本作は2030年設定ですが、いわゆる未来兵器が登場するような作品ではありません。
現在の延長線上にある装備・技術を前提に描いています。
2030年8月8日 午前6時38分
東京都新宿区・防衛省
「もう一段、寄せて」
統合幕僚監部情報部の二等海佐、佐伯直哉が言った。正面の大型ディスプレイに映し出された福建省沿岸の衛星画像が拡大される。
厦門の北東、およそ六十キロ。大型クレーンが並ぶ民間港湾で、コンテナヤードの向こうにRO-RO船が二隻停泊していた。画像の右上には撮影日時が表示されている。
2030年8月8日、午前4時27分。
「昨日は?」
若い分析官が端末を操作すると、画面が左右に分割された。左が昨日、右が今朝だった。
「RO-RO船が一隻増えています」
「船籍は」
「中国。華東海運所属の『海興8』。通常は寧波、厦門、広州方面の定期航路です」
「軍との契約歴」
「確認します」
分析官の指がキーボードを走る。数秒後、過去の記録が画面に表示された。
「昨年の東部戦区演習で車両輸送実績あり。ただし平時の民間輸送契約も多数です」
佐伯は椅子に深く座った。
「つまり、何も分からないと」
「はい」
後方から声がした。
「それが一番正確ですね」
情報班長の一佐が紙コップを片手に入ってくる。
佐伯が画面を切り替えると、台湾海峡周辺の海軍配置推定図が表示され、赤い艦艇記号が福建、浙江の沿岸から南へ並んでいた。
「現時点で確認できる中国海軍艦艇は三十四隻。去年の同時期は二十九隻でした」
一佐が眉を上げる。
「二割増しか」
「そこまではいきません。十七パーセント程度です」
「十分多いだろ」
若い分析官が別画面を出した。
「052D型駆逐艦六、055型二、054B型フリゲート五。空母『福建』は昨日、母港を出ています」
「山東は?」
「南シナ海です。今回の演習に参加するかは不明」
佐伯が聞いた。
「揚陸艦」
「075型二隻、071型三隻。その他中小型揚陸艦を含めても、侵攻作戦としては少ないです」
「陸軍は」
「東部戦区陸軍の複数旅団が演習態勢。ただし大規模な前進集結は確認されていません」
一佐が腕を組んだ。
「空は派手。海も派手。でも陸が足りない」
「はい」
「いつものやつだな」
誰も反論しなかった。
来週から、中国人民解放軍は台湾周辺で七日間の大規模統合演習を実施すると発表している。演習名はまだ公表されていない。参加部隊は海軍、空軍、ロケット軍、陸軍航空部隊、海警局。台湾北部、南西部、東部海域に複数の演習区域が設定されるとみられていた。
そして毎年のように、その規模は拡大していた。
「航空戦力は?」
佐伯が尋ねる。
「福建、江西方面への前進展開を含め、J-20が推定二十四、J-16が四十前後。H-6Kも通常より多いです」
「KJ-500」
「確認済み四機。給油機も二機増えています」
「かなり豪華だな」
一佐が苦笑した。
「台湾側には十分プレッシャーになる」
佐伯は別の資料を開く。
「ただ、侵攻するなら足りません」
「何が」
若い分析官が聞いた。
佐伯は台湾海峡の地図を指す。
「輸送だよ」
百数十キロの海は、地図上では短い。だが数万人の兵士と戦車、装甲車、弾薬、燃料を運ぶには、地図の距離など意味を持たない。
「島を取るのに必要なのは、J-20じゃない」
「揚陸艦ですか」
「揚陸艦だけでもない。民間船、補給船、燃料、弾薬、病院、整備部隊。その全部だ」
佐伯は画像を中国沿岸の主要港へ切り替えた。
「大規模な民間船徴用なし。港湾閉鎖なし。鉄道輸送の異常増加なし。野戦病院の展開も確認できない」
一佐が頷いた。
「これでは侵攻は成り立たない」
「現時点では」
