男は暗闇にいた。見えず、聞こえず、声を発することもできない深淵。飢餓。資源を奪って殺し合う。奪われる敗者と捨てられる弱者。生存のためのカニバリズム。全身を苛む呪詛。かつて呪いを生み出した数多の悲劇。
――男はイリディア公国出身の傭兵だった。彼が生まれた時代は、各地で大小様々な戦火が広がる争いの世だった。貧しい農家の生まれだった彼は自らの身を立てるために剣の道を選んだ。最初から華々しく戦えたわけではない。
いや、英雄のように戦った機会など、その生涯においては数える程しかなかった。傭兵の扱いなど、味方を生かすために使い潰す道具に過ぎない。経験の浅い指揮官の馬鹿げた命令で、死地に赴いたことなど数知れず。周囲はその日生きる糧のことしか考えられない境遇の
特に秀でた才能はなかった。彼よりも優れた才能の剣士などいくらでもいた。あのように戦えたらいいと憧れた朋友は、ぼろい仕事だと思った勝ち戦で
彼に他と違ったことがあるとすれば、数多くの友が死にゆく時代の中で、最後まで生き延びたこと。きっとそれだけだった。
生き延びる度に振るう武器は大きくなっていき、あの日、憧れた友よりもうまく剣が振るえるようになり、かつてよりも幾分か世を広く見渡せるようになった。
そうして気が付いた時には、彼は誰もが知る傭兵たちの英雄となった。だが、その無数の屍の上のそれを、栄誉と喜ぶことはできなかった。男は死がこびりつくような戦いの日々に倦んでいた。
男は傭兵家業の引退を決意した。
現役時代の伝手を辿って、隠居先にクライシュ帝国を選んだ。西方諸国連合で拠を構えるには、男の名は良くも悪くも大きくなりすぎた。
男は皇室の剣術指南役として雇われた。初め、彼の武名届かぬ異国の地での生活はうまくいかなかった。突然現れた異人に名誉ある指南役の座を奪われたやっかみ。宮廷での作法を知らぬ彼を粗野と嘲笑う声。だが、宮廷雀の嫉妬の一つや二つ、戦場での命のやり取りと比べれば可愛いものでしかなく、男にとっては何ということはなかった。
しかし、そんな様子を見かねて、第一皇妃付の侍女であった、一人の女が彼に声を掛けた。背筋のスッと伸びた、怜悧な印象の女だった
「知らないのは仕方ありません。ですが、覚えようという気がないのはあなたの怠慢です」
つっけんどんで、少し上から目線の物言い。男は最初、それが彼女の親切心だとは気づかなかった。また変な奴に絡まれたなと思うだけだった。だが、彼女がそんな調子で、男を慮ってくれていることに気づいてからは、男も色々なことを学ぼうと努めるようになった。
男は女から多くのことを教わった。礼儀作法、宮中の政治模様、クライシュの風土、歴史と伝統。そして、彼女自身のこと。逆に男も傭兵時代に行ったことのある様々な場所について彼女に話した。帝都から出たことがなかった女は、男の話を興味深げに聞いた。
時たま、女が澄ました顔を緩める姿を見ると、男は言葉に出来ない心地良さを感じた。
仲が深まるにつれ、男は誰に話したこともなかった、心中を吐露することもあった。
「……たまに、俺は死に損なったんじゃないかと思う時がある」
戦うことしか知らない人生だった。友と呼んだ者は皆戦場で帰らぬ人になった。自分もいつか同じように死ぬ。そう思っていた。だから自分だけが生き残っていることが不思議で仕方なかった。死ぬべき時はもう過ぎていて、それを乗り過ごしてしまったような虚無感。
「死ぬべき時なんてありませんよ。あるのは今、生きている事実。そして、いつか死ぬ事実だけです」
女の手が、男の手に触れた。
「あなたに必要なのは生きる理由です。今はただ、育む未来を思い描けていないだけ。それを忘れてしまっただけ」
女は今まで見せたことのない表情で柔らかく笑った。
「私にあなたと同じ思いは体験できません。それでもきっと伝えられることがあると信じています。だって……」
――今、こうしてあなたの隣にいるのですから。
それから少しして、男は女と結ばれた。
女は職を辞して家庭に入った。
