竜星は廻る。~剣鬼と剣姫は動乱と陰謀の渦に抗う~ 作:@雅也
カシーヤ南西部。煉瓦造りの建物が立ち並び、連合風の衣服に身を包んだ人々が闊歩する、活気のある一角、その中心と呼べる場所にその建物はあった。広い庭園に囲まれた、クリーム色の外壁の豪奢な邸宅は、ホワイトベル・ファミリーの本拠である。
その中にあるクローディアの私室は、ベッドの上には脱ぎ捨てられたガウンが放置され、テーブルの上には紙の資料と戦術書が散らばっており、どうにも雑然とした印象を受けるものだった。率直に言えば散らかっている。
また、調度品はどれも高品質なものだが、華美さに欠け、女性らしい小物は必要最小限にとどまっていた。その代わり、部屋の大部分を占領しているのは、大小様々なトレーニング器具だ。
クローディアはそんな自室にて懸垂をしていた。片手でバーを掴み、素竜子による身体強化をしている様子はない。それは純粋な筋力トレーニングだった。早朝、まだ空が白む時間帯から始めて、すでに一時間以上が経過している。
「九九六、九九七」
ぽたり、ぽたりと溢れ出る汗がおとがいを伝い、床に敷かれたカーペットに滴り落ちる。
あらゆる戦士は心意によって身体を強化する術を有している。身体に宿る、素竜子を心意によって操り、肉、骨、皮膚、果ては筋肉、神経といった全身のあらゆる細胞を強化し、身体機能と強度を高めることで、本来人が生物として有する、身体能力以上の力を扱うことができるようになる。
それはこの身体強化を習得すれば、幼い少女が大の男を力で捻じ伏せることすら可能となる程のものだ。
では、素の身体能力に意味はないのか。それは否だった。素竜子による身体強化があったとしても、ベースとなるのは、あくまで当人の肉体だ。体を支える体幹、脳から身体に伝達される指令、経験によって染みつく最適化された身体操作。これらの基礎的な身体機能は、素の身体能力を鍛えなければ身につけることはできない。故に、身体強化、武器を扱う技術と同様に、肉体トレーニングもまた戦士にとって重要な要素だった。
「九九八、九九九、千」
すっと音もなく、クローディアは地面に着地する。懸垂棒に引っ掛かっていたタオルを手に取って汗を拭った。左右それぞれ千回。それは彼女にとって日課の訓練の一つだ。
日々の鍛錬によって練り上げられ、均整の取れたプロポーションは、邪な欲望を抱くことができない程に完成されていた。それは白磁の肌も相まって精巧な彫刻を思わせるものだった。
朝の訓練を終えたクローディアは、ちりんと鈴を鳴らす。
少しして、コンコンとノックの音が鳴った。
「入りなさい」
「お嬢様、失礼いたします」
そう言って入室したのは眼鏡をかけたエルフの男、エルヴィス=トリテレイアリーフだった。彼は恭しく頭を下げる。その様は騎士というよりは、執事のようだった。
「湯あみの準備はできております」
クローディアは頷いて部屋を出る。その少し後ろに控えるようにエルヴィスが付いて歩いた。
「例の二人組についてはどうなりましたか?」
アイシャを誘拐しようとした二人組のことだ。クローディアは昨日、屋敷に帰還した後、すぐに彼らを尋問するよう部下たちに指示を出していた。
「ご指示に従って尋問を行っておりますが、口を割らないようです。誘拐犯は黒鉄会、あなた達は黒鉄会に騙されている。の一点張りとのことです」
「担当は?」
「グローマンです」
「彼には
カイ・グローマン。ヴァルハライン公国出身の密偵だ。
ホワイトベル・ファミリーは、ホワイトベル家が雇った私兵と、連合から派遣された騎士たちによって構成されている。
カイは連合より派遣された人材であり、ファミリーにおいて彼以上に尋問に適した者はいない。即ち、虚偽の自白という逃げ道を選ばなかったこと自体が、二人組がただの犯罪者でないことを示唆していた。
「彼らの経歴を徹底的に洗うよう伝えてください」
「かしこまりました」
暫し無言の時間が流れる。そして、エルヴィスが意を決したように口を開いた。
「お嬢様、昨日のような真似はもうおやめください」
昨日のような。とはクローディアが単身で黒鉄会の元へ向かったことだ。
「もしお嬢様の身に何かあれば、私は……」
「あれは最もリスクの少ない手段を取ったにすぎません」
「お嬢様、あなたは騎士の身である前に、五公領の姫君でもあるのですよ」