佐伯は強調した。
一佐が笑う。
「慎重だな」
「仕事なので」
「で、評価は?」
若い分析官が入力欄を開く。
佐伯は数秒考えた。
「大規模演習準備。参加兵力は前年を上回る可能性。ただし、台湾本島への侵攻を示す決定的兆候は確認されず」
分析官が打ち込む。
「継続監視?」
「もちろん」
一佐が紙コップのコーヒーを飲んだ。
「毎年書いてるな、それ」
「毎年何も起きないのが一番です」
佐伯は言った。
その時点では、本気でそう思っていた。
午前7時12分
台湾・新北市
「また?」
陳怡君はフライパンから目を離さずに言った。テレビでは台湾周辺の地図が表示され、赤く塗られた海域の上に中国軍演習を示す字幕が出ている。
**人民解放軍、来週から台湾周辺で大規模軍事演習。**
寝室から弟の俊偉が出てきた。
「何が?」
「中国」
「また?」
「私も今そう言った」
俊偉は冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。二十二歳。大学四年生で、昨年、義務役を終えたばかりだった。
「今年は空母も来るって」
怡君が言う。
「去年も来なかった?」
「知らない」
「姉ちゃんニュース見てる意味ないじゃん」
「朝だからつけてるだけ」
テレビの中では退役軍人らしい評論家が、中国軍の演習区域について説明していた。台湾北方、台湾海峡、南西海域、そして東側。地図上では台湾を包囲するような形になっている。
「台湾を包囲する形です」
俊偉がトーストをかじる。
「毎回包囲されてるな」
「包囲されすぎて慣れた」
「来週会社休みにならない?」
「なるわけないでしょ」
「戦争になればなる」
怡君が弟を見る。
「それなら会社どころじゃない」
「まあ、ならないけど」
軽い調子だった。本当に戦争になると思っている人間の声ではない。
ここ数年、中国軍は何度も台湾周辺で大規模演習を実施していた。軍用機が防空識別圏へ入り、軍艦が台湾を取り囲み、ミサイル部隊が展開し、台湾軍が緊急発進する。テレビでは専門家が「過去最大」と言う。
そして何日かすると、中国軍は帰っていった。
「母さんから昨日LINE来た」
俊偉が言う。
「何て?」
「水買っとけって」
「また?」
「十ケースくらい買えって」
怡君が笑った。
「置くところないよ」
「母さん、毎回中国軍が来るたび備蓄増やすから」
「去年の水まだあるでしょ」
「賞味期限切れてない?」
「災害用なんだから大丈夫じゃない?」
テレビでは台湾国防部報道官が会見していた。
国軍は中国軍の動向を完全に掌握している。必要な警戒措置を取る。
怡君はテレビを消した。
「ほら。大丈夫だって」
俊偉が笑う。
「政府が『ヤバいです』って会見するわけないじゃん」
「遅れるよ」
「話そらした」
二人はいつも通り家を出た。
午前9時07分
ハワイ・キャンプ・H・M・スミス
米インド太平洋軍司令部
「我々の評価に変更はありません」
情報参謀がスライドを進めると、中国沿岸部の軍事配置が表示された。
「演習参加部隊は昨年より約十五パーセント増加する可能性があります」
インド太平洋軍司令官が尋ねた。
「侵攻部隊として成立しているか?」
「いいえ。現状では成立していません」
次のスライドには、揚陸戦力、民間海運、燃料集積、医療部隊の状況が並んでいた。
「大型揚陸艦の数は台湾侵攻には不十分。民間RO-RO船の大規模徴用も確認されていません」
「空母は出すのに?」
「政治的シグナルとしては十分です」
「台湾側はどう見ている」
「我々とほぼ同じです。大規模演習と評価しています」
司令官が椅子にもたれた。
「侵攻の可能性は?」
