(註:自称行為そのものを推奨または助長する意図はありません)
一、公衆トイレ
その日僕はいつもの喫茶店【アシュレ】に寄った帰り道だった。遠輿先輩と燈沓先輩は旅行に行っている。だから久々の1人だけ。
慣れたものが一瞬でも無くなるのは心細いもので、いてもたってもいられなくなった僕は外に出た。
コーヒーとプリンアラモードはいつも通り美味しかった。
(ふぅ、あと帰る前に大学の図書館にでも寄ろっかな)
今僕は大学の目と鼻の先、歩いても10分とかからない場所にいる。そんなふうに次の行き先を決めた矢先。
「なんかトイレ行きたくなってきたかも……」
そういえば10月ももう終わり。肌寒くなってもおかしくない。でも、コンビニのトイレを借りるという芸当は
とりあえず、大学の方へ足を進めながら
(うわぁ、公園の公衆トイレか……でもまぁ、便座使うわけじゃないし……何よりもう限界……!)
予想した通り、内装は薄暗くお世辞にも綺麗とは言いがたい、
こう言ってしまっては悪いけど、僕みたいに
用を済ませ、手を洗おうとした時だった。
ドッ──
と鈍い音。
「……っ」
後ろの洋式からだった。痛みを堪えるような声もした。
ここに限らず外のトイレは狭い。要領の悪い僕も何度かコケたことがある。
一応声をかけてみよう……万が一
「だっ、大丈夫ですか……?」
返答がない……まさか本当に……?
「いやいや、ウザがられてるだけかもしんないし……?」
わざと声に出していってみた。これでもダメ。
コケたぐらいで他人に干渉されたくない人間もそりゃいるだろう。無言で早く行けと
「結構大きい音だったのでお怪我ないかなと思って」
でも、今日の僕はやけに積極的だった。
そう言いながら近寄った時、扉の隙間から微かに
──
予想が当たってしまったのか。そう思って声をかけ続ける。
「大丈夫ですか! 答えられるなら返事してください!」
何も返ってはこなかった。
──助けなきゃ
そう思った。
「ちょっと失礼します……」
下から覗き込むと……カッターが目に入った。左の壁側に人が倒れ込んでいる。傷口を押さえるような格好で。
「リストカット……? とにかく救急に……!」
いや、待て。もし、彼が生きるのを望んでいなかったとしたら……?
助けちゃっていいのか?
燈沓先輩みたいに自分を嫌いになるまで終わりにしたいと望んでいる人だって居るのに。
「……
そう自分に喝を入れる。
このまま何も起こさなければこの人はどちらにせよ息を吹き返さない。
見ず知らずの他人が
だったら僕は……僕の
「すいません、救急です! セルディアクリエイターズカレッジ近くの公園の公衆トイレからかけてるんですけど、ひっ、人が倒れてて……!」
────
「ご協力ありがとうございました、結構深く切っちゃってたみたいでね……あと少し深かったり、通報が遅れてたりしたら手も命も危なかった。あとは我々が引き継ぎますんで」
「そう……ですか。良かったです」
救急隊の人にそう言われている最中その男性は酸素マスクをつけた状態で担架に載せられていた。
幸いにも今から処置を始めれば体に大きな不自由は残らないらしい。
「……僕たちも命を救うことが第一優先なんです。彼の事情がどうであれ、君のやったことに
そう言われて少し肩の荷が降りた気がした。
僕と彼の縁はここまでだろう。たとえ邪推が当たっていたとしても、どこかでばったり出くわさなければいい話だ。そうでなければ気まずくなることはない。
僕は
そう思ったのに胸の支えが取れなくて。結局図書館に行くのはやめにした。
──苛まれていない人間はつくづく
その日はやっぱり寝られなかった。
二.