五公領とは、連合の中でも中心的な役割を果たす五つの国家を差す言葉である。アルビオン公国、セレステル公国、ヴァルハライン公国、アウレロア公国、イリディア公国。彼らが王を戴かないのは、西方諸国連合の源流が古代アルバーノ帝国にあることに端を発している。特に五大公は帝国皇室の血統であり、その当時の領地の名と爵位を冠すことで、大帝よりその地の支配権を与えられたという正当性と、歴史的な権威を示しているのだ。
それ故、公国と称してはいるが、いずれもその国力は列強と評するに相応しい大国ばかりである。
「私の地位は外聞のために維持されているものであって、実質的には勘当されているようなものですよ」
「名が残っている限りはそれが実です」
どちらの言い分にも一定の理がある。故に、この話はどちらかが譲らない限り平行線を辿るだろう。エルヴィスは別方向から攻めることにした。
「それにアリスター様も心配していらっしゃいましたよ」
「大叔父様が?」
アリスター・サージェント=ホワイトベル。ホワイトベル・ファミリーの首領であり、先代ホワイトベル伯爵の弟君、即ちクローディアにとっては大叔父に当たる。
兄が爵位を継いでからは、貴族としての信用を武器に、市井にて商いを始めた風変わりな人物だ。その商才は確かで、たった一代で連合でも有数の大商会を興した実績を有している。
「ええ、あの御方はお嬢様を特に可愛がっておられますからね」
クローディアは好々爺然とした大叔父の顔を思い浮かべる。彼は同じ貴族社会の変わり者仲間として、特に彼女に目を掛けてくれていた。そんな彼に無用な心配をかけることは彼女にとっても本意ではない。
「大叔父様には私から説明しておきます」
とはいえ、幼い頃ならばいざ知らず、彼女も今や隊を率いる地位にある練達の騎士である。ホワイトベル・ファミリーにおいては№2、荒事に関してはトップの立場にある。箱入り令嬢のように心配されるのは、その気持ちはありがたいと思う反面、非常に困りものでもあった。
「……それで、黒鉄会に赴いた目的は達成されたのですか?」
主の翻意は引き出せないと諦めたエルヴィスが話題を変える。
「ええ、当面はあの娘は黒鉄に預けて問題ないでしょう」
「此度の件、奴らは関係ないと?」
「優先順位の問題です」
黒鉄会を完全にシロと決めつけるつもりはない。だが、現時点で疑わしい点がないのも確かだ。旭花帝国への警戒心を理由に、固執するのは下策でしかない。
「それに私も定期的に様子を見に行くつもりです」
「……お嬢様」
「必要なことです」
「では今度は必ず私を供にお連れください」
そこらに散歩に行くかのように屋敷を出た主の向かった先が、黒鉄の縄張りと知った時、エルヴィスは身が凍るような思いだった。
だが、クローディアの率直な所感を言えば、エルヴィスを連れて行くのは気が進まなかった。ホワイトベルの中でも指折りの実力者である彼の力を信頼していないわけではない。しかし、彼は良くも悪くも実直な男であり、帝国に対する敵愾心も強い。連れて行けば碌なことにならないのは目に見えるからだ。
「エルヴィス、私はニンアンナの二の舞を繰り返したくはありません」
「──それは、存じております」
エルヴィスが苦い顔で応答する。かつてあった悲劇。彼はその場にいたわけではない。だが、あの事件がどれ程凄惨なものだったかは伝え聞いている。そして、そこにいたクローディアにとって、それがどれ程重い記憶となっているかを知っている。
「しかし、だからこそ単身で敵地に赴くなどおやめください。お嬢様の力を疑ったことはありません。ですが、もしお嬢様の身に何かあれば、我々は相手が旭花であろうとも躊躇うことなく戦う覚悟なのです。軽挙妄動は慎んでください」
エルヴィスの言わんとすることもわかる。彼女の行為が、導火線に火を点けてしまうリスクは常に存在する。
だが、だからといって、相手のことを知らず、ただ敵愾心を募らせることがよいともクローディアには思えなかった。相手のことを知らなければまた同じことの繰り返しになる。時にはリスクを承知した上で、動かなくてはならない。
しかし、それはホワイトベルの総意ではないこともクローディアは理解していた。下手に思っていることを口に出せば、今後、自身の動きがかなり制限されることも考えられる。故にクローディアはそれ以上の言葉は敢えて口にしなかった。
「それについてまたの機会を設けましょう。とりあえず今日はガーダム地区へ向かいます」