情報参謀が少し考える。
「現時点で台湾本島への軍事侵攻、十から十五パーセント程度と見ています」
「高くないな」
「低くもありません」
会議室の後ろに座っていた若い情報将校が資料を見直していた。
一ページ、二ページとめくった後、手を上げる。
「司令官、一点よろしいでしょうか」
司令官が見る。
「言ってくれ」
「東部戦区の後方通信量について一点」
画面にグラフが表示された。
「ここ四十八時間で、平時平均より十二パーセント増えています」
「演習準備なら普通じゃないのか」
「その可能性が最も高いです。ただ、増加しているのが戦闘部隊より後方支援系統です」
情報参謀が聞いた。
「燃料? 輸送?」
「輸送、医療、通信支援。一部は民間回線です」
「量は」
「まだ異常と言えるほどではありません」
司令官がグラフを見る。
「記録しておけ」
「はい」
「警戒態勢を変える理由にはならない」
「同意します」
会議は次の議題へ移った。南シナ海、北朝鮮、ロシア極東軍。
中国軍の十二パーセントは、そこで一度忘れられた。
午前11時53分
神奈川県横須賀市
海上自衛隊護衛艦「まや」
食堂のテレビでは、中国軍演習について報道していた。
『中国海軍の空母「福建」も参加する可能性があり、過去最大規模の演習となる見通しです』
「また過去最大だって」
三等海曹が箸を止める。
向かいの一等海曹が笑った。
「去年も聞いたな」
「一昨年もです」
「ボジョレー・ヌーヴォーかよ」
周囲から笑いが起きた。
「今年は空母入りですよ」
「空母なんて毎年出してくるようになるんじゃないか」
「迷惑な話ですね」
テレビの映像が「福建」の甲板へ変わった。J-35らしき艦載機の映像が流れる。
艦長の一等海佐、村瀬健一は少し離れた席で昼食を取っていた。そこへ副長が隣に座る。
「来週、少し忙しくなりそうですね」
村瀬がテレビを見る。
「警戒監視か」
「たぶん」
「予定通り訓練できるかな」
「海幕次第ですね」
村瀬は味噌汁を飲んだ。
「家内にまた予定変わるって怒られるな」
「艦長でも怒られるんですね」
「艦長だから家で偉いと思うなよ」
副長が笑った。
その時、艦内放送が流れ、午後の訓練準備が告げられる。乗員が次々と席を立ち、食堂のテレビも消された。
十七日後、この艦が一隻の民間商船を守るため、中国海軍と数キロの距離で向かい合うことになるとは、誰も知らなかった。
午後1時26分
中国・福建省
大型物流倉庫
外壁には中国の民間物流企業の社名が掲げられていた。内部には大型トラックが並んでいるが、軍服を着た人間はいない。
男が腕時計を見る。
「次の通過は?」
隣の男がタブレットを確認した。
「十三時四十一分」
「時間は」
「十五分」
倉庫奥のシャッターが開き、緑色の大型車両が一台出てきた。その後ろに二台、さらに三台と続く。
ナンバープレートは民間用で、車体には灰色のカバーが掛けられている。
「予定通り分散」
「一度に五台以上は出すな」
「了解」
「高速道路は使うな」
「はい」
一台目が倉庫を出る。
男は空を見上げた。青空で、雲は少ない。
「十二分後だ」
車列がそれぞれ別の方向へ走り去った。
何を運んでいるのか、誰も口にはしなかった。
午後4時08分
東京都千代田区・首相官邸
「次、中国です」
国家安全保障局参事官の黒田慎吾が資料を開いた。
定例の安全保障情勢報告で、出席者の表情に目立った緊張感はない。
「人民解放軍は来週から台湾周辺で七日間の大規模演習を実施する見込みです」
官房副長官が聞く。
「去年より大きい?」
「現状では十五から二十パーセント程度の増加を見込んでいます」
「侵攻の兆候は」