程なくして、二人の間に男の子が生まれた。
男はまさか自分が家庭を持つことになるとは思っていなかった。と涙をこぼした。
「おれ、パパみたいに強くなりたい!」
「ああ、お前ならなれるさ。何しろパパとママの子だ。きっと誰よりも強くなれる」
男は年を取って初めて生まれた子をことの外可愛がった。そうして少しずつ生きる意味を取り戻していった。
旭花帝国と西方諸国連合からの圧力が強まり、クライシュ帝国内の政情が不安定になったタイミングで、男は第一皇妃の住まう離宮、その護衛責任者の任が与えられた。その頃には宮殿に彼の名を知らぬ者はおらず、かつてのようなやっかみはほとんど見られなくなった。同僚や部下にも恵まれ、このままこの地に骨を埋めることになるんだと思っていた。
そして、あの事件が起こった。皇太子の暗殺。国内視察の帰路についていた時のことだった。護衛を含めて全員が殺害され、下手人は捕まらなかった。
宮中の貴族たちは、犯人探しなどそっちのけで、対立派閥の非を責め立て、政争に勤しんだ。暗殺、毒殺、血生臭い暗闘が繰り広げられ、そうして最大の悲劇の日が訪れる。
男は余燼の中で、自らの妻子だった
さらには男が不在の隙を狙って、第一皇妃が住まう離宮にまで暗殺者の手は伸び、警護に当たっていた衛士含め、離宮にいた人物は皆殺しにされた。
第一皇妃、第三皇子、第二皇女が死亡。アイシャ第四皇女は行方不明だったが、公的には死亡と発表された。
男が不在だったとはいえ、離宮の警備は決して甘くない。貴族が抱える私兵では、そこまで大それたことはできなかった。それができる者がいるとすれば、当時、旭花帝国と西方諸国の大使に随行して帝都ニンアンナに滞在していた、十二星将“無垢織”九代目不知斎、もしくは円卓の騎士“蛇影”ポルフィリオ・ブルガーリャのいずれか以外に考えられなかった。だが、確たる証拠はなく、確かな証言が彼らを守った。
「また俺だけが生き延びた」
あるいは死に損なった。
ニンアンナの大火以降、貴族の派閥争いは収まる所か、益々激しくなった。愛する妻子を失った皇帝は、病に伏せるようになり、表舞台に姿を現さなくなった。男は生きるべき場所を失った。だが、妻と息子の笑顔を思い出す度に、生きなければならない気がした。
彼に残った生きる理由は復讐だけだった。しかし、誰を相手にすればいいのかもわからず、彷徨うことしかできなかった。ただ、瞼の裏にずっと炎が燃え盛っていた。
その先で三賢人に出会い、導かれて結社へと入った。支配から解放されるための世界大戦。その思想は彼の復讐にとって都合が良かった。犯人がわからないなら、疑わしい全てを破壊する。男は生きる理由を作り出した。
「なんだこれは?」
そして、その実験を知った。目をつぶった結果、かつて守っていた少女の非道な末路を。
「黒鉄とホワイトベルの抗争を引き起こす策が失敗した場合の後詰ですよ。悪魔の力を以てこの都市を陥落せしめ、二虎競食の計を成功させる。ご安心ください。旭花、連合、いずれにも我らの手は入り込んでおります故」
「そんなことは聞いていない」
「な、何をっ!」
夢から覚めるようだった。
不愉快な気分の男のもとに、一人の男がやってくる。
「聞きましたよ、
褐色の肌に、緩くウェーブした黒髪。軽薄そうな笑い方をするクライシュ人の男だった。
「
執行者は普段、各々の任務のため、各地に散らばっている。本拠たるこの地に現在残っているのは、この二人のみだった。
「実験体を逃がしたそうですね」
「……計略は俺が成功させる」
それで問題ないはずだと切って捨てた。
「そういうわけには行かないわ」
濃い闇の中から現れた明星の双眸が覗く。
深淵の奥から一人の少女が姿を現した。
白と黒のゴシックドレスに身を包んだ十歳前後のあどけない立ち姿。
しかし、彼女こそが“虚空の柩”の盟主たる三賢人の一人。
「……アリストテレス」
如何なる下法か、三賢人は皆、何らかの方法で不老不死を体得しており、悠久の時を生きている。彼女もまた見た目通りの年齢ではなかった。