露骨な話題逸らしにエルヴィスは溜息を吐いた。
「例の孤児院ですか。かしこまりました、手筈を整えておきます」
「頼みましたよ」
そうこうしている内に二人は浴室の前まで到着する。
クローディアが扉を開けて、ふと思い出したようにエルヴィスの方を向いた。
「エルヴィス、心配をしてくれたことは嬉しく思っていますよ。ありがとう」
そう微笑んで彼女は浴室の中へ消えて行った。再びエルヴィスは大きな溜息を吐いた。
◇
孤児院はガーダム地区の端の、少し住宅街から外れた場所にひっそりと建っていた。少し老朽化はしているが、よく手入れが行き届いている。常ならば、敷地の外からでも子どもたちの声が聞こえる、活気に満ちた場所であったが、今は不気味なほどに静かだった。
孤児院の院長は矍鑠とした男性だった。この孤児院は元々ホワイトベルがこの地に来る前から運営されている施設だったが、当時は資金難で閉鎖寸前だったところを、ホワイトベルの出資によって持ち直したという経緯があった。それもあって、クローディアがエルヴィスと他三名の構成員を連れて孤児院を訪れると、院長は彼女たちを非常に歓迎してくれた。しかし、その表情は決して明るいものではない。
「院長、もう一度お話を聞かせてもらえますか?」
「ええ、お役に立てるかはわかりませんが」
院長はそう前置きをして話し始めた。
「事件に気がついたのは早朝です。朝の鐘が鳴り、起きてくるはずの子どもたちの姿がない。不思議に思った職員が部屋の中の様子を確認すると、すでにもぬけの殻になっていました」
「最後に子どもたちを見たのは?」
「前日の就寝時には皆いました。毎夜、点呼を行っていますので、間違いないと思います」
誘拐されたのは、就寝後の深夜から早朝にかけての時間帯ということになる。
「何か変わったことはありませんでしたか?」
「以前、ホワイトベルの方にお話しした内容と同じもので恐縮ですが、特段変わったことはありませんでした」
「夜間に物音などは?」
「我々も就寝中でしたので、確かなことは言えませんが、しなかったと思います」
「そうですか。では、現場を改めさせていただいてもよろしいですか?」
「ええ、構いません」
クローディアたちは現場に移動する。各部屋は相部屋になっており、二段ベッドが二つの四人部屋のようだった。
「ホワイトベルの方に言われ、現場の状況はそのままにしてあります」
少し空気が埃っぽい。ベッドには子どもたちが眠っていたであろう痕跡がそのまま残っていた。それ以外の部屋の様子は綺麗なものだ。争った形跡はまるでない。他の部屋も同様で、誘拐の経路を特定できる情報はなかった。
それも当然だ。すでにこの場所はホワイトベルの構成員たちが調べた後であり、そのような痕跡が残っていたのであれば、当に事態は進展を見せていただろう。
クローディアたちは、孤児院を後にする。
「特に成果はありませんでしたね、お嬢様」
院内を隈なく捜索したが、見落としは発見できなかった。
「ええ、事件があった日、院の人間が朝起きたときには、すでに孤児たちは姿を消していた。争ったような痕跡はなく、周囲からも目撃証言はない。目撃証言については、人気のない深夜ないしは、早朝に攫われた故だとしても、孤児院には三十人弱の子どもたちがいました。争った痕跡を残すこともなく、院長や職員に気づかれることもなく誘拐されたとは俄かには信じがたいのですが……」
クローディアは足を前に進めながら、口元に手を当てて考え込む。
「お疲れ様であります、ホワイトベル様」
そんな彼女に話しかける声があった。クローディアが顔を上げると、真っすぐ背筋を伸ばして立つ軽鎧姿の男がいた。角ばった顔の、如何にも実直そうな雰囲気の男である。その後ろには同じ装いの人間が二人。
「あなたは確か憲兵隊長の……」
「コルマク・イスハークであります」
彼は見た目に違わぬ堅苦しさを感じる口調で名乗った。
「調査に来られたのですか?」
「申し訳ありませんが、部外者に職務内容についてはお話できないのであります」
にべもない返答だ。一市民に捜査情報をペラペラと教える憲兵はいない。クローディアもその返答は当然のことだと思っていたので、特にそれ以上何かを言うことはなかった。
「では、我々は失礼するのであります」
「ええ、お疲れ様です」