俺はその時初めて、白い格子張りの天井を見た。
実際は生まれて初めてじゃねーのかも知んないけど。
どうやら俺の算段は失敗に終わったらしい。
「
「病院、ですよね……もう全部わかってるんで大丈夫です」
「大丈夫……そうですね。先生とご家族呼んできますね」
「あの……すんません」
「どうしました?」
「俺……
「えぇ、たまたま通りかかった人が通報してくれたって聞いてます。物腰の柔らかそうな方だったとも」
それ以外問い詰めても看護師は口を閉ざした。
余計なことしやがって……
────
「
「
「点滴打ってんのに大丈夫に見えんのかよ」
「そうだな……」
「あなたも甘やかさないで! ……何か他に言うことがあるでしょ!」
「……っ、心配かけてごめん。2度としない、こんなこと」
「本当よね?」
「うん……」
「絶対?」
「わかったって」
「あんたホントに……」
「小夜! いい加減にしろ! 安静にさせなきゃいけないんだから」
「そうよね……ごめんなさい公遙」
「母さんは謝んなくていいよ、悪いの俺だし」
そう言うと、病室のドアがノックされた。
「失礼します。主治医の神田です。病状の説明に上がりました……と言っても大事は避けられましたがね……傷も深いですが幸い、神経まで届いていなかったので大掛かりなリハビリも必要ないでしょう。入院期間は……長くて2週間というところですね」
「先生、そんなに短くていいんですか」
「えぇ、傷の治りにもよりますが、傷口の感染症管理と、
「実は……息子はギターをやっておりまして……」
母さんがおずおずと言う。
「ギターか……今回自分で切ったのが左となると、傷に重いものを乗っけることになるので、そうすると退院後2、3ヶ月はギター、
「……すんません、ありがとうございます」
「先生、無愛想な子ですが、どうかよろしくお願いします……!」
そうして、医者との初めての面談は終わった。
「小夜、聞いただろ。生活には問題ないし、ギターも後々弾けるようになるんだ。あまり神経質になるな」
「なってないわよ……ただ、また
「それをやめろって言ってるんだ。今はゆっくり回復していく時期なんだからそう急かしてやるな。公遙がもっとしんどくなるだろ」
「そうね……この子ももう大人だもの。私も子離れしなきゃ行けない時期なのかもね……。じゃあ、毎週末に着替えと食べ物差し入れるからね。あと、先生のおっしゃることちゃんと聞きなさいよ。あんた中学の時から聞かん坊なんだから」
「「一言多い」」
「何よもう……2人して……、またね、公遙」
最後の母さんの表情は笑っていた。機嫌は戻ったみたいだった。
もう一度、部屋の中に静寂が訪れる。
「俺……生き残っちゃったのか」
俺の兄さんは死んでいる。俺が中学に上がる前に。勤めていた会社が今でいうかなりのブラック企業だった上に上司との折り合いも悪かったようで。
天井近くにあったトイレットペーパー用のポールにネクタイで首を吊っていた。
兄さんは最期にこう言い残していた。
「
──ちゃんと楽しめる
今まで誰にも愚痴も悪口もを吐かなかった兄さんが、そんな環境にも4年耐えてきた兄さんが、俺にだけ話した本音。あんな状態じゃいつかは死ぬとわかっていたのに、俺はまんまと寝息を立て続けた。
俺はかなりの兄っ子だった。ギターも兄さんの形見だし、口をつけはすぐにーさん、にーさんと後ろをついて歩いていた。
だから、兄さんが死んだ時、体の骨を抜かれた気がした。もう全部どうでもよくなった……自分のことも、他人のことも。そう思っている自分に嫌気がさした。
──乗り越えることなんて、できなかった。
──家族より大事な何かを見つけることなんてできなかった。
──自分の未来はなおもほんのりと暗がりだった。
だから、何となく、
「まだ来んなってことかよ、兄さん……っ!」
俺は歯を立てた。
別に自分の環境に不満があったわけじゃない。メンブレっぽくなってたわけでもない。ただあそこなら
「……わぁったよ、生きりゃいーんだろ生きりゃ、もう死なないから安心しろって」
そう誰にでもなく呟いた。
自分のためにはもう到底生きれそうにないが、死ぬなと言われれば仕方ない。俺には兄さんに会う以外に、
──また、渋々の日々に逆戻りだ。
不義理にもそう思ってしまった。
退院までは特に何も起きるはずもなく。ごく淡々と過ぎていった。
三、2度会う時は3度目も
あの男の人を助けて数週間後、11月に入った頃だった。夜間部の授業のために僕は帰宅ラッシュでごった返す電車に揺られてキャンパスへと急ぐ。
「仕方のないことだけどなんでよりによって帰ってく人たちとかち合うのかなぁ……」
この不平不満は何度も言っている。酷いとスクーリングは一ヶ月に一度とかなので、つい感覚が鈍ってしまう。しかも今日の科目は英語と生活倫理、教養科目なので無理に休むと
教室へついていつもの席を確保する。
「よしっ、今日も座れたぁ……」
安堵も束の間、低い声をかけられる。
「隣いいすか」
「……どうぞ」
「いてっ」
痛みになのか、机の立て付けになのか、何かに思うところがあって頭をガシガシと掻きむしる男の人。当たり前だけど僕よりずっと背が高く、狼を思わせる佇まいだった。左手には怪我をしたんだろうか、大きめのガーゼが少し不恰好に貼り付けられていた。
うちは通信が主体なので顔を合わせる機会も少ない、だから最近は
「初めて……ですよね、僕、
「これはご丁寧に、俺は
「左手……怪我したんですか?」
「えと、まぁ、ちょっと深めに切っちゃって。気ぃ失ってたみたいで、通りがかりの人に助けてもらって一応病院に」
左の切り傷で病院……? まさかね……
その学生証ケースには赤いシミがついていた。
──っ! 思い出した!
