2030年8月17日 午前6時37分
中国・福建省沿岸
海面は穏やかだった。
沿岸から数十キロ。
民間塗装の大型RO-RO船が、低いエンジン音を響かせながらゆっくりと演習海域へ向かっている。
船体の塗装だけを見れば、どこにでもいる民間貨物船だった。
だが甲板には軍用トラック、コンテナ、燃料車が並んでいる。
車体は整然と固定され、乗員の一部には民間作業員とは明らかに違う服装の者も混じっていた。
その後方を海軍艦艇が同じ方向へ進んでいる。
船橋で船長が双眼鏡を下ろした。
「本当にここまで行くのか」
隣にいた航海士が計画書を見る。
「指定位置までです」
「去年より沖だな」
「今年は演習区域が広いそうです」
船長は前方の海面を見た。
水平線の近くに、灰色の艦影が小さく見えている。
「帰港は?」
「夕方予定」
船長が横を見る。
「予定?」
航海士が笑った。
「船長、最近その言葉嫌いですね」
「軍の仕事が絡むと嫌いになる」
「私は元から嫌いです」
「船乗り失格だな」
「船長に言われたくないです」
2人とも少し笑った。
RO-RO船は一定の速力を保ったまま沖へ進んでいく。
「終わったら酒でも飲むか」
船長が言った。
「いいですね」
「あと何日だ」
航海士が予定表を確認する。
「終了予定は22日の正午ですから、あと5日です」
船長が嫌そうな顔をした。
「長いな」
「昨日始まったばかりです」
「だから長いんだよ」
航海士が笑う。
遠くで海軍艦艇がゆっくりと針路を変えた。
船長はその動きを目で追った。
「まあ、終わったら全部元に戻るんだろ」
「そうでしょうね」
「船も?」
航海士が計画書を見直す。
「今日の分は夕方帰港予定です」
「また予定か」
「今度は信じてください」
船長は鼻で笑った。
「夕方になったら考えるよ」
RO-RO船はそのまま、台湾へ向かう海域のさらに沖へ進んでいった。
午前7時24分
東京都新宿区・防衛省
「民間船出てきました」
若い分析官が言った。
佐伯直哉二等海佐が椅子を寄せる。
画面には複数の船舶航跡が表示されていた。
「何隻?」
「確認できているのは6隻です」
「用途は」
「輸送訓練。RO-RO主体です。軍用車両と補給物資を積んでいます」
「去年は?」
「4隻」
佐伯が少し笑う。
「また少しか」
「はい」
「航空機が少し、艦艇が少し、区域が少し。今日は民間船が少し」
「便利ですね」
「便利すぎるんだよ」
分析官が前年の演習データを表示する。
「民間船を使った輸送訓練自体は去年もやってます」
「今年は2隻多い」
「はい」
「演習区域も広い」
「はい」
「なら自然だな」
分析官が少し頷いた。
「私もそう思います」
返事が早かった。
佐伯はそれに気づいたが、何も言わなかった。
代わりに昨日の画面を開く。
「東側の駆逐艦は?」
「まだいます」
「2隻とも?」
「はい」
「J-16」
「4機とも前方基地のままです」
「何か新しい動きは?」
「ありません」
「予定されていた対海上訓練は?」
「今日から一部始まります」
佐伯が腕を組んだ。
「じゃあ、やっぱりそれだろ」
「ですね」
昨日なら「たぶん」と付けていた。
今日は付かなかった。
分析官がRO-RO船の航跡を拡大する。
「民間船も、昨日までより沖まで出しています」
「演習区域が広いからだろ」
「はい」
「他には?」
「今のところありません」
佐伯は画面を見る。
艦艇2隻。
航空機4機。
民間船6隻。
数だけ見れば、何かを意味するほどのものではない。
それぞれに説明がある。
しかも、その説明はかなり自然だった。
「評価は?」
分析官が聞く。
「変えない」
「ですよね」
