マッテオ・マリア・ボイアルドの未完の叙事詩『恋するオルランド』(第3部 第4歌〜第5歌)
**『恋するオルランド』第3部より ―― 白亜の乙女騎士と運命の刃 **
フランス南部の平原は、フランク軍の流すおびただしい血によって赤く染まっていた。
アグラマン王率いるサラセンの大軍勢の猛攻を前に、シャルルマーニュ大帝の軍は完全に陣形を崩され、かつてないほど絶望的な撤退戦を強いられていた。悲鳴と怒号が交錯する中、フランクの兵士たちは生き延びるためにただ背を向けて敗走するしかなかった。
その無惨な敗走兵の群れに背後から襲い掛かり、地獄の死神のごとく殺戮を繰り広げていたのが、アルジェリアの暴君ロドモンテである。
古代のドラゴンの鱗で作られたという、いかなる刃も通さない魔法の重装甲に身を包んだ彼は、逃げ惑う兵士たちを虫けらのように踏み潰し、その巨剣で次々とフランクの騎士たちを両断していた。彼の周囲にはまたたく間に死体の山が築かれ、その進撃を止められる者は味方の中に誰一人としていないかに見えた。
だがその時、崩壊する陣形の最後尾に、殿(しんがり)として敢然と踏み留まる一人の騎士がいた。
純白の甲冑に身を包み、紋章を持たない白亜の盾を構えたアモン公の娘、フランク最強の女武者ブラダマンテである。彼女は、逃げ惑う同胞の背中を無慈悲に狩り続けるロドモンテの暴虐に激しい怒りを燃やし、愛馬に拍車をかけて暴君の真正面へと堂々と立ち塞がった。
「そこまでだ、サラセンの狂王よ!」
ブラダマンテの凛とした声が、戦場の喧騒を鋭く切り裂いた。彼女は白亜の盾を高く掲げ、血に濡れた暴君を真っ直ぐに見据えて言い放つ。
「逃げ惑う無抵抗の背中を斬り刻むことが、お前の誇る武勇なのか! 真に騎士としての誉れを求めるのなら、か弱き兵たちから剣を引け。そして、この私を相手に己の力を試してみるがいい!」
その言葉を聞いたロドモンテは、自らの前に立ちはだかる小柄な騎士が女であることなど知る由もなく、その不遜な挑発を鼻で笑い飛ばした。
「口の減らぬフランクの若僧め。俺の前に立った己の愚かさを呪いながら、その生意気な舌ごと両断されるがいい!」
暴君は万物を砕くような強烈な斬撃を、頭上から真っ向へ振り下ろした。しかしブラダマンテは、その巨剣の致命的な一撃を巧みに白亜の盾の傾斜で受け流し、微塵も怯むことなく懐へと踏み込むと、自身の名剣をロドモンテの魔法の鎧の隙間へと正確に叩き込んだ。
火花が散り、鋼と鋼がぶつかり合う轟音が戦場に響き渡る。ロドモンテの圧倒的な膂力と、ブラダマンテの比類なき天性の剣技。両者の凄絶な一騎打ちは、完全に互角のまま死闘の様相を呈し始めた。
しかし、この気高き一騎打ちは、心無い者たちによって泥を塗られることになる。
血に飢えたサラセン軍の兵士たちが、自軍の王が足止めされているのを見て周囲から続々と群がり、一対一の決闘に割り込んで、死角からブラダマンテの背後へと卑劣な刃を一斉に突き立てようとしたのだ。多勢に無勢、ブラダマンテが致命的な一撃を受けるかと思われたまさにその瞬間であった。
「退け! 貴様ら、誇り高き一騎打ちに泥を塗るつもりか!」
雷鳴のような怒号と共に、一人の若きサラセンの騎士が軍馬を駆って兵士たちの間に割って入った。老魔術師アトランテの庇護下を離れ、この戦場で初陣を飾ったばかりの若き英雄、ルッジェーロである。
ルッジェーロは少し離れた場所から、ブラダマンテのあまりにも洗練された剣技と、暴君を前にしても一歩も退かない並外れた勇気に深く魅了されていた。だからこそ、高潔な騎士道精神を持つ彼は、味方であるサラセンの兵士たちが大勢で一人の気高き騎士を闇討ちしようとする卑劣な振る舞いが絶対に許せなかったのである。
彼は自らの剣の腹で味方の兵士たちを容赦なく打ち払い、ブラダマンテを守るようにして決闘の場に割り込んだ。
自軍の兵の首が宙を舞う光景を目の当たりにして、暴君ロドモンテは激しく咆哮した。
「何をしている狂人め! 奴が我々の味方だと分からないのか!」
ロドモンテにとって、その兵士の行いが卑怯であろうとなかろうと関係ない。同じ陣営の人間を殺すことこそが、無条件の掟破りであった。しかし、ルッジェーロは剣の血を払い、毅然と顔を上げて真っ向から反論する。
「背後から騙し討ちをするような卑怯者は、もはや真の騎士でも我々の同志でもない! このような蛮行を放置すればサラセン軍の誇りは地に墜ちる!」
激怒したロドモンテの巨剣が唸りを上げて振り下ろされ、ルッジェーロが己の信念を込めた名剣でそれを弾き返す。戦場のど真ん中でサラセン軍の猛将同士が殺し合いを始めるという異常事態の中、取り残されたブラダマンテは、自馬の手綱を握りしめたままその光景に目を奪われていた。
『なんという気高さ、なんという剣技……。敵軍に、これほどまでに高潔で美しい魂を持った騎士がいたとは』
敵である自分の名誉を守るために、味方の将に刃を向けることすら辞さない高潔な魂。怒り狂う暴君の猛攻を華麗に捌くルッジェーロの洗練された剣技と気高さに、戦いにのみ生きてきたフランク最強の女武者の胸の奥で、かつてない激しい高鳴りが生まれていた。
しかし、このサラセンの二大英雄による同士討ちは、突如として押し寄せた戦局の巨大なうねりによって強制的に幕引きを迎える。崩壊したフランク軍の撤退の波と、それを追撃するサラセン軍本隊の怒涛の進撃が雪崩れ込んできたのだ。。血の匂いと無慈悲な殺戮を何よりも好むロドモンテは、目の前のルッジェーロと意地を張り合うよりも、逃げ惑うフランク軍の本隊を蹂躙する欲求に抗えなかった。
「運が良かったな、青二才! 次俺の邪魔をしてみろ、その時は必ず貴様の首を刎ねてやる!」
暴君はそう吐き捨てると、地響きを立てて馬を駆り、再びおびただしい血煙が立ち込める最前線の乱戦の中へと消えていった。
ロドモンテが去り、周囲に奇妙な静寂が訪れた。
ルッジェーロは剣を収めると、馬を静かに進めて白銀の騎士――ブラダマンテへと向き直った。彼は先ほどロドモンテと互角に渡り合っていたこの見知らぬ騎士に対して、敵味方の垣根を越えた最大級の敬意を抱いていた。
「気高き騎士よ。味方の暴れ者が非礼を働いたこと、サラセンの騎士として深く詫びよう。しかし、あのロドモンテを一歩も退かずに圧倒した貴殿の剣技、実に見事であった」
ルッジェーロの誠実な言葉に、ブラダマンテは兜の中で頬を染めながら応じた。
「私の方こそ感謝する、若き獅子よ。貴殿の高潔な魂に救われた」
ルッジェーロは微笑み、一つの提案を口にした。
「どうだろう。憎しみや軍のためではなく、純粋な武の誉れとして、私と手合わせを願えないだろうか? 貴殿のような見事な騎士と、この剣を交えてみたいのだ」
ブラダマンテにとっても、それは願ってもない申し出だった。
二人は血生臭い戦場を離れ、戦火の及ばない静かな森へと馬を進めた。木漏れ日が優しく差し込む美しい広場は、まるで運命が二人のために用意した特別な舞台のようであった。
馬から降り、距離を取って剣を構える二人。それは殺し合いではなく、互いの魂の形を確かめ合うような、極めて優雅で洗練された打ち合いだった。ルッジェーロは相手の太刀筋の美しさに感嘆し、ブラダマンテもまた、ルッジェーロの力強くも流麗な剣さばきにますます惹き込まれていく。
しかしその時、ルッジェーロの放った鋭くも軽い一撃が、ブラダマンテの兜の留め金を正確に弾き飛ばした。
ガシャン、という金属音と共に、白銀の兜が宙を舞い、緑の芝生の上へと転がり落ちる。
次の瞬間、ルッジェーロは己の目を疑い、息を呑んで硬直した。
兜の下から現れたのは、戦いに生きる屈強な男の顔ではなかった。木漏れ日を浴びて滝のようにこぼれ落ちたのは、黄金を紡いだかのような眩い金髪。そして、戦いの熱で微かに紅潮した、白百合のように気高く美しい乙女の素顔だったのだ。
風に揺れる黄金の髪と、宝石のように煌めく瞳。そのあまりにも完璧な美しさに、若き英雄ルッジェーロの心臓は完全に射抜かれた。彼の手から名剣が力なく滑り落ち、手合わせは唐突に終わりを告げた。
「おお、天の御使いか……! このような血塗られた戦場に、これほど美しく気高き乙女がいたとは」
ルッジェーロはまるで女神を崇めるかのように、彼女の前に静かに跪いた。
ブラダマンテもまた、自身の素顔を見つめて跪く美しい若者に対して、深い愛の眼差しを向けながらその名を告げる。
「私の名はブラダマンテ。フランクのアモン公の娘にして、聖騎士リナルドの妹。……貴方の名は?」
「私はルッジェーロ。トロイアの英雄ヘクトルの血を引く者です。おお、ブラダマンテ。貴女の剣は私の兜を砕くことはなかったが、貴女の美しさは私の心を完全に切り裂いてしまった」
木漏れ日が優しく差し込む静寂の森。
血塗られた戦場のすぐ傍らで、奇跡のように訪れた平和な広場において、互いの正体を知り宿命的な恋に落ちたルッジェーロとブラダマンテ。二人の間には、フランクとサラセンという敵味方の垣根も、血で血を洗う戦争の現実も、もはや存在していなかった。
あるのはただ、互いの気高さと美しさに惹かれ合い、強く求め合う純粋な魂の共鳴だけである。ルッジェーロが愛の告白を口にし、ブラダマンテがその熱烈な想いに応えようと、真紅に染まった唇を微かに開いた、まさにその瞬間であった。
突如として、二人を囲む深い茂みがけたたましく揺れ、野蛮な叫び声と共に完全武装した一団が広場へと乱入してきた。
彼らは、本隊からはぐれて森を徘徊していたサラセン軍(スペイン・アフリカ連合軍)の伏兵部隊であった。彼らは広場の中央に立つ純白の甲冑の騎士――フランク軍の武具を身につけたブラダマンテの姿を認めるや否や、それが女であることにも、味方の英雄ルッジェーロが傍らにいることにも構わず、手柄を立てようと血に飢えた狼のように一斉に襲い掛かってきたのである。
「卑劣な真似を! 止めよ、その場を動くな!」
ルッジェーロの怒号が森の空気を震わせた。神聖なる愛の誓いを踏みにじられ、あろうことか愛する女性――しかも兜を外し、頭部を完全に無防備に晒しているブラダマンテ――に対して、大勢で背後から凶刃を突き立てようとしたのだ。
若き英雄の怒りは限界を突破した。彼はブラダマンテを背に庇うように立ち塞がると、先ほど取り落とした名剣を拾い上げ、襲い来るサラセンの兵士たちの中へ猛然と斬り込んでいった。
愛する者を守るためのルッジェーロの戦いぶりは、まさに獅子奮迅、鬼神の如き凄まじさであった。
彼の剣が一閃するたびに、卑劣な伏兵たちの兜が割れ、槍が叩き折られ、血飛沫が森の緑を赤く染め上げていく。味方であるはずの同胞を斬り捨てることに、今のルッジェーロには微塵の躊躇いもなかった。己の命に代えても、この気高き白銀の乙女に指一本触れさせるわけにはいかない。
一方、背後で守られていたブラダマンテも、ただ男に庇われているだけの弱々しい乙女ではない。彼女はフランク軍最強の女武者である。
しかし、大立ち回りの乱戦の中で、兜を被らずに素顔を晒したまま立ち回るのは、いかに彼女といえども流れ矢や伏兵の凶刃による致命傷を負う危険があまりにも高かった。
『ルッジェーロの足を引っ張るわけにはいかない。急いで兜を被り、私も共に戦わねば!』
彼女は戦士として極めて冷静で正しい判断を下した。ルッジェーロが敵を食い止めている隙に、弾き飛ばされた自身の白銀の兜を拾い集め、乱れた金髪を押し込んで再び完璧な武装を整えるべく、ほんのわずかな間だけ広場の端の木陰へと身を隠したのである。
しかし、このあまりにも正しく合理的な戦士としての判断が、二人の運命を残酷に引き裂くことになってしまう。
ブラダマンテが兜の留め金をしっかりと締め、剣を構えて広場の中央へと駆け戻った時。
そこにはすでに、激しい戦闘の気配も、伏兵たちの姿も、そして愛する若き獅子の姿も消え失せていた。
ルッジェーロは、ブラダマンテに絶対に危害が及ばぬようにと、逃げ惑うサラセンの兵士たちを執拗に追撃し、深い森の奥、さらには戦場の喧騒の只中へと猛烈な勢いで深追いしてしまっていたのである。
「ルッジェーロ! どこにいるの、ルッジェーロ!」
ブラダマンテの悲痛な叫び声が森に響き渡る。しかし、返ってくるのは遠くで響く数万の軍勢の激突音と、馬の嘶きだけだった。
彼女は狂乱して森中を駆け回り、愛する人の姿を必死に探し求めた。一方のルッジェーロもまた、敵を完全に殲滅した後に広場へと戻ろうとしたが、複雑に入り組んだ森の道と、戦場の巨大な混乱の波に完全に方角を見失ってしまい、二度とあの美しい木漏れ日の広場へ辿り着くことはできなかった。
互いの名を叫びながら、無情にも戦火の海へと引き離されていく二人。
たった一度剣を交え、兜の下の素顔を見つめ合い、数言の言葉を交わしただけの宿命の恋人たちは、こうして再び、いつ終わるとも知れない果てしない戦争の闇の中へと別れ別れになってしまったのである。
***
(※解説:ボイアルドが心血を注いで執筆した未完の傑作『恋するオルランド』の物語は、まさにこの残酷な別離と、戦乱がさらに激化していく場面を決定的な転換点として、作者の死により未完のまま幕を下ろします。