コルマクは頭を下げて、孤児院の中へと向かった。背後にいた彼の部下たちは、クローディアたちを一瞥することもなく、彼に付いて行く。
「なんと無礼な!」
ファミリーの構成員たちが憲兵隊の態度に憤慨する。
「致し方ないことですが、すっかり嫌われてしまっているようですね」
ホワイトベルは直截にいえば、武力にモノを言わせて我が物顔で都市を闊歩する外国勢力だ。都市の治安維持を司る憲兵たちにとって、面白い存在であるはずがない。
特にコルマク・イスハークは、過去にホワイトベルの縄張りでの憲兵隊の動きに、苦情を申し入れた議員に対しても、最後まで強く抵抗したという話をクローディアは聞いたことがあった。
「……今、憲兵隊長たちが来たのはこちらの道でしたね」
そう言って、クローディアはコルマクたちやってきた方をじっと見て黙り込む。
孤児院の前はT字路になっており、孤児院は二つの直線の接点の所に位置している。彼らがやってきたのは、孤児院を出て正面の道だった。
「お嬢様?」
エルヴィスが様子の変わったクローディアに気づく。
「少し気になることがあります」
「気になること?」
「ええ、彼らは一体どこから来たのでしょうか」
頭にこの近辺の地図を思い描く。仮説はある。それは確信に近いものだった。
「彼らに聞いてきますか?」
「いえ、あの様子では変に拗れる可能性もあります。それに、現場検証は必要ですから」
クローディアはそう言って、東に向かう正面の道を進んでいく。道中緩やかなカーブに差しかかる。小さな横道を無視して、街灯が立ち並ぶ道を直進する。段々と道が狭くなっていく。そして、突き当たった行き止まりを避けて、横道に逸れると、細い路地裏に辿り着いた。
「お嬢様、ここは確か……」
「ええ、黒鉄の若頭が逃げるアイシャを見つけた場所です。彼は誘拐犯に背後から声をかけたと言っていました」
クローディアは周囲の様子を見まわし、来た道を振り返る。
「私たちはここまで可能な限り直線を進んで来ました。街灯の明かりに良く照らされた道です。それらは夜であれば非常にわかりやすい道しるべになるでしょう。つまり、アイシャは私たちが歩いてきた道を移動して、逃げてきた可能性が高い」
目的地があれば別だが、ただひたすらに逃げていた場合、自然に選択しやすい道順ということだ。そして、その道を逆に辿ると、当然その先には孤児院がある。
「たまたまでは?」
「かもしれません」
だが、引っかかることは確かだった。
「おや、お嬢様とエルヴィスではないですか」
そんな彼女たちに声がかかる。顔を上げると、そこには落ち着いた雰囲気の、栗色の髪の男が立っていた。白い修道服に身を包み、その首元から光輝竜アルルトゥルーシュを信仰する星光教会のシンボルである、丸い星の中心に十字を象った意匠の“星十字”が見える。
エルヴィスが彼の姿を見て、訝しげに眉を顰めた。
「モロー、貴様がなぜここに?」
男の名は、マルセル・モロー。セレステル公国出身の星光教会の修道士だ。異教の地であるカシーヤの教化のため、ホワイトベルの派遣に随行する修道士団の一員であり、所属としてはファミリーの一員ということになる。
とはいえ、彼の目的はこの地の教化であり、普段は近年建立された礼拝堂にて牧師として働いている。その辺の市場でふらっと出会ったならばいざしらず、このような路地裏に彼がいるのは不可解なことだった。
エルヴィスの疑問に、彼は柔らかな笑みを返した。
「ちょっとした調査ですよ」
「調査、失踪事件のか?」
「失踪事件? ……ああ、ガーダム孤児院のですか?」
「違うのか?」
「ええ、私が調査しているのは別件です」
そう言って、少し思案した後、マルセルはおもむろに口を開いた。
「……ここ最近、悪霊騒ぎが起こっているのは知っていますか?」
「知っている。だが、あれは噂話だろう? 悪霊が出たのであれば、事件化していないのはおかしい」
「その通りです。ですが、噂話とはいえ、悪霊と名のついた事件です。教会所属の身としては、確認をする必要があると思ったのですよ」
悪霊は通常の手段で払うことはできない。西方諸国において、
「最低限の確認を、と思ったのですがね」
それは、どこか含みのある物言いだった。
「何かあるのですか?」
クローディアの問いに、マルセルは少し困ったような顔をした。
話すべきか話さざるべきか迷っているといった様子だ。
「……いえ、ちょうどいい機会です。これはお嬢様にもお話しておくべきでしょう」
