたら、何されるか分からないから」
なるほど。
だからさっきも俺に助けを求めなかったのか。
下手に声を出して、あいつに自分が見えていると知られないために。
「……それで一人で逃げ回ってたのか?」
「…………」
沈黙。
肯定と受け取っていいだろう。
「はぁ……」
俺は頭を掻いた。
「なんで俺に言わねぇんだよ」
「え……?」
みこが顔を上げる。
「俺がそういうの見えるの、知ってるだろ?」
「……知ってるけど」
「だったら相談くらいしろよ」
「でも……」
「でも?」
「……アヤまで巻き込みたくなかったから」
「…………」
俺は思わずみこの顔を見る。
こいつ。
自分がこんなに怖い思いしてたくせに。
そんなこと気にしてたのかよ。
「アホ」
「……え?」
「とっくに巻き込まれてるだろ」
「…………」
みこがぽかんとする。
俺はさっき霊が消えた場所を見る。
「あんなの大した奴じゃねぇよ」
「……大した奴じゃない?」
「ああ。雑魚」
「…………雑魚?」
「札一枚だったしな」
「…………」
みこの頬が引きつった。
「私……あれにずっと追いかけられてたんだけど」
「お疲れ」
「軽い……」
「じゃあ、お疲れ様でした」
「そういう問題じゃないから……」
少しだけ。
本当に少しだけ。
いつものみこの声に戻った。
俺はそれを聞いて、口元を緩める。
すると。
「……アヤ」
「ん?」
制服の袖を掴まれた。
「…………」
みこが俺を見上げている。
涙で濡れた目。
さっきまで恐怖で青ざめていた頬には、少しだけ色が戻っていた。
「……ありがとう」
「何が?」
「助けてくれて」
「…………」
そんな顔で言うなよ。
なんか調子狂うだろ。
「……別に」
俺は頭の後ろをガリガリとかきながら、明後日の方向へ視線を逸らした。
「幼馴染なんだから、これくらい普通だろ」
「…………」
「なんだよ?」
「……ううん」
みこは小さく首を横に振った。
そして。
俺の袖を掴んだまま、小さく笑った。
「……なんでもない」
「変な奴」
「アヤに言われたくない」
「なんだと?」
「ふふっ……」
ようやく笑った。
俺は小さく息を吐く。
まあ。
これで一件落着だろ。
そう思っていた。
この時は。
俺はまだ知らなかった。
みこが見えるようになったこと。
それがただの偶然ではないことも。
そして。
代々、犬神家を守ってきた『犬の神様』までもが。
やがて、みこの周囲で起きる異変に関わっていくことも。
この時の俺は、まだ何も知らなかった。