そして、この森で姿を消したルッジェーロを求めて、ブラダマンテが世界中を彷徨う果てしない旅立ち。それこそが、後世の詩人ルドヴィーコ・アリオストが書き継いだ続編にしてルネサンス最大の叙事詩、『狂えるオルランド』の壮大な冒頭へと直接繋がっていくのです)
**『狂えるオルランド』第2歌より ―― 魔術師の影とマガンザの毒牙 **
ブダペストの激戦において、敵陣の若き英雄ルッジェーロ(ロジェロ)と運命的な出会いを果たした直後、戦場の混乱によって無慈悲にも彼と引き離されてしまった白銀の女武者ブラダマンテ。彼女はシャルルマーニュ大帝が治めるフランク軍の陣営には戻らず、ただひたすらに愛する人の行方を求めて、荒野や深い森の中をあてもなく彷徨い続けていた。
ある日、彼女が鬱蒼とした森の奥にある泉のほとりに差し掛かると、そこには美しい甲冑を身につけた一人の若い騎士が、馬の傍らで深い悲嘆に暮れ、大粒の涙を流している姿があった。
彼の名はピナベッロ。フランク王国内において、ブラダマンテが属するキアラモンテ(クレルモン)家とは長年にわたり血を洗う権力闘争を繰り広げてきた宿敵、マガンザ家の一族の男であった。しかし、互いの素性をまだ知らないブラダマンテは、騎士としての純粋な同情から彼に近づき、その悲しみの理由を尋ねた。
ピナベッロは涙を拭い、自らを襲った数奇で絶望的な体験を語り始めた。
「私は愛する美しい乙女と共に旅をしていました。しかし、ピレネー山脈の険しい岩山を越えようとした時、空から巨大な有翼の馬(ヒッポグリフ)に跨る魔法使いが突如として舞い降りてきたのです。その魔法使いは私の腕から愛する乙女を奪い去り、岩山の頂にある、光り輝く『鋼鉄の城』へと幽閉してしまいました。あの城は切り立った絶壁の上にあり、人間の足では到底辿り着くことができません」
さらにピナベッロは言葉を継ぐ。
「その魔法使いを討伐し、囚われた者たちを救い出そうと、東洋の王グラダッソと、サラセンの若き英雄ルッジェーロの二人が果敢に立ち向かっていきました。しかし、彼らもまた魔術師の不可思議な力によって敗れ去り、今やあの城に囚われてしまったと聞いております」
「ルッジェーロ」という名を聞いた瞬間、ブラダマンテの心臓は激しく跳ねた。
彼女は相手への警戒を完全に解き、直ちにその鋼鉄の城へ案内するようにピナベッロに懇願した。愛する者を救い出せるのなら、相手が空を飛ぶ魔性であろうといささかも恐れはしない。道中、彼女は心を許した相手に対し、自身がキアラモンテ家のアモン公の娘、ブラダマンテであると堂々と名乗ってしまった。
その名を聞いた瞬間、ピナベッロの目には暗く冷たい憎悪の光が宿った。
『憎きキアラモンテの女狐め。ここで生かしておけば、必ずや我らマガンザを滅ぼす災いとなる。この深い森の中で誰にも知られず始末してくれよう』
ピナベッロは表面上は恭しい案内人を演じながら、ブラダマンテを暗殺するための邪悪な計略を巡らせ始めた。彼は彼女を鋼鉄の城へと続く道から巧妙に逸らし、人気のない薄暗い森の奥深くへと誘導していった。
やがて二人は、山の中腹にぽっかりと口を開けた、底が見えないほど深く暗い洞窟の前に辿り着いた。ピナベッロは洞窟の底を指差し、卑劣な嘘をついた。
「気高き騎士様、あの暗闇の底をご覧ください。あの中に美しい乙女が囚われており、助けを求めて泣いているのが見えます。どうか貴女のお力で救ってあげてください」
高潔で慈悲深いブラダマンテは、その嘘を微塵も疑うことなく、見知らぬ乙女を救うために崖下へ降りる決意をした。彼女は近くに生えていた楡(にれ)の木の太く長い枝を剣で切り落とすと、その一端をピナベッロに持たせ、自身はその枝のもう一端にぶら下がって、洞窟の底へと慎重に降りていこうとした。
ブラダマンテが完全に体重を預け、虚空に宙吊りになったその瞬間。
ピナベッロは冷酷な笑みを浮かべ、握っていた枝から無情にも手を離した。
「そのままキアラモンテの愚か者共と共に、地獄の底で朽ち果てろ!」
ピナベッロの嘲笑の声と共に、ブラダマンテの体は真っ暗な奈落の底へと真っ逆さまに落下していった。ピナベッロは彼女が確実に死んだものと思い込み、残された彼女の愛馬を奪い取ると、己の悪逆な行いに満足しながらその場から逃げ去っていったのである。
**『狂えるオルランド』第3歌より ―― マーリンの霊廟と光の巫女 **
奈落の底へと突き落とされたブラダマンテであったが、天は未だこの気高きフランクの女武者を見放してはいなかった。ピナベッロが切り落とした楡(にれ)の太枝が彼女よりも先に洞窟の底へと激突し、見事に落下のすさまじい衝撃を和らげるクッションの役目を果たしたのである。
したたかに全身を打ち付け、しばし気を失っていたブラダマンテであったが、やがて意識を取り戻すと、痛む体を起こして暗闇の中を見回した。すると、洞窟の岩肌の一部に、さらに奥へと続く重厚な扉があることに気がついた。扉を押し開けて進むと、そこには自然の洞窟とは到底思えない、壮麗極まりない巨大な地下宮殿が広がっていた。大理石と雪花石膏(アラバスター)で精緻に造られた無数の柱が立ち並び、どこからともなく差し込む神秘的な光が、黄金や貴石で彩られた祭壇を神々しく照らし出している。
ブラダマンテがそのあまりの美しさに息を呑んで立ち尽くしていると、祭壇の影から一人の女性が静かに歩み寄ってきた。彼女は髪を振り乱した魔女などではなく、神聖な儀式に臨むような清潔な衣服を纏い、その瞳には深い叡智と慈愛の光を宿していた。
「よくぞ参られました、気高きアモン公の娘ブラダマンテよ」
見知らぬ女性から自身の名を呼ばれ、ブラダマンテは驚きに目を見開いた。女性は穏やかな微笑みを浮かべながら語りかける。
「恐れることはありません。私の名はメリッサ。天の星々の運行と魔術の叡智によって、貴女が今日この日に、この場所へ降り立つのをずっと待ちわびておりました。ここは他でもない、かの偉大なる予言者にして大魔術師、マーリンの霊廟なのです」
メリッサが指し示した先にある雪花石膏の壮麗な祭壇こそが、マーリンの墓所であった。メリッサは、マーリンがかつて愛する湖の乙女の計略によってこの地に封じられ、肉体はすでに朽ち果てたものの、その偉大なる魂は最後の審判の日までこの霊廟に留まり、未来を予見し続けているのだと語った。
「さあ、祭壇に近づきなさい。マーリン様の御魂が、貴女に大いなる天の意志を伝えようとしています」
ブラダマンテが畏れ多くも祭壇へと歩み寄ると、静寂に包まれた地下宮殿の空気が突如として震え出し、大理石の墓石の奥底から、この世の者とは思えないほど澄み切った、威厳に満ちた声が響き渡った。
『おお、気高き白銀の乙女よ。天の意志によって我が霊廟へと導かれた運命の子よ』
大魔術師マーリンの霊の声であった。
『貴女がひたむきに探し求めている若き英雄ルッジェーロ。貴女と彼が結ばれることは、単なる個人の情愛ではなく、神と星々によってあらかじめ定められた神聖なる宿命なのだ。貴女の純潔なる胎内からは、やがてルッジェーロの高貴な血を受け継ぎ、数多の皇帝や偉大なる王、無敵の将軍たちを輩出する輝かしい一族が誕生するであろう。その一族こそ、やがてイタリア全土を照らし、正義と芸術の庇護者として歴史に永遠の名を刻む栄光の「エステ家」である』
マーリンの声は、未来に誕生するであろうアルフォンソやイッポーリトといった偉大な子孫たちの名を次々と挙げ、彼らが成し遂げる輝かしい武勲と善政を祝福した。愛するルッジェーロとの恋が、世界を平和へと導く大いなる歴史の起点となる。その壮大な予言を聞いたブラダマンテの胸には、先ほどまでの落下の恐怖やマガンザへの怒りは消え失せ、運命を切り拓くための新たな勇気の炎が赤々と燃え上がっていた。
しかし、マーリンの声が静まると、巫女メリッサは表情を引き締め、ブラダマンテに過酷な現実を告げた。
「貴女とルッジェーロの行く手には、恐るべき試練が立ち塞がっています。彼をあの鋼鉄の城に幽閉しているのは、老魔術師アトランテ。彼は空を駆ける幻獣ヒッポグリフを操り、さらには強烈な魔力の閃光を放つ『輝く盾』を持っています。あの盾の光を浴びれば、いかなる猛将も意識を失い地に伏してしまう。生身の武勇だけで打ち破ることは絶対に不可能なのです」
**『狂えるオルランド』第3歌〜第4歌より ―― 魔法の指輪と狡猾なる盗賊 **
メリッサの深刻な言葉に、ブラダマンテの美しい顔が微かに曇る。いかに己の剣技に自信があろうとも、光を見ただけで意識を奪われるような魔法の盾を相手にしては、剣を振るうことすらできないではないか。
しかし、光の巫女は絶望する乙女に希望の鍵を差し出した。
「案ずることはありません。アトランテの強力な魔術を完全に無効化し、打ち破ることのできる唯一の宝具が存在するのです。それは、いかなる魔法をも打ち消す力を持った『魔法の指輪』です」
メリッサによれば、その指輪は現在、アグラマン王の密命を受けた**ブルネッロ**という名の狡猾な盗賊の手に渡っているという。アグラマン王もまた、フランス征服を成し遂げるためにはルッジェーロの武力が不可欠であるという予言を受けていた。そのため、彼を鋼鉄の城から連れ戻すべく、この魔法の指輪を持たせたブルネッロを秘密裏に派遣したのだ。
「ブルネッロは背が低く、縮れ毛で、浅黒い肌をした男です。彼は今、ピレネー山脈の麓にある宿屋に滞在しています。貴女は急いでその宿屋へ向かい、彼と接触しなさい。決して素性を明かしてはなりません。言葉巧みに彼に取り入り、共にアトランテの城へと向かう道案内をさせるのです。そして鋼鉄の城が目前に迫った時、彼から指輪を奪い取るのです。さもなくば、彼が指輪の力を使ってルッジェーロを先に奪い去ってしまうでしょう」
メリッサは教えを終えると、ブラダマンテを連れて薄暗い地下道を歩き始めた。険しく長い岩の回廊を抜け、ようやく二人が地上の光を浴びた時、そこはすでに深い森を抜けた人里に近い場所であった。ここで光の巫女メリッサは、ブラダマンテの武運と大いなる運命の成就を祈り、静かに姿を消した。
一人残されたブラダマンテは、巫女の教えに従って歩みを進め、やがて街道沿いの宿屋へと辿り着いた。
宿の扉を開けて中を見渡すと、そこにはメリッサの言葉通り、背が低く、浅黒い肌と縮れ毛を持った男が座っていた。彼こそが、アグラマン王の使いにして稀代の盗賊、ブルネッロであった。
ブラダマンテは己の素性を伏せ、何食わぬ顔で彼に近づき、同席して言葉を交わし始めた。
ブルネッロは天性の嘘つきであり、自身の目的や素性について息を吐くように偽りの言葉を並べ立てた。しかし、すでにメリッサから真実を聞かされているブラダマンテもまた、自身の素性を偽り、巧みな嘘で応酬する。互いに腹の底を探り合う、狐と狸の化かし合いのような奇妙な会話が続いた。
その時、突如として宿屋の主人が顔を青ざめて飛び込んできた。そして宿屋の外から、風を切り裂くような凄まじい轟音が響き渡った。
「なんだ、何事だ!?」
ブラダマンテとブルネッロが驚いて窓から外の空を見上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
太陽の光を遮るほどの巨大な影。鷲の頭と翼を持ち、馬の胴体をした伝説の幻獣**ヒッポグリフ**が、天空から凄まじい速度で舞い降りてきたのである。そしてその背には、絹の布で覆われた不可思議な盾を抱えた魔術師アトランテの姿があった。
**『狂えるオルランド』第4歌より ―― 幻獣と鋼鉄の城の崩壊(原典準拠版・第3部)**
宿屋の窓から見上げた天空を、巨大な翼を持つ幻獣ヒッポグリフが横切っていく。
驚くブラダマンテとブルネッロの背後で、宿屋の主人がため息まじりに語り始めた。「あれはピレネーの山奥に棲む魔法使いです。あの化け物に乗って空から舞い降りては、美しい乙女や名立たる騎士たちを次々と攫い、山の頂にある決して破れない『鋼鉄の城』へと幽閉しているのです。あそこに連れ去られた者は、二度と戻ってくることはありません」
これこそが、愛するルッジェーロを閉じ込めている張本人である。ブラダマンテはすぐさまブルネッロの方を向き、案内役を頼んだ。
「その魔法使いの城へ、私を案内してくれないか。私は自身の腕試しがしたいのだ」
ブルネッロは内心で舌打ちをしながらも、自身が持つ「魔法の指輪」の力があればいざという時でも身を守れると高を括り、快く案内を引き受けた。
二人は宿を出発し、険しい山道を越えてピレネーの山奥へと進んでいった。やがて彼らの眼前に、天を突くような切り立った絶壁が現れた。その頂には、太陽の光を反射して鏡のように眩く輝く、継ぎ目のない完全なる「鋼鉄の城」がそびえ立っていた。岩壁は垂直に切り立ち、梯子も階段もなく、翼を持たない人間には到底登ることのできない難攻不落の魔城である。
「さあ、着きましたぜ」とブルネッロが言った。
ここが勝負の時である。ブラダマンテは光の巫女メリッサの警告を思い出し、彼の指にはめられた指輪へと視線を落とした。メリッサは「彼から指輪を奪え」と命じたが、いかに相手が邪悪な盗賊であろうと、剣も持たない無抵抗の小男を背後から斬り捨てるような真似は、彼女の高潔な騎士道が許さなかった。