佐伯が横を見る。
「最近、答え分かってて聞いてるだろ」
「確認です」
「昨日俺が言ったやつじゃないか」
分析官が笑う。
「便利だったので」
佐伯も少し笑った。
「好きにしろ」
画面では民間RO-RO船が台湾海峡周辺へ進んでいる。
民間船を使った輸送訓練。
去年もあった。
今年は、少し多いだけだった。
午前9時02分
台湾・新北市
怡君は今日も自宅で仕事をしていた。
ノートパソコンの横にはコーヒー。
テーブルの端には、数日前に買った水の箱がまだ置かれている。
俊偉はソファでスマートフォンを見ていた。
「今日も普通だって」
怡君は画面から目を離さない。
「何が」
「演習」
「誰が言ってるの」
「ネット」
怡君が顔を上げた。
「一番信用できないやつ」
俊偉が笑う。
「国防部も似たようなこと言ってる」
「じゃあ大丈夫」
「会社は?」
怡君が社内チャットを見る。
「普通」
「最強だな」
「何が」
「会社」
怡君も少し笑った。
会社のチャットでは、演習関連の話題はほとんど消えていた。
代わりに納期。
会議。
昼食。
週末の予定。
同僚の一人が、午後にどこの店からコーヒーを頼むか聞いている。
俊偉がテレビをつけた。
中国軍の演習映像が流れる。
昨日までとは少し違う映像だった。
大型の民間船。
開いた船尾ランプ。
そこから軍用トラックがゆっくりと降りてくる。
俊偉が画面を見る。
「これ、民間船?」
怡君も少しだけ顔を向けた。
「軍の船じゃないんだ」
「去年もやってたらしい」
「じゃあ普通」
俊偉が笑う。
「最近そればっかりだな」
「誰のせい」
「姉ちゃん」
「私じゃないでしょ」
「何でも会社が普通なら普通って言うじゃん」
怡君が会社のチャットを見る。
「会社が普通なんだから仕方ない」
「会社が戦争判定機になってる」
「便利でしょ」
俊偉はテレビを見る。
民間船から次々と車両が出てくる。
画面だけを切り取れば、かなり物々しい。
だがアナウンサーの声は落ち着いていた。
昨年も類似の訓練が実施されている。
今回の規模は若干拡大している。
現時点で異常な動きは確認されていない。
いつもの言葉が並ぶ。
俊偉がリモコンで音量を下げた。
「もう見ないの?」
怡君が聞く。
「仕事の邪魔でしょ」
「昨日まで自分でつけてたじゃん」
「もう同じような映像ばっかりだし」
怡君は少し笑って、キーボードへ目を戻した。
テレビの中では軍用車両が民間船から降り続けていた。
だがその音は、もうほとんど聞こえなかった。
午前10時31分
台湾・台北市
国防部関連施設
「今日は輸送訓練が中心です」
情報将校が報告した。
上官は大型画面を見る。
RO-RO船。
上陸用舟艇。
海警船。
海軍艦艇。
いずれも公表済みの演習区域内で活動している。
「民間船は?」
「6隻確認」
「去年は4」
「はい」
「増えたな」
「ただし、この規模なら大規模演習として不自然ではありません」
上官が少し笑った。
「その言葉、また普通に使えるようになったな」
情報将校も笑う。
「最近はかなり」
「航空活動は?」
「昨日よりやや減っています」
「海上は?」
「横ばいです」
「ロケット軍」
「目立った変化なし」
上官は椅子にもたれた。
「本当に普通になってきたな」
「はい」
情報将校が少し迷った。
「警戒態勢、下げます?」
上官がすぐに顔を上げる。
「それはまだ早い」
「ですよね」
「でも上げもしない」
「維持?」
「維持」
情報将校が頷く。
「あと5日ですね」
上官が嫌そうな顔をする。
「数えるな」
「みんな同じこと言いますね」
「長く感じるんだよ」
「でも、何も起きなければ」
上官が少し笑った。