あの時もナップサックを下ろしてたのに、ポケットにはカッター以外の
──鵜城公遙さん、19歳、所持品のカッターナイフで左手首を自傷したと思われる。その他、転倒した際にできたと見られる打撲痕あり──
微かにだけど、僕が伝えた情報を隊員の人が復唱している時に同じ名前を聞いている。
「あっ、あのぉ……」
「なんすか」
「もし間違いだったらごめん、なんですけど、その助けた人……僕、かもしれない、です。公園の公衆トイレだったら……」
その声色は一段低くなったような気がした
「あ〜、アンタが。その節はどうもありがとうございました」
「早く回復できたみたいで良かったです」
「本当に」
その後の授業は二つとも同じだった。
素っ気ないけど、発言はよくするし、地頭もいいようだった。
「否定疑問文の時は、後ろに答えるんじゃなくて、〜だよね? の前の文に答えるイメージでやるとわかりやすいと思います」
「そうなんですね……ありがとうございます!」
「ちょっとすいません、左抑えにくいんで持っといてもらっていいすか」
「はい! こんな感じで大丈夫、ですか?」
「あざっす」
そんなこんなで午後9時、全ての講義が終わった。
やっと帰れる……──その前に、鵜城くんが本当に
「あのっ!」
「ん?」
「勝手なことしてすみませんでした!」
「──その話なら向こうで。人多いんで」
「穴場あるんでそこ行きませんか?」
「はぁ……?」
────
カラン……
「マスター、ごめん! ラストオーダーまだだよね?」
「まだだけど、涼喜くんらしくないなぁ。ギリギリじゃない。うち閉まるの9:30だよ?」
「それは本当にごめん、急を要してて!」
「ほぼ毎週来てくれる馴染みの頼みじゃあなぁ……ただし、頼んでいいのは一個だけだからね」
「ありがとう! ──開けてくれるみたいです!」
「ほぼ押し入りみたいじゃないっすか、すんません」
「いつもはこんな大胆なことする子じゃないんだけどねぇ、涼喜くんはいつものでいいとして……そっちの彼は……?」
「コーヒー、ブラックで」
「承りました」
「ここ多少なら無理聞いてくれるのでいつも助かってるんですよ……」
嘘だ。こんな閉店ギリギリにアシュレに来たことはないし、来ていたとしてもこんなことはしない。
「その割にはこんなことされたの初めてみたいっすけど」
「うっ……バレますよねぇ」
そう言いながらマスターに「出したら2人にしてくれる?」と気づかれないようにサインした。
「お待ちどうさま、ハニートーストとアールグレイに、コーヒーね、ごゆっくり」
そう言いながら後ろ手で【
本当にマスターには頭が上がらない。
「じゃあ……改めて、今回は本当にすみませんでした」
「なんでそう思うんです? 気にしないでくださいよ、俺がどう思ってようが、アンタは正しいことを
やっぱり、言葉にしなくても
「理由については深く聞くつもりはないです。ただ、どっちにしろ
「──なんだその言い草。聖人気取りかよ。こっちはさっさと礼伝えたら忘れようとしてたのにさぁ……っ!」
語気がだんだん強くなる。僕はやっぱり
「……すんません、口が過ぎました。助けてもらったのにこんな返し方ないですよねふつう。……ほんとすんません」
僕は何も答えない。返さない。こういう
「6個上の兄貴がいたんです。でもブラック企業で社畜やって自殺して……、兄貴──兄さんがいなくてもなんで考えきれなくて……自分に不満があるとかじゃねーし、何も不安なかったんすけど、──ここでなら
「──
燈沓先輩とは違う、
理由を知ってもなお
「謝んないでください。……あん時頭おかしかったんで、きっと。兄さんにはいつか逢えるし、今じゃなかっただけだから」
あっ、言えなくなっちゃった。話す内容を全て言われてしまった。
でも、鵜城くんは
燈沓先輩のように、
──その
でもどうやればいいのかわからない。だから隠し包丁のようにして、今一度「生きて」という
僕にも一回くらい、
痛い思いをさせるかもしれないけど、ごめんなさい。
「僕は──あなたに会えて、あなたがここにきてくれて、
──今は心を休めてください、泣けるなら泣いて?
四、違う響きで、同じ歩幅で
「僕は──あなたに会えて、あなたがここにきてくれて、生きててくれて──良かった、と思ってます」
ここまでは月並みな言葉だと思った。病院のカウンセラーも医者も、同じような言葉を並べてた。
──今は心を休めてください、泣けるなら泣いて? 僕も手伝うから。
はっとした。兄さんと同じ言葉だったから。
──公、苦しそうな顔すんな。兄ちゃんにはそう見えんぞ、泣くなら泣きたいだけ出せ! ほら!