ブラダマンテは不意を突いてブルネッロに組み付くと、瞬く間に彼を巨木に縛り付けた。
「な、何をするんですか騎士様!」
悲鳴を上げるブルネッロを無視して、彼女は彼の手からすかさず「魔法の指輪」を抜き取り、自身の指にはめた。こうして一切の魔術を無効化する力を得た彼女は、ブルネッロをその場に残し、一人で城の麓へと進み出た。
ブラダマンテは自身の角笛を力強く吹き鳴らし、山々を震わせるほどの音色で魔法使いに一騎打ちを要求した。
その挑戦の音を聞きつけ、城の頂から巨大な影が舞い降りてきた。アトランテが操る幻獣ヒッポグリフである。この獣は幻や魔法の産物ではなく、母なる牝馬と父なるグリフォン(鷲獅子)の間に生まれた、鷲の頭と前脚、馬の胴体と後脚を持つ実在の稀少な獣であった。
空から降下してくるアトランテの姿を見て、ブラダマンテは身構えた。しかし、老魔術師は槍や剣、棍棒といった命を奪うような武器を一切持っていなかった。彼の左腕には絹の布で覆われた不可思議な盾が結び付けられており、右手には分厚い魔術の書物が握られているだけだった。
アトランテが空中で書物を読み上げると、強烈な魔術の力が放たれた。しかし、ブルネッロから奪った「魔法の指輪」をはめているブラダマンテには、その呪文はそよ風ほどの効果もなかった。
ブラダマンテはわざと苦しむふりをしながら、剣を振り回し、相手を地上へとおびき寄せようと奮闘する演技を続けた。
やがて、これ以上の呪文は無駄だと悟ったアトランテは、ついに彼の最大の武器である「輝く盾」の覆い布を剥ぎ取った。
覆いが外された瞬間、盾から何千もの太陽を一つに集めたかのような、目を焼くほどの凄まじい閃光が放たれた。かつてルッジェーロをはじめとする幾多の英雄たちを気絶させてきた恐るべき光である。
しかし、指輪の加護を受けるブラダマンテは、事前に目を閉じることでその光を防いだ。そして、光を浴びて完全に意識を失ったように装い、大地にドサリと倒れ込んだのである。
見事に罠にかかったと確信したアトランテは、ヒッポグリフを地上に降下させた。彼は幻獣を近くの木に繋ぐと、倒れたブラダマンテを拘束するために、手枷と鎖を持って無防備に近づいてきた。
その瞬間。
死んだように倒れていたブラダマンテがバネのように跳ね起き、アトランテに飛びかかった。彼女は老魔術師を瞬く間に大地に組み伏せ、その首筋に冷たい剣の刃を突きつけた。
「覚悟しろ、悪魔め!」
ブラダマンテは怒りと共に魔術師の兜を剥ぎ取った。
しかし、そこに現れた顔を見て、彼女は思わず剣を握る手を止めた。
兜の下にあったのは、恐ろしい怪物の顔でも、邪悪な悪魔の顔でもなかった。それは、顔中を深い皺に覆われ、白髪を悲しげに風に揺らす、70歳ほどの弱々しい老人の顔だったのだ。老魔術師アトランテは、死の恐怖に怯えることもなく、ただ深い悲哀に満ちた声で語り始めた。
「私を殺すがいい、気高き騎士よ。私は悪意を持って人々を攫ったのではない。ただ一人の若者を、あまりにも残酷な運命から守りたかっただけなのだ……」
**『狂えるオルランド』第4歌より ―― 鋼鉄の城の消滅と空へ消えた愛 **
「気高き騎士よ、どうか私の真意を知ってほしい。私は邪悪な野心から人々を攫ったのではないのだ」
ブラダマンテの剣を首筋に突きつけられながらも、老魔術師アトランテの瞳に宿っていたのは、死への恐怖ではなく、我が子を想う親の底知れぬ深い絶望であった。
彼は震える声で告白を始めた。彼がアフリカの地で幼きルッジェーロを我が子のように引き取り、大切に育て上げてきたこと。そして、星々の運行と天の啓示によって、ルッジェーロの過酷な未来を読み取ってしまったのだと。
「星は残酷な運命を告げていた。ルッジェーロがキリスト教徒となり、フランクの女と結ばれれば、彼はマガンザの裏切りにあい、若くして命を落とすことになると。私は彼をその早すぎる死から守るためだけに、このピレネーの絶壁に誰も近づけぬ『鋼鉄の城』を築いた。彼が孤独に苛まれぬよう、世界中から美しい乙女や優れた騎士たちを攫い、城の中に豪奢な楽園を作り上げて彼を引き留めようとしたのだ。おお、私のすべては、ただルッジェーロを愛するがゆえの行いであったのに!」
老人の悲痛な涙に、ブラダマンテの心は激しく揺れ動いた。彼がルッジェーロを愛する心は本物であり、自分と同じなのだ。しかし、彼女は己の感情を奮い立たせ、冷徹な騎士としての態度を崩さなかった。
「貴方の深い愛情は理解した。しかし、愛する者を鳥籠に閉じ込め、その自由と誉れを奪うことは真の愛ではない。ルッジェーロの運命は、彼自身が剣をもって切り拓くべきものだ。直ちに城の魔法を解き、すべての人々を解放せよ。さもなくば、この剣が貴方の首を刎ねる」
ブラダマンテの揺るぎない決意の前に、アトランテはついに自身の敗北を認めた。
彼は重い足取りで城の入り口へと向かうと、敷居の隠された石板を持ち上げた。その下には、奇妙なルーン文字が刻まれた壺と、魔術の火が燃え続けている祭壇が隠されていた。老魔術師がその壺を粉々に打ち砕いた瞬間であった。
天を突くほどにそびえ立っていた堅牢な鋼鉄の城が、まるで朝靄が太陽に溶けるかのように、音もなく一瞬にして完全に消え去ってしまったのである。
あとに残されたのは、荒涼とした岩山の頂と、魔法の檻から解放されて呆然と立ち尽くす数多くの騎士や乙女たちだけであった。
その群衆の中に、ブラダマンテが血の涙を流して探し求め続けた愛しき人、ルッジェーロの姿があった。
魔法の束縛から解き放たれたルッジェーロは、自分たちを救い出してくれた白銀の騎士が、あのブダペストの戦場で互いに惹かれ合いながらも引き裂かれたブラダマンテであると気づき、歓喜の声を上げた。二人は周囲の目も気にせず駆け寄り、その運命的な再会を強く抱きしめ合った。ルッジェーロは、自身を救ったのが他の誰でもない、己が愛した気高き女武者であったことに無上の喜びと誇りを感じていた。
しかし、運命は彼らに残酷な悪戯を仕掛ける。
城が消滅した後も、あの有翼の幻獣ヒッポグリフだけは消え去らず、岩場に静かに佇んでいた。他の騎士たちがこの珍しい獣を捕まえようと近づくと、ヒッポグリフは小鳥のように跳ねて逃げるのだが、ルッジェーロが近づいた時にだけ、まるで主を待つかのように大人しく首を垂れたのである。
若く血気盛んなルッジェーロは、これほど素晴らしい乗騎はないと歓喜し、無警戒にヒッポグリフの鞍へと跨ってしまった。
それは、老魔術師アトランテが仕掛けた最後の、そして最も執念深い罠であった。
ルッジェーロが手綱を握った瞬間、ヒッポグリフは甲高い嘶きを上げ、巨大な翼を力強く羽ばたかせた。
「ルッジェーロ!」
ブラダマンテの悲鳴が岩山に響く。幻獣は凄まじい突風を巻き起こしながら天空へと一気に飛翔し、ルッジェーロを乗せたまま、西の果て、果てしなく広がる青い海の方角へと矢のように飛び去っていった。
ブラダマンテの掌には、あらゆる魔法を打ち消す「魔法の指輪」が握られていた。しかし、いかに強力な指輪を持っていようと、空高く消えゆく愛する人を地上から引き留める術は、彼女には残されていなかったのである。
『狂えるオルランド』第6歌〜第7歌より ―― 魔女の宮殿と堕落する英雄 **
大空の彼方へと飛び去った幻獣ヒッポグリフは、背に乗せたルッジェーロの必死の手綱さばきを完全に無視し、本能のままに西へ西へと飛翔を続けた。眼下にはヨーロッパの大地が広がり、スペインの峻険な山脈を越え、やがて陽光にきらめく広大な地中海の海原が視界いっぱいに広がった。いかに豪胆な若き英雄ルッジェーロといえども、雲を突き抜けるような高高度と、いつ海に墜落するかわからない恐怖には血の気を失わざるを得なかった。
どれほどの時間を飛んだだろうか。果てしない海の向こうに、この世のものとは思えないほど美しく緑豊かな**絶海の孤島**が姿を現した。幻獣は次第に高度を下げ、その島の中でも一際美しい、甘い香りを放つ花々と清らかな泉に彩られた牧草地へとふわりと舞い降りた。
大地に足をついたルッジェーロは、ようやく死の恐怖から解放され、安堵の息をついた。彼は幻獣が再び空へ逃げ出さないよう、傍らに生えていた見事な**ギンバイカ(銀梅花=マートル)の茂み**の枝に、ヒッポグリフの手綱をしっかりと縛り付けた。
その直後である。幻獣が自由に空へ戻ろうと暴れて枝を強く引っ張った瞬間、信じられない現象が起きた。折れたギンバイカの枝の断面から、まるで人間の傷口のようにどくどくと**真っ赤な鮮血**が滴り落ちたのである。
さらにルッジェーロが驚愕して立ち尽くしていると、血を流す茂みの奥から、かすれ、苦痛に満ちた声が響いてきた。
「おお、見知らぬ騎士よ。もしお前の心に慈悲があるのなら、どうかその獣を私から引き離してくれ。私はすでに自身の罪によって十分に苦しんでいるのだ。これ以上の苦痛を与えないでくれ」
木が言葉を喋るという怪異に、ルッジェーロは恐怖よりも強い憐れみと驚きを覚え、慌てて幻獣の手綱を解いた。そして、無礼な振る舞いを深く謝罪し、この魔法の島と、木に姿を変えられた人物の正体を尋ねた。
茂みは悲痛なため息をつくように葉を揺らし、己の数奇な運命を語り始めた。
「私の名は**アストルフォ**。フランク軍の聖騎士であり、イングランド王の息子だ。私はかつて、美しい海辺で邪悪な魔女**アルチーナ**の罠にかかり、彼女の島へと連れ去られてしまったのだ」
アストルフォの告白によれば、この美しい島はアルチーナとその姉妹であるモルガナという二人の魔女が支配する領地であった。アルチーナは底知れぬ美貌と魔術によって数多の騎士たちを誘惑し、自身の愛人に仕立て上げる。アストルフォもまた彼女の美しさに魅了され、すべてを忘れて彼女との快楽の蜜月に溺れてしまった。
しかし、アルチーナの愛は決して長続きしない。彼女は次々と新しい男を求め、飽きたかつての愛人たちが自身の秘密を外へ漏らさぬよう、彼らを恐ろしい野獣や石、あるいはこのような**木々の姿へと変えて、島中に幽閉している**というのだ。
「ルッジェーロよ、直ちにこの島から逃げ去るのだ。さもなくば、君も必ずあの魔女の毒牙にかかり、私と同じ運命を辿ることになる!」
ギンバイカの姿に変えられたイングランドの王子アストルフォの悲痛な警告を聞き、若き英雄ルッジェーロは深い憐れみと戦慄を覚えた。彼は木と化した騎士に深く頭を下げて謝罪すると、決して邪悪な魔女アルチーナの罠にはかからぬと固く誓った。彼は幻獣ヒッポグリフが再び暴走することを恐れて手綱を引いたまま、アルチーナの領地を避け、島に住むもう一人の貞淑な姉妹であるロジスティッラ(理性を象徴する)の領地を目指して歩き始めた。
しかし、その険しい道の途中で、ルッジェーロの行く手を異形の群れが阻んだ。それは、人間の体に猿や猫、犬の頭を持つ者、巨大な亀や蛙に乗る者といった、醜悪で奇怪極まりない怪物たちの大軍勢であった。彼らはロジスティッラの領土へ向かおうとする者を襲う、アルチーナの兵士たちだったのだ。ルッジェーロは剣を抜き放ち、次々と怪物どもを斬り伏せていく。魔術師アトランテから奪った「輝く盾」の覆いを取れば一瞬で敵を無力化できたが、誇り高き騎士である彼は、そのような魔術の力に頼って勝利を収めることを良しとしなかった。
多勢に無勢で苦戦を強いられていたその時、白雪のように美しい二頭の一角獣(ユニコーン)に跨った、絶世の美女二人が姿を現した。彼女たちが一喝すると、醜悪な怪物たちは潮が引くように道を開けた。二人の美女はルッジェーロの武勇を称え、彼女たちの主であるアルチーナの宮殿へと彼を丁重に招き入れた。
城門をくぐると、そこには人間の手で造られたとは思えないほど絢爛豪華な黄金の宮殿が広がっていた。そして、宮殿の奥からルッジェーロを迎えに現れた魔女アルチーナの姿を見た瞬間、彼の運命は完全に狂わされてしまう。
アルチーナの美貌は、まさにこの世のすべての美を凝縮したかのような絶対的な完璧さを誇っていた。黄金の糸のように輝く金髪、黒真珠のように煌めく瞳、白百合のように純白の肌。彼女がルッジェーロに向かって蠱惑的な微笑みを投げかけた瞬間、魔女の強力な誘惑の魔術が彼の理性を完全に焼き尽くしたのである。
つい先ほど聞いたばかりのアストルフォの悲惨な警告も、彼を助けようと命を懸けて戦った最愛の女性ブラダマンテの記憶さえも、ルッジェーロの脳裏から完全に消し飛んでしまった。『アストルフォは嘘つきだ。あのような美しい女性が邪悪な魔女であるはずがない。木に変えられたのも、彼自身の不義理の報いに違いない』。魔術によって完全に心を書き換えられたルッジェーロは、騎士としての誇りも武具もすべてを脱ぎ捨ててしまった。
彼はアルチーナから贈られた真珠や宝石をちりばめた絹の柔らかい衣服を身に纏い、甘い香水を漂わせ、首には黄金の装飾品をぶら下げた。かつて戦場で無双の武勲を立てた気高き英雄の面影はそこにはなく、ただアルチーナの腕の中で愛欲と享楽の宴に溺れる、軟弱で怠惰な一人の男へと完全に堕落してしまったのである。