「何も起きない5日なら歓迎だ」
情報将校も笑った。
少ししてから、別の表示を開く。
「東側の中国艦艇2隻、まだ元の位置には戻っていません」
上官の表情が少しだけ変わる。
「今日の訓練で使ってるんだろ?」
「その可能性が高いです」
「航空機は?」
「前方基地に移った4機もそのまま」
「それも?」
「同じです。東側での訓練を考えれば自然です」
上官が頷く。
「なら、それでいい」
情報将校は画面を見る。
「記録は残します」
「当然だ」
「気になります?」
上官は少し考えた。
「気になる」
「でも評価は変えない」
「気になることと、意味があることは別だ」
「なるほど」
「意味が出てから慌てるのも困るけどな」
情報将校が苦笑する。
「難しいですね」
「だから給料もらってる」
「高くないですけど」
上官が笑った。
「そこは俺に言うな」
会議室に小さな笑いが起きた。
午後0時44分
ハワイ・キャンプ・H・M・スミス
米インド太平洋軍司令部
「3日目も評価変更なしです」
情報参謀が言った。
司令官が資料を見る。
「30のまま」
「はい」
「下げる議論は?」
「一部あります」
若い情報将校が口を開く。
「私はまだ維持を推します」
司令官が笑う。
「頑固だな」
「病院の件があります」
「まだ言うか」
「忘れろと言われるまで言います」
情報参謀が少し笑った。
「物流も正常化しています」
若い将校が頷く。
「それも分かっています」
司令官は画面を見る。
「演習そのものは?」
「想定内です。今日は民間輸送船を使った兵站訓練が中心」
「去年も?」
「ありました」
「規模は」
「少し大きい程度です」
司令官が笑った。
「日米台でその言葉が流行ってるな」
情報参謀も笑う。
「便利ですから」
「便利な言葉は危ないぞ」
若い将校が言った。
司令官が横を見る。
「君が言うのか」
「最近思い始めました」
司令官は台湾周辺の地図を見る。
「このままなら、明日あたり30を下げてもいいかもしれない」
若い将校が少し黙った。
「反対?」
「まだ」
「理由」
「戻ってない部隊があります」
司令官が顔を上げる。
「どれ」
「台湾東方の水上艦2隻。航空機4機。演習初日の配置から戻っていません」
情報参謀が補足する。
「次の訓練準備と見ています」
若い将校が頷いた。
「私もそう思います」
司令官が眉を上げる。
「じゃあ何が問題だ」
若い将校が少し困ったように笑う。
「問題ではないんです」
「それは困るな」
「ただ、記録しておきたい」
「理由があるから?」
「はい」
「何の?」
若い将校は画面を見た。
「戻っていないからです」
司令官はしばらく彼を見る。
「それだけ?」
「それだけです」
「少し弱いな」
「分かっています」
「でも気になる」
「はい」
司令官は資料を閉じた。
「なら記録しろ」
「はい」
「評価は?」
「変えません」
司令官が笑う。
「結局そこか」
「はい」
会議室に少し笑いが起きた。
司令官はまだ地図を見ていた。
艦艇2隻。
航空機4機。
その程度のものに意味を持たせようとすれば、どんな意味でも作れてしまう。
だから意味を付けない。
ただ記録する。
情報分析には、そういう時間も必要だった。
午後2時26分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
「民間輸送訓練、予定どおり進行中です」
作戦参謀が報告した。
周啓明中将が画面を見る。
複数のRO-RO船が指定海域を移動し、一部は模擬的な揚陸支援を行っている。
「日米台は」
「評価変更なし」
「監視密度」
情報参謀が資料を見る。
「わずかに低下しています」