「あの娘は大事な“器”なの。取り返して来てちょうだい」
「“器”というなら、お前が行けばいい」
「あら、それは無理よ。今の私じゃ
「……」
くすくすと少女は笑う。男はそれを見て黙り込んだ。
「あら? 奥さまと息子さんの仇を取りたかったのではないの?」
「必要のないことに手は貸さん」
「しょうがない子ね」
駄々っ子を宥めるような態度。
「ああ、そうだわ」
少女は名案を思いついたとばかりに手を叩く。
「取り返して来たなら、今後、あの娘の管理はあなたに一任するわ。計略がうまく行くなら、当分あの娘の仕事はないもの」
そう言いながら、少女は微笑む。
「ねぇ、でも忘れちゃ駄目よ? いざって時は、本当の目的を思い出さないと」
「……」
「ふふ、あなた、焼かれる苦しみを知らないでしょう? 火の煙ってとても温度が高いのよ。喉が焼けちゃうぐらい。呼吸がうまくできなくって、息子さん、きっと泣き叫びたかったでしょうね。でも、煙を吸うわけにはいかないから必死に押し殺して、うふふふ、奥さまは、子どもだけは守ろうと必死にあがいたかしら、あははは」
鬼面の嚇怒。男が少女を睨みつける。
「あら、それをやったのは私じゃないわよ。わかっているでしょう? これは同じ悲劇を二度繰り返さないための計画。安心して、ヘテルツォラシュを起動しても実験体は死なないわ。そのための研究だったんだもの」
悲劇を繰り返さないために、悲劇を引き起こす。悪魔がケラケラと微笑んでいた。
――これはきっと罰だ。男は苦悶の中でひとりごちた。
悪魔と取引した愚か者への当然の報い。
一人の若い男が、その暗闇の中にやってきた。彼は全身をその呪いに苛まれながら、救うべき者を手に去っていった。
「ああ、奴は為したのか」
守るべき者を守り切った姿を見て、男は微笑んだ。
そして、光を見た。
光の先に、妻と子の姿が視えた。二人は悲しげに、労わるようにこちらを見ていた。
「すまない、俺は……」
その先を言う前に、二人は仕方ないと微笑み、手を差し伸べる。
「ああ……」
──ありがとう、俺に生きる意味を与えてくれて。
オルランド・スパーダは笑いながらその手を取って、光を受け入れた。
◇
都市上空からクローディアが身を投げるように落ちていく。
遥か空の星辰がわずかに滲み、薄い光明が広がって、忽ちにどちらも掻き消える。
純白の剣と、彼女の身を守っていた鎧は光の粒子に還っている。
重力に任せた自由落下。
世界の秩序を乱した代償。境界励起の反動により、クローディアの心意もまた三つの律の均衡を失っていた。
故にこのままでは生身で地面と衝突するしかない。
「エルヴィス、着地は頼みました」
クローディアはそう言って静かに目を閉じる。風によって、激しく髪が揺れた。
ふと誰かに抱き止められる。清涼なシトラスとウッディな柔らかな余韻が残る香り。知らないその匂いに、クローディアは瞼を開いた。そこには彼女を両腕で抱き抱える斬雄の姿があった。彼は星醒竜転で操った木の枝の上に立っている。
「……なぜ、あなたが?」
困惑するクローディアに、斬雄は笑って答えた。
「着地に困っているように見えたが、要らん世話だったか?」
「いえ、助かりました」
そう微笑んで、再び目を閉じて身を預ける。そっと地面に降ろされたクローディアは、鳴子たちに介抱されているアイシャの側に駆け寄った。
「アイシャは無事ですか?」
「うん、呼吸はしっかりしてる」
鳴子の言葉にクローディアはホッと胸を撫で下ろした。
その瞬間だった。
黄金の物体がアイシャに向かって高速で接近する。
斬雄が即座に抜刀し、金属同士がぶつかる音が響いて、何かが彼の刀に弾かれる。
進行方向の反対側に黄金色の何かが着地する。勢いを殺すために、擦られた地面に、熱で二本足の跡が残る。
オルランドの青いそれに良く似た、黄金の甲冑。形状はよりソリッドで、色味も相まって、壮麗に見えた。
斬雄がアイシャを庇うように前に出た。