**『狂えるオルランド』第7歌より ―― 恩師の幻影と真実の指輪 **
ルッジェーロが邪悪な魔女アルチーナの愛欲の虜となり、自身の本来の使命も愛する女性のこともすべて忘却して享楽に溺れていた頃。遠く離れたフランスの地では、再び彼を失ったブラダマンテが悲しみと絶望に暮れていた。彼女のその痛ましい姿に深く心を痛めたのが、かつてマーリンの霊廟で彼女を導いた**光の巫女メリッサ**であった。
メリッサは、ブラダマンテが盗賊ブルネッロから奪い取った「あらゆる魔術を無効化する魔法の指輪」を預かると、ルッジェーロを堕落の泥沼から救い出すため、単身でアルチーナの支配する魔女の島へと乗り込んだ。
島に潜入したメリッサは、そのままの姿でルッジェーロの前に現れることはしなかった。完全に魔術で心を操られている彼に言葉を届かせるためには、彼が最も畏敬の念を抱く人物の姿を借りる必要があったのだ。彼女は自身の姿を、ルッジェーロを幼い頃から育て上げた養父、**老魔術師アトランテ**の姿へと変身させた。威厳に満ちた厳しい顔立ち、長く垂れた白髭、そして彼を戒めるその重々しい声に至るまで、完全に恩師そのものになりすましたのである。
メリッサ(アトランテの姿)がアルチーナの宮殿の奥深くへと足を踏み入れると、そこには見るも無惨に堕落しきった若き英雄の姿があった。
ルッジェーロの首には重い黄金の鎖がかけられ、その腕には真珠の腕輪が光り、両手には不釣り合いなほど豪奢な宝石がはめられている。戦場で血と汗に塗れていた美しい髪は甘いたるんだ香水で撫でつけられ、彼が身に纏っているのは騎士の甲冑ではなく、アルチーナが織り上げた豪奢な絹の衣服であった。
アトランテの姿をしたメリッサは、雷のような怒声で彼を厳しく叱責した。
「ルッジェーロよ! 私がお前を育て上げたのは、このようないやらしい女の玩具にするためだったのか! 幼き頃からライオンや熊と格闘させ、お前を無敵の騎士に鍛え上げたのは、絹の服を着て香水にまみれさせるためではない! お前は自身の気高き血筋と、やがて生まれるはずの偉大な子孫の栄光を自らの手で捨てるつもりか。さらには、お前を心から愛しているあの気高き乙女、ブラダマンテへの誓いまでも忘却してしまったというのか!」
恩師の厳しい叱責に、ルッジェーロは言葉を失い、ただ顔を赤らめて俯くことしかできなかった。そこでメリッサは、自身の指から「魔法の指輪」を外し、ルッジェーロの指にはめさせた。
「さあ、この指輪をはめて、お前が愛している女の『真の姿』を見てみるがいい」
指輪がはめられたその刹那、アルチーナがルッジェーロの心に掛けていた強烈な誘惑の魔術が完全に打ち砕かれた。
ルッジェーロが再び顔を上げ、宮殿の奥にいるアルチーナへ視線を向けた時、彼の全身はかつてないほどの激しい嫌悪と戦慄に貫かれた。指輪の力によって幻影が剥がれ落ちた魔女アルチーナの真の姿は、絶世の美女などでは断じてなかった。それは、髪は抜け落ち、顔には醜い深い皺が刻まれ、口には一本の歯も残っていない、この世の誰よりも見醜く邪悪な老婆だったのだ。
**『狂えるオルランド』第7歌〜第8歌より ―― 偽りの脱出と理性の国へ(原典準拠版・第6部)**
指輪の力によって魔女アルチーナの真の姿――醜悪で老いさらばえた邪悪な老婆――を見てしまったルッジェーロは、これまでの己の愚かな行いに対する激しい羞恥と自己嫌悪に苛まれた。しかし、ここで取り乱しては島から生きて逃げ出すことはできない。メリッサは彼に対し、「決して真実に気づいた素振りを見せず、油断させて完全武装で城を抜け出すのだ」と知恵を授けた。
ルッジェーロはメリッサの忠告に従い、アルチーナの前では平静を装いながら、「長らく戦から離れているため、体が鈍らないようたまには武具を着けて勘を取り戻したい」と偽りの口実を設けた。魔女はまだ彼を完全に支配していると信じ込んでいたため、あっさりとこれを許してしまう。
彼は軟弱な絹の服を脱ぎ捨て、本来の騎士の重厚な甲冑をしっかりと身に纏った。腰には名剣バリサルダを佩き、左腕にはアトランテから奪ったあの「輝く盾」(絹の覆いをかけたまま)をしっかりと結びつけた。そして厩舎へ向かうと、額と足に白い斑がある漆黒の名馬を引き出し、颯爽と鞍に跨った。
ルッジェーロは、貞淑なる理性の女神ロジスティッラの領地へと通じる城門へ向かって馬を走らせた。城門にはアルチーナの屈強な衛兵たちが立ち塞がり、「許可なくどこへ行く!」と槍を突きつけてきたが、正気を取り戻した若き英雄にもはや迷いはなかった。ルッジェーロは名剣バリサルダを抜き放ち、瞬く間に衛兵たちを斬り伏せ、強固な門を突破して荒野へと飛び出した。
しかし、魔女の島からの脱出は容易ではない。彼が逃亡したことに気づいたアルチーナの配下である「鷹匠」が、猟犬と猛禽、そして自身の乗る馬を操り、猛烈な勢いでルッジェーロに追いついてきたのだ。鷹匠の放った鷹は魔法のようにルッジェーロの頭上を飛び回って目を狙い、猟犬が名馬の足を噛みちぎろうと襲い掛かる。剣だけでこれらの獣を同時に相手にしつつ前進するのは困難を極めた。
ルッジェーロは誇り高きパラディンとして、魔法の力に頼って戦うことを極端に嫌っていた。しかし、一刻も早くこの邪悪な島を抜け出さねば、追手の軍勢に囲まれてしまう。彼は意を決し、左腕に持っていた「輝く盾」の絹の覆いを引き剥がした。
盾から放たれた数千の太陽を凝縮したかのような凄まじい魔力の閃光が周囲を照らし出すと、鷹匠も、猟犬も、馬も、そして空を飛ぶ鷹までもが完全に意識を失い、大地に崩れ落ちた。ルッジェーロはすぐさま覆いを被せ直すと、そのまま一気にロジスティッラの治める清らかな領地(理性の国)へと駆け込んでいったのである。
一方、島に残ったメリッサもまた行動を開始していた。ルッジェーロが逃走してアルチーナの宮殿が大混乱に陥っている隙を突き、彼女は魔法の指輪の力を存分に振るった。
ギンバイカの木に変えられていたイングランドの王子アストルフォをはじめ、島中の木々や獣、泉の姿に変えられていた無数の騎士たちにかかっていた呪いを次々と解き放ち、彼らを元の姿へと戻していったのである。さらにメリッサは、アストルフォの武具である例の「黄金の魔槍」と、彼自身の名馬ラビカーノをも城から奪還し、彼と共にルッジェーロの後を追ってロジスティッラの領土へと無事に脱出を果たした。
**『狂えるオルランド』第12歌〜13歌・第22歌より ―― 幻影宮の崩壊と洗礼への誓い**
魔女アルチーナの恐るべき愛欲の毒牙から、巫女メリッサと理性の女神ロジスティッラの導きによって辛くも逃れ去った若き英雄**ルッジェーロ**。彼は己の未熟さと、快楽に溺れて騎士の誇りを失いかけた事実を深く恥じていた。真の騎士としての精神を鍛え直すため、彼は西回りで世界を巡る過酷な武者修行の旅に身を投じ、その途上で大怪魚オルクから王女アンジェリカを救い出すなど、数々の武勲を立ててヨーロッパへと帰還していく。
時を同じくして、アルチーナの島で「ギンバイカの木」に変えられていたイングランドの王子**アストルフォ**もまた、メリッサの魔術によって元の姿を取り戻していた。彼は名馬ラビカーノと、かつて東洋の王子アルガリアから手に入れた「黄金の槍」を携え、狂気に陥って行方知れずとなった最強の聖騎士オルランドを探し求めるべく、再び果てしない世界への旅に出発した。
魔女アルチーナの毒牙から逃れた若き英雄ルッジェーロであったが、彼を戦いの運命から遠ざけようと執念を燃やす老魔術師アトランテは、恐るべき第二の罠「幻影の宮殿」を深い森の中に築き上げていた。
この宮殿の扉をくぐった者は、自分が最も愛する者、あるいは最も憎む者の「幻影」を見る魔法にかけられる。ルッジェーロは巨人に攫われるブラダマンテの幻を追いかけて城に入り、彼を探しに来たブラダマンテもまた、敵に襲われるルッジェーロの幻影を追って城へと踏み込んでしまっていた。二人は同じ宮殿の中にいながら、互いの真の姿を認識できず、ただ幻影を求めて終わりのない迷宮を虚しく彷徨い続けていたのである。
この呪われた宮殿の膠着状態を打ち破ったのは、魔女の島から解放されて世界を旅していたイングランドの王子、アストルフォであった。
偶然この宮殿に辿り着いた彼は、手持ちの「あらゆる魔法の解き方が記された書物」を開き、この城の入り口の敷居の下に、魔法の源である邪悪な霊が封じられていることを知る。アストルフォが敷居の石板を剥がそうとすると、城を守ろうとするアトランテが様々な幻影を繰り出して彼を妨害しようとした。しかし、アストルフォが腰に下げていた「万物を恐怖に陥れる魔法の角笛」を力強く吹き鳴らした瞬間、事態は一変する。
その世にも恐ろしい角笛の音響に、城内にいたすべての騎士たち、そして老魔術師アトランテ自身もが恐怖に耐えきれず、耳を塞いで四散してしまったのである。
主を失った幻影の宮殿は一瞬にして煙のように消え去った(※アトランテはこの後、すべてを失った絶望の中で森の奥深くへと逃亡し、やがて悲嘆のうちにひっそりと息を引き取ることになる)。
宮殿の魔法が完全に解け、角笛の恐怖から立ち直った騎士たちの中に、ルッジェーロとブラダマンテの姿があった。
魔法のヴェールが剥がれ落ちたことで、二人はついに、手が届く距離に本物の愛する人がいることに気がついた。二人は狂喜して駆け寄り、強く抱きしめ合った。これまで幾度も引き裂かれ、幻影に惑わされてきた二人が、ようやく現実の世界で真の再会を果たしたのである。
「ルッジェーロ、もし貴方が本当に私を愛してくださるのなら、どうか私の父アモン公の元へ行き、私との結婚を申し込んでください。ですがその前に、貴方が真のキリスト教徒となることが条件です」
ブラダマンテの切実な願いに対し、ルッジェーロは微塵の躊躇もなく頷いた。
「君のためなら、洗礼を受けるどころか、この命すら喜んで捧げよう。すぐにでも君の信仰する神の元へ行こう」
二人は固く手を繋ぎ、ルッジェーロが洗礼を受けるため、森の奥にあるヴァルロンブローザの修道院を目指して並んで馬を走らせ始めた。
**『狂えるオルランド』第22歌より ―― マガンザの城塞と因縁の復讐 **
ルッジェーロがキリスト教の洗礼を受けるべく、修道院があるヴァルロンブローザの地を目指して並んで馬を走らせていた旅の途上、二人は悲しみに暮れる一人の女性と出会う。彼女の話によれば、この先にある「アルタリパ」という城塞において、極めて理不尽で傲慢な掟が敷かれているというのだ。
その城を支配しているのは、悪名高きマガンザの一族の男、ピナベッロ。彼は自身の妻が他の騎士たちから嘲笑されたことへの腹いせとして、通りかかるすべての旅人に戦いを強要していた。城の橋には彼に雇われた4人の強力な騎士(グイード、グリフォーネ、アクイランテ、サンソネット)が立ち塞がり、敗れた者は武具と馬を奪われ、徒歩で追い払われるという屈辱的な掟である。
「愛する君に、そのような屈辱を味わわせるわけにはいかない。私が道を切り拓こう」
ルッジェーロは愛するブラダマンテを守るため、自ら先陣を切ってアルタリパの城塞へと乗り込んでいった。城の橋に差し掛かると、掟に従って4人の猛将たちが槍を構えて次々と襲い掛かってきた。ルッジェーロは彼らを相手に、一歩も引かずに凄まじい死闘を繰り広げ始める。
一方、ルッジェーロの戦いを見守っていたブラダマンテは、ふと城のバルコニーから高見の見物をしている城主の姿に目を留めた。
その顔を見た瞬間、ブラダマンテの全身の血が怒りで沸騰した。
ピナベッロ。他でもない、かつて深い森の中で言葉巧みに彼女を騙し、底なしの洞窟へと突き落として殺そうとした、あの卑劣なマガンザの男であった。
『あのような小悪党の相手は、ルッジェーロに任せるまでもない。私の手で地獄へ送ってやる!』
ブラダマンテはルッジェーロに声をかける暇もなく、愛馬に拍車をかけ、城から逃げ出そうとするピナベッロの後を猛然と追跡し始めた。
自身の命を狙う白銀の女武者が、かつて自分が殺したはずのブラダマンテであると気づいたピナベッロは、恐怖に顔を歪め、悲鳴を上げながら深い森の中へと逃げ込んだ。しかし、怒りに燃えるブラダマンテの追跡から逃れられるはずもない。
鬱蒼とした森の奥深くでついに彼を追い詰めたブラダマンテは、命乞いをする卑劣漢の胸元に名剣を深々と突き立てた。かつての裏切りに対する、完全なる因縁の復讐が果たされた瞬間であった。
しかし、この個人的な復讐が、二人に再び残酷な別離をもたらすことになる。
ピナベッロを討ち果たしたブラダマンテであったが、怒りに任せてあまりにも森の奥深くまで入り込みすぎたため、完全に道に迷ってしまったのだ。来た道を戻ろうにも木々が視界を遮り、橋で戦っていたルッジェーロの元へ帰ることができなくなってしまった。
愛する者をまたしても見失い、彼女は果てしない荒野をひとり彷徨うこととなる。