周が顔を上げた。
「どこが」
「米軍の哨戒機滞空時間が昨日比で約8パーセント減。日本側の衛星画像取得優先度も一部下がっています」
作戦参謀が少し笑う。
「安心し始めましたね」
周は答えなかった。
「中将?」
周は画面を見る。
「そう見える」
「違いますか」
「分からない」
作戦参謀が少し笑った。
「珍しいですね」
「何が」
「今日は素直に分からないと」
周も少しだけ笑う。
「毎日疑えと言っただろ」
「はい」
「相手が安心しているように見える。だから安心していると決めつけるな」
情報参謀が頷く。
周は地図を見る。
「我々も同じだ」
「相手の警戒が下がった、と見たい?」
「そうだ」
作戦参謀の笑みが少し消える。
周が続ける。
「昨日まで我々は、相手がこちらを警戒していることを恐れていた」
「はい」
「今日は、相手が警戒を弱めたと信じたくなっている」
情報参謀が小さく頷く。
「都合のいい情報を見ていますか」
「その可能性を疑えと言っている」
「だから数字を見る」
「そうだ」
情報参謀が資料を確認する。
「哨戒時間は実際に8パーセント下がっています」
「8パーセントだ」
「はい」
「誤差かもしれない」
作戦参謀が苦笑した。
「昨日までこちらが相手に使わせていた言葉ですね」
周が少し笑う。
「便利だろ」
「便利すぎます」
「だから危険なんだ」
会議室に小さな笑いが起きた。
作戦参謀が別の地図を表示する。
「今日の輸送訓練終了後、民間船は予定どおり帰港させますか」
周が画面を見る。
一瞬だけ間があった。
「基本は戻せ」
「基本は?」
「2隻だけ、次の訓練準備として海上に残す」
作戦参謀が頷く。
「了解」
情報参謀が周を見る。
「目立ちませんか」
「6隻のうち2隻だ」
「理由もあります」
「そうだ」
周は淡々と答えた。
「理由のない動きはするな」
「理由があれば?」
「それでも見られていると思え」
周は画面のRO-RO船を見た。
少しずつ。
一度に変えない。
活動量を増やさず、位置だけを変える。
それは演習としても合理的だった。
午後4時18分
神奈川県横須賀市
護衛艦「まや」
「今日も普通です」
副長が言った。
村瀬健一艦長が海図を見る。
「毎日それ言ってるな」
「良いことでしょう」
「まあな」
副長が資料を置いた。
「民間船を使った輸送訓練が始まりました」
「去年もやってたな」
「はい。今年は少し規模が大きいですが」
村瀬が笑う。
「また少しか」
「またです」
「そのうち全部少しで戦争になったりしてな」
副長が笑った。
「縁起悪いですよ」
村瀬も笑う。
「冗談だよ」
少し沈黙。
副長が海図を見る。
「東側の中国艦2隻、まだ戻ってません」
「次の訓練だろ」
「そう見られています」
「じゃあそうなんだろ」
副長が村瀬を見る。
「今日は楽観的ですね」
「3日目だからな」
「関係あります?」
村瀬は椅子にもたれた。
「3日間何も起きなかった」
「まだ3日です」
「3日も、だよ」
副長が少し笑う。
「艦長、昨日は『まだ始まったばっかり』って言ってませんでした?」
村瀬が横を見る。
「記録してるのか、お前も」
「防衛省でも流行ってるんですか?」
「知らん」
2人とも笑う。
村瀬は海図へ目を戻した。
「人間、慣れるんだよ」
「危険に?」
「何にでも」
村瀬は画面上の中国艦艇を指した。
「初日にこれ見た時は嫌だった」
「今は?」
「まだ嫌だよ」
「でも」
「見慣れた」
副長が少し黙る。
村瀬はその表情を見て笑った。
「そんな顔するな。だから警戒監視してるんだろ」
「そうですね」
「見慣れたから見なくなる、じゃ困る」
「艦長、意外と真面目ですね」