「お前も結社の執行者って奴か?」
「如何にも」
キチキチと不気味な合成音めいた声。その口調はどこか軽薄さを感じさせる。
「執行者
金甲冑はそう名乗り、斬雄たちの方へ向かって歩く。
「僕は争いが好きじゃないんだ。だから取引をしよう」
そう言って
「その実験体をこちらに引き渡してくれ。そうしたら、君たちの命は見逃してあげよう」
「断ると言ったら?」
斬雄が刀を構え、その場にいた者たちもまた戦闘態勢を取る。
「……残念だが、皆殺しだ」
膨れ上がる威圧感。多勢に無勢だから有利とは言えなかった。
「悲しいね。僕の戦闘能力は君たちが先程苦戦した
斬雄がそれを無視して、斬りかかる。星醒竜転による回帰と活性。それを前提とした、ポテンシャル以上の身体強化。彼の戦闘能力は格段に引き上げられている。この状態の斬雄は単騎でもオルランドを打倒し得る。
「ディシオーネに由来する秘術だね。素晴らしい力だ」
「しかし、永遠に維持し続けられる魔術などありはしない。その状態はもう、そう長くは持たない筈だ。違うかい?」
その言葉は正しかった。これは所詮、時間制限付きのドーピングに過ぎない。
斬雄が単独で星醒竜転を維持する時間の最高記録は、九分四十三秒。
そして、その時間はすでに半分を切っていた。
「それまで逃げ切れば、僕の勝ちだ。そうすれば君たちは諦めてくれるかな」
その時、クローディアから光が天に立ち昇った。手には純白の剣、月光剣コルシアシスが握られている。
「正気かい?」
「こんな街中でそれを放てば、都市ごと大勢の無辜の人間を焼き尽くすことになるよ」
「あなたたちのような外道を放置するよりはマシでしょう」
クローディアは
「いいのかい、黒鉄斬雄。君は死ぬことになるよ」
「はっ、今さら死を恐れて尻込みすると思うか?」
斬雄の強い闘志は毛ほども揺らがない。
本当に放つのか。クローディアの目を見る。凄まじい剣気が、今にも放たれる予感を抱かせた。
「……仕方ない。ここは引くとしよう」
彼は
「ひとまずはこれを回収できたことで、良しとしよう」
始原武装の回収を優先し、本拠のあるアヴェスタ連山へ急ぎ帰還する。
斬雄たちは今ごろ、安堵している頃だろう。後はその油断を狙って殺していけばいい。山間を走りながら、そう思ってふと後ろを振り向いた時だった。
天に昇る光の柱が見えた。遥か遠くに聳える大樹。そこから、
その大樹の天辺で、斬雄とクローディアが寄り添って立っていた。
「ギリギリだが、時間内に出て来てくれて助かったぜ」
二人の目の前には魔術によって出来た水の波紋が、三つ並んで広がっている。
“
水によって、重なり合ったレンズを形成し、遠方を拡大して見せる魔術。これによって豆粒のような
──境界励起の反動によってクローディアの心意は未だ秩序を失っている。
最低限の肉体強化、魔術の発動は出来る程度に回復はしたが、二回目の励起発動は不可能な状態にあった。これは肉体、精神の問題ではない。世界の法則の問題だ。例え肉体と精神を犠牲にしても奇跡は起こらない。──はずだった。
斬雄が星醒竜転のエネルギーをクローディアに注ぎ込む。
目的はその魔術がもたらす作用ではない。傷を癒しても、代謝を促進しても、彼女の秩序は戻らない。
星醒竜転。五行を総覧する太極咒法は、人が扱う力の中で、地母竜ディシオーネという根に最も近い。
壊れた秩序を
前例はない。しかし、理屈には適っている。
即ち第二振動場──“地律の
コルシアシスの余波熱が斬雄の肉体に触れる。一瞬で皮膚と骨が蒸発する。神経が断線する。五感は途絶し、呼吸はとうに止まっている。
だが、心意を操ることはできている。
ならば問題はない。
元の
星醒竜転の力が、死を引き延ばし続ける。
カチリとクローディアの心意が仮初の律を取り戻す。
距離が遠い故に
しかし、光を見た瞬間、彼の全身を悪寒が走り抜けた。刹那の判断。全力でその場から離脱する。
――だが、もう遅い。
「
あり得ざる奇跡、二度目の
熱光線が