**『狂えるオルランド』第23歌より ―― 黄金の魔槍の継承と白亜の無双劇(原典準拠版・第5部 後編)**
宿敵ピナベッロへの復讐を果たしたものの、深い森の中で完全に道に迷ってしまったブラダマンテ。彼女は愛するルッジェーロが待つ城塞の橋へと戻ることもできず、ただひとり果てしない荒野を彷徨っていた。
その道中、彼女はひらけた谷間において、見知った顔の騎士が有翼の幻獣ヒッポグリフの傍らに立っているのを発見する。それは他でもない、彼女の従兄であるイングランドの王子アストルフォであった。
アストルフォは、狂気に陥って行方知れずとなった最強の聖騎士オルランドを探し出すため、この幻獣に乗って地の果て、さらには月の世界までも飛んでいく壮大な決意を固めていた。しかし、空の旅路において、彼がこれまで乗っていた名馬ラビカーノや重厚な武具、そして愛用してきた「黄金の槍」はあまりにも重く、足手まといになってしまう。
従妹の姿を認めたアストルフォは喜んで駆け寄り、「どうかこの名馬と槍を、我らの故郷モンタルバーノへ持ち帰ってくれないか」とブラダマンテに託したのである。
この時、アストルフォもブラダマンテも、この槍に隠された恐るべき魔法――穂先に少しでも触れた者を、いかなる猛将であろうと必ず落馬させる――を知る由もなかった。アストルフォはこれまでの自身の連戦連勝を「己の騎士としての腕前が上がったからだ」と無邪気に信じ込んでおり、ブラダマンテもまた、ただの立派な馬上槍として何気なく受け取ったのであった。
彼女がモンタルバーノへの帰還の途上、悪名高きマガンザの一族の残党たちが支配する城塞の橋に差し掛かった際、通行を不当に阻もうとする傲慢な騎士たちが幾人も立ち塞がった。彼らは相手が女の一人旅であると侮り、鼻で笑いながら槍を構えた。
しかし、いざ馬を走らせて槍を交えた瞬間、彼らの嘲笑は信じられない恐怖の悲鳴へと変わった。
一撃を受けて悲鳴を上げて逃走を図る者、己の腕力を過信して再び向かってきては、魔法の力によって無様に宙を舞う者。ブラダマンテは涼しい顔で槍の柄を軽やかに操り、立ち塞がる者たちをことごとく馬から叩き落としていった。
どんな名高き猛将であろうと、彼女の槍に触れれば等しく泥を嘗めることになった。黄金の魔槍を手にした白銀の乙女の圧倒的な武勇は、瞬く間に風に乗って大陸中へと轟き渡ることになる。
かくして無敵の武勲を立てながら、ブラダマンテは故郷であるモンタルバーノの城にたどり着いた。
ブラダマンテは愛するルッジェーロ(ロジェロ)がキリスト教の洗礼を受け、自分の元へ帰ってくるという約束の日を、モンタルバーノの城でひたすらに待ち続けていました。しかし、約束の20日が過ぎ、1ヶ月が経っても彼は現れません。
悲嘆に暮れる彼女の元へ、一人のガスコーニュ出身の騎士が立ち寄ります。彼からサラセン軍の動向を聞き出そうとしたブラダマンテは、耳を疑うような報告を受けることになります。
その騎士によれば、ルッジェーロは戦場で比類なき武勲を立てているものの、彼の傍らには常に「マルフィーザ」という非常に武勇に優れた異国の女戦士が寄り添っているというのです。あろうことか、陣営の誰もが「ルッジェーロとマルフィーザは深く愛し合っており、遠からず夫婦の契りを結ぶであろう」と噂している、と騎士は語りました。
この凶報を聞いたブラダマンテの悲しみは、やがて激しい嫉妬と怒りへと変わりました。
「あんな裏切り者のために泣くのはやめよう。いっそ戦場へ赴き、彼への当てつけとして名誉ある死を遂げよう。そして死ぬ前に、私を裏切った憎きルッジェーロと、私の愛を奪ったあの女をこの手で仕留めてやる」
絶望した彼女は、枯れ葉色(絶望を象徴する色)の陣羽織を身に纏い、自身の盾には「希望を失った者」を意味する意匠を施しました。そしてアストルフォから預かった名馬ラビカーノに跨り、魔法とは知らない例の「黄金の魔槍」を携えて、ただ一人復讐の旅へと城を後にしたのです。
旅の途中、日が暮れた彼女は「トリスターノの館(ロッカ・ディ・トリスターノ)」と呼ばれる城塞に辿り着きます。しかし、この城には古くからの厄介な掟がありました。新たに到着した騎士は、すでに城に滞在している騎士と馬上槍試合(ジュスト)を行い、勝たなければ城内に泊まることができないという決まりです。
その日、城にはアイスランドの女王ウッラーニアを護衛してやってきた、スウェーデン王、ゴットランド王、ノルウェー王という3人の屈強な北の王たちが滞在していました。ブラダマンテは城への宿泊権を賭けて、この3人の強力な騎士たちと順番に戦うことになります。
ここで、あの「黄金の魔槍」が真価を発揮します。
ブラダマンテが馬を走らせて槍を突き出すと、穂先が相手の盾に触れた瞬間、3人の王たちは信じられないほどの勢いで次々と鞍から弾き飛ばされ、地面に転がり落ちたのです。いかに屈強な王たちであっても、魔法の力には抗えません。
しかし原典の記述によれば、ブラダマンテはこの圧倒的な勝利の後でも、まだ槍の魔法に気づいていませんでした。彼女はただ、己の悲憤と怒りからくる凄まじい力が彼らを打ち倒したのだと思い込んだまま、勝者として悠然と城の門をくぐるのでした。
**『狂えるオルランド』第35歌より ―― 悲嘆の妻との出会いと暴君の橋 **
トリスターノの館で北方の三王を打ち倒したブラダマンテは、愛するルッジェーロへの激しい嫉妬と怒りを胸に秘めたまま、彼がいるアルルの陣営を目指して南へと旅を続けていました。
その道中、彼女は川のほとりで一人のうら若き女性が、見事な馬の傍らで顔を覆い、身をよじって号泣しているのを発見します。この女性こそ、フランク軍の猛将ブランディマルテの最愛の妻、フィオルディリージでした。ブラダマンテは馬の歩みを止め、深い悲しみに暮れる彼女に声をかけ、その理由を尋ねました。
フィオルディリージは涙ながらに語ります。
「ああ、気高き騎士様。私の夫ブランディマルテが、恐るべきサラセンの暴君によって囚われの身となってしまったのです。アルジェリア王ロドモンテは、自分が誤って死なせてしまったイザベッラという乙女の墓を川のほとりに建て、そこへ続く非常に狭く危険な『橋』を築きました。そして、通りかかるすべての騎士に一騎打ちを強要しているのです」
彼女の話によれば、その橋は幅がわずか二間(約4メートル弱)しかなく、手すりもありません。ロドモンテはあえてこの危険な地形で相手を川に落とし、身ぐるみを剥いで武具を奪い、敗者を容赦なく牢獄へと放り込んでいるというのです。フィオルディリージの夫ブランディマルテもまた、この悪辣な罠に落ちて川へ転落し、無念にも捕虜となってしまったのでした。
「どうかお願いいたします。私の夫を、あの悪魔のような暴君の手から救い出してはいただけないでしょうか」
最愛の恋人に裏切られた(と信じ込んでいる)ブラダマンテにとって、フィオルディリージの悲痛な涙は決して他人事ではありませんでした。己の復讐の旅を一時的に脇へ置き、同じく愛する者を奪われたこの悲しき妻のために、彼女は暴君ロドモンテを打ち倒すことを固く誓います。
「泣くのはおやめなさい、気高き奥方。この私の命に代えても、必ずや貴女の夫を奪還してみせましょう」
ブラダマンテは、アストルフォから預かった愛馬ラビカーノの手綱を握り直しました。彼女は未だその真の力(触れた者を必ず落馬させる魔法)を知らぬまま「黄金の魔槍」を携え、フィオルディリージの案内のもと、ロドモンテが待ち構える危険な橋へと向かって馬を走らせたのです。
フィオルディリージの案内で川辺へと辿り着いたブラダマンテの目に、異様な光景が飛び込んできた。
川の中央には、悲劇の死を遂げた乙女イザベッラを弔うための立派な霊廟が建てられており、そこへ至るために板を渡しただけの、手すりすらない極めて狭い橋が架けられていた。そして霊廟の周囲には、この橋で敗れ去った無数の騎士たちの武具が、無惨な戦利品として飾られている。
ブラダマンテが橋の袂に姿を現すと、対岸から巨漢の暴君ロドモンテが完全武装で立ち塞がった。彼は恐るべき威圧感を放ちながら、新たな獲物に向かって傲慢に言い放った。
「馬から降りよ、見知らぬ騎士よ! そして自ら武具を脱ぎ捨て、あの霊廟への供物として捧げるのだ。さもなくば、この橋から川底へと叩き落とし、我が牢獄で鎖に繋いでくれる!」
しかし、白銀の甲冑に身を包んだブラダマンテは微塵も怯むことなく、兜の奥から嵐のような冷烈な声で言い返した。
「恥を知れ、狂王ロドモンテ! 無実の騎士たちから武具を奪い、生贄として捧げたところで、あの悲しき乙女の魂が慰められるとでも思っているのか? 彼女を死に追いやったのは他でもない、酒に酔い狂ったお前自身の刃ではないか!」
ブラダマンテの言葉は、ロドモンテが目を背け続けていた最も痛い急所を容赦なくえぐり出した。
「もしお前が本当に彼女の魂を鎮めたいと願うなら、見ず知らずの騎士たちの武具などではなく、お前自身のその薄汚い命こそを墓前に捧げるべきだ。さあ、私と賭けをしろ。私が敗れれば、私の馬と武具はお前の好きにすればいい。だが私が勝てば、お前自身の武具をその墓に捧げ、捕らえているすべての捕虜を即座に解放するのだ!」
これまで自分に対してこれほどまでに痛烈な非難と、堂々たる条件を突きつけてきた者は一人もいなかった。相手が女であることなど露ほども知らないロドモンテは、その並外れた度胸と気迫にひどく驚き、同時に奇妙な感心すら覚えた。
「よかろう、見知らぬ騎士よ。お前の言い分は実に理にかなっている。もしこの私を鞍から落とすような真似ができたなら、お前が探している捕虜も含め、すべてを解放してやろう。だが、このロドモンテを打ち倒すことなど、天が落ちてこない限りあり得ぬことだがな!」
暴君が不敵に笑うや否や、両者は同時に愛馬に拍車をかけた。
二頭の軍馬が、すれ違うことすら困難な幅わずか二間の橋の上を、凄まじい地響きを立てて疾駆する。一歩でも足を踏み外せば濁流へと飲み込まれる死の舞台で、両者は真っ直ぐに馬上槍(ランス)を構えて突撃した。
激突の瞬間。
ロドモンテの強烈な槍はブラダマンテの盾を捉えたものの、彼女の堅牢な姿勢を崩すには至らなかった。一方、ブラダマンテが繰り出したアストルフォの「黄金の魔槍」の穂先は、ロドモンテの構えた分厚い盾のど真ん中に、寸分の狂いもなく吸い込まれた。
魔法の力が発動した刹那、おぞましいまでの怪力を誇り、いかなる猛将の突撃を受けても決して揺らがなかったアルジェリアの暴君の巨体が、まるで羽毛のように軽々と鞍から弾き飛ばされた。ロドモンテの体は空中で無様に放物線を描き、甲冑の重々しい金属音と共に、橋の下を流れる川の深い濁流の中へと真っ逆さまに落下していったのである。
激しい水柱と轟音が川面に立ち上った。
いかなる強敵の槍を受けても微動だにしなかったあの巨漢ロドモンテが、頭から泥水の中へと真っ逆さまに突っ込んだのである。川の濁流は重い甲冑を着た暴君を容赦なく飲み込み、もがき苦しむ彼を水底へと引きずり込もうとした。
橋の上で悠然と馬を止めたブラダマンテは、川から這い上がろうと泥まみれになってあがく暴君を見下ろし、兜の奥から凛とした声で宣告した。
「さあ、これで明白になったな! あの悲しき乙女イザベッラの墓前に捧げられるべきなのは、無実の騎士たちの武具ではなく、彼女を死に追いやったお前自身の武具だということが!」
全身ずぶ濡れになり、岸辺の泥泥にまみれて這い上がったロドモンテは、怒りよりも先に、これまでの生涯で一度も味わったことのない「完全なる敗北と屈辱」に打ちのめされていた。
彼は並び立つ者のない最強の王を自負していた。それが、見知らぬ一人の騎士(しかも女であるとは夢にも思っていない)のたった一撃で、赤子のように馬から弾き飛ばされたのだ。あまりの恥辱に顔を歪め、ロドモンテは一言も言い返すことができなかった。
残忍で傲慢な暴君ではあったが、彼もまた騎士としての誓いを破るほど落ちぶれてはいなかった。
ロドモンテは無言のまま、自身の強固な兜を脱ぎ、胸当てを外し、すべての武具を剥ぎ取ると、約束通りそれらをイザベッラの霊廟へと投げ打った。そして、塔の地下に幽閉していたブランディマルテをはじめとする大勢の捕虜たちを即座に解放するよう部下に命じたのである。
誇りを完全に粉砕されたロドモンテは、誰とも目を合わせることなく、徒歩のまま暗い洞窟へと姿を消していった。「自分を打ち破ったあの騎士以上の武勲を立てるまで、二度と馬には乗らず、武器も持たない」という過酷な誓いを立てて。
一方、解放されたブランディマルテは、外で待っていた最愛の妻フィオルディリージと涙ながらに固く抱き合った。ブラダマンテの比類なき勇気と「黄金の魔槍」が、引き裂かれていた夫婦の絆を見事に結び直したのである。
さらにこの時、ブラダマンテはロドモンテが乗っていた名馬を見つめ、驚きに目を見開いた。
その馬は、かつて彼女の使いの者がルッジェーロの元へ届けようとしていた道中、ロドモンテによって強奪されたルッジェーロの愛馬「フロンティーノ」だったのだ。
「この馬は、私が責任を持って本来の持ち主へ返しましょう」