すぐに思い直したマルセルは話し始めた。
「最初は現場の確認でした。悪霊事件の噂を集め、その現場と思しき場所へと向かい、何もなかったことを確認して終わり。そのはずでした」
「そうはならなかったのですね?」
マルセルは頷く。
「教会の秘匿する魔術の中に、悪霊を探知するものがあります」
「悪霊の探知ですか?」
「ええ、悪霊とは、素竜子の思念に感応する性質から来る現象です。例えるなら、無色の素竜子に人の思念が色をつける、いえ、汚しているという方が表現としては正確かもしれませんが……。ともかく、その汚れを探知する、概ねそのような魔術です。そして、この都市にその魔術に引っかかる場所がいくつかあることがわかりました」
「……もしかして悪霊騒ぎがあった場所と一致しているのですか?」
マルセルが再び頷く。
「とはいえ、それはおかしい。そのポイントは二つです。一つは、各場所が悪霊の発生条件を満たしていないことです」
「ここは竜血の世界最大の採掘量を誇るカシーヤです。空気中の素竜子濃度も他の地よりも遥かに濃い。負の思念についても、人の世であれば、そのようなものはいくらでもあるのでは?」
クローディアの言葉にマルセルは首を横に振る。
「確かに竜血採掘場の地中深くや、その源泉に程近いと目されるアヴェスタ連山であれば条件を満たすでしょう。しかし、都市内部の大気中の素竜子濃度はそれ程ではありません。ここが戦場にでもなり、何百何千の怨念が募れば話は違うかもしれませんが、悪霊を生み出すには市井に溢れる一つ二つの悲劇ではとても足りません」
「……つまり、そもそも起こるはずのない場所に悪霊が発生しているということですね?」
「ええ。しかし、その辺りは調査中でして、今、私が問題にしているのはもう一つの方です」
「もう一つ?」
「悪霊が発生しているならば、その悪霊がどこにいったのか。それがもう一つのポイントです」
「……退治されていないならば、移動したということになりますね」
「ええ、しかし、悪霊は移動しません。あれは土地に根づくものですから、動ける範囲には必ず限りがあります。とすると、考えられる解は一つです」
クローディアは少し考え、その答えを口にする。
「“悪魔”、ですか」
彼女の言葉にマルセルが頷く。
「ええ、人間に取り憑くことで受肉し、高度な思考能力を得て土地という軛から解き放たれた悪霊、“悪魔”が生まれている可能性が高い」
それは星光教会の聖典にも出てくる人類の敵対者。教養として多くの者がその名を知っていても、市井でその姿を見たものはいない。いや、騎士や修道士であっても、それは同様だ。悪魔が出現したという記録は、ここ数百年に渡って存在しない。しかし、それがどのような存在であるか、大まかではあるが、多くの書物により伝わっている。
「……厄介ですね」
そう言うクローディアの声音は静かで淡々としていたが、わずかに緊張感を孕んだものだった。悪霊はあくまで残留する思念に過ぎない。故に自我はないに等しく、思考もまた同様だ。ただただ過去の怨念を再生するだけの現象。
しかし、人間の肉体を得た“悪魔”は、その思考する力を獲得する。
「はい、悪霊は人に害を為し、祓う方法も限られていますが、その被害は限定的です。しかし、悪魔は違います。人間の思考能力と自由を得た悪魔は、その機能によって自らの力を増幅させ、生まれ持った悪意の発散に活用する」
クローディアは目を閉じて、眉をしかめる。
「昔、聖典で読んだ覚えがあります。古代、魔術王ソロンが現代魔術の祖となる原始体系を確立する前までの間、魔術とは悪魔を生み出し、その生み出された悪魔が行う業のことだった、と」
彼女の言葉を補足するようにマルセルが口を開く。
「その力は現代魔術をも凌ぐと推測されています。残っている伝承がそのまま事実ならば、とても制御できるものとは思えませんので、当時の使用方法は相手の陣地に投げ入れる時限式の爆弾のようなものだったのでしょう」
もし実際に悪魔がいるのであれば、そのもたらす被害は計り知れないものとなりうるだろう。
「すぐに対処する必要がありますね。マルセル、調査状況を教えてください」
「はい、まず悪霊騒ぎが起こったのはおよそ三週間前です。そこから各噂の元となった場所を調べて、実際に残滓を確認できた場所をプロットした地図があります」
マルセルは懐から地図を取り出し、クローディアに手渡した。