俺は昔から、あまり泣けない
俺たち子供は知っている。母さんが俺たち2人をどれだけ手塩にかけてたか、
わかっているはずだった。だから兄さんの分も俺が子供として強くならなければと思っていた。
そんな親の顔を気にして泣きどころがわからなくなっていった俺に兄さんはいつも、肩を貸してくれた。
兄さんといる時間だけが、涙を流していい時間だった。
誰に諭されたわけでもない、体がそういうふうに覚えちまってた。
──でも、兄さんはもういない。俺より大きな背中で泣いている姿を見届けることも、泣き止ましてくれることももうない。あの人の手はもうどこかへ飛んでいってしまった。よく似ていると言う
「っ、あれ……」
俺、辛かったのか……? 苦しかったのか? わかんねーけど、
「それが鵜城くんの本当の気持ちだったんだね……今は誰もいないから、思う存分どうぞ」
そうやって、寸足らずな手が伸びてくる。背をさすろうとしてくれてんのかわからんけど、抱きつこうとしてくる。
──でも、
この気持ちを、出しきれない。
「わわっ、つい手が……ごめんなさい!」
「いい、このままやっててくれ。その方が」
──気持ちいい。
「ふふ、そっか。じゃあできるだけ頑張るよ」
涙が枯れたのはちょうど喫茶店が閉まる頃だった。
「マスター、遅くまですいませんでした。また今度!」
「はいはい」
代金を少し多めに払いながら、そうやって深々と礼をする邑嶺くんの姿は俺よりちっこくて、ガキみてーで。何か笑けてきた。
今日一日で散々助けてもらっておいて、なんて奴だ、と俺も思う。
「ごめんね、遅くまで付き合わせちゃって」
「逆だろ逆。礼は俺が言う方だろ……んぁ、敬語」
「……あっ、すいません」
「いーよ、多分同い年だろ。──あんがとな、色々。邑嶺」
「っ──! うんっ!」
やっぱこいつガキみてー。めっちゃキラキラした目で見てくんじゃん。
「あの、さ……お礼してくれない、かな?」
「おー、なんでもいいよ」
「僕の友達になってください!」
「くはっ、それ結婚してくださいの気迫じゃね? w」
あれ? なんでだ? オレ、知らねーやつと笑えてる……今日が
「……喜んで。
「間違いに被せてこないでよぉ……! ありがとね、鵜城くん!」
「あんさぁ、お互い下にしねー? くん付けムズいんだわ」
「えっ」
やっべ、行き過ぎたか……?
「いい、よ? ……公遙」
「じゃあ決まりな。涼喜。これ連絡先」
「わぁ……!」
そんなライブのチケみたいに見んなよ……こいつ今までぼっちだったのか……? 俺もだけど。
「じゃあ、また
「おー、暇な時に遊ぼうぜ」
友達。できたの初めてかも知んねー。案外似たもの同士なのかも……違くてもこれからなってきゃいい話だよな。
「なんか、アガッてきやがった。ギター弾……けねーんだったまだぁッ!」
少しだけ、未来が楽しみになった。
五.
帰宅直前、遠輿先輩に会った。燈沓先輩も一緒だ。
「遠輿先輩〜、また買い食いですか?」
少し訝しげに見る。
「違いますぅ、今回は付き添い! 秋瓢がコンポタ買いたいって言ってたから」
「すっくんが、こんな時間まで外いるなんて珍しいじゃん学校長かったの?」
「友達と遊んでました!」
はっきり言えた、今回はちゃんと。
「へぇ〜、詳しく聞かせろよぉ」
「おいバカ詮索すんな」
「あでっ……気になんじゃんかぁ」
「気にしすぎなんだよ……」
「もうちょっと仲良くなったらお二人にも紹介できるかも、です」
「「おぉ……?」」
「なんでそこ2人で揃うんですか?」
「すっくんシャイだと思ってたからつい……」
「お前も人のこと言えねーじゃねーか! ぃよっし! オレらも負けてらんないなぁ、もっと仲良くなるぞ!」
「おれまで付き合うのぉ……なんかやだ」
「なぁんでだよぉ〜、お前もうちょっとデレろってぇ〜」
「あははっ、いつか2人みたいになれますかね……? 僕たちも」
「いやならなくていい、ならなくて。おれら参考にすると碌なことにならないから」
「そうですかねぇ」
そんなことないですよ、先輩。なんとか丸く収まったみたいですから。……ご教授って言っていいのかな、でも、2人を見てたから話せた部分もきっとあるはず。ここからは僕が、僕たちで作っていく番だ。
「ありがとうございます!」
「「何が?」」
「内緒ですっ!」
何事にも