「意外とは何だ」
副長が笑った。
村瀬も少し笑った。
ただ、海図上の2隻はまだ台湾東方にいた。
午後6時57分
東京都千代田区・首相官邸
「3日目も大きな変化なしです」
黒田慎吾参事官が報告した。
官房副長官が資料をめくる。
「本当に今年も普通の演習だったんじゃないか」
黒田が少し笑う。
「その可能性は高まっています」
官房副長官が顔を上げた。
「やっと言ったな」
「何をです?」
「安心できること」
「安心までは」
「また始まった」
黒田が苦笑する。
「すみません」
「でも危機レベルは上げない?」
「まだ維持が妥当かと」
「下げる?」
黒田は少し考えた。
「それも、まだ早いと思います」
官房副長官が笑う。
「結局維持か」
「はい」
「慎重だな」
「昨日までの情報がありますから」
「病院、物流」
「それに、演習初日に東方へ展開した一部部隊がまだ戻っていません」
官房副長官の手が止まる。
「それは問題?」
「今のところは、次の訓練で説明できます」
「じゃあ問題じゃない」
「現時点では」
官房副長官が黒田を見る。
「今日くらいその言葉封印できない?」
「努力しています」
「してないだろ」
黒田が少し笑った。
官房副長官は資料を閉じる。
「まあいい」
少し間を置いた。
「あと何日だ」
「終了予定は22日正午ですから、あと5日です」
「長いな」
黒田が笑う。
「皆さん同じことを言いますね」
「何も起きない5日なら、長くてもいい」
「その通りです」
官房副長官はもう一度資料を見た。
「5日後、本当に全部帰ったら」
「はい」
「この何週間か、俺たちは何だったんだろうな」
黒田は少し考えた。
「警戒して、何も起きなかった政府です」
「それでいいのか」
「一番いい結果です」
官房副長官が笑った。
「そうだな」
午後8時36分
東京都新宿区・防衛省
若い分析官が画面を見ながら言った。
「今日も終わりそうですね」
佐伯が腕時計を見る。
「まだ早い」
「何か出ます?」
「出ない方がいい」
「ですよね」
画面には中国軍の配置が表示されていた。
昨日と似ている。
一昨日とも似ている。
ただ、少しだけ違う。
分析官が台湾東側を拡大した。
「この2隻、まだここですね」
「うん」
「J-16も」
「うん」
「民間船6隻も夕方までに戻る予定でしたけど、2隻は沖に残ってます」
佐伯の目が止まる。
「理由は?」
「明日の訓練準備と見られます」
「なら、それじゃないか」
「たぶん」
昨日より早い返事だった。
佐伯は3つの表示を並べる。
東側に残る艦艇2隻。
前方基地に残るJ-16、4機。
沖に残ったRO-RO船2隻。
「他には?」
「ありません」
「活動量は?」
「むしろ昨日より少し低いです」
「通信量」
「変化なし」
「ロケット軍」
「目立った動きなし」
佐伯は腕を組んだ。
「じゃあメモだけ」
「評価は?」
「変えない」
「ですよね」
分析官が入力する。
演習3日目としては、現時点で大きな異常なし。
佐伯はその文章をしばらく見た。
「おかしくないな」
「はい」
「艦艇が残ってるのも」
「次の訓練」
「航空機も」
「同じです」
「民間船も」
「同じ」
分析官が少し笑った。
「全部説明できます」
佐伯も笑う。
「いいことじゃないか」
「ですよね」
「……たぶん」
分析官が振り返る。
「今つけましたね」
「何を」
「たぶん」
「うるさい」
分析官が笑った。
佐伯も少し笑う。
「帰るぞ」
分析官が時計を見る。
「珍しいですね」
「何が」
「こんな時間に帰るなんて」
「毎日泊まり込んでも仕方ないだろ」
「警戒は?」
「続ける」
「でも?」
佐伯は上着を取った。