「数が、多いですね」
「ええ、これだけの悪魔が誕生しているのであれば、由々しき事態ですよ」
クローディアは地図を見てあることに気づく。
「皆ついてきてください」
そして、彼女はそう言って走り出した。その後にマルセルが、慌ててエルヴィスと構成員たちが続く。
エルヴィスが隣に並び口を開く。
「お嬢様、どうされたのですか?」
「マルセルから渡された地図はある地点から広がるように点が打たれていました」「ある地点?」
「そして、騒ぎが発生したのがおよそ三週間前」
「三週間前? まさか……!」
クローディアがエルヴィスに地図を差し出した。それを受け取って開く。
点が広がる、あるいは収束する地点。そこはガーダム孤児院がある場所だった。
◇
再度訪れたガーダム孤児院は静寂を保っていた。
クローディアが呼び鈴を鳴らす。
応答がない。
二度、三度押す。
やはり応答がない。
一度目の訪問時は職員がすぐに出てきて対応してくれたが、今、返ってくるのは反響するベルの音のみだ。
ただ職員が出払っているだけなのかもしれない。憲兵隊はすでに進展なく帰ったのかもしれない。気のせいならばそれでいい。しかし、もしそうでないならば……。
「突入します」
「はっ」
クローディアが心意によって、身体を強化する。
何かがいるのであれば、こちらに注意が向くよう、大きな音を立てて扉を蹴破った。
玄関から長い廊下が伸びている。大きな音が鳴ったにもかかわらず、やはり誰も出てこない。
クローディアが指示を出そうとした瞬間、奥の突き当たりから人影が見えた。
まだ十にも満たない年ごろの少年だった。クローディアはその少年の顔を見て、彼が孤児院から失踪した孤児の一人であると気づく。しかし、見つかった。と安堵することはできなかった。少年の瞳はどこか虚ろで、足取りもおぼつかない。明らかに様子がおかしい。
「マルセル」
クローディアの言葉に頷き、マルセルは悪霊を探知する魔術を発動する。
「
中空に光の環が浮かび上がる。環が弾け、粒子となって霧散する。
「悪魔です」
マルセルがそう言った時だった。
少年の口が裂けるように開く。
その奥底に目が見える。何かがいる。
キヒヒ、キヒ、キヒヒヒヒヒヒ。笑っている。
少年の口からコールタールのような汚泥が溢れ出し、その体を覆う。
全身は黒く塗りつぶされ、背中からは黒い粒子が細くたなびき、それは翼と尻尾のようにも見えた。
つるりとした顔に、ぎょろりと目が生える。金色の瞳。中心には山羊のような横長の黒い瞳孔。
悪魔が砲弾のように飛び出し、クローディアたちに襲いかかる。
「
エルヴィスは即座に前に出て、自らの力を解放した。風の衣が彼の身を包み、攻防一体の武器となる。
抜き放った風を纏う剣と、黒い刃に変形した悪魔の手が激突する。
「な、なんだこの力は!」
子どものものとは思えぬ尋常ならざる膂力。その異常を危険と判断した、エルヴィスは一切の加減なく、剣を振り払った。次いで吹き荒れる暴風が収束し、悪魔の身を穿つ。
吹き飛ばされた悪魔の胴に風穴が開く。
キヒ、キヒ、キヒヒ。
悪魔は傷を物ともせず、不気味にケタケタ笑っている。そして、瞬く間に傷口から肉が盛り上がり、螺旋を描くように塞がっていく。
「
クローディアが魔術を発動する。
光の帯が鎖の形を描き、悪魔の方へ殺到し、その体を拘束する。
「マルセル、あれはどういうことですか?」
「悪魔が有する再生能力です。例えどれほどの重傷であれ、瞬時に再生する。悪魔祓いの口伝ではそう伝わっていますが、これ程とは驚きました」
その声音には感嘆と畏怖が入り交じっている。
「しかも、あれは悪魔の中でも最も等級が低い存在です。出来損ないに近い。依代の肉体が未成熟な子どもなのが理由でしょう」
「なっ! あれがか!?」
エルヴィスは驚愕する。
眼前の悪魔はそこらの兵士をも凌駕する戦闘能力を有していた。大型の獣相手でも余裕をもって拘束できる程の強度を有する光帯縛鎖だが、悪魔がもがく力ですでに罅が入り始めている。
このような怪物がマルセルが地図に打った点の数だけ存在するとすれば、あるいはより上位の悪魔が存在するのであれば、迅速な対処が必要だった。決して外に出すわけにはいかない。
「対処法はありますか?」
「悪魔を正面から滅するのであれば、一撃で全ての細胞を破壊する必要があります。オススメは燃やすことですね。逆に凍結はダメです。動きは止められますが、細胞が壊死するスピードより再生の方が速い」