ブラダマンテは自身の勝利の証として名馬フロンティーノを引き取り、ブランディマルテ夫婦に別れを告げた。そして彼女は、愛馬ラビカーノの手綱を引き、傍らにフロンティーノを連れて、憎き恋敵(と誤解しているマルフィーザ)と愛するルッジェーロが待つ南フランス・アルルの陣営へと、再び復讐の炎を燃やして馬を走らせたのである。
**『狂えるオルランド』第35歌〜第36歌より ―― アルルの陣前、黄金の槍と嫉妬の激突 **
トリスターノの館で三人の王を打ち倒したブラダマンテは、再び旅を続け、ついにアグラマン王率いるサラセン軍が野営するアルルの陣営近くへと到達した。
彼女は愛するルッジェーロがこの陣営にいることを知っていたが、そのまま陣中へ乗り込むことはせず、陣営から少し離れた野原に留まった。そして、通りかかった一人の使者に、「全身を黒い鎧で包んだ騎士に、戦いを挑む者がいると伝えよ」と伝言を託したのである。
使者がサラセンの陣営に到着してこの挑戦を伝えると、ルッジェーロの前に血気盛んなサラセンの騎士たちが次々と「我こそが先陣を切らん」と名乗りを上げた。
最初に野原へ駆け出してきたのは、セルペンティーノという騎士であった。ブラダマンテは真っ直ぐに馬上槍(ランス)を構えて突撃する。二つの槍が交差した瞬間、ブラダマンテの「黄金の魔槍」の穂先がセルペンティーノの盾に触れるや否や、彼は見事に馬上から弾き飛ばされ、大地に転がった。
ブラダマンテは落馬した彼を殺すことはせず、彼の馬を捕まえて引き渡すと、「陣営に戻り、私がいま呼び出している相手を連れてこい」と告げて帰した。
続いて、巨漢の猛将グランドーニオが怒り狂って飛び出してきたが、彼もまた魔槍の力によって一瞬で泥まみれにされた。さらに、かつて幾度も死闘を繰り広げた強敵フェラウまでもが挑みかかってきたが、結果は同じであった。フェラウは完全に打ち負かされ、自らの敗北を認めざるを得なかったのである。
ブラダマンテは兜の面頬を上げたフェラウに対し、「私が本当に戦いたいのは、ルッジェーロという騎士だ。彼に、自らの不誠実さの報いを受けさせるために来たのだと伝えよ」言い放った。
陣営に戻ったフェラウから事の次第を聞いたルッジェーロは、自身を名指しで呼び出している無敵の騎士が、愛するブラダマンテであると直感した。「ついに彼女が迎えに来てくれた」と胸を高鳴らせ、彼は急いで武具を身に着け始める。
ところがここで、運命のいたずらが起きた。
陣営には、例の「ルッジェーロの新しい恋人」と噂されていた東洋の女戦士、マルフィーザがいた。
極めて傲慢で負けず嫌いなマルフィーザは、名だたる猛将たちが次々と打ち負かされたと聞き、自らの武勇を示す絶好の機会だと考えた。彼女はルッジェーロが準備を終えるよりも早く武装を済ませると、勝手に馬に飛び乗り、先陣を切ってブラダマンテの待つ野原へと疾駆していったのである。
野原で待つブラダマンテの前に、見知らぬ誇り高き騎士が姿を現した。
ブラダマンテはそれがルッジェーロではないと気づき、「お前は誰だ。私が呼んだのはお前ではない」と問い質す。
マルフィーザは不敵に笑い、「私はマルフィーザだ」と名乗った。
その名を聞いた瞬間、ブラダマンテの全身の血が逆流した。
これこそが、自分からルッジェーロを奪ったという憎き恋敵。自分が夜も眠れず悲嘆に暮れている間、彼と寄り添い、彼と笑い合っていたという女。
凄まじい嫉妬と怒りの炎が、ブラダマンテの理性を完全に焼き尽くした。彼女は本来の騎士としての冷静さを失い、目の前の女を八つ裂きにすることだけを考えて、「黄金の魔槍」を猛然と突き出し、愛馬ラビカーノに拍車をかけた。
マルフィーザもまた、苛烈な闘志を剥き出しにして突撃する。
しかし、いかにマルフィーザが並び立つ者のない最強の女傑であろうと、アストルフォが残した「触れた者を必ず落馬させる魔法の槍」の掟から逃れることはできない。
ブラダマンテの槍先がマルフィーザの盾に触れたその刹那、マルフィーザの体は後方へ激しく吹き飛ばされ、兜を地に打ち付けて無様に転がり落ちた。
これまでの生涯において、馬上槍試合でただの一度も落馬したことのなかった誇り高きマルフィーザにとって、これは死にも勝る屈辱であった。
怒りで完全に我を忘れたマルフィーザは、馬上槍試合の「落馬した者は負けを認めねばならない」という神聖な掟を無視し、剣を抜き放って徒歩のままブラダマンテに向かって突進し、斬りかかろうとした。
「落馬した者は敗者だ! 己の負けも認められぬのか!」 とブラダマンテが咎めるが、怒り狂うマルフィーザの耳には届かない。
ブラダマンテもまた、憎き恋敵を仕留めるべく、槍を捨てて剣を抜き、二人の女戦士による凄惨な殺し合いが始まろうとしたその時であった。
「待て! やめろ!」
悲鳴のような叫び声と共に、ついにルッジェーロが戦場へと駆けつけてきた。
彼は、愛するブラダマンテと、戦友であるマルフィーザが、今にも互いの喉笛を切り裂こうとしている信じられない光景を目撃したのである。彼は必死に二人の間に馬を割り込ませ、剣を交えるのを止めようと声を張り上げた。
しかし、そのルッジェーロの姿を見たブラダマンテの心は、さらなる絶望のどん底へと叩き落とされた。
彼女の目には、ルッジェーロが「新しい恋人であるマルフィーザをかばい、彼女を助けるために飛び出してきた」ようにしか見えなかったのだ。
「ああ、この裏切り者! 貴方は私を捨てるだけでなく、その女のために私に剣を向けるというのですね!」
絶望と嫉妬に心を支配されたブラダマンテは、自らを止めに入った愛するルッジェーロに向けて、悲鳴のような声と共に剣を振り下ろした。
しかし、ルッジェーロは彼女に対して決して反撃しようとはしなかった。彼はブラダマンテの激しい剣撃を盾で受け流し、ただひたすらに防御に徹しながら、「お願いだ、どうか私の話を聞いてくれ!」と懇願し続けた。いかなる誤解があろうとも、彼にとってブラダマンテは己の命よりも大切な女性であり、彼女に刃を向けることなど到底できなかったのである。
一方、突き飛ばされて落馬した屈辱に煮えくり返るマルフィーザは、そんな二人の事情など知る由もない。彼女は再び立ち上がると、自分をコケにしたブラダマンテを背後から討ち取ろうと猛然と襲い掛かってきた。
これを見たルッジェーロは、なんとか二人を引き離そうと必死に間に割って入る。彼はブラダマンテに対して、剣を納めて自分についてくるよう合図を送った。「戦場から離れた静かな場所で、誤解を解かせてほしい」と訴えかけたのである。
ブラダマンテは怒りに震えながらも、ルッジェーロに対する愛情を完全に捨て去ることはできず、彼に従って野原を離れ、人けのない静かな森の奥深く――糸杉の木々が立ち並ぶ薄暗い木立の中へと足を踏み入れた。
森の静寂の中で、ついにルッジェーロは彼女に真実を説明しようと口を開きかけた。
しかし、運命はまだ彼らに安息を許さない。あろうことか、怒り狂ったマルフィーザが二人の後を執拗に追いかけ、この秘密の木立にまで乱入してきたのである。マルフィーザは「逃がしはしないぞ!」と叫び、またしてもブラダマンテに向けて剣を振り上げた。
これには、温厚なルッジェーロもついに堪忍袋の緒が切れた。
自分の愛する女性との大切な対話の時間を台無しにされ、あまつさえ彼女の命を狙おうとするマルフィーザの無礼な振る舞いに、彼は激怒したのである。彼はこれまでマルフィーザに対して抱いていた戦友としての敬意を捨て去り、「いくらなんでも度が過ぎる!」と叫んで自身の剣を抜き放ち、マルフィーザに向かって斬りかかった。
こうして森の奥深くで、ルッジェーロ、ブラダマンテ、マルフィーザという、当代きっての三人の最強の戦士たちによる、互いの意地と怒りが入り交じった大乱戦が始まってしまった。
三者の鋭い剣戟が火花を散らし、木々の葉を切り裂き、大地を抉る。ルッジェーロとマルフィーザの激しい打ち合いの中、彼らの刃が木立の中央にひっそりと佇んでいた、ある大理石の墓石(霊廟)に強く打ち付けられた。
その瞬間であった。
突如として大地が不気味に鳴動し、木立全体が震え上がった。そして、剣の刃が打ち付けられたその大理石の墓石の底から、この世の者とは思えない、低く、深く、そして底知れぬ悲哀を帯びた「霊の声」が響き渡ったのである。
『……剣を収めよ。狂気に満ちた刃を収めるのだ。ああ、なんという悲劇か。兄と妹が、互いの血を流そうと剣を交えるなどと……!』
その声を聞いた瞬間、ルッジェーロは全身を雷に打たれたように硬直した。
それは、彼を幼い頃から育て上げ、彼を戦いの運命から遠ざけようと過保護なまでに守り抜こうとした挙げ句、絶望の中で命を落とした養父――老魔術師アトランテの声であった。アトランテは死してなお、愛する養子ルッジェーロを見守るため、魂だけの存在となってこの森の霊廟に留まっていたのである。
アトランテの亡霊は、凍りつく三人に向かって、長年隠し続けてきた驚愕の真実を語り始めた。
『聞くがよい、ルッジェーロ。そしてマルフィーザよ。お前たち二人は、全く同じ胎内から生まれ落ちた「双子の兄妹」なのだ。
お前たちの父は、キリスト教徒たるルッジェーロ二世。母はサラセンの王女ガラチェッラ。しかし、アグラマン王の父と叔父たちの卑劣な裏切りによって、お前たちの父は暗殺され、母ガラチェッラは身重のまま小舟で海へと追放されたのだ。
母は孤独な海辺でお前たち双子を産み落とし、そのまま息を引き取った。私がルッジェーロ、お前を引き取って育てたのだ。しかし、妹であるマルフィーザは、偶然通りかかったアラビアの王にさらわれ、異教徒の戦士として育て上げられてしまった。』
森の中に、亡霊の悲痛な声が木霊する。
『お前たちは、自身の両親を惨殺した憎き仇敵(アグラマン王の一族)の元で、そうとは知らずに仕え、あまつさえ実の兄妹同士で殺し合いをしているのだ。どうか剣を捨てよ。これ以上、私に悲しい光景を見せないでおくれ……』
その告白が終わると共に、亡霊の声は風に溶けるように静かに消え去っていった。
あとに残されたのは、完全なる静寂と、あまりの衝撃に言葉を失った三人であった。
ルッジェーロとマルフィーザの手に握られていた剣が、力なく大地へと滑り落ちる。自身が東洋の孤児であるとばかり思っていたマルフィーザは、目の前にいるフランクの騎士が実の兄であるという事実に打ち震え、ルッジェーロもまた、ずっと傍にいた戦友が生き別れの妹であったという奇跡に涙を流した。二人は武器を捨て、固く抱き合って兄妹の再会を喜び合った。
そして、この光景を見て最も安堵し、救われたのは他ならぬブラダマンテであった。
これまで彼女の心を苛み、己を見失うほどの狂気へと駆り立てていた「嫉妬」という名の猛毒が、春の陽射しに溶ける雪のように完全に消え去っていったのである。
ルッジェーロが愛の言葉を囁き合っていた相手は、新しい恋人などではなく、彼の実の妹だった。自分が勝手に誤解し、勝手に絶望して、あわや愛する者をその手で殺めてしまうところだったのだと気づいたブラダマンテは、兜を脱ぎ捨て、安堵のあまりその場にへたり込んで大粒の涙をこぼした。
森の奥深く、アトランテの亡霊が語った真実の余韻が静寂の中に溶けていく中、三人の戦士たちはこれまでの殺意が嘘であったかのように、互いを慈しみ合った。
マルフィーザは実の兄であるルッジェーロと涙ながらに抱擁を交わした後、先ほどまで互いの喉笛を切り裂こうとしていたブラダマンテの元へ歩み寄った。誇り高く、決して他人に頭を下げることのなかった東洋の女傑は、この時ばかりは兜を小脇に抱え、己の無知と非礼を素直に詫びた。そして、兄が愛したこの気高きフランクの女戦士に対し、心からの敬意と共に和解の手を差し伸べたのである。すべての誤解が解け、地獄のような絶望から救い出されたブラダマンテもまた、彼女の手を固く握り返した。こうして、かつて血を洗う死闘を演じた二人は、並び立つ者のない無敵の義姉妹として強い絆で結ばれることとなった。
しかし、この奇跡的な再会は、同時に残酷な「血の宿命」の目覚めでもあった。
「我が父ルッジェーロ二世を暗殺し、身重の母ガラチェッラを海へ追放したのが、アグラマン王の父トロイアーノと、その一族であったとは……!」
真実を知ったマルフィーザの瞳に、今度は激しい復讐の炎が燃え上がった。彼女は剣の柄を強く握りしめ、兄ルッジェーロに向かって強い口調で問いかける。
「兄上、もはや一刻の猶予もありません。両親の仇である卑劣なアグラマンの首を刎ね、その一族を根絶やしにせねばなりません。私は今日、この瞬間からサラセンの陣営を捨てます!」
マルフィーザは血気盛んに復讐を誓うが、ルッジェーロの顔には深い苦悩の影が落ちていた。
確かにアグラマン王の父は、自分たちの両親を死に追いやった不倶戴天の仇であった。しかし、ルッジェーロにとってアグラマン王本人は、孤児であった自分を見出し、騎士の証である剣を与え、数々の武勲と栄誉を授けてくれた「主君」であり「恩人」だったのだ。
「マルフィーザよ、お前の怒りはもっともだ。だが、私はアグラマン王から騎士としての恩義を受けてしまっている。いかに両親の仇の子であろうと、私を信じて背中を預けている主君を、寝首を掻くような真似をして裏切ることは、騎士の誉れが許さないのだ」