「防衛省は低いと評価しています。米側もほぼ同様です」
「理由は」
「上陸に必要な揚陸・補給能力が確認できないためです」
黒田は一枚めくった。
「ただし空母『福建』、J-20、ロケット軍の参加が予想されます。台湾への威圧効果は大きいでしょう」
「日本への直接影響は?」
「南西方面で警戒監視を強化しますが、現段階では通常の対応範囲です」
官房副長官が頷いた。
「分かった。総理には夕方のブリーフィングで」
「はい」
「次」
中国軍演習についての議論は、九分で終わった。
次の議題はペルシャ湾だった。
午後6時17分
台北市
「今年は七日間だって」
同僚の佳琪がスマートフォンを見せる。
怡君はストローでアイスティーを飲んだ。会社帰り、三人で小さな飲食店に入っていた。テレビでは野球中継が流れ、ニュースは音声なしで画面下に表示されている。
「長いね」
「母親がまた水買えって」
「うちも」
別の同僚が笑う。
「台湾の母親って全員同じなの?」
怡君が言う。
「中国軍より母親のLINEの方が怖い」
三人が笑った。
「でも今年は大きいらしいよ」
佳琪が言う。
「毎年大きくなってるじゃん」
「本当に来たらどうする?」
一瞬だけ、会話が止まった。
怡君は店の外を見る。
スクーターが走り、バスが停まり、制服姿の高校生が歩いている。その向こうでは老人が犬を散歩させていた。
「その時考える」
「またそれ?」
「考えたって来る時は来るでしょ」
「強い」
「違う。面倒なだけ」
テレビでホームランが出た。
店内から歓声が上がる。
演習のニュースは画面の下へ消えた。
午後10時56分
東京都新宿区・防衛省
佐伯は帰宅前に最後の画像を確認していた。
福建省。朝見た民間港ではRO-RO船が二隻のまま停泊しており、その北側に小型貨物船が一隻増えている。
「問題なし……」
独り言を口にしたところで、別の通知が表示された。
浙江省の軍用飛行場。
燃料輸送車両、前週平均比十八パーセント増。
佐伯は過去データを開く。
前年の演習前は十四パーセント増。前々年は十六パーセント増。
「まあ、そうだよな」
演習で航空機を大量に飛ばす。燃料が必要になる。当然だった。
入力欄に書き込む。
**「演習準備に伴う活動増加と推定。」**
保存。
端末を閉じようとした時、もう一件の通知が入った。
福建省内陸部で軍用通信トラフィック増加。
佐伯は数秒だけ眺める。
十二パーセント。
朝、米側も気にしていた数字だった。
「……」
電話を取るほどではない。
警報を上げるほどでもない。
翌朝また確認すればいい。
佐伯は端末を閉じ、照明を消した。
午後11時43分
中国・福建省
昼間の物流倉庫で、再びシャッターが開いた。
大型車両が二台入り、三分後にはもう一台が続いた。倉庫の中では作業員が無言で誘導しており、その奥には大型コンテナがいくつも並んでいる。
一つのコンテナには、民間物流会社の識別番号が記されていた。
その内側には、黒いステンシルで小さく数字が書かれている。
男が腕時計を見る。
「次の衛星は?」
「零時二十四分」
「四十一分か」
「はい」
「十分だ」
倉庫の照明が一部消された。
外から見れば、夜間作業を行う普通の物流施設にしか見えない。
この日、日本、米国、台湾の情報機関は、中国軍の動きをほぼ正確に観測していた。
艦艇も、航空機も、燃料も、通信も、民間船も見落としてはいなかった。それぞれについて合理的な説明もできた。
ただ、それらすべてを一つの作戦として結びつける理由が、まだなかった。
**演習開始まで、7日。**
完結まで執筆済みで、順次投稿予定です。
基本は毎日更新、土日は少し多めに投稿する予定です。