クローディアは奥歯を噛み締めた。一撃で消し飛ばす。その術がないわけではない。しかし、その方法で滅してしまえば、取り憑かれている子どもは見殺しになる。
「エクソシズムでは対処できないのですか?」
覚悟はある。だが、その覚悟を示すのは、他の選択肢を全て検討してからだ。
「無論できますよ」
そして、マルセルは肩透かしなほどにあっさりとそう言った。
「要領は悪霊退治と同じです。悪魔の中にあるその力を浄化すれば、取り憑かれた人物も救うことができるでしょう」
「なら、そっちを先に言え!」
エルヴィスが思わず抗議の声を上げる。クローディアも呆れ顔だ。その様子にマルセルはくつくつと笑った。
「ははは、失礼しました。ではお二人とも下がっていてください」
マルセルはもがく悪魔の前に立つ。
十字を切る。十字は光輝竜信仰において最もポピュラーなシンボルである。
「光の御名のもと、私は汝に問う」
聖句を告げる。光輝竜に捧げる祝詞。その完全詠唱。
「澄み渡る星の傷 清廉なる光の水 善と悪 内と外 清浄と汚濁 境界を分かつ線を引く」
それは力の制御を助け、より高い出力の魔術行使を可能にする。
「――
迸る光が悪魔を包み込む。
「キヒッ!?」
悪魔から笑みが消え、もがき苦しみ始めた。ペリペリと黒い外皮が白く変色し、変色した部位から消えていく。
やがて悪魔の殻が剥がれ、元の少年の姿が露わになった。少年は気を失っており、そのまま地面に倒れ込む。マルセルはそれを抱き止め、呼吸を確認した。
「生きています。念のため完全詠唱を行いましたが、
「……知らなかったのですか?」
「何分、初めて見るものですから」
「成程、理論と実践は別ということですね」
クローディアは、対処法が確立できたことに、ホッと胸を撫でおろす。
「お嬢様、失踪した子どもが悪魔の姿となっていたということは……」
「やはり孤児の失踪と悪霊事件には関連性があったようですね」
であれば、アイシャの件も何か関わりがあるのだろうか。
いや、今は思考している時間ではない。
「皆、散開して内部を探索してください。何かあれば音で知らせるように。悪魔の相手はマルセルに任せ、遭遇した際は防御に専念してください」
「はっ!」
エルヴィスとファミリーの構成員たちが内部の探索を開始する。クローディアとマルセルがその場に残された。
「お嬢様、私は一旦こちらで待機します」
「ええ、お願いします」
クローディアは頷いて、自身も探索を開始する。気にかかるのは院長と職員、憲兵隊の行方である。一
直線で院長室へと向かう。院長室があるのは、一階の奥まった場所だ。
部屋の近くに来ると、かすかに争うような物音が聞こえてくる。速度をさらに上げる。
扉を開けると、まず目に飛び込んできたのは鮮血だった。
来客用の革張りのソファに倒れ込む、軽鎧姿の男が一人。その瞳孔は開き切っており、すでに絶命していることが一目でわかった。そして、その死体の先には悪魔と、その腕に腹を貫かれた別の男の姿があった。
それを見たクローディアの判断は早かった。悪魔がこちらを認識するまで間もなく接近し、その腕を切断し、流れるように壁際に蹴り飛ばす。悪魔が壁に叩きつけられた衝撃で、近くの窓ガラスが大きな音を立てて割れた。
「
さらに魔術によって悪魔を拘束する。
そして、ポケットから出した緊急用のホイッスルを吹いた。ピィーッという音が院内に響き渡る。
倒れ伏す男の様子を見る。心臓を貫くように腕が突き刺さっており、口元から多量の血が零れている。そして、その拍動は完全に停止していた。
殺された男たちは二人とも、孤児院の前ですれ違った憲兵隊の者たちだった。
「……憲兵隊長はどこに?」
クローディアは周囲を見渡し、奥の壁に倒れ込むコルマク・イスハークの姿を認めた。見た感じ、頭部から出血はしているが、それ以外に目立った外傷は見られない。
「ち、ぃ、か」
コルマクは、引き絞るような声と共に、震える指先で一点を差して、そのまま意識を失い俯いた。
クローディアは彼の近くに駆け寄り、脈を確認する。
「気絶しているだけのようですね」
そう胸を撫で下ろす。彼女は羽織っているジャケットのボタンを外し、Yシャツの裾辺りを引き裂いた。それで出血部を縛りつけ、簡単に止血をする。患部はそのままの状態で心臓より高い位置にある。下手に寝かせるより、このままの姿勢の方がいいだろうと判断した。