ルッジェーロは苦痛に顔を歪めながらも、騎士道精神と忠誠心の板挟みになっている己の境遇を二人に説明した。「必ず正当な理由を見つけ、名誉を汚さぬ形でアグラマンの元を去り、キリスト教に改宗して君の元へ行く。どうか、今しばらくの猶予をくれ」とブラダマンテに懇願したのである。
ブラダマンテは彼のその高潔で誠実な人柄を誰よりも愛していたため、悲しみを堪えながらも彼の決断を尊重し、涙を飲んで再び彼が敵陣へと戻るのを見送ることにした。
一方、主君を持たず己の腕一つで生きてきたマルフィーザには、ルッジェーロのような義理立ては無用であった。彼女は直ちにブラダマンテと共にシャルルマーニュ大帝の治めるフランク軍の陣営へと赴くことを決意する。
フランク軍の陣営に到着したマルフィーザは、大帝シャルルマーニュの御前に進み出ると、自身の数奇な生い立ちと、トロイアの英雄ヘクトルの血を引く気高き家系であることを明かした。そして、これまでの異教の神々を捨て、キリストの教えに帰依することを宣言したのである。大帝シャルルマーニュは、かつて自軍を大いに苦しめた最強の敵将が味方についたことに歓喜し、彼女を盛大な洗礼式でもって迎え入れた。
**『狂えるオルランド』 第38歌〜第41歌より ―― 代表決闘と引き裂かれる心 **
フランク軍にマルフィーザという無双の戦力が加わり、さらに狂気から正気を取り戻したオルランドたちが戦線に復帰しつつある中、南フランスのアルルに陣を敷くアグラマン王のサラセン軍は、いよいよ敗色濃厚な絶望的状況に追い込まれていた。
これ以上の無益な流血と全軍の壊滅を避けるため、サラセンの老賢将ソブリーノは、アグラマン王にある策を進言する。
「両軍から最も優れた代表者を一名ずつ選出し、一対一の決闘(決闘裁判)をもってこの長い戦争の最終的な決着とするのです。もし我が軍の代表が敗れれば、王はシャルルマーニュ大帝に降伏して貢物を納め、アフリカへと撤退する。勝てばその逆とする。これならば、数万の兵の命を散らすことなく誇りを守れます」
苦境にあったアグラマン王はこの提案を受け入れ、シャルルマーニュ大帝に書状を送った。大帝もまた、これ以上キリスト教徒の血が流れることを良しとせず、聖書にかかってこの誓約を守ることを約束し、神聖な代表決闘の儀式が執り行われることとなった。
シャルルマーニュ大帝がフランク軍の代表として選出したのは、最強の騎士オルランドと双璧を成す猛将、リナルド(ルノー)であった。
一方、アグラマン王がサラセン軍の代表として白羽の矢を立てたのは、陣営における最高の武勇を誇る若き英雄、ルッジェーロであった。
この両陣営の代表者の名が発表された瞬間、二人の人物が顔面を蒼白にした。他でもない、ルッジェーロ本人と、フランク軍の陣営にいたブラダマンテである。
ルッジェーロにとって、フランク軍の代表として出てくるリナルドは、「自分が何よりも愛する女性、ブラダマンテの実の兄」に他ならない。
もし自分が勝ってリナルドを討ち取ってしまえば、ブラダマンテは愛する兄の仇となった自分を決して許さず、二人の仲は永遠に引き裂かれることとなる。かといって、わざと負けて殺されれば、自分を信じて全軍の運命を託してくれた主君アグラマン王を裏切り、騎士としての名誉を永遠に泥に塗らせることになる。恩義と愛情の完全な板挟みとなったルッジェーロは、誰にも言えない苦悩に胸を張り裂かせていた。
しかし、それ以上に絶望のどん底に叩き落とされたのはブラダマンテであった。
彼女にとってこの決闘は、「最愛の兄」と「最愛の恋人」が、どちらかの命が尽きるまで殺し合うという、悪夢のような儀式であった。兄が死んでも、恋人が死んでも、彼女の心は完全に壊れてしまう。彼女は陣幕の中で一人泣き崩れ、「どうかこの残酷な決闘を取りやめにしてください」と、涙ながらに天の神へと祈り続けることしかできなかった。
いよいよ決闘の日。
両軍が見守る野原の中央に設けられた広大な闘技場に、二人の騎士が進み出た。シャルルマーニュ大帝とアグラマン王は、それぞれ福音書とコーランに手を置き、「この一騎打ちの結果に全軍が従い、決して途中で邪魔立てをしないこと」を厳かに誓い合う。
ラッパの音が鳴り響き、運命の決闘が幕を開けた。
兄であるリナルドは、相手が妹の恋人であることなどつゆ知らず、自軍の勝利とキリスト教徒の平和を背負い、凄まじい闘気と共に殺意をむき出しにしてルッジェーロへと襲い掛かった。彼の一撃一撃は岩を砕くほどに重く、いかにルッジェーロといえどもまともに受ければ命はない。
しかし、ルッジェーロの戦い方は異常であった。
彼は自ら攻撃を仕掛けることを一切せず、ただひたすらにリナルドの猛攻を盾で受け流し、剣を避けることだけに専念していたのである。彼が剣を振るうのは、リナルドの刃を弾き返すためだけであり、決してリナルドの身体を傷つけようとはしなかった。
「ブラダマンテの兄を傷つけるわけにはいかない。だが、負けるわけにもいかない……!」
ルッジェーロは、ただ決着を引き延ばすことしかできず、防戦一方で徐々に体力を消耗し、追い詰められていく。
観客であるサラセン軍の兵士たちは、自軍の最強の戦士であるはずのルッジェーロが反撃すらできずに防戦に回っているのを見て、「ルッジェーロは怯えているのではないか」「このままでは負けてしまう」と動揺し、陣営には重苦しい空気が漂い始めた。
一方、空の上からこの悲痛な決闘を見下ろしていた者がいた。
かつてマーリンの霊廟でブラダマンテを導いた、あの光の巫女メリッサである。
魔法使いメリッサは、このままではルッジェーロが殺されるか、あるいはリナルドを殺してしまい、星々に定められたブラダマンテとの神聖な愛の運命が完全に断たれてしまうことを危惧した。
「なんとしても、この神聖な決闘の誓約を破棄させ、両軍を乱戦に巻き込ませなければ……」
そう決意したメリッサは、地上へ降り立つと、なんと魔術を用いてサラセン軍において最も恐れられ、アグラマン王ですら一目置く獰猛なアルジェリア王ロドモンテの姿へと変身し、動揺するアグラマン王とその側近たちの元へ歩み寄っていったのである。
ロドモンテの姿をしたメリッサは、烈火のごとく王を叱責した。
「偉大なるアグラマン王よ! 全軍の運命を、あのような未熟な若者の剣一つに託すなど正気の沙汰ではない! 見られよ、ルッジェーロはフランクの騎士の前に防戦一方で怯えきっているではないか。奴が敗れれば我々は皆、シャルルマーニュの奴隷となるのだぞ。誓約など気にするな。キリスト教徒どもが決闘に気を取られている今こそ、一斉に襲い掛かり、奴らを皆殺しにするのだ!」
獰猛なロドモンテ(に変装したメリッサ)の扇動と、代表者が敗北するかもしれないという恐怖に煽られたサラセンの兵士たちは、ついに理性を失った。彼らは神聖な誓いを破り、決闘を見守っていたフランク軍に向けて一斉に矢を放ち、雪崩を打って突撃を開始したのである。
野原は瞬く間に、数万の兵が入り乱れる大乱戦の地獄へと変貌した。
決闘の最中であったリナルドとルッジェーロは、突如として周囲で始まった殺し合いに驚愕し、剣を交えるのをやめた。神にかかって誓った神聖な誓約が、味方であるサラセン軍の方から破られたことに、誇り高きルッジェーロは深い絶望と混乱に陥る。
「神よ、なんという恥知らずな行いか! 私はこのような卑劣な軍勢のために命を懸けていたというのか!」
ルッジェーロは義憤に駆られたが、かといって、これまで恩義を受けてきた味方の兵士たちを後ろから斬り捨てることなど、彼の騎士道が許さない。彼はどちらの陣営にも加担できず、剣を収めたまま呆然と戦場を離脱するほかなかったのである。
一方、不意打ちを受けたフランク軍であったが、大帝シャルルマーニュの指揮と、ブラダマンテやマルフィーザという無双の女戦士たちの奮迅の働きにより、すぐさま態勢を立て直した。怒りに燃えるブラダマンテの黄金の魔槍が猛威を振るい、サラセン軍の陣形は次々と崩壊していく。
もはやサラセン軍の敗北は決定的なものとなった。アグラマン王は無念の涙を呑み、わずかな生き残りの兵と共に船が停泊している港へと逃れのび、命からがらアフリカへ向けて出航したのである。
戦場から離れていたルッジェーロは、主君であるアグラマン王が敗走し、海へ逃れたことを知る。
「王の行いがどれほど卑劣であろうと、主君が最も苦しい時に見捨てる者は騎士の屑である。王を安全なアフリカへ送り届けた後、きっぱりと縁を切り、愛するブラダマンテの元へ行こう」
そう決意した彼は、遅れて小さな船に乗り込み、アグラマン王の艦隊の後を追って地中海へと漕ぎ出した。
しかし、誓約を破ったサラセン軍に対する神の怒りは、容赦なく彼らに牙を剥いた。
ルッジェーロの乗った船が沖合に差し掛かった夜、天を焦がす稲妻と共に、海神が怒り狂うような大嵐が巻き起こったのである。山のような大波が次々と船体を打ち据え、帆柱は折れ、船員たちは悲鳴と共に暗い海へと飲み込まれていった。ついに船は完全に粉砕され、ルッジェーロもまた、荒れ狂う氷のように冷たい海へ放り出されてしまった。
漆黒の波間に沈みかけながら、ルッジェーロは死の恐怖の中で自らの罪を悟った。
「ああ、神よ! 私はブラダマンテに対し『すぐにキリスト教徒となり、君の元へ行く』と誓いながら、義理立てのためにその約束を先延ばしにし続けた。異教の軍勢にいつまでも留まり続けた私への、これが天罰なのだ!」
彼は荒れ狂う波の中で必死に泳ぎながら、天に向かって心の底から祈りを捧げた。
「全能の神よ、どうか私をお救いください! もしこの命を救ってくださるなら、私は直ちに洗礼を受け、二度とキリスト教徒に対して剣を向けないことを誓います!」
祈りが通じたのか、波の勢いが奇跡的に彼を陸地へと押し流し、やがて彼は名もなき絶海の孤島の岸辺へと打ち上げられたのである。
荒れ狂う嵐の海から奇跡的に生還し、名もなき孤島の岸辺に打ち上げられたルッジェーロ。息も絶え絶えの彼を迎え入れたのは、岩穴を住処とし、木の実とわずかな清水だけで命を繋ぎながら神に祈りを捧げて暮らす、一人の老いた隠者であった。
驚くべきことに、この隠者はルッジェーロが名乗るよりも前に彼の名を呼び、彼がこれまでの人生で犯してきた過ちや、ブラダマンテとの間に結ばれた運命、そして嵐の海で神に誓った約束までもをすべて言い当てた。神の啓示によって、異教の若き英雄がこの島に流れ着くことをあらかじめ知らされていたのである。
隠者の深い慈愛と説教に心を打たれたルッジェーロは、これまでの迷いや執着が嘘のように晴れていくのを感じた。彼は翌朝、清らかな泉の水で洗礼を受け、ついに正式なキリスト教徒となったのである。かつてブラダマンテと交わした約束が、この絶海の孤島でようやく果たされた。彼はこの島に留まり、隠者と共に祈りの日々を送りながら、これまでの血塗られた魂を浄化していくこととなった。
一方その頃、地中海ではサラセン軍にとって決定的な破滅が訪れていた。
アグラマン王が率いる敗走艦隊は、海上でフランク軍の巨大な艦隊に捕捉されてしまう。実はこの艦隊は、あのイングランドの王子アストルフォが魔術を用いて「森の木の葉」を無数の軍船に変えて作り出したものであった。アグラマンの艦隊は完全に包囲されて火を放たれ、兵士たちは次々と海の藻屑と消えていった。
もはや全軍を失い、完全に王としての力を失ったアグラマン。彼は老賢将ソブリーノと共に、粗末な小舟に乗って命からがら逃げ延びる。その道中、彼らは東洋から参戦していた最強の同盟者、セリカーナの王グラダッソと合流した。
グラダッソは絶望するアグラマン王を叱咤し、騎士としての最後の名誉を挽回するための苛烈な策を提案する。
「もはや軍勢での勝利は不可能だ。だが、我ら三人が最強の代表となり、キリスト教徒の最強の騎士三人を名指しで呼び出し、決闘で討ち取れば、我々の名誉は永遠に守られる!」
かくして、サラセン側の最強の三人(アグラマン王、グラダッソ、ソブリーノ)から、フランク軍に対する果たし状が送られた。
この挑戦を受けて立ったのは、フランク軍が誇る最強のパラディン(聖騎士)たちであった。
月の世界からアストルフォが「理性の入った壺」を持ち帰ったことで、ついに失恋の狂気から立ち直り、本来の完璧な英雄としての姿を取り戻したオルランド。
オルランドの無二の親友であり、彼のためならいかなる死地にも赴く覚悟を持つ誇り高き騎士ブランディマルテ。
そして、猛将オリヴィエーロの三人である。
決闘の舞台として選ばれたのは、アフリカとシチリアの中間に位置する、岩だらけの小さな無人島「リパドゥーサ島」であった。
** 『狂えるオルランド』 第41歌〜第42歌より ―― リパドゥーサ島の死闘と友の散華 **
ラッパの悲痛な響きと共に、リパドゥーサ島の荒涼とした岩場で、両軍の存亡と誇りを懸けた三対三の死闘が幕を開けた。