「普通の演習なら、普通の生活もしないとな」
分析官も立ち上がる。
「いいですね、それ」
「明日も同じならな」
「はい」
2人は部屋を出た。
照明が一部落とされる。
画面だけが残った。
台湾東方。
演習初日に展開した中国艦艇の一部は、まだそこにいた。
その少し内側では、前方基地へ移った航空機も戻っていない。
さらに海上では、訓練を終えたはずの民間RO-RO船2隻が沖に残っていた。
午後11時08分
中国・福建省福州市
東部戦区指揮施設
「3日目、終了です」
作戦参謀が報告した。
「航空活動、計画比100パーセント。海上部隊、計画範囲内。民間輸送訓練、問題なし」
周が頷く。
「相手の反応は」
「変化ありません」
「監視密度」
「昨日よりわずかに低下」
「評価は」
「据え置きです」
周は椅子にもたれた。
作戦参謀が言う。
「かなり安定しましたね」
「そうだな」
「明日から活動量を上げますか」
周は首を横に振った。
「まだだ」
「しかし、予定では4日目から段階的に増やす計画です」
「知っている」
「では?」
周は台湾東側の画面を見る。
「配置だけ少し進める」
作戦参謀が地図を拡大した。
「水上部隊?」
「東側の2隻はそのまま」
「航空部隊はどうします?」
「前方基地を維持」
「民間輸送船は」
「2隻だけ残せ」
作戦参謀が少し考えた。
「活動量は増やさず、位置だけ?」
「そうだ」
情報参謀が周を見る。
「相手には気づかれます」
「もう気づいている」
「なら、評価を変える可能性は?」
周は少し考えた。
「まだ変えないだろう」
「なぜです」
周は大型画面を見る。
「演習3日目だからだ」
作戦参謀が小さく笑う。
「便利な言葉ですね」
周も少し笑った。
「便利すぎる」
情報参謀が地図を見る。
「艦艇2隻、航空機4機、民間船2隻」
「少ない」
「はい」
「理由もある」
「あります」
「なら、相手は記録する」
「そして?」
「今は、それだけだ」
周は椅子の背にもたれた。
「相手は今日、我々が何を増やしたかを見ている」
「実際には増やしていません」
「そうだ」
周は画面上の記号を指した。
「だから増やす必要はない」
作戦参謀が少し考えた。
「戻さないだけでいい?」
「今はな」
その言葉に、会議室が少し静かになった。
周自身も、その静けさに気づいた。
「勘違いするな」
参謀たちが彼を見る。
「戻さないこと自体を目的にするな。次の段階に必要だから残す。それだけだ」
「了解」
「我々自身が物語を作り始めるな」
情報参謀が頷いた。
周は最後に言った。
「毎日疑え。相手だけじゃない。自分たちもだ」
演習2日目。
異常はなかった。
演習3日目。
やはり、大きな異常はなかった。
航空機は飛び、艦艇は動き、民間船を使った輸送訓練も行われた。
去年にもあった。
一昨年にも似たものがあった。
ニュースの扱いは少しずつ小さくなった。
台湾ではテレビのチャンネルが変えられた。
東京では分析官が少し早く帰宅した。
ハワイでは警戒評価を下げる議論まで始まった。
演習として見れば、何もおかしくなかった。
ただ。
演習初日に東へ出た艦艇の一部は戻らなかった。
前方へ移った航空機も戻らなかった。
そしてこの日、訓練を終えた民間船の一部も港へ帰らなかった。
それぞれには理由があった。
次の訓練。
効率化。
演習区域の拡大。
連続した運用。
どれも合理的だった。
どれも単独では、評価を変えるほどのものではなかった。
だから誰も、評価を変えなかった。
中国軍は活動量を大きく増やしてはいなかった。
ただ、少しずつ。
元の位置へ戻らなくなっていた。
演習終了予定、8月22日正午まで、あと5日。