残念ながら、クローディアは治癒魔術を不得手としている。得意なのは攻性魔術で、拘束等は使えないこともないが、治癒となると、全く扱えない。後は治癒魔術を得意とするマルセルの到着を待つしかなかった。
その間、クローディアは彼が指差していた先を確認することにした。そこには院長が使っているデスクがあったが、どこか違和感がある。その原因にはすぐに思い至った。一度目の訪問時に見たときと、デスクの位置が少し変わっているのだ。近くへ寄ると、デスクが元あった場所の床に、地下に続く階段があった。
クローディアが階下の様子を探っている間に、悪魔が拘束を引き千切る。鎖は光で出来たものであったため、音は出なかった。悪魔が静かに、その指先を刃のように、鋭く伸ばした。獰猛に、嘲るような笑み。そして、背を向けたクローディア目がけて、その殺意を振り下ろす。
「お嬢様!」
駆けつけてきたエルヴィスが大きな声を上げる。
クローディアが背後を振り向く。眼前に鋭い爪が迫っていた。彼女はそれに対して眉一つ動かさず、その腕をするりと絡め取り、そのまま捻り上げ、地面に叩きつける。
「キヒッ!?」
再度、クローディアは
「お嬢様、ご無事ですか?」
エルヴィスが駆け寄ってくる。遅れてマルセルや他の構成員たちも到着する。
「問題ありません。マルセル、彼を」
クローディアが視線を向けた先を見たマルセルが、真剣な表情で頷き、コルマクに駆け寄って、治癒魔術を施す。クローディアはそちらはマルセルに任せて問題ないと判断し、ファミリーの構成員たちに指示を飛ばす。
「ブラッド、教会に行って援軍を呼んできてください」
「ネイサン、孤児院から悪魔が出ないように見張りをお願いします」
「デリック、この部屋の出入り口の見張りを。何かあれば即座に知らせるように」
命じられた三人が指示に従って行動を開始する。
エルヴィスがクローディアの傍に寄り、地下への階段の存在に気づく。
「悪魔はここから?」
「ええ、おそらく。子どもたちが消えた先も同様でしょう」
謎の一つであった目撃者の不在は、何のことはない、そもそも外に連れ出していないから、ということだろう。
「院長たちの姿が見えませんね、もしや……」
「……確かに、彼らが犯人であれば、痕跡が残っていないことにも説明がつきますね」
就寝中の子どもたちを起こし、ただここに連れてくればいい。孤児院全体がグルだったのであれば、証言についても問題は起こらない。
しかし、疑問は残る。なぜここまで派手な行動を起こしたのか。
この地下の仕掛けを知らなければ、真相に気づくまでかなり時間はかかっただろう。だが、クローディアたちが孤児院に何かあると感づいたように、三十人弱もの孤児の失踪という大きな事件となってしまった以上は、多くの捜査の手が入り、知られてしまう可能性は高まる。
全く気づかれたくなかったのであれば、事件の規模を抑え、少しずつ気づかれないように消していくべきだ。それこそ独り立ちして、都市を出たということにしてしまえば、事件が表面化することすらなかったはずだ。ではなぜそうしなかったのか。
「気づかれても構わないと思っていた?」
クローディアが周囲に聞こえないぐらいの小さな声で呟いた。
少しして、援軍が到着する。スーツに身を包んだ戦闘員が十人、修道士が五人だ。マルセルは、一通りの処置を終えたコルマクを修道士の一人に預け、そのまま悪魔の浄化を行った。
悪魔の浄化が完了したのを確認し、クローディアは魔術を発動する。
「
空中に発光する球体が出現する。その光が地下へ続く階段を照らす。
「地下へ突入します。私に続いてください」
構成員たちを率いて、クローディアが地下の階段を下っていく。程なくして、長い廊下に辿り着き、そこを進むと大きな空間に出た。
「ここは……」
クローディアの呟きが壁に反響する。
石造りの壁に囲まれたその部屋には薬品の匂いが漂っていた。置かれた棚には薬品の瓶が並び、テーブルの上には資料が散らばっている。何かの研究室のような部屋だった。
「お嬢様!」
その大部屋から繋がる通路の奥から悪魔が次々と姿を現す。
「子どもたちは皆、悪魔にされていた、というわけですか」
予想はしていたことだ。しかし、眼前にある現実にクローディアは嚇怒を抱いた。
「防御陣形! 迅速に全員を救います!」