フランク軍の最強の騎士オルランドは、東洋の猛王グラダッソと激突。彼の無二の親友であるブランディマルテは、サラセンの総大将アグラマン王に挑み、猛将オリヴィエーロは老賢将ソブリーノと刃を交えた。六人の英雄が放つ闘気は島全体を震わせ、剣と盾がぶつかり合う轟音は、打ち寄せる波の音すら完全に掻き消した。
戦端を開いて間もなく、悲劇の歯車が回り始める。
猛将オリヴィエーロの愛馬が敵の強烈な一撃を受けて斃れ、彼はその巨体の下敷きとなって足を挟まれてしまったのだ。老獪なソブリーノはこの機を逃さず、身動きの取れないオリヴィエーロに猛攻を加える。親友の危機を察知したオルランドは、怒号と共にグラダッソを後方へ弾き飛ばすと、すぐさまオリヴィエーロの援護に駆けつけ、ソブリーノに致命的な重傷を負わせて地に伏せさせた。
しかし、オルランドがソブリーノの対処に気を取られたその僅かな隙が、最大の悲劇を引き起こす。
東洋の王グラダッソは、自身への注意が逸れた絶好の機会を見逃さなかった。彼は卑劣にも、アグラマン王と激しい一騎打ちを繰り広げていたブランディマルテの背後へと密かに忍び寄ったのである。
「ブランディマルテ、危ない!」
オルランドの叫びは、コンマ数秒だけ遅かった。
背後からの不意打ちを悟ったブランディマルテが咄嗟に振り返った瞬間、グラダッソが渾身の力で振り下ろした凶刃が、彼の兜を無残に叩き割った。無防備な頭部に致命的な一撃を受けた誇り高き騎士は、一本の巨木が倒れるように、音を立てて冷たい岩場へと崩れ落ちたのである。
その光景を見たオルランドの心の中で、何かが完全に砕け散った。
狂気から立ち直ったばかりの彼の精神を、今度は「無二の親友を奪われた」という底知れぬ絶望と、世界そのものを焼き尽くすほどの凄まじい怒りが支配した。
「ああああっ!! 悪鬼どもめ、決して生かしてはおかぬ!!」
オルランドは獣のような咆哮を上げると、もはや防御を一切捨てた鬼神の如き猛攻で、残る二人の敵将へと襲い掛かった。彼の振るう名剣ドゥリンダナの前に、もはやアグラマン王の武勇も、グラダッソの怪力も全く通用しなかった。怒りの刃は瞬く間にアグラマン王の首を刎ね飛ばし、親友の仇であるグラダッソの胴体を一刀のもとに両断した。
血の海と化した戦場で、ただ一人立ち尽くすオルランド。彼は敵を討ち果した喜びなど微塵もなく、急いで瀕死の親友の元へと駆け寄り、その血まみれの頭を自身の膝の上に抱き上げた。
「ブランディマルテ! 逝くな、どうか目を開けてくれ!」
オルランドは、大帝シャルルマーニュの御前でも決して流したことのない大粒の涙をこぼし、親友の名前を何度も叫んだ。
ブランディマルテは、薄れゆく意識の中で、自分を抱き抱える親友の顔を静かに見つめえ返した。彼の口元には、痛みよりも安らぎを思わせる微かな笑みが浮かんでいた。
「泣かないでくれ、オルランド……私は、神の兵士として、そして君の友として、己の務めを果たせたのだから……」
血を吐きながら、彼は最後の力を振り絞って、最も愛する妻の名を口にした。
「どうか、私の愛するフィオルディリージに伝えてくれ……私が、最後まで彼女を……」
言葉は最後まで続かなかった。
誇り高き騎士ブランディマルテの瞳から光が消え、彼の手から力が抜け落ちた。リパドゥーサ島の風が、英雄の魂を天へと運んでいく。親友の冷たくなった亡骸を強く抱きしめながら、オルランドの慟哭だけが、無慈悲な海鳴りと共に虚しく島に響き渡り続けた。
** 『狂えるオルランド』 第43歌〜第44歌より ―― 哀しき霊廟と最後の試練 **
リパドゥーサ島の凄惨な死闘を制し、ついにキリスト教軍に最終的な勝利をもたらしたオルランド。しかし、凱旋する彼の傍らにあるのは、無二の親友ブランディマルテの冷たくなった亡骸であった。
オルランドはシチリア島において、親友のためにこの上なく壮麗な大理石の霊廟を建立し、盛大な葬儀を執り行った。
この悲報が、夫の帰りを信じて待っていた妻フィオルディリージの元に届いたときの悲哀は、筆舌に尽くしがたいものであった。
彼女は絶望のあまり自らの美しい顔を掻き毟り、豪奢な衣服を引き裂き、自身の誇りであった長い髪を自らの手で切り落とした。周囲の人々がいかに慰めようとも彼女の耳には入らず、ただ涙を流して夫の名を呼び続けたのである。
葬儀が終わった後、彼女は周囲の制止を振り切って夫の霊廟の中に自らを閉じ込めた。食事も水も一切を拒絶し、ただ冷たい棺にすがりついて祈り続けた彼女は、それからわずかな日数の後、愛する夫の後を追うようにひっそりと息を引き取った。長きにわたる異教徒との大戦は、最も清らかな魂を持つ夫婦の命という、あまりにも重い代償を支払って終結を迎えたのである。
一方、パリの宮廷では戦勝の歓喜に沸いていた。荒波を乗り越え、孤島で洗礼を受けて真のキリスト教のパラディン(聖騎士)となったルッジェーロもまた、シャルルマーニュ大帝の陣営へと合流を果たしていた。
ルッジェーロとブラダマンテはついに公の場で手を取り合い、これまでの数多の苦難を乗り越えてようやく結ばれる日を確信していた。
しかし、運命はまだこの二人に完全なる幸福を許してはくれなかった。二人の結婚に強硬に反対する者が現れたのである。他でもない、ブラダマンテの実の父であるアモン公と、母ベアトリーチェであった。
両親は、いかにルッジェーロが比類なき英雄であり、大帝からの寵愛を受けていようとも、彼が今は自身の領地も財産も持たない「一介の騎士」に過ぎないことを理由に、彼を娘の婿として認めようとはしなかった。
野心に満ちた両親がブラダマンテの結婚相手として白羽の矢を立てていたのは、東ローマ帝国(ギリシャ)の皇帝コンスタンティヌスの息子、王子レオーネであった。
次期皇帝という絶対的な権力と莫大な富を持つこの若き王子こそが、我が娘に相応しい。両親はシャルルマーニュ大帝に強引に掛け合い、娘をレオーネに嫁がせる準備を進め始めたのである。
絶望したブラダマンテは、大帝シャルルマーニュの御前へと進み出ると、涙ながらに一つの誓いを立てた。
「陛下、どうかお願いいたします。私をレオーネ王子に嫁がせるというのなら、どうかその前に一つの条件をお許しください。私は、日の出から日没までの間、私と一対一で剣を交え、決して私に敗れることのなかった戦士としか結婚いたしません。もしレオーネ王子が私より強いのであれば、甘んじて従いましょう」
大帝はこの条件を認め、パリの宮廷において「ブラダマンテと戦って最後まで耐え抜いた者を、彼女の夫とする」という布告が発せられた。
この布告を知ったルッジェーロの心は焦燥に駆られた。
「私が彼女と戦うのは造作もないことだ。しかし、もしギリシャの王子レオーネが卑怯な策を弄して彼女を打ち破ってしまったらどうなる? そもそも、あの小賢しいレオーネさえいなければ、こんなことにはならなかったのだ!」
怒りに燃えるルッジェーロは、ブラダマンテを奪おうとする恋敵レオーネを自らの手で暗殺するため、誰にも告げずに単騎で東方のギリシャ帝国へと旅立った。
ところが、このギリシャでの道中、ルッジェーロはブルガリア軍とギリシャ軍の戦争に巻き込まれる。彼は義侠心から劣勢のブルガリア軍に加勢し、ギリシャの軍勢を一人で壊滅させるほどの凄まじい武勲を立ててしまう。
ギリシャの王子レオーネは、自軍を蹴散らすこの見知らぬ無双の騎士(正体が自分を狙うルッジェーロであるとは全く知らない)の戦いぶりを安全な高台から見ていた。しかし彼は怒るどころか、その人間離れした勇姿と気高さにすっかり魅了され、激しい称賛と敬意を抱いてしまったのだ。
その後、ルッジェーロは運悪くギリシャ軍の罠に落ち、牢獄に捕らえられて処刑の危機に瀕してしまう。
しかし、彼に惚れ込んでいたレオーネ王子が、自身の地位を危険に晒してまで秘密裏に牢獄に忍び込み、彼を救い出したのである。
「私は君の武勇に心底惚れ込んだ。君の命を救うためなら、私は自分の命を懸けても構わない」
命を救われたルッジェーロは、衝撃を受けた。自分が殺そうとしていた恋敵が、見返りを求めずに自分の命を救い、心からの友情を差し伸べてきたのだ。ルッジェーロの気高き騎士道精神は、この絶対的な「命の恩義」に強烈に縛り付けられてしまった。
そして、事態は最悪の方向へと転がる。
パリから「ブラダマンテの決闘の条件」を知らされたレオーネ王子は、自身の命の恩人であり、最強の戦士であるルッジェーロ(彼はまだ相手を「一角獣の騎士」と呼び、正体を知らない)に向かって、残酷すぎる願いを口にしたのである。
「友よ、私は武勇では到底あの女武者ブラダマンテには勝てない。どうかお願いだ。君は私と体格が似ている。私の甲冑を着て、私の身代わりとしてパリへ行き、私に代わって彼女と戦い、彼女の夫となる権利を私のために勝ち取ってきてはくれないか?」
その言葉を聞いた瞬間、ルッジェーロの目の前は真っ暗になった。
恩人の願いを断れば、騎士としての誉れを失う。
恩人の願いを受け入れれば、自分が最も愛する女性を、自らの手で他人の男へと売り渡すことになる。
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### 『狂えるオルランド』 第45歌〜第46歌より ―― 哀しき身代わりと大団円
命の恩人たるレオーネ王子からの残酷な願い。気高きルッジェーロの魂は、千々に引き裂かれるほどの苦痛に悶え苦しんだ。しかし、絶対の「恩義」を前にして、彼の騎士としての掟は、自身の幸福を優先することを決して許さなかった。彼は己の心を殺し、血の涙を呑んでこの過酷な依頼を承諾したのである。
ギリシャの双頭の鷲の紋章が刻まれたレオーネ王子の甲冑を身に纏い、顔を完全に面頬で隠したルッジェーロは、身代わりとしてパリの闘技場へと足を踏み入れた。迎え撃つブラダマンテの目には、相手が憎きギリシャの王子レオーネにしか見えていない。彼女は愛するルッジェーロとの未来を守るため、相手を確実に殺すつもりで、凄まじい怒りと共に剣を振り下ろした。
しかし、偽りのレオーネは決して攻撃を返してこなかった。ルッジェーロは、愛する女性の刃をただひたすらに盾で受け流し、後退し、己の血を流しながらも、日の出から日没までの一日中、その猛攻に耐え続けたのである。
ついに夕日が地平線に沈み、決闘の終了を告げる鐘が鳴り響いた。
大帝シャルルマーニュは布告通り、一日の攻撃を耐え抜いた「ギリシャの王子(実はルッジェーロ)」の勝利と、ブラダマンテとの結婚の権利を宣言する。ブラダマンテは己の敗北と絶望に泣き崩れ、ルッジェーロは愛する人を他人に売り渡した己の罪深さに耐えきれず、誰にも正体を明かさぬまま、逃げるようにパリから姿を消した。
深い森の奥へ入ったルッジェーロは、馬と武具を捨て、ただ死を待つために地面に倒れ込んだ。生きる希望を絶たれた彼は、餓死によってこの惨めな命を終わらせようと決意したのである。三日三晩が過ぎ、彼の命の灯火が消えかけようとしていたその時、運命を司る光の巫女メリッサの導きによって、本物のレオーネ王子が彼を探し当てた。
レオーネが慌てて騎士の兜を脱がせると、そこには衰弱しきったルッジェーロの顔があった。
ここで初めて、レオーネは驚愕の真実を知る。己の命を救い、身代わりとなって決闘を勝ち抜いてくれた無双の騎士が、まさかブラダマンテの最愛の恋人であり、自身の最大の恋敵であるルッジェーロ本人であったとは。
己の恩義のために、世界で最も愛する女性すらも差し出したルッジェーロの高潔さに、レオーネは激しく心を打たれ、涙を流した。
「ああ、ルッジェーロ! 君こそが世界で最も気高く、彼女に相応しい騎士だ。私の愚かな恋心など、君の崇高な自己犠牲の前では塵に等しい。ブラダマンテは君のものだ!」
レオーネは自身の結婚の権利を完全に放棄し、さらにはブルガリアの軍勢がルッジェーロを彼らの新たな「王」として推戴しようとしていることを告げた。これにより、ブラダマンテの両親がこだわっていた「領地を持たない一介の騎士」という身分の問題も、見事に解決されたのである。
パリへと帰還したルッジェーロを、大帝シャルルマーニュをはじめとするフランクの全パラディンが歓喜をもって迎え入れた。あらゆる障害を取り払ったルッジェーロとブラダマンテは、ついに盛大な結婚の祝宴を挙げ、二人の永遠の愛はここに結実した。
しかし、祝宴の最後の日、荒々しい足音と共に一人の男が乱入してくる。かつて姿を消していたサラセンの最強にして最凶の暴君、アルジェリア王ロドモンテであった。彼は主君アグラマンを裏切りキリスト教徒となったルッジェーロを「裏切り者」と罵り、決闘を申し込む。
これが、叙事詩における真の最後の戦いとなった。
ルッジェーロとロドモンテの死闘は熾烈を極めたが、愛する妻と仲間たちに見守られた新きブルガリア王の剣撃が、ついに暴君を圧倒する。組み合いの末、ルッジェーロが短剣をロドモンテの兜の隙間に深々と突き立てた。冒涜の言葉を吐きながら、猛将ロドモンテの暗く冷たい魂は、地獄の底へと落ちていったのである。
歓声が響き渡る中、長きにわたる異教徒との戦争、そしてルッジェーロとブラダマンテの果てしない愛と試練の物語は、ここに荘厳なる幕